歴史の世界

遊牧、騎馬民族、スキタイのまとめ(起源について)

今回は、前回まで書いてきた遊牧、騎馬民族、スキタイのまとめを書いていく。

遊牧の起源

遊牧の起源として、前5500年に西アジアの「肥沃な三日月地帯」が候補に挙げられるのだが、この対象となる人々の生活様式は、草原における遊牧民とは違うものだ。

確かに彼らは非定住(または半定住)で牧畜を行なってはいたが、都市間を結ぶ交易商の役割も持つ存在でもあった。そして彼らは都市を遠く離れて草原で生活を営む技術を持っていなかったので、非定住(半定住)牧畜民と呼んだほうがいいだろう。

上記を除いて遊牧の起源の有力な候補は、黒海北部・北カフカス辺りの草原にあったヤムナ文化だ(前3500年)。この先行文化であるスレドニ・ストグ文化(前4500-前3500年)の頃には遊牧の要素がいくつかみられるのだが、本格的に草原に展開し始めるのはやはりヤムナ文化からのようだ。

遊牧の要素はいくつかあるわけだが、一つ挙げるのならば車行だ。前3500年にメソポタミアで車行(車輪)が発明されたが、これが草原進出の原動力になった *1

インド=ヨーロッパ語族の起源

インド=ヨーロッパ語族の起源もヤムナ文化が有力な候補地だ。この候補地を主張するクルガン仮説は専門家の議論の中心になっているようだ。

この言語が東西に広く伝播した原因は、その話者が遊牧民だったためだろう。

アーリア人について

アーリア人と聞けば、ヒトラーナチスドイツを思い出す人が多いだろう。ヒトラーが思い描くアーリア人は「金髪・碧眼・長身・細面」という外見を持つ人のことだったが、これはほとんどヒトラーの妄想の産物だった。

現在、アーリア人という学術用語は、インド=ヨーロッパ語族を話す人々の中でインド・イラン語派の言語を話した人々を指す(インド・イラン人、Indo-Iranians と呼ぶ人のほうが多いかもしれない。ヨーロッパ人は含まれない)。

騎馬民族の起源

騎馬民族が最初に文字史料に現れたのはキンメリア人とその直後のスキタイ人だ。ただしキンメリア人は考古学的証拠をほとんど遺さなかったため、スキタイ人のほうがクローズアップされている。

スキタイ人の起源については、ユーラシア・ステップ(大草原)の東部が有力視されている。古代中央ユーラシア・中央アジア史が専門の林俊雄氏によれば、遊牧民中国文明接触により騎馬戦術が発明された(前9世紀)。これを発明した人々は中国文明に刺激を受けて王権と権力の階層化を採用した(文字情報は無いが遺跡から確認できる)。

騎馬戦術を発明した人々の文化をスキタイ文化またはスキタイ系文化と呼ぶ。すなわち騎馬民族を誕生させたのはスキタイ人ということになる。ただし、このスキタイ人は、西アジアギリシアに現れたスキタイ人とは完全に一致するものではない。

最初の騎馬民族としてのスキタイ人は全ての騎馬民族の発生源であり、西アジアギリシアに現れたスキタイ人はそこから派生した騎馬民族のひとつだ。つまり上位カテゴリのスキタイ人とサブカテゴリのスキタイ人の2つを区別して考える必要が有ることに注意。

西アジアに現れた騎馬民族

上記の通り騎馬民族はユーラシア・ステップ東部で誕生した。そして西部に進出あるいは伝播した。西アジアギリシアに現れた騎馬民族(キンメリア人とスキタイ人)はその騎馬民族の一部だ。

これら騎馬民族についてはヘロドトス『歴史』(前5世紀)の詳細な記述が有名だが、それ以前に西アジアに現れている。

メソポタミア(現在のイラク)で出土した新アッシリア帝国が記した碑文にキンメリア人(前8世紀末)とスキタイ人(前7世紀初頭)と比定される記録がある。

彼らは国家と呼べるほどの勢力を持ち、西アジアの各国と同盟を組むなどして西アジアの戦争に参加した。

キンメリア人の本拠地は黒海北岸(現在のウクライナ)にあったが、スキタイに追われて消滅した(諸説あり)。前6世紀になるとスキタイ人がここを支配した(前4世紀まで続く)。



*1:ただし、この時の車輪は木を輪切りにしたようなもので重く、馬でなく牛に牽かせたと考えられている。