歴史の世界

フランス(19世紀後半)② ルイ・ナポレオン(のちのナポレオン3世)大統領時代

ルイ・ナポレオン、大統領になる

ルイ=ナポレオンについては《ルイ=ナポレオン/ナポレオン3世》などを参照。

彼が大統領になった要因として挙げられるのは以下の通り。

  1. ナポレオン1世の伝説的知名度・栄光の記憶(最重要要因)
    ルイ=ナポレオン自身の実績や知名度はほぼゼロだったが、「ナポレオン」という名前だけが決定的だった。

  2. 農民・地方大衆の「秩序と安定」への強い欲求
    フランス人口の約3分の2が農村部。1848年の二月革命・六月蜂起後の混乱、不況、高税、物価高で疲弊していた農民層が最大の票田。 彼らは「社会主義=財産没収・赤い恐怖」と恐れ、穏健共和派や左派を嫌悪。 ルイ=ナポレオンは「秩序の回復」「財産・家族・宗教の保護」を約束し、保守派・秩序党からも「最善の悪」として支持された。 男子普通選挙で初めて投票した900万人の農民が一気に流れ、都市部中心の他の候補を圧倒。

  3. 社会主義・労働者急進派への恐怖(反動票の集中)
    六月蜂起で労働者・社会主義者が血みどろに鎮圧された直後。 ブルジョワ・中小資本家・地主層は「もう左派は許さない」というムード。 ルイ=ナポレオンは左派でも右派でもなく「中道的な強権による安定」を体現する存在に見えたため、右派票が集中。

  4. 他の有力候補の致命的な弱さ
    相対的にルイ=ナポレオンが「マシな選択肢」として浮上。

  5. 男子普通選挙によるポピュリズムの威力
    《「近代的な意味でのポピュリズム」によって選ばれた最初の大統領は、ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)であるという見解が一般的》らしい。

大統領時代の事績

以下の「右派の秩序党」とは、リンク先によれば、労働者の六月蜂起に危機感を強めた反共和政の右派が正統王朝派・オルレアン派にカトリックの勢力も加わって同盟した政党。

[ルイ・ナポレオンは、]1848年12月15日、フランス大統領に就任した。
 ルイ=ナポレオンは、ナポレオンの甥であることが、フランスの大衆にかつての栄光を回復する希望を与え、革命と蜂起で疲れていた国内に安定を与えると考えられたものと思われる。ルイ=ナポレオンは共和派を排除し右派のメンバーからなる内閣を発足させ、「共和政主義者なき共和政」といわれた権力をにぎった。翌年5月に立法議会選挙が行われると、右派の秩序党が53%で過半数を占め、穏健共和派は12%と惨敗、左派(この時は急進共和派と社会主義者が合同し山岳党―モンタニャールと称した)は35%と健闘し、議会は中道派が壊滅し、左右両極化が進む結果となった。
 ルイ=ナポレオンは議会内には基盤がなく、直接的な国民の支持が必要だったので、カトリック勢力の支持を受けていたため、1849年にはフランス軍をイタリアに派遣してローマ共和国を倒し、教皇ピウス9世のローマ帰還を実現した。
 議会では多数派となった右派の秩序党は、大統領ルイ=ナポレオンを無視する形で、集会の禁止、出版印刷税の復活、ストライキの禁止、カトリック教会が初等学校教育を行うことを可能にするファルー法の制定、選挙法の改悪(選挙資格の定住条件を6ヶ月から3年に増やすなど)など、反動的な立法を次々に議決した。このような議会に対して民衆が離反していくのを見ながら、ルイ=ナポレオンは機会を待っていた。

出典:フランス<世界史の窓

上のように、ルイ・ナポレオンがやったと言えるのはローマ侵攻(後述)くらい。大統領はお飾りにされた。ルイは選挙権の制限に反対したが無視された。

ローマ侵攻

ローマ遠征の背景と目的

  • 教皇の亡命と共和国樹立:1848年革命の波及によりローマ教皇ピウス9世が亡命。マッツィーニらによる「ローマ共和国」が成立。

  • ルイ・ナポレオンの思惑:大統領選に当選するためにカトリック勢力の支持を得ようと考え、教皇のローマ帰還を支援する約束をしていた。

  • オーストリアへの対抗:北イタリアに影響力を持つオーストリア帝国より先にローマを掌握し、イタリアにおけるフランスの発言力を確保。

フランス軍の侵攻過程

  • ウディノ将軍の派遣:1849年4月、チヴィタヴェッキアに上陸。当初は「中立的な調停」を名目としたが、実質的には教皇の復権が目的。

  • ガリバルディの抵抗:ジャニコロの丘などで激しい市街戦が展開。ガリバルディ率いる義勇軍が奮戦し、フランス軍は一度敗退。

  • ローマ陥落(7月):増援を得たフランス軍が猛攻を加え、共和国は崩壊。フランス軍による占領が開始され、教皇の世俗権力が復活。

フランス国内の政情不安

  • 憲法違反の指摘:第二共和政憲法には「他国の自由を侵害するために軍隊を用いない」という規定があり、左派(山岳党)が遠征を違憲と糾弾。

  • 1849年6月13日の事件:ルドリュ=ロランら左派指導者がパリで抗議デモを組織。しかし軍によって鎮圧され、指導層は亡命を余儀なくされる。

  • 秩序党の台頭と弾圧:この混乱を機に、ルイ・ナポレオンと保守的な議会は集会の自由を制限し、共和主義的な新聞を弾圧。左派勢力は壊滅的打撃を受ける。

政治的結末

  • ボナパルティズムの強化:左派が自滅したことで、ルイ・ナポレオンは軍と保守層の双方を掌握。独裁への道が平坦になった。

  • カトリック教会の支持:教皇を守った功績により、教育現場などで教会の権限を強める「ファルー法」の成立に繋がる。



ルイ・ナポレオンが皇帝になる話は次回。

フランス(19世紀後半)① 二月革命と第二次共和政

フランスの歴史について書いた記事の直近のものは 《フランス(19世紀前半)③ 七月王政 - 歴史の世界を綴る》。

これには二月革命(1848年革命の発端となる革命)について書かなかったので、「フランス(19世紀後半)」のシリーズは二月革命から始める。

二月革命

フランスの二月革命によって成立した1848年~1852年の共和政体。フランス革命時の第一共和政(1792年9月~1804年5月)に次ぐ共和政。正式には11月の共和国憲法制定からであろうが、一般的に2月の七月王政崩壊後の臨時政府も含めて第二共和政としている。

二月革命 1848年2月、七月王政のギゾー内閣が、改革宴会[政治集会を禁止したことに対抗して宴会の名目で集まった反政府活動--引用者注]の開催を禁止したことに反発したパリ市民が抗議行動を始めると衛兵が発砲して死者が出たため、市民は各所にバリケードを築き、王宮を襲撃した。あっけなく国王ルイ=フィリップは亡命し七月王政が倒れた。フランスではここから年末にルイ=ナポレオンが大統領に選出されるまで一年にわたる激しい政変が続き、またベルリンやオーストリアの三月革命に飛び火し、全ヨーロッパで諸国民の春といわれる民族運動の昂揚によってウィーン体制が崩壊するという激動の始まりとなった。

出典:フランス(6) 復古王政・七月王政・第二共和政<世界史の窓

この革命はフランス革命の小規模版のようなものだ(もしくは超小規模版)。他国に大きなインパクトを与え、自国も政治体制が変わったが、できた政権がグダグダ。

第二共和政

第二共和政
一八四八年、二月革命の結果生まれたフランスの共和政。人民主権・三権分立・大統領制を定めた憲法をもつ。成立後次第に保守的傾向を強めたが、一八五一年大統領ルイ=ナポレオンのクーデターによって倒れ、翌年その皇帝即位で第二帝政期にはいる。

出典:第二共和政/精選版 日本国語大辞典 - コトバンク

ルイ=ナポレオンは後の皇帝ナポレオン3世で、ナポレオン1世の弟ルイ・ボナパルトの三男で、伯父ナポレオン1世の甥にあたる。引用にあるように、彼が、大統領である時期と皇帝になった時期の間に歴史区分がある。

ナポレオン(1世)もそんなかんじだったな。

一連の流れ。

臨時政府の動揺 二月革命の臨時政府には当初、ラマルティーヌなどの穏健なブルジョワ共和派と、ジャコバン派とも言われた急進的な共和主義者がおり、さらに労働者を基盤に社会主義の実現をめざすルイ=ブランらも含まれていた。しかし、臨時政府は革命を推進したパリの大衆の動きに常に左右され、一方では地方農村を基盤とする保守派である王党派(これにもブルボン王家を正統とする派やオルレアン家を支持する派などがあり、また絶対王政の復活を策する過激な王党派から立憲王政体制に妥協的な穏健な王党派までさまざまだった)も活動を続けており、臨時政府の統治は安定しなかった。

4月の選挙 臨時政府のもとでは、ルイ=ブランなどの主張により労働者を救済するための国立作業場の設置など、積極的な改革が進められた。しかし、政権内部にはブルジョワの立場と労働者の立場の違いが次第に明らかになり、また政府が公共事業のために課税を強化したことに対して農村の自営農層が不満をもつようになった。そのような経済不安が続くなか、1848年4月、憲法制定のための四月普通選挙が、21歳以上の男子の普通選挙によって行われた。この結果、穏健ブルジョワ共和派が多数を占め、また王党派も票を増やしたが、急進共和派と社会主義者など労働者の代表は少数にとどまった。この結果を受けたブルジョワ共和派は、労働者の保護よりも、産業や農業の保護、教会との協力を強めることに舵を切り、社会主義勢力の排除を図ることとなった。

六月蜂起 1848年6月、ブルジョワ勢力が主導権を握った臨時政府が国立作業場の廃止に踏み切ると、反発した労働者の蜂起を政府軍が鎮圧するという六月蜂起の事件がおこった。それを力で抑えきったブルジョワ共和派は軍人のカヴェニャックを担いで政治を安定させようとした。一方では、労働者の六月蜂起に危機感を強めた反共和政の右派は正統王朝派・オルレアン派にカトリックの勢力も加わって同盟し秩序党を結成し議会で勢力を増大させていった。 

ルイ=ナポレオンの大統領当選 11月に制定された第二共和政憲法は人民主権、三権分立、大統領制を採用し、男子普通選挙を定め、その規定に従って1848年12月に大統領選挙が行われた。そこで大方の予想を裏切りルイ=ナポレオンが当選し、1848年12月15日、フランス大統領に就任した。

出典:フランス(6) 復古王政・七月王政・第二共和政<世界史の窓(下線は引用者)

革命が成功した後は仲間割れが始まるのは世の常ということで。

臨時政府から選挙を経て、政権は執行委員会(Commission exécutive/行政委員会)へ移行したが、六月蜂起によりカヴェニャック独裁政権があって、大統領当選でルイ=ナポレオンに政権移行。一年足らずの出来事。

続いて政治の内容について。

「権利」と人権意識の拡大

  • 男子普通選挙権の確立→それまでの制限選挙(納税額による制限)を撤廃。

  • 生存権・労働権・団結権などの市民的権利を承認した→社会主義者ルイ・ブランの影響が強く反映した。
    生存権:労働を通じて労働者の生存手段を保証すると明記。貧困対策として位置づけられた。
    労働権:政府は「すべての市民に労働を保証する」と約束。失業者対策として国立作業場(Ateliers nationaux)を設置し、労働の権利を事実上承認。
    団結権:労働者が「自らの労働の利益を享受するために結社する」権利を認める。労働組合や協同組合の形成を奨励。
    臨時政府の権利承認は、1848年革命の革新性を示す。ただし、経済的裏付けがなく、短期で崩壊。マルクスはこれを「ブルジョワ共和制の限界」と批判した。

  • 死刑制度の事実上の廃止(政治犯)と奴隷制廃止→人権意識が大きく前進した瞬間。

国立作業場(ブルジョワとプロレタリアの対立が明確に表面化)

1848年の二月革命後,フランスの臨時政府がつくった国営事業施設。
ルイ=ブランら社会主義者の主張にもとづき,新しい労働組織の形成を目的としたが,実際には,失業者救済の慈善的なものであった。運営の経費がかさみ,かつ労働者層の進出を危惧した資本家・農民層の反対にあい,6月に廃止された。これに反発した労働者によって六月暴動が発生。

出典:国立作業場/旺文社世界史事典 三訂版 - コトバンク

国立作業場の失敗がブルジョワとプロレタリアの対立の表面化に一役買った。

ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)については次の記事で。

オーストリア(19世紀後半)③ ウィーンの都市改造と文化の隆盛

ウィーンの都市改造

1853年の皇帝襲撃事件が起きる前から、ウィーン城壁を撤去しようという意見は多く聞かれた。市街地区に建設用地はまったくなく、19世紀初頭以来、くりかえし建物禁止令が発された。用地の慢性的な不足により建物を建設できないのに対して、ウィーンの人口は19世紀前半の50年でほぼ倍増し、住まいを求める人口が20万人にも達していた。[中略]
1857年7月、長年の懸案となっていたウィーン城壁の撤去計画がまとまり、12月20日にフランツ・ヨーゼフは帝都改造の勅書に署名した。皇帝の決断が30年後の世紀末ウィーンの栄華を導くことになる。……この決定を性急かつ無思慮なものと見なす軍人や保守派市民もいたが、大部分のウィーン市民に受け入れられた。とりわけ労働者は、撤去工事と新たな建設工事によって仕事が増えると歓迎した。
共和主義者は城壁が撤去されることによって宮殿が無防備になると考えたが、そもそもこの古い城壁は武器の飛躍的な発達によって有効性を失いつつあった。むしろ複雑に入り組んだ街区を整理することによって、1848年革命のようにバリケードが築かれる余地がなくなり、治安はより保たれることになる。それまでは狭い城門を通らねばならなかったが、城壁を撤去すれば大量の部隊を周辺から呼び寄せることもできる。支配者側としてはこのような考えのもとでウィーン改造を計画した。これらは、フランス皇帝ナポレオン3世がジョルジュ・オスマンとともに断行したパリ改造の先例にいくらか影響を受けたものである。
それまでウィーン市内を囲んでいた城壁は長い時間をかけてすべて撤去され、旧市街と34ある郊外地区との間に横たわる、防備のための広々としたグラーシ(Glacis)と呼ばれる空間に、リングシュトラーセと呼ばれる環状線が設けられることとなった。リングシュトラーゼの両側にネオ・ゴシック様式の市庁舎や新古典様式の帝国議会を建設するなど、歴史主義的な建造物による都市計画が行われた。また、巨大な兵舎や国防省、警察の中枢がリングシュトラーセの両端に配置された。

出典:フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)#ウィーン改造 - Wikipedia

ウィーンはヨーロッパを東西に流れるドナウ川と南北の交易路 *1 が交差する都市として栄えてきた。これが産業革命などの近代的な発展をきっかけにして人口が膨れ上がった。

大規模な工事は完成までに50年かかったと言われており、1910年には人口200万人の都市になった(世界第4位の都市)。1850年の頃は約50万とされているので4倍になったことになる。

この都市改造は中世的な城塞都市から近代の大都市(世界都市)への転換であり、現在、世界からウィーンが文化の都と呼ばれるようになったのは都市改造があってのことである。

世紀末ウィーン:文化の隆盛

19世紀末(1880年代か1890年代)から第一次大戦(1914)にかけてウィーンで起こった文化の隆盛を「世紀末ウィーン」と呼ぶ。
(呼称や年代には諸説ある。)

ウィーンの都市が改造されて近代化しているにも関わらず、この都市に住んでいる文化人は「世も末だ」と考えていたらしい。

目の前のオーストリアの衰退と民族紛争に対してだけではなく、近代化・科学技術の限界とか価値観(キリスト教的道徳や貴族社会)の崩壊などに対しても「世も末だ」という雰囲気があった。

しかし末法思想 のように「世が悪いから救いを他界に求める」とはならず、「世も末だが、せっかく生まれてきたんだからエキセントリックに生きようぜ」みたいなヤケクソな創造性が爆発したのが世紀末ウィーン。

そして、不安・退廃・性・死・無意識・狂気...といったテーマを徹底的に掘り下げ、芸術・音楽・思想として表現した。

あと、きまって言われることは「カフェ文化」。「カフェハウスで文化が日々量産された」みたいな感じで語られる。

芸術だけでなく思想・学問も栄えた。精神分析で有名なフロイトもこの時期の代表者として挙げられる。その他については 《世紀末ウィーン#ウィーン世紀末芸術の諸相 - Wikipedia》を参照。

*1:バルト海からイタリアのアドリア海を結ぶ複数の交易路が「琥珀の道」と呼ばれている。ウィーンはそのうちの一つのルートの主要な都市。

オーストリア(19世紀後半)② オーストリア=ハンガリー(二重)帝国

「新絶対主義」の終焉?

一連のイタリア統一戦争の敗北、とりわけソルフェリーノの戦い[イタリア・オーストリア戦争(1859)で最大かつ決定的な戦闘--引用者注]に完敗したことは、オーストリア人にとって屈辱的なことであった。フランツ・ヨーゼフは侍従長グリュンネ伯爵を更迭し、内相バッハを閑職に追いやるなどして体制を一新した。職務にとどまった政府要人は皇帝ただ一人という徹底ぶりだったが、世論はなかなか収まらずに皇帝への不満が高まった。[中略]
戦争によって財政状態は一層悪化したため、フランツ・ヨーゼフ1世は改革を迫られた。19世紀半ばの銀行家たちは代議制議会を求めており、これがなければ外国債を募ることはできなかったのである。1860年5月31日、帝国議会が拡大され、「新絶対主義」の時代は終焉を迎えた。また1861年には、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めざるを得なくなる。それはオーストリアを立憲君主国とするものだったが、しかしフランツ・ヨーゼフは依然として外務と軍事に関する多くの権力を保持した[71]。急進的なハンガリー人は皇帝に権力が集中しすぎるとして反対し、その中にはさまざまな形で抵抗運動を続ける勢力もあった。そのためフランツ・ヨーゼフは怒り、軍隊を派遣してハンガリー議会を解散させた。

出典:フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)#「新絶対主義」の終焉 - Wikipedia

引用にあるように、議会との妥協により独裁色の強い欽定憲法を制定して、"新絶対主義" 時代とさほど変わらないほぼ独裁路線を続けた。

普墺戦争の敗戦からオーストリア=ハンガリー(二重)帝国へ

普墺戦争のことは他の記事で書いたので省略。

アウスグライヒ

アウスグライヒ Ausgleich (ハンガリー語ではキエジェゼーシュ Kiegyezés)とは、妥協を意味するドイツ語である。オーストリアは、1866年の普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)での敗北によって国内体制の再建に迫られ、長らく問題となっていた帝国内のハンガリー(マジャール人)の分離独立の要求に応えざるを得なくなった。

出典:アウスグライヒ>世界史の窓

落ちぶれていくハプスブルク家(オーストリア)の歴史の一片でしかない「アウスグライヒ」を高校生が歴史用語として覚えなくてもいいとは思う。世界史ファンとしては、ハプスブルク家の落日を知っておくのもいいが。

オーストリア=ハンガリー(二重)帝国

1867年、オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世は、オーストリア帝国からのハンガリー王国の独立を認める妥協(アウスグライヒ)を明らかにした。その条件は皇帝がハンガリー王を兼ね、形式的な独立を認める代わりに、同一君主を戴く国家として、実質的支配を維持しようとするものだった。ハンガリー王国の国会はそれを認め、協定を結んだ。
 この協定によって、ハンガリー王国はハプスブルク家の国王のもとで独自の政府と国会を持つが、外交・軍事・財政では共通の方針に従うという二重帝国の形態がとられた。これがオーストリア=ハンガリー(二重)帝国といわれる国家であった。(出典:同上)

独立指向であったハンガリーもオーストリアの大幅な譲歩と、それとは別にロシアの領土拡大の野心への脅威もあり、上のような体制を呑んだ。

同君連合に近いが、外交・軍事・財政は「共同管理」だった。ただし、実務運営はオーストリア優位の不均衡な共同体制だった。

自治獲得の動き

多国籍国家だったので他の民族からも自治を要求する声が飛んでくる。

その後も民族の自治獲得の動きは鎮静化せず、むしろいっそう激化し始めた。まずは工業地帯を握るボヘミア人(チェコ人)の発言力が増し、資本家・経営者および金融業者のほか、医者・弁護士やジャーナリストなどの専門職従事者も多いユダヤ人もまた発言力を増した。従来の地位を保持しようとするドイツ人と、新たな権利を得ようとする他民族との対立が目立ち始めることとなった。ハンガリー地域でも、マジャル化という同化政策に反して諸民族の自治・権利を獲得しようとする動きが高揚してきていた。しかしこの時点では、どの民族も「帝国からの独立」を望んではいなかった。それは、プロイセン主導の統一ドイツならびにロシア帝国という2つの大国に挟まれた地域で、小国が分立していては生き残れないことを自覚していたためである。各地域の住民が「独立」するのではなく、あくまでオーストリア=ハンガリー帝国という大きい枠のなかで「自治」を得る、つまり諸民族の連邦国家を望んでいたのである。

出典:オーストリア=ハンガリー帝国#自治獲得の動き - Wikipedia

1870年代から1900年までのオーストリア

1873年から大不況が始まるがオーストリアはなんとかこの不況を乗り切った。

外交では普墺戦争の敗北後はプロイセン(ドイツ帝国)についていくことを国是のように守っていった(皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の意向)。

1878年ベルリン会議では、露土戦争後、オーストリア=ハンガリーはボスニア・ヘルツェゴビナの行政権・占領権獲得した(併合は1908年)が、第一次大戦の遠因となる。

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の評価

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は1916年まで生きて皇帝で在り続け、実権も握っていた。彼の治世は「勤勉に統治したが、構造改革を避けた」というような評価がされている。

この時期は大不況と民族紛争への対処で大変だったので国家をクラッシュさせなかったことを考えれば凡才以上の評価はされてもいいのではないか。

オーストリア(19世紀後半)① フランツ=ヨーゼフ1世の独裁

19世紀後半からオーストリアをドイツ史から分離することにする。

オーストリアに限れば前回の記事は
ドイツ(19世紀前半)① オーストリアとドイツ連邦

メッテルニヒからフランツ=ヨーゼフ1世へ

1848年革命と総称されるヨーロッパの一連の革命騒ぎの中でウィーン三月革命というのもあった。これにより宰相メッテルニヒは亡命を余儀なくされ、ウィーン体制も崩壊した。

しかし、オーストリアはウィーンやプラハの騒動を鎮圧に成功して革命運動・民族独立運動は抑制され、逆に絶対主義的な体制が確立された。

ただし、多民族国家であるオーストリアは革命運動と民族独立運動の両面を対処しなければならないので、その点がプロイセンに追いつき追い越される大きな要因となった。

新絶対主義
 北イタリア、ハンガリー、ボヘミアの「諸国民の春」と言われた民族蜂起を弾圧して乗りきったオーストリア、ハプスブルク帝国は、その1848年10月、新しい皇帝としてわずか18歳のフランツ=ヨーゼフ1世が即位した。そのもとで立憲制や議会制は棚上げして、多民族国家オーストリア帝国としての一体性を維持した「新絶対主義」とも呼ばれる抑圧体制をとった。しかし、かつてのような強権的支配は不可能であったので、各民族の経済活動には一定の自由を認める方針を打ち出した。特にベーメン(ボヘミア=チェコ西部)はすでに帝国内で最も進んだ工業力を有していたので、繊維工業や鉄工業、機械工業がさらに盛んになった。

多民族国家としての弱点
 オーストリア帝国のハプスブルク家支配の最大の問題は、この国が巨大ではあるが多民族国家であるという点であった。オーストリアはドイツ人(ゲルマン民族)であるが、ハンガリーはマジャール人であり、またその領内にチェコ人、クロアチア人など多数のスラヴ系民族を含み、また北イタリアはイタリア系住民の地域であった。

出典:オーストリア/オーストリア=ハンガリー帝国<世界史の窓

ドイツ国民国家からの離脱

フランクフルト国民会議と「大ドイツと小ドイツ」については以前に書いた。
ドイツ(19世紀後半)① 三月革命

フランクフルト国民会議の大ドイツ主義は「オーストリアがドイツ人以外の民族領域を切り離すことを前提」にしていたため、彼らの提案を呑むことは出来なかった。いやそれ以前に、自由主義のフランクフルト国民会議の提案を絶対主義のオーストリアが受け入れる余地が無かったのだが。

上に紹介した前回書いた記事にあるように、フランクフルト国民会議が夢見た自由主義的な国民国家建設はオーストリア、プロイセン両国から拒否されて彼らは霧散した。

(この節の全体についてはオーストリア/オーストリア=ハンガリー帝国<世界史の窓 参照)

クリミア戦争に中立

……ここでオーストリアは最悪の選択をします。中立です。日本人は中立を「両方の味方」と勘違いしていることが多いので繰り返しますが、逆です。中立とは、「交戦当事国双方の敵」です。そしてクリミア戦争で、オーストリアは文字どおり「両方の敵」として振る舞います。味方してくれると思ったロシアは恨みに思いますし、英仏がバルカン半島方面に進出した際は兵を出して牽制しています。……[オーストリア、フランツ=ヨーゼフ1世は]その場その場でそれなりの合理的理由はあるのですが、目の前のことしか見えていないのです。[中略]
かつてのメッテルニヒは、えげつない交渉をしながらも、世界をどうするかという明確な経綸がありました。政治家らしい政治家です。だから世界の外交史で今でも称賛されるのです。対照的にフランツ・ヨーゼフ一世は、徹頭徹尾、行政官でした。

出典:倉山 満. 嘘だらけの日独近現代史 (SPA!BOOKS新書) (p.105). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.

この本では、フランツ・ヨーゼフ一世はメッテルニヒ、というよりもビスマルクと対象的に説明されている。

イタリア・フランスとの戦争に敗北

ここでは、1859年の戦争に関して書く。イタリア統一に関する戦いの全体像については別途書こうと思っている。

イタリア北西部のサルデーニャ王国は1848年にも諸国民の革命の一環としてオーストラリアからの独立を目的として戦争を仕掛けたが、鎮圧されてしまった。

1859年の戦争では、サルデーニャはフランスと結んでオーストリアに再び挑んだ。

フランス軍はナポレオン3世みずからが率いる12万8千、サルデーニャ軍7万、それにガリバルディの義勇部隊「アルプス猟歩兵旅団」3200人が加わった。迎え撃つオーストリア軍は22万。皇帝フランツ=ヨーゼフ1世が陣頭指揮を執った。

出典:イタリア統一戦争<世界史の窓

当初の戦争はギュライ・フェレンツ伯爵が指揮を採ったがマジェンタの戦いで敗北して解任された。その後は皇帝自らが指揮を採ったがうまくいかずに敗北してしまった。それでも敵方の主力であるフランス側の戦闘もあまり褒められたものでなかったため、オーストリアは深手を追わずに済んだ。

1859年7月になって突如ナポレオン3世は、サルデーニャ側にはからずにオーストリアとヴィラフランカの和約を結んで単独講和し、戦場から撤退した。ナポレオン3世は戦争の長期化を恐れたことと、サルデーニャ王国が全イタリア統一に進みローマ教皇領まで併合するに至ればフランスのカトリック信者の反発を招くであろうと読んで、適当なところで手を引くと判断したためらしい。[以下略]

出典:イタリア統一戦争<世界史の窓

フランス国内でも「国益のない戦争」と厭戦ムードが膨らんでいた。イタリアは怒ったが渋々停戦した。

ドイツ(19世紀後半)⑮ 皇帝ヴィルヘルム2世の「親政」

ビスマルクが宰相を辞任した後、皇帝ヴィルヘルム2世が「親政」を行なった。ドイツ帝国立憲君主制を採用していてビスマルクの後任の宰相もいるのだが、彼らは皇帝の思い通りに動かせる駒として機能した。さらに言えば、ドイツ帝国憲法は皇帝に大きな権力を残すものであった為、事実上の「親政」を行なうことを可能にした。

ヴィルヘルム2世の「新航路」

ヴィルヘルム2世は、1890年にもともとそりが合わなかったビスマルクを辞任させ、親政を開始して独自色をうち出した。まず、内政ではビスマルクが制定した社会主義者鎮圧法の延長を認めずに廃止し、労働運動の弾圧や思想統制強化から国民の融和を図る姿勢に転換した。内政だけではなく、外交においても従来のビスマルク外交がすすめる勢力均衡をはかるよりも、世界におけるドイツの覇権を求めるという積極策に転じた。これら、内政から外交に渡るドイツの基本姿勢の転換を、ヴィルヘルム2世は、ビスマルクの政策を旧航路に喩え、自分の政策は「航路は従来のまま、全速前進」であると自ら述べた。それをもじって、ヴィルヘルム2世の政策は「新航路」Neuer Kurs といわれた。

出典:ヴィルヘルム2世<世界史の窓

内政(19末まで)

労働者保護政策(労働者に対する宥和路線)

ヴィルヘルム2世は宰相ビスマルクの後任にカプリヴィを据えた。ヴィルヘルム2世とカプリヴィは、ビスマルク時代の「アメとムチの政策」を「かえって社会主義者の連帯を強め、地下活動を活発化させた」と判断した。

そして、「ムチ」を無くし「アメ」を強めることにした。もちろん社会主義者鎮圧法は廃止だ。主な政策は以下の通り。

  • 日曜労働の禁止
  • 女性・児童労働の制限(13歳未満の就業禁止など)
  • 労働時間の短縮
  • 労働委員会の設置

これらは、労働者をドイツ社会民主党SPD)から切り離し政府を支持させる意図であり、決してSPDと連携しようとしたわけではなかった。

しかし、SPDは弾圧が解かれたことで公然と活動を展開して選挙のたびに議席を伸ばした。さらには、資本家や地主(ユンカー)たち(従来の保守層)は、労働者の権利拡大が自分たちの利益を損なうと考え、カプリヴィを「社会主義の同調者」として攻撃するようになった。

結局、労働者は「アメ」を受け取りつつも政治的には社会主義を支持し続け、カプリヴィは左右両派から挟み撃ちに合う形となった。そして元来保守寄りのヴィルヘルム2世は保守層に同調して、カプリヴィをクビにした。

社会主義者弾圧の失敗

1894年、宰相はカプリヴィからホーエンローエになった。ヴィルヘルム2世は社会主義者弾圧へ回帰しようとしたが、ホーエンローエが無力であることと議会が弾圧法案に反対したため彼の意向は失敗に終わった。社会主義者社会民主党SPD)の勢力は拡大した。

そのまま20世紀に突入する。

外交:「世界政策」

外交政策では、まずロシアとの独露再保障条約の更新も拒否した。これはドイツはそれまでのビスマルク外交の基本姿勢である、フランスを孤立させるための親英・親露路線を改め、独力で帝国主義の世界分割競争に積極的に関わることをめざすものであった。ドイツとの同盟関係が無くなったロシアは、フランスとの接近を試み1891年から1894年1月にかけて段階的に露仏同盟の締結を進めた。ビスマルクが最も恐れたドイツの東西を挟撃する同盟が成立したことになる。当時の最強の海軍力を誇るイギリスとは、ヴィルヘルム2世自身がヴィクトリア女王の孫であることもあって、表面的には良好だったが、1895年12月に南アフリカでセシル=ローズがジェームソン侵入事件で失敗したとき、トランスヴァール共和国のクリューガー大統領に祝電を打ってイギリスの反発を受けるなど、不用意な行動が目立った。その後もドイツの世界政策の行方によっては対立も予想される情勢だった。
 そのような中、ヴィルヘルム2世は1896年に「ドイツ帝国は世界帝国となった」と演説、そこから、ドイツ帝国の積極的な海外膨張政策を世界政策といわれるようになった。まず海軍の大拡張を計画し、1898年に第1次艦隊法、1900年に第二次艦隊法を成立させた。これはイギリスとの建艦競争をもたらすこととなる。また植民地獲得で後れを取っているドイツは、アフリカ進出と共に中東への勢力拡大を図り、いわゆる3B政策を立案した。しかしそれはイギリスの3C政策と共にロシアの南下政策とも利害を対立させることとなり、さらにバルカン方面での同じゲルマン系国家オーストリア帝国とのパン=ゲルマン主義にもとづく進出は、ロシア及びパン=スラブ主義諸国との鋭い対立をもたらした。これらの帝国主義列強の対立が第一次世界大戦へとつながるが、その最も直接的な要因はヴィルヘルム2世の「世界政策」に帰せられることが多い。

出典:ヴィルヘルム2世<世界史の窓

ビスマルク外交は「曲芸外交」と言われることがあるくらいかなり無理があった外交だったが(過去の記事参照)、ヴィルヘルム2世はこの外交の成果を見事なまでにぶち壊した。それは簡潔に書かれた引用を読むだけで十分わかるだろう。

第一次世界大戦を全面的に彼のせいにするのは無理があるが、悪目立ちしているのは確か。

ドイツ(19世紀後半)⑭ ビスマルクの内政とビスマルク時代の終焉

ドイツの工業の発展

保護貿易関係は、現代の経済政策にも関わってくる話なので、理解できるところまで勉強したい。

1879年保護関税法と工業化発展

ドイツ地方の工業化(産業革命)は1830年代と遅かったが、その後、順調に発展し続けて、ドイツ帝国の19世紀後半になると、第二次産業革命の分野ではアメリカとともにトップの技術を持っていた(それに対してイギリスはかなり出遅れていた)。

前回書いた保護関税法は、第二次産業革命部門においては、楽をするとか一息つくとかいう問題ではなく「予測不能な保護」という意味合いがあった。

第二次産業革命の中核産業(特に鉄鋼)は、①設備投資が巨額、②研究開発に時間がかかる、③回収まで10年単位、という性格を持つ。このとき企業が一番恐れるのは、投資が終わる頃に突然安価な外国製品が流れ込むこと。これがあるとそもそも投資しない。

そこで保護関税法によって、①法律によって守られ、②「鉄とライ麦の同盟」で政治的に安定(短期政権で簡単にひっくり返らない)③「少なくとも10年は国内市場が守られる」、という理屈で投資・開発が進められた。こうしてドイツが第二次産業革命をリードすることが出来た。

基本的に、1870年代中盤くらいには、前回すこしだけ言及した「ドイツは他国と比べて低関税だった」ことが工業化のキャッチアップの実現に貢献した。第二次産業革命分野では1870年代前半からすでに研究が行われていたが、1879年の保護関税法成立により長期的・安定的な巨額投資が可能になり(上述)、発展が加速した。

ただし、化学・電気分野ではドイツはもともと世界的に最先端技術を持っていたため、鉄鋼と比べると保護貿易の寄与度は低かった(この2つの分野は輸出産業のため関税率は他分野より低めに設定されていたようだ)。

帝国主義的な独裁資本との関係

大不況に入って帝国主義が各国に普及して独占資本というものが形成されるようになったことは以前言及した。ドイツもその一つ。独占資本の形態と形成過程を示す。

  • カルテル(Kartell):独立企業が価格・生産量・市場分割を協定。ドイツで最も一般的・合法的。1870年代後半から急増、1900年頃275、1908年500超。ライン・ウエストファリア石炭シンジケート、鉄鋼カルテル(Rheinischer Stahlwerksverband)が代表。これによりダンピング(不当廉売。国内で得た超過利潤を原資に、海外では英国製より安く販売)が可能になり、短期間で世界シェアを奪取した。

  • コンツェルン(Konzern):持株会社が多数企業を支配する複合体。シーメンス、AEG、クルップ、ティッセンなどが典型。垂直統合(原料→製品)・水平統合を組み合わせ、銀行(例:ディスコントー・ゲゼルシャフト)との結びつきが強い。

  • トラスト(Trust):アメリカ型で完全統合・独占企業。ドイツでは少数(例:一部化学・電気)。カルテルが主流のため、トラストは限定的。

工業発展のまとめ

「独占資本」というのは、マルクス史観の用語で現代の歴史でも使用されている。しかしマルクス史観自体は基本的には否定されている(否定されていない場合もあるかもしれない。特に古い本)。

マルクス史観では《ドイツの「強さ」=独占資本+国家の結合》と短絡的に説明されるが、現代の歴史では独占資本を含む保護主義はドイツの工業を発展させた一部に過ぎないとされている(個人的には重要な要素だと考えるが)。

現代の歴史をまとめると、「教育・科学・金融・行政が複雑に絡み合った社会システム全体がドイツの工業の成功に導いた」くらいでいいと思う。

文化闘争

ドイツ統一後,帝国宰相ビスマルクが行ったカトリック弾圧政策と,その結果生じた政府・カトリック間の争い。文化闘争の呼称は,フィルヒョーが使用した用語,〈文化に対する闘争〉に由来する。ビスマルクは,カトリックを媒介とするフランス,オーストリアの提携,またそれに呼応した国内のカトリックによる反政府活動を恐れてこの弾圧政策を強行した。とくにその際1871年に中央党が結成されたことは,カトリック政治勢力の新たな結集とみなされ重要な動機となった。主要な弾圧立法をあげれば,71年の帝国刑法改正による教会内の言論統制をはじめとし,72年のプロイセン学校管理法による教会の教育活動抑圧,同年のイエズス会法による伝道布教活動の規制,また73年に始まる一連の五月法による聖職者の養成と任免への介入等がある。
 これら諸法の執行によって76年までにプロイセンではすべてのカトリック司教が逮捕ないし外国逃亡を余儀なくされ,80年には4600のカトリック司祭職のうち1100が同じ理由で空席となった。弾圧に対するカトリック側の抵抗は教会と政党を主軸として展開され,聖職者の不服従や反政府言論出版活動とともに中央党の巧妙な議会活動が抵抗の核心をなした。73年のプロイセン下院選挙と翌年の国会選挙で中央党が躍進したことは,カトリック側の反撃の強さを示している。この間ベルリン会議(1878)に象徴される国際情勢の変化と,社会主義政党の台頭に象徴される国内政治状況の変化によってビスマルクは政策転換を決意し,70年代末からカトリックとの和解を求めた。この段階でカトリック側には,文化闘争以前の原状回復を主張する中央党と,それを和解の絶対条件とはみなさぬ教皇との間に激しい対立が生じた。しかし中央党の主張はビスマルク教皇双方から黙殺され,もっぱら両者の間で進められた交渉の結果,五月法廃止を条件に87年和解が成立した。五月法以外の諸法はこの後も残存し,結局ビスマルクは文化闘争によってカトリック教会に対する統制を強化することに成功した。

出典:文化闘争/株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典 - コトバンク

  • 中央党はカトリック政党。政治思想は保守よりなのでビスマルクの方針転換以降は手を組むことになる。
  • 1878年に対立を主導していた教皇ピウス9世が亡くなったことが契機として両者の妥協が始めた。

社会主義者鎮圧法

1840年代の産業革命によって、ドイツでも多くの工場労働者が生まれ、その中から労働者の解放を目指す社会主義運動が起こってきた。1875年にはラサール派とマルクス主義派(アイゼナッハ派)がゴータで合同大会を開き、世界最初の労働者の単一政党である、ドイツ社会主義労働者党(90年、ドイツ社会民主党に改称)を結成した。この動きは、ビスマルクの出身階層である土地貴族ユンカーや資本家層には大きな脅威となってきた。
 ビスマルクはこのような社会主義者の進出を恐れ、1878年に皇帝ヴィルヘルム1世狙撃事件が起こるとそれを社会主義者の仕業であると宣伝して恐怖心をあおり、同年、「社会民主主義の公安を害する恐れのある動きに対する法律」、一般に「社会主義者鎮圧法」といわれる法律を制定した。これは社会主義共産主義の集会、結社、出版、デモなど一切を取り締まり、警察にそのような活動をした人物を追放する権限を与えた内容であった。
 こうしてドイツ社会主義労働者党は非合法とされ、地下に潜った。ビスマルクは一方で労働者を社会主義者から遊離させるため、独自の社会保障制度の制定などの社会政策を進めた。この鎮圧法は、“アメとムチ”といわれたビスマルクの労働者・社会主義運動に対する対策の、ムチにあたる政策であった。

出典:社会主義者鎮圧法<世界史の窓

社会政策

ドイツ帝国の首相ビスマルクは、社会主義者鎮圧法を制定して労働者の運動を徹底的に押さえつけたが、その一方、労働者の保護政策や社会保障政策を推し進めた。そのような二面性を「アメとムチの政策」という。80年代にビスマルクが制定した社会保障制度には、医療保険法、災害保険法、養老保険法がある。これらは当時の世界では最も進んだ社会保障制度であり(イギリスではようやく1911年にビスマルク社会保障政策をまねて国民保険法を制定した)、それ自体優れたもので、当時としては世界の最先端を行く政策であった。これらの政策は“アメとムチ”といわれたビスマルクの労働者・社会主義運動に対する対策の、アメにあたる政策であった。しかし、ビスマルクがめざしたような社会主義運動の進出を抑えることはできず、なおも弾圧を強化しようとしたビスマルクは退陣せざるを得なくなり、1890年には社会主義鎮圧法も廃止される。

出典:ビスマルクの社会政策<世界史の窓

労働者の生活向上が成功したのはいいのだが、皮肉にもそれが労働運動にエネルギーを与えることになってしまった。しかも工業発展の影響で労働者が激増して、抑え込むのがますます困難になった。

ということで結局、「アメとムチ政策」は破綻した。

ビスマルク時代の終焉

1888年3月に皇帝ヴィルヘルム1世が亡くなった後、息子のフリードリヒ3世が継いだのだが、わずか99日後に亡くなってしまった(この人のことを知らなかった)。次代はその息子(ヴィルヘルム1世の孫)のヴィルヘルム2世が継いだ。

1888年、ヴィルヘルム1世が死去し、ヴィルヘルム2世が即位すると、若い皇帝はビスマルクを嫌い、ことごとく反発しした。まず、労働者保護の社会政策を打ち出し、社会主義者鎮圧法の改正を進めようとしたビスマルクと対立、1890年の選挙でビスマルクの与党保守党が敗れるとビスマルクは辞表を提出、1890年3月20日、皇帝はそれを受理し、実質的な罷免となった。これによって1862年以来30年近く続いたビスマルク時代は終わりを告げた。

出典:ビスマルク<世界史の窓

上のような理由もあるのだろうが、他にもある。以下の理由のほうが本当の理由なのかもしれない。

ざっくりと言ってしまえば、29歳で即位したヴィルヘルム2世、ビスマルクは73歳。大王になりたいと大志を抱いた青年皇帝が老臣と政策について揉めてクビにした、という『史記』に何度か出てきたようなパターン。

これであっけなくビスマルク時代が終わってしまった。