ルイ・ナポレオン、大統領になる
ルイ=ナポレオンについては《ルイ=ナポレオン/ナポレオン3世》などを参照。
彼が大統領になった要因として挙げられるのは以下の通り。
ナポレオン1世の伝説的知名度・栄光の記憶(最重要要因)
ルイ=ナポレオン自身の実績や知名度はほぼゼロだったが、「ナポレオン」という名前だけが決定的だった。農民・地方大衆の「秩序と安定」への強い欲求
フランス人口の約3分の2が農村部。1848年の二月革命・六月蜂起後の混乱、不況、高税、物価高で疲弊していた農民層が最大の票田。 彼らは「社会主義=財産没収・赤い恐怖」と恐れ、穏健共和派や左派を嫌悪。 ルイ=ナポレオンは「秩序の回復」「財産・家族・宗教の保護」を約束し、保守派・秩序党からも「最善の悪」として支持された。 男子普通選挙で初めて投票した900万人の農民が一気に流れ、都市部中心の他の候補を圧倒。社会主義・労働者急進派への恐怖(反動票の集中)
六月蜂起で労働者・社会主義者が血みどろに鎮圧された直後。 ブルジョワ・中小資本家・地主層は「もう左派は許さない」というムード。 ルイ=ナポレオンは左派でも右派でもなく「中道的な強権による安定」を体現する存在に見えたため、右派票が集中。他の有力候補の致命的な弱さ
相対的にルイ=ナポレオンが「マシな選択肢」として浮上。男子普通選挙によるポピュリズムの威力
《「近代的な意味でのポピュリズム」によって選ばれた最初の大統領は、ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)であるという見解が一般的》らしい。
大統領時代の事績
以下の「右派の秩序党」とは、リンク先によれば、労働者の六月蜂起に危機感を強めた反共和政の右派が正統王朝派・オルレアン派にカトリックの勢力も加わって同盟した政党。
[ルイ・ナポレオンは、]1848年12月15日、フランス大統領に就任した。
ルイ=ナポレオンは、ナポレオンの甥であることが、フランスの大衆にかつての栄光を回復する希望を与え、革命と蜂起で疲れていた国内に安定を与えると考えられたものと思われる。ルイ=ナポレオンは共和派を排除し右派のメンバーからなる内閣を発足させ、「共和政主義者なき共和政」といわれた権力をにぎった。翌年5月に立法議会選挙が行われると、右派の秩序党が53%で過半数を占め、穏健共和派は12%と惨敗、左派(この時は急進共和派と社会主義者が合同し山岳党―モンタニャールと称した)は35%と健闘し、議会は中道派が壊滅し、左右両極化が進む結果となった。
ルイ=ナポレオンは議会内には基盤がなく、直接的な国民の支持が必要だったので、カトリック勢力の支持を受けていたため、1849年にはフランス軍をイタリアに派遣してローマ共和国を倒し、教皇ピウス9世のローマ帰還を実現した。
議会では多数派となった右派の秩序党は、大統領ルイ=ナポレオンを無視する形で、集会の禁止、出版印刷税の復活、ストライキの禁止、カトリック教会が初等学校教育を行うことを可能にするファルー法の制定、選挙法の改悪(選挙資格の定住条件を6ヶ月から3年に増やすなど)など、反動的な立法を次々に議決した。このような議会に対して民衆が離反していくのを見ながら、ルイ=ナポレオンは機会を待っていた。出典:フランス<世界史の窓
上のように、ルイ・ナポレオンがやったと言えるのはローマ侵攻(後述)くらい。大統領はお飾りにされた。ルイは選挙権の制限に反対したが無視された。
ローマ侵攻
ローマ遠征の背景と目的
教皇の亡命と共和国樹立:1848年革命の波及によりローマ教皇ピウス9世が亡命。マッツィーニらによる「ローマ共和国」が成立。
ルイ・ナポレオンの思惑:大統領選に当選するためにカトリック勢力の支持を得ようと考え、教皇のローマ帰還を支援する約束をしていた。
オーストリアへの対抗:北イタリアに影響力を持つオーストリア帝国より先にローマを掌握し、イタリアにおけるフランスの発言力を確保。
フランス軍の侵攻過程
ウディノ将軍の派遣:1849年4月、チヴィタヴェッキアに上陸。当初は「中立的な調停」を名目としたが、実質的には教皇の復権が目的。
ガリバルディの抵抗:ジャニコロの丘などで激しい市街戦が展開。ガリバルディ率いる義勇軍が奮戦し、フランス軍は一度敗退。
ローマ陥落(7月):増援を得たフランス軍が猛攻を加え、共和国は崩壊。フランス軍による占領が開始され、教皇の世俗権力が復活。
フランス国内の政情不安
憲法違反の指摘:第二共和政憲法には「他国の自由を侵害するために軍隊を用いない」という規定があり、左派(山岳党)が遠征を違憲と糾弾。
1849年6月13日の事件:ルドリュ=ロランら左派指導者がパリで抗議デモを組織。しかし軍によって鎮圧され、指導層は亡命を余儀なくされる。
秩序党の台頭と弾圧:この混乱を機に、ルイ・ナポレオンと保守的な議会は集会の自由を制限し、共和主義的な新聞を弾圧。左派勢力は壊滅的打撃を受ける。
政治的結末
ボナパルティズムの強化:左派が自滅したことで、ルイ・ナポレオンは軍と保守層の双方を掌握。独裁への道が平坦になった。
カトリック教会の支持:教皇を守った功績により、教育現場などで教会の権限を強める「ファルー法」の成立に繋がる。
ルイ・ナポレオンが皇帝になる話は次回。