前回からの続き。
黒海北岸(ウクライナ)支配の始まり:前6世紀
前6世紀、スキタイ人は本拠地を北カフカスから黒海北岸へ遷した。スキタイ人が来る前はキンメリア人がいたのだが、スキタイ人が滅亡させたという説とリュディアの王さまに敗れて姿を消したという2つの説がある (最初期の騎馬民族 その1(騎馬民族について/キンメリア人) 参照)。どちらのほうが指示されているか、私にはわからない。
スキタイが黒海北岸を支配するようになるとその地域一帯はスティキアと呼ばれるようになる。
前6世紀についての文字史料はヘロドトス『歴史』が伝えるものがほとんど全て。雪嶋宏一氏によれば、この時期のスキタイの古墳群がドニエプル川中流に濃密に分布しているとのこと *1なので、ヘロドトスの記述と合致するといっていいのだろう。
前6世紀後半、前513年頃にペルシア帝国のダレイオス1世がスキティア遠征を行なう。ヘロドトスによれば、公称70万の大軍勢を率いて攻め込んだ。しかしスキタイ側は正面から戦おうとせず、焦土作戦を以って後退し続けた。60日のあいだ一度も会戦しないままペルシア軍はあきらめて撤退した。
スキタイを取り巻く諸民族
ところで、ペルシア帝国の戦いの前、スキタイは周辺の諸民族と会合を持った。
アケメネス朝のダレイオス1世はボスポラス海峡を渡ってトラキア人を征服すると、続いて北のスキタイを征服するべく、イストロス河(現:ドナウ川)を渡った。これを聞いたスキタイは周辺の諸民族を糾合してダレイオスに当たるべきだと考え、周辺諸族に使者を送ったが、すでにタウロイ,アガテュルソイ,ネウロイ,アンドロパゴイ,メランクライノイ,ゲロノイ,ブディノイ,サウロマタイの諸族の王は会合し、対策を練っていた。スキタイの使者は「諸族が一致団結してペルシアに当たるため、スキタイに協力してほしい」と要請した。しかし、諸族の意見は二手に分かれ、スキタイに賛同したのはゲロノイ王,ブディノイ王,サウロマタイ王のみであり、その他の諸族は「スキタイの言うことは信用できない」とし、協力を断った。
出典:スキタイ - Wikipedia (ネタ元はヘロドトス『歴史』)
これらの中には「スキタイ系」遊牧民とされる勢力がいて、そのほか、新しく東方から来た遊牧民、ギリシア系農耕民などがいた。彼らのチカラ関係がどのようなものだったかは、私は詳しく調べていないが、上の説明によればペルシア軍襲来時は上下関係はそれほど開きは無かったようだ。
そして、上の図にある「農民スキタイ」や「農耕スキタイ」について。これらもヘロドトスが言及しているのだが、林氏によれば5回しか言及されておらず、ほとんど説明されていないとのこと。
黒海北岸は、スキタイが現れるよりはるか以前、新石器時代から農耕文化が栄えていた。「農耕・農民スキタイ」は、そのように黒海北岸に以前から板農耕民で、新来のスキタイに支配されることになった人々ではないであろうか。
出典:林俊雄/スキタイと匈奴 遊牧の文明(興亡の世界史)/講談社学術文庫/2017(2007年に出版されたものの文庫化)/p72
前5世紀前半(ギリシア系植民市との関係)
前5世紀に入るとスキタイ人はギリシアの植民市を支配下に入れている *2。 ヘロドトスによれば、スキタイの歴代の王たちがギリシア系の女性を娶っていることがみられる。また考古学的証拠からはスキタイ王がギリシア植民市でコインを発行していることが分かっている *3。
スキタイ王の一人スキュレス(前5世紀、母はギリシア人女性)はギリシア文化にかぶれてギリシア植民市のオルビアに邸宅を構えて住んでいた。スキタイ人は異文化を嫌う習慣を持っていたため、異母兄弟であるオクタマサデスが反旗を翻した。スキュレスはトラキア(上図参照)へ逃げたが、オクタマサデスとトラキア王が交渉した結果、スキュレスは引き渡され斬首された。
この後、オクタマサデスが王となったのだが、『歴史』の記述はオクタマサデスの治世までで、その後しばらくのスキタイの詳細な文字情報は無くなる。
ただし、スキタイの黒海北岸支配は続いた。
ヘロドトスが生きた時代
ヘロドトスは前5世紀の人(前484年頃-前425年頃)。『歴史』は前5世紀中葉までに書かれた。この書の主題はペルシア戦争だが、情報は多岐にわたり、スキタイのことも詳述している。『歴史』の内容は神話や信じられない伝承と歴史が混ぜ合わさったようなものだが、専門家は貴重な資料として扱っている。
ヘロドトスはいろいろなところを旅しているが、上述のギリシア植民市のオルビアにも訪れ、テュムネス(市の代官または元代官。 *4 ) に直接会ってスキタイの様々な情報を教えてもらった *5。