歴史の世界

エーゲ文明③ 後期青銅器時代/ミケーネ文明の誕生

前回からの続き。

「後期青銅器時代≒ミケーネ文明の時代」

「ミケーネ(あるいはミュケナイ)」はペロポネソス半島西部にある古代都市で、この文明(時代)の代表的な都市。これにちなんでミケーネ文明と呼ばれる。

ただし、ミケーネ文明はミケーネだけが文明の中心だったのではなく、小規模な勢力(王国)がいくつかあった。


Map of Mycenaean Greece 1400-1200 BC: Palaces, main cities and other settlements.

出典:Mycenaean Greece - Wikipedia *1

ミケーネ文明の始まりについては諸説あるが、このブログでは周藤芳幸氏に従って、前1650年頃とする。 *2

墓から分かること:その①副葬品の多さと交易ネットワークの広がり

ミケーネ文明の誕生より前までは、ギリシア本土 *3 は、初期青銅器時代の終わり頃に起こった戦乱・崩壊から立ち直れず、他地域に比して文化的に遅れを取っていた。

しかし、前1650年頃の古代都市ミケーネの墓 *4 は、「絢爛豪華たる遺物が副葬されていた」 *5

これらの副葬品はエーゲ海周辺だけでなく、南のアフリカのものから北のバルト海のものまで含まれる *6。 これにより、クレタ島の勢力と比べて北方のネットワークに強みを持っていたと考えられる。

この頃からミケーネ文明の発展が見られる。エーゲ海のネットワークの中心が、時間をかけて、クレタ島からギリシア本土へ移っていく。

墓から分かること:その②新しい文化の流入

副葬品からさらに別の重要なことがわかることができる。

ミケーネ文明はクレタ文明から大きな影響を受けていたが、別の大きな特徴も持っている。

それが武器類の副葬品だ。これに関連して二輪馬車(戦車、チャリオット)が描かれているレリーフもあった。これについて周藤氏によれば、山がちなギリシア本土では戦車は役立たなかったはずで、実用的なものというより支配者たちにとってステイタスシンボルのようなものだった *7

ちなみに、私個人としては、チャリオットが地中海で戦闘の主力になったのはミタンニが大国にのし上がった前1500年以降のことだと思っている。前1650年にエジプトを支配したヒクソスがチャリオットを以って侵略を成功させたという説は間違っていると思っている。

周藤氏は以下のように書いている。

戦車は前二千年紀の前半に環東地中海世界に普及するようになった当時の最新兵器であり、走行に適した平坦な土地が広がるアナトリア高原やエジプトのデルタ地域では、やがて戦争の主役になっていく。[中略]ミケーネの円形墓域の被葬者たち[=支配者たち]が戦車をきわめて重視してたらしいことは、彼らが環東地中海世界の諸文明の覇者たちと王権をめぐる価値観をともにしていたことを物語っている。

出典:ギリシア史/p36

ここから、戦車を使いこなせていなかったのはミケーネの支配者たちだけではなかったということが分かる。ただし、周藤氏が戦車とミタンニやヒクソスについて私と同じ考えかどうかは分からない。

すくなくとも、印欧語系のギリシア語を話す人々がチャリオットを駆ってギリシア本土に侵略したというシナリオは史実ではないということだ。

墓から分かること:その③権力集中の度合い

上でかいたように、発見された副葬品はミノア文明時代に比べて豪華になっている。これは支配者たちの権力がより強力になっていることを示す。

上では前1650年頃から始まる「円形墓域A(Grave Circle A)」という墓について書いたが、前1500年頃になると「トロス墓」と呼ばれる大規模な墓が造られるようになる。

出典:アトレウスの宝庫 - Wikipedia

トロス墓の代表例が上の「アトレウスの宝庫」。この墓は宝庫でもなければ、ギリシア神話に登場するアトレウスとも何の関連もないのだが、その贅沢な造りが当時の支配者の権力の度合いを物語る。

トロス墓はミケーネ文明圏全土に一様に流行したわけではないが、当時の権力の度合いを示すものとしては十分だ。ちなみに、この墓は個人のみのものではなく、家族墓。

通文化的には、社会の最上層に位置する特定の個人や集団のために大規模な墓を築く習慣は、しばしば首長制社会が発展して初期国家へと移行する段階に出現する。エジプト古王国のピラミッドや、わが国の古墳はその典型的な例である。また、この段階では、権力が首長(王)へ集中していくにつれて、位階的な社会構造を安定させるための統治組織や表象の体系が整備されていくのが一般的である。[中略]この時代の諸王国は、小規模ながらも同時代の西アジアと肩をならべる初期国家へと接近しつつあったのである。

出典:ギリシア史/p36

首長制社会については前回書いた。周藤氏はミノア文明が首長制社会、ミケーネ文明が初期国家としている。

当時の西アジア(特にレヴァント)には小規模な王国がたくさん存在していたが、このような諸王国とミケーネ文明の諸王国が肩を並べるほどになった、とのこと。



*1:By User:Alexikoua, User:Panthera tigris tigris, TL User:Reedside - Ιστορία του Ελληνικού Έθνους, Εκδοτική Αθηνών, τ. Α' χάρτες σε σελ. 263-265, σελ. 290, 292-293 (επίσης [1], CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61505445

*2:桜井万里子編/世界各国史17 ギリシア史/山川出版社/2005/p34(周藤氏の筆)

*3:ここでの「ギリシア本土」はペロポネソス半島も含まれる。文化の分類上、エウボイア島(エヴィア島)も含まれるらしい

*4:円形墓域A (Grave Circle A, Mycenae - Wikipedia 参照)

*5:ギリシア史/p34

*6:同/p34-35

*7:周藤芳幸/古代ギリシア 地中海への展開/京都大学学術出版社/2006/p57

エーゲ文明② 中期青銅器時代/ミノア文明の興亡

前回からの続き。

初期青銅器時代が終焉し、中期青銅器時代が始まる。そして
「中期青銅器時代≒ミノア文明の時代」

ミノア文明の始まり(初期青銅器時代

ミノア文明は、他の地域と同様に初期青銅器時代から文明化した。他地域との接触は少なかったようで、文明化のテンポもゆっくりだった。初期青銅器時代末期に他地域では戦乱が多発したが、クレタ島はその波が到来せず、中期青銅器時代を迎えることが出来た(ここまでは前回に少し書いた)。

盛期(前2000年~)

中期青銅器時代はミノア文明がギリシア地域の中心だった。

盛期の象徴が宮殿。宮殿は王の権力集中を想起させるが、そうではないらしい。

クレタ島の宮殿は、おそらく宗教的な権能の強い王を戴く人たちの精神生活の中心であるとともに、活発な経済活動の拠点でもあった。宮殿支配下の各地に散財する豊かな麦畑、オリーブがそよぎ葡萄やいちじくがたわわに実る果樹園、羊がのどかに草をはむ放牧地などからは、さまざまな物資が宮殿にもたらされ、専門の書紀によって記録された上で、必要に応じて各地に配分された。このような宮殿中心の経済の仕組みは、一般に再分配システムと呼ばれ、階層化された社会(首長制社会)に特有のものである。神聖文字、そして線文字Aというクレタ島独自の文字も、このような仕組みが機能する上で必要不可欠な道具として誕生し、発展を見た。

出典:周藤芳幸/図説ギリシア エーゲ海文明の歴史を訪ねて/ふくろうの本/1997/p22-23

周藤氏は別の本で補足的なことを書いていることによれば、以上の政治システムは《在地社会が、そのまま宮殿社会の下地となった》としている *1

「首長制社会」についてググってみたが、研究者の中でいろいろな意見があってわかりにくい。ここでは辞書的な理解だけでとどめて深煎りしないでおこう。

しゅちょうせい【首長制 chiefdom】
部族社会(政治的中心をもたず,富や地位の分化もみられない平等社会)と国家社会(権力が中央に集まり,富や地位の分化が確立している社会)との中間に位置する統治形態として,アメリカの文化人類学者E.R.サービスによって導入された概念。部族社会の中で平等な地位にあった血縁集団の間に地位の上下関係が生じ,その一つまたは少数の集団が首長chiefの地位を独占・継承するに至って生まれる。そのような首長は生産と分配を統制し,公共的な仕事を計画し,そのための集団を組織するなどの公権力をもち,その執行の権力ももっている。

出典:株式会社平凡社世界大百科事典 第2版/首長制とは - コトバンク

引用に出てくる神聖文字 *2 と線文字Aについては発見された資料が少ないため未だに未解読。前18世紀まで遡ることができるらしい。

有名な宮殿はクノッソスだが、これ以外にも複数あり、さらには宮殿はないが政治行政システムがある場所もある。クレタ島の権力は一つではなかった。

ギリシアの他地域への影響は後述するとして、エジプトにもミノアとの接触の跡があった。

ミノア文明の影響はエジプトにも見られる。前1600年を挟む約100年はエジプト第15王朝と呼ばれる政権があった。この政権の支配者はレヴァントに起源を持つ人々(ヒクソス)。彼らはナイルデルタにアヴァリスという王都を建設したが、その都市は西アジア・レヴァント・ヌビア・東地中海を結ぶ一大交易センターになった。その交易相手の一つがクレタ島だった。 (ヒクソス - Wikipedia 参照)

その他にはアナトリアにも交流の証拠があるらしい *3

ミノア文明の担い手は誰か?(線文字Aについて)

ところで、線文字Aは未だに未解読とかいたが、桜井万里子氏は以下のように書いている。

クレタ島[=ミノア文明]では……線文字Aが使われていましたが、線文字Aが表している言語がギリシア語ではないことは確かで、まだ解読されていませんが、オリエントの言語と構造が似ているようです。[中略]

[ミノア]文明を営んでいた人々はギリシア人ではなく、オリエント系の人々であったことはまず間違いありません。

出典:桜井万里子・木村凌二/集中講義!ギリシア・ローマ/ちくま新書/2017/p23-24

ミノア文明の最盛期と崩壊

ミノア文明の最盛期は前1700~前1500年ころ。かつては前17世紀後期にサントリーニ島クレタ島の北、キクラデス諸島の一つ)の大噴火がミノア文明を崩壊させたという仮説が有力視されていたが、現在では否定されている。

前1450年にクレタ島で破壊と火災の跡が見られる。これが戦乱の跡なのか天災のそれなのか意見が分かれている。しかし前15世紀末になると、クレタ島ギリシア本土で興ったミケーネ文明の勢力に掌握される。詳細は不明。

同時代の他地域(ミノア文明の影響その他)

ミノア文明の影響はキクラデス諸島に強く及び、この地域の文化はミノア文明の影響下に入った。

ギリシア本土では書紀青銅器時代末期の戦乱から立ち直れず、長く文化文明が廃れていた。しかし考古学の成果によると、1650年頃の層から「突如として豪華な副葬品をおさめた墓」が発見されている *4。ここからミケーネ文明が始まるわけだが、この文明は次回に書く。

トロイでもこの時代の初期は繁栄してはいなかった。ただしトロイ遺跡を発見したシュリーマンの乱暴な発掘のせいで分からないことが増えたという面もある。前1800年頃になると再び栄えるようになった。ギリシア神話に出てくるトロイア戦争の舞台は前1800~前1300年の間のどこかと考えられている。



*1:桜井万里子編/世界各国史17 ギリシア史/山川出版社/2005/p31(周藤氏の筆)

*2:Cretan hieroglyphs。聖刻文字または絵文字とも呼ばれる

*3:世界各国史17 ギリシア史/p37

*4:世界各国史17 ギリシア史/p34

エーゲ文明① 古代ギリシア最古の文明の誕生/初期青銅器時代

古代ギリシアを書き始める。

まずはその最古の文明、エーゲ文明(エーゲ海文明)から。

エーゲ文明については周藤芳幸氏の主張を多く採用してくことにする。

新石器時代から青銅器時代

エーゲ文明は青銅器時代初期に始まるが、その前のことを簡単に書いておこう。

ギリシアの地域の新石器時代西アジアの影響を受けている。簡単に言えば西アジアの定住型農業(農耕と牧畜を組み合わせた混合農業)のパッケージを受容した。ギリシア本土は山がちであるが北部・中部に平野地帯があり、この時代の文化はここが中心であった。この文化は西アジア文化のコピーのようなもので、さして特徴のある文化ではないとされている。

これらの文化の担い手は(インド・ヨーロッパ語族の)古代ギリシア語を話す人々ではなかった。担い手がどのような人たちだったのかは未確定だが前記のように西アジアの人々だと推定される。

青銅器時代は前3000年頃に始まる(これより前の数字を示す文献はいくつかあるが、どれが妥当なのか私にはわからないのでとりあえずこの数字を採用する)。

ギリシア青銅器時代のパッケージをもたらした人々も、新しい西アジアからの流入だった。彼らは島嶼部と本土南部に移住し、今度はこれらの地域がギリシアの中心となった。

西アジアの人々の到来は、おそらくは天然資源を探す人々から始まり、交渉・交易する人々などが住み着いたのだと思われる。原住民たちは否応なく新しい時代を受容したのだろう。

エーゲ文明の誕生:初期青銅器時代(前3000-2000年)

研究者たちがなにをもってエーゲ文明の始まりとしているのかが分からない。とりあえず、私個人は
青銅器時代の到来≒エーゲ文明の始まり
としておく。

初期青銅器時代(前3000-2000年)に都市化・階層化・物流のネットワーク化など文明の要素となるイベントがなされた *1 から、数百年かけて徐々に文明化していった、と私は考えることにした。

エーゲ文明(またはエーゲ海文明)は、ミノア(クレタ)文明・ミケーネ文明・トロイア文明などいくつかの文明の総称(上位カテゴリー)である。エーゲ文明に属する個々の文明(あるいは文化)については取り上げていくつもりだが、時系列を優先して書いていこう。

キクラデス諸島:キクラデス文明

出典:Geography of Greece - Wikipedia

キクラデス文明(あるいはキクラデス文化)は、前3000年頃に始まる(「3000」という数字も諸説ある)。

キクラデス文明はキクラデス諸島で栄えた文明だ。いくつかの島に鉱物を有していたが、それだけでなく、ギリシア本土の鉱物をも取り扱い、アナトリア西岸も含むエーゲ海の交易ネットワークを作っていた。

初期青銅器時代が終わる頃にはミノア文明の影響下に吸収される。

ギリシア本土:ヘラディック期

初期青銅器時代ギリシア本土の歴史区分は初期ヘラディック期と呼ばれる *2

古代ギリシアといえばオリーブ油とワイン(ブドウ)だが、初期青銅器時代にはすでに生産されていたらしい。これらは鉱物と共に主要な交易品となった。

ギリシャ本土では……集落跡も大規模なものが見られ、ギリシャにおける最初の都市化が行われた時代と考えられており、集落跡からは印章や封泥が出土、集落中心部の大規模な建物を中心に経済活動が行われたことが推測されている[24]。

[24]桜井万里子編 『ギリシア史』山川出版社、2005年。p25(上記の記述は周藤芳幸氏)

出典:ギリシャの歴史 - Wikipedia

エウボイア島(本土のすぐ東にある、クレタ島に次ぐ大きさを持つ島。現代はエヴィア島と呼ばれている)のマニカ遺跡では、この時代を代表するような都市の跡が見られる。本土とエーゲ海のネットワークを結ぶ要衝として栄えたようだ。(エイボイア島は島だが本土の文化圏にある、と思う) *3

トロイ遺跡

(トロイ遺跡の場所は前回の地図参照)

アナトリアの西北にあり、ダーダネルス海峡に面していた。エーゲ海アナトリアの陸路を結ぶ要衝であった。

トロイ遺跡はいくつかの層に分類されているが第一層(第一市、前3000-2600年頃)は規模は小さかったが第二層は2倍に栄え、エウボイア島のマニカ遺跡とともに初期青銅器時代を代表する都市にまでなった。ただし、初期青銅器時代後期(第三層以降)は戦乱が頻発した跡があり、繁栄は見られない。

この地域についてはあまり語られない。遺跡発見者のシュリーマンの物語はよく語られるのだが、大事なその中身のほうは、要を得た記述はなく、お茶を濁したような言いっぷりで終止している。素人が読む本ではそんな感じだ。

シュリーマンが追い求めていたトロイア戦争の実態については別の機会で。

クレタ島:ミノア文明

クレタ島の場所は上の地図参照)

クレタ島の文明がなぜ「ミノア文明(Minoan civilization)」なのかというと、ギリシア神話にでてくるクレタ王のミノスにちなんでのこと。ミノス文明ともクレタ文明とも呼ばれることがある。

初期青銅器時代において他地域の遺跡には交流の跡が多く出土するのに対し、クレタ島ではほとんど見られない。また他地域では戦乱と文化変化がしばしば行われていたが、クレタ島はそのような変化と無縁だった。

繁栄はある程度していたが、他地域と比べるとペースは遅い。この時代のクレタ島は重要な地域ではなかった。

初期青銅器時代の終焉

考古学の成果により、前2200年前後に断続的に破壊炎上の跡が見られる(ただし上記の通り、クレタ島は除外)。

その原因は未だに確定されていないが、一つの有力な仮説として、インド・ヨーロッパ語族を話す人々の流入による混乱というのがある。

初期青銅器時代の人々は、後に古代ギリシア語と言われる言語(つまりインド・ヨーロッパ語族に属する言語)を話す人々ではなかった。これを話す人々の流入がこの時期だった、という仮説。

ただし、ギリシア語が使用されていた証拠である線文字Bは早くても前1500年前後までしか遡れないこともあり、この仮説は確定されていない。

ちなみに、線文字Aという文字が前1800年頃に使用され始めるのだが、こちらは解読されておらず、どの言語を表しているのかも不明。(線文字Aについては次回にも書く。)

いずれにしろ、破壊活動がクレタ島以外の地域で多発してこの時代の繁栄が終焉し、新しい時代に移行することになる。


*1:周藤芳幸/図説ギリシア エーゲ海文明の歴史を訪ねて/ふくろうの本/1997/p13-16

*2:「へラディック文化」「へラディック文明」と呼ぶ人もいる。さらに「へラディック」の代わりに「ヘラス」と呼ぶ人もいる

*3:図説ギリシア/p16

「古代ギリシア」シリーズを書く

これから「古代ギリシア」シリーズを書く。これらの記事は「古代ギリシア」のカテゴリーの保存する。

地域的範囲

出典:木村精二他監修/詳説世界史図録/山川出版社/2014/p18

古代ギリシアの範囲は、基本的には左下の地図にある地域、すなわちエーゲ海の沿岸および島嶼だ。その他の地域はこの地域の都市からの植民地。

バルカン半島の地域は「ギリシア本土」と呼ばれるが、バルカン半島最南端部のペロポネソス半島を「本土」とは別個とする人もいる。当ブログでは半島は「本土」の一部とする。

黒海北岸に植民したギリシア人はスキタイの支配下に入ったり抵抗したり交渉したりしたことは以前に書いた。)

時間的範囲

このブログでは、最古の文明であるエーゲ文明が始まった前3000年頃からプトレマイオス朝エジプトが滅亡した前30年までを範囲とする。

ただし、何を持って「エーゲ文明の誕生」とするのかがよくわからないので、前3000年というのも厳密というには程遠い。

戦後直後の日本経済について⑤ 歴史を歪めるもの

前回からの続き。

歴史を歪めるもの

ここまで書いてくるのに、主に高橋洋一『戦後経済史は嘘ばかり』(2016年)という本を参考にした。

なぜ嘘がまかり通ってきたのか?

それほど確固たる証拠はないのだが、とりあえず書き留めておこう。

左翼史観の残滓

その昔、「自虐史観」という言葉がある程度流行した。

冷戦終結後の1990年代から、日本において日中戦争・太平洋戦争などの歴史を再評価する流れが表れ、自由主義史観を提唱した教育学者の藤岡信勝などによって「新しい歴史教科書をつくる会」などの運動が活発となった。「つくる会」は、主に近現代史における歴史認識について「自虐史観」であるとし、いわゆる戦後民主主義教育は日本の歴史の負の面ばかりを強調し、戦勝国側の立場に偏った歴史観を日本国民に植え付け、その結果「自分の国の歴史に誇りを持てない」、「昔の日本は最悪だった」、「日本は反省と謝罪を」という意識が生まれたと批判した。

出典:自虐史観 - Wikipedia

私は教育業界とは縁がないので藤岡氏の主張に対して「全くそのとおりだ」とまでは言えないが、1990年代に出版された日本近現代史関連の本を見る限り、彼の言う通りなのだろうと思っている。

戦後直後の歴史に関して言えば、GHQが占領当初に日本を弱体化しようとしたことは高校日本史では教えていない(らしい、としか言えないが)。

藤岡氏がいうところの「自虐史観」とは違う見解(たとえば「弱体化」のこと)を主張しようものなら「あいつは歴史修正主義者だ」とか「右翼だ」とレッテルを貼られた。

現在はそのような圧力はどうってことないが(弱まっているそうだが)、昔はその圧力は相当強かったらしい。引用に「冷戦終結後の1990年代から」藤岡氏らの活動が活発化したということは、冷戦終結以前は左翼の力が強かったということだ。

最近は左翼は高齢化が進んでいると言われ、共産党の支持者は高齢者がほとんどだと言われている。

それでも教育・出版・マスコミ業界などでは左翼連中が一定の力を持っている(チャイナ・コリアからの工作員が紛れているという話もあるが、真相は知らない)。

9年前(2013年)に出版された倉山満『常識から疑え! 山川日本史 近現代史編 上 「アカ」でさえない「バカ」なカリスマ教科書』では副題にあるように、その歴史の記述は「アカ」でさえない「バカ」なのだそうだ。左翼史観の残滓は残っているが、編集者はそのようなことは気にしていない、ただクレームが少なくなるように汲々として作っているだけだ、とのこと。

9年前から少しは変わっていてほしいが、田中秀臣『脱GHQ史観の経済学 エコノミストはいまでもマッカーサーに支配されている』(2021年)を読むと、それほど定説は変わっていないようだ。

歴史を歪曲しようというエネルギーだけでなく、本当の歴史を知ろうというエネルギーも減少しているかもしれない。

財政均衡派(財政緊縮派)の人たち

GHQが行なった財政均衡政策を肯定する人たちがいる。その総本山が財務省だ。彼らは世界に通用しない経済思想(つまり財政均衡≒財政緊縮)を持つ。世界標準の(というか普通の)マクロ経済学を彼らは理解していない。

高橋洋一氏、田中秀臣氏はリフレ派と呼ばれることがあるが、彼らは普通のマクロ経済学に沿って経済政策を主張しているが、日本では少数派だ。その原因はマスコミや経済学者・エコノミストの多くが財務省におもねっているからだ。

有沢広巳(有澤廣巳)

傾斜生産方式という政策は石橋湛山が行なったものだが、いまは有沢広巳氏に紐付けられている。

以下は対談の一部。

 和田(みき子氏) 有沢はこれらの復興政策を自分の手柄にするため、石橋の仕事の痕跡を抹消することに腐心してきました。そして彼が傾斜生産の担い手として日本社会党をあてにしていたことも文献によって確認できます。さらに第一次吉田内閣退陣後に政権についた社会党片山内閣との折り合いが悪くなると、今度は傾斜生産を自分とGHQの業績のみによるものだった、とまで言い出します。このような有沢の画策は従来の研究では一切言及されてきませんでした。一方、当の石橋はといえば有沢の画策を取るに足らないものだと思っていたはずです。なぜなら石橋にとっての戦後復興における最重要課題は自由貿易の再開だったわけですから。[以下略]

出典:実利に基づく平和思想を唱えた人 『石橋湛山の経済政策思想』(日本評論社)刊行を機に 対談=原田泰×和田みき子/読書人WEB](https://dokushojin.com/reading2.html?id=8056

小説『官僚 たちの夏』

日本の戦後の高度経済成長は、通称産業省(通産省→現在の経済産業省経産省〉)が適切な産業政策を行ったからだ、と信じている人が多くいます。「通産省日本株式会社の司令塔だ」という声もありますし、城山三郎の小説『官僚 たちの夏』は、そんな英雄的な官僚像を高らかにうたいあげました。

しかし、これはあくまで「伝説」にすぎません。実際には、産業政策が効果を上げたことなどほとんどなく、通産省の業界指導は役に立たなかったのです。

出典:高橋 洋一. 戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点 PHP新書 (p. 10). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

このことは上念司氏がニュースコメンテーターとして口を酸っぱくして何度も言ったいることだが、要するに「官僚は商売をやったことなど一度もないのに、商売人よりも経済センスがあるわけはないだろ!センスがあるなら安月給の公務員辞めて商売してるわ!」とのこと。



戦後直後の日本経済について④ ドッジ・ラインという失敗

前回からの続き。

復興金融金庫とインフレ

前回に貼り付けた引用を再掲。

終戦後の経済復興策として1946年12月に第1次吉田内閣が傾斜生産方式を閣議決定した。[中略]それを賄う目的で1947年1月に復興金融金庫が設立された。

復興金融金庫の融資資金は復興金融債権(以下、復金債)の発行により調達された。しかし、その債権の多くが日本銀行の引き受けるところとなった。これにより市場に供給する貨幣の量が拡大してその価値が下がることとなり、インフレーションが引き起こされた。これが復金インフレである。

出典:復金インフレ - Wikipedia

傾斜生産方式という政策がアメリカから物資援助を引き出すための政治的駆け引きだったことは以前に書いた。そして復興金融債権(復金債)も、どうやらその一環だったようだ。

高橋洋一氏は、復金債が傾斜生産方式の生産拡大に寄与しなかったことを記した後に以下のように書いている。

[復金債が] 意味 が あっ た のは、「 お金 を ばらまい た」 こと でし た。 政府 が 個別 の 産業 を ターゲット に し て お金 を ばらまい ても ほとんど 効果 は あり ませ ん が、 市場 全体 に お金 を 供給 する こと は 経済 を 活性化 さ せ ます。

お金 が 出回れ ば 多く の 人 が 商売 を し たく なり ます。 物 不足 で、 つくれ ば すぐ に 売れる 時代 です から、 企業 は どんどん 設備投資 を しよ う と し ます。

そういう 意味 では、 日銀 が 復 金 債 を 買い取っ て お金 を 市場 に 供給 し た のは 悪い 政策 では なかっ た と 思い ます。

出典:高橋 洋一. 戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点 PHP新書 (pp. 29-30). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

日本は戦前から経済大国だったので、物資と資金があれば経済は復活できる。石橋はこの問題に真正面から取り組んだ。彼の経済政策は彼が大蔵大臣を退いた後でも継承されたことは前回書いたが、これにより実質経済成長は二桁の伸びを見せた *1

この結果は石橋の政策のみのものではない。世界史の大きな流れとしては米ソ対立という大きな流れの中で日本経済復興が語られるわけだ。しかしこのチャンスを日本が適切につかむことができたのは石橋の適切な政策があってのことである(世界情勢によって起こるチャンスを適切に捕らえられないのが今の日本だ)。

日本の景気回復傾向を潰したドッジ・ライン

以上のように石橋の経済政策(それを継承した片山政権下も含む)は、一定の成功を見せていた。これに水をかけたのがドッジ・ラインと呼ばれる緊縮財政方針だ。

この時のインフレは物不足によるものなのだが片山政権とGHQ、そしてアメリカ本国は復金債を出しすぎがインフレ原因であると考えた。

このインフレの違いを当時の人々がどれだけ見極めていたかは疑問の余地がある。つまり、当時の人達は「財政均衡(≒緊縮財政)が政権が目指す方針」と思っていたからだ。これはGHQアメリカ本国もそのように思っていた(現在のマクロ経済学によればこれは誤りなのだが、日本の財務省はいまだにこれを「絶対正義」だと主張している)。

もっとも、 当時 は マクロ 経済学 が まだ ほとんど できあがっ て おら ず、 国民経済 計算 も きちんと でき て い ませ ん でし た ので、 仕方 の ない 面 も あり まし た。   現在 の マクロ 経済学 から さかのぼっ て 当時 を 見 た「 後知恵」 では あり ます が、 緊縮財政 は 間違っ た 政策 でし た。 現在 の 知見 に 基づい て 政策 を 打つ ので あれ ば、 緊縮財政 はやら なかっ た はず です。

出典:高橋 洋一. 戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点 PHP新書 (p. 47). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

そして前述のとおり、ドッジ・ラインは財政均衡政策を採用した。

ジョセフ・ドッジが提案した政策は全てダメだったわけではない。GHQが拒否していた自由経済を認めたり、1ドル360円の単一為替レートの設定は後の日本の経済成長に大きく寄与した。

しかし、この条件と引き換えに日本政府は超均衡予算を飲まされた。赤字予算から黒字予算になったわけだが、それは市場のカネが極端に少なくなることを意味する。そしてそれは当然の結果、不況を招いた。

当時のインフレは物不足によるものなのだから、石橋の経済政策方針を継続していれば設備投資により供給が需要に追いついてインフレは解消されていた(時間はかかったが)。これを途絶させたのがドッジ・ラインだ。ドッジ・ラインによる不況をドッジ不況と呼ぶ。

ドッジ・ラインに対して高い評価をしている人がいれば、現在のマクロ経済学を知らないのだと思えばいい。

朝鮮特需

ドッジ不況、それだけでなく戦後直後の不況を一気に解消させたのが朝鮮特需だ。

こうした状況を一気に変えたのが朝鮮戦争(1950~1953年)の勃発である。

米国は朝鮮半島に大量の物資を供給する必要に迫られ、好むと好まざるとにかかわらず日本は米軍の後方支援拠点となった。日本企業には空前の注文が殺到した[中略]

1951年から1953年の3年間で10億ドルを上回る発注が日本企業に出されたが、1ドル=360円で換算すると日本円で約3600億円となり、これは日本の年間輸出総額に匹敵する水準であった。また、当時のGDPは4兆円程度なので、1年あたりの発注金額はGDPの3%に相当する。単純比較はできないが、今の状況に当てはめると年間16兆円もの注文を受けた計算となる。

日本経済にとってこれが神風となり、1951年の名目GDPは前年比でなんと38%という驚異的な成長を実現し、日本経済は一気に息を吹き返した。

出典:加谷珪一/日本の高度経済成長は“偶然”という歴史的事実…朝鮮戦争なければ東南アジア並みの国

これでドッジの緊縮政策はなし崩し的に消えてしまった。

1954年12月からは神武景気と呼ばれる好景気が起こる。ここから高度経済成長期が始まる。ちなみに高度経済成長の最大の要因は、高橋洋一氏によれば円安(1ドル=360円)とのこと。



*1:田中秀臣氏/第2章緊縮財政の呪縛 - 第10節葬り去られた戦後復興

戦後直後の日本経済について③ 石橋湛山の経済政策方針

前回からの続き。

傾斜生産方式と復興金融金庫と復金インフレの問題設定

以下は通説になっている(なっていた?)説明。

終戦後の経済復興策として1946年12月に第1次吉田内閣が傾斜生産方式を閣議決定した。[中略]それを賄う目的で1947年1月に復興金融金庫が設立された。

復興金融金庫の融資資金は復興金融債権(以下、復金債)の発行により調達された。しかし、その債権の多くが日本銀行の引き受けるところとなった。これにより市場に供給する貨幣の量が拡大してその価値が下がることとなり、インフレーションが引き起こされた。これが復金インフレである。

出典:復金インフレ - Wikipedia

しかしこの説明はいろいろと問題がある。

ここでキーマンとなるのが石橋湛山だ。

石橋湛山の経済政策

石橋湛山は第1次吉田内閣の大蔵大臣だった。この内閣は1946年(昭和21年)5月22日から1947年(昭和22年)5月24日まで続く。

この 21 年 から 23 年 の ハイパーインフレ の 時代 の 過半 を、 蔵相 として 務め た のが 石橋湛山 で あっ た。 22 年 5月 に 石橋 は 公職追放 を 受け た が、 23 年度 も 基本 的 に 石橋 の 財政 路線 が 踏襲 さ れ て いる。 その ため、 当時 の 石橋 は インフレ の 責任者 として 厳しく 批判 さ れ た。

出典:田中 秀臣. 脱GHQ史観の経済学 エコノミストはいまでもマッカーサーに支配されている (PHP新書) (Kindle Locations 691-693). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

石橋は傾斜生産方式と復興金融金庫を生み出した責任者だが、これらを実際に指導した時期は短かった。それでも彼の意図とこれらの方策は継承された。だから批判(もしくは評価)されるべきは彼で間違いない。

吉田第一次内閣の直前の経済状況

石橋が大蔵大臣になる前、つまり吉田第一次内閣の直前もインフレの状態だった。

すでに書いたような物不足によるインフレに加えて、戦後処理の膨大な財政支出が重なってさらにインフレが加速した。

政府は価格統制をして対応しようとしたが、これはヤミ市を発生させるだけで何の成果も生み出さなかった。その他の政策も失敗し続けたまま、吉田内閣に政権を譲った。

石橋大蔵大臣の経済政策の方針

吉田第一次内閣となり、石橋大蔵大臣が誕生する。

石橋はまず初めに、闇市場へのインセンティブをつくっている価格統制をより柔軟に運用することから始めます。具体的には、1946年6月以降、公定価格は毎月改定されるようになりました。

また、闇市価格より著しく安く設定されていた公定価格を実勢価格に調整するために支給されていた価格調整補給金が増額されます。

出典:上念司/経済で読み解く日本史 大正・昭和時代/飛鳥新社/2019/p210

石橋が価格統制を撤廃しなかった理由は、そうすることをGHQが拒否し続けていたからだ。実のところ、前政権でも価格統制政策は経済正常化どころか悪化させることに気づいていたのだが、政策変更をGHQに拒否されていた。

石橋はこの状況に対応するために、「価格統制をより柔軟に運用」した。つまり「骨抜き」にすることを企図したということだ。GHQが日本の弱体化を気としているのだから、狐と狸の化かし合いに勝たなければならない。

次に1946年12月に傾斜生産方式が閣議決定され、翌年1月に復興金融金庫が設立される。傾斜生産方式が「化かし合い」のための方便であったことはすでに書いた。そして復興金融金庫もおそらくは方便だった。

復興金融金庫 の よう な「 政策金融」 が、 特定 の 産業 の 振興 や 経済 発展 の ため には 不可欠 だっ た、 と 主張 する 人 も い ます。 しかし、 今、 述べ た よう に、「 お金 を ばらまい た」 こと は 効果 が あっ た ものの、 特定 の 産業 を 伸ばし、 成功 さ せる という 政策金融 の 本来 の 目的 に関して は、 戦後 の 復興金融金庫 は 実際 には、 それほど 役に立ち ませ ん でし た。

出典:高橋 洋一. 戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点 PHP新書 (p. 31). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

おそらくは、石橋の意図は、名目的に「傾斜生産方式を制作するために復興金融金庫を設立した」ということにして、その本当の目的は「 お金 を ばらまい た」 こと の方にあった。

傾斜生産方式のおかげで物資が国内に流入するようになり、次は市場に資金を流入しなければならなかった。カネがなければ商売も設備投資もできない。逆を言えば、カネさえあればそれらが復活し、生産力(供給力)が増えて、最終的にインフレが安定する方向に向かった(ただし、物資、資金ともに十分でなかったので、経済復興も十分とはいえなかった。

このような石橋の方針は功を奏した。この方針は石橋が(内閣交代のために)大臣から退いた後も継承された)。

GHQの対応への疑問

しかし、このような方針をなぜGHQが許したのかが疑問が残る(GHQは日本を弱体化しようとしていた)。その理由として考えられるのは2つ。

  • GHQが経済政策についての知識が足りてなかった。
  • 米ソ対立が表面化する前であったが、この時期はすでに流れが出来つつあった。

1つ目。当時のGHQの中で権力を振るっていたのは民政局(Government Section、通称:GS)だった。倉山満氏によれば、彼らはニューディーラーと呼ばれる社会主義者だったが、「本国では相手にされないオチコボレたち」だった *1。 倉山氏によれば、当時の大蔵省主計局長だった福田赳夫によってG2を手玉にとった。(余談だが、現在の日本の国会議員たちも財務省に手玉に取られている)

2つ目。いわゆる「逆コース」。この話はすでに書いた。ただし、民政局を手玉にとった福田赳夫は民政局によってパージされたことを考えれば、くだんの方針を許可した理由が「逆コース」というのは間違っていると判断しなければならない。

よって、民政局がポンコツだったので、日本経済はなんとか食いつなげるレベルを保つことが出来たというべきだろう。

経済回復の始まり

1947年5月、第一次吉田内閣の総辞職により石橋は大蔵大臣を辞する。しかし次の政権である片山内閣は石橋の経済対策の方針を継承した。和田みき子氏によれば、この継承を促したのはGHQだった *2

片山内閣期《昭和22年(1947年)5月-昭和23年(1948年)3月》から経済回復が始まる。

1948 年の生産の回復はほかに重要な要因がふたつあった。ひとつは企業にとっての深刻な不確定要因であった「集中排除、独占禁止、賠償撤去などの諸問題について緩和の方針が示され・・・これら企業の生産意欲を喚起」(注6)したことであった。それにもまして重要であったのは、1947 年8 月から制限つきながら民間貿易の再開が許されたことと、1948年9 月からイロア(経済復興援助資金)によって原材料輸入に対する援助が始まったことである。

(注6)経済企画庁(1952)『昭和27 年度年次経済報告』6 頁。

出典:《PDF》大来洋一/傾斜生産方式は成功だったのか

上の要因の中では、「イロア」が特に重要だった。「イロア」に比べれば、他の要因は大して重要ではなかった。

「イロア」は通常「エロア資金」または「エロア援助」と呼ばれる。

エロア資金(エロアしきん)とは、占領地域経済復興資金 (EROA Fund:Economic Rehabilitation in Occupied Area Fund) のことである。

救済的政策を付与されたガリオア資金と共に、第二次世界大戦終結後、アメリカ合衆国政府の軍事予算より拠出された。経済復興を目的としたため、石炭や鉄鉱石、工業機械など生産物資の供給のために充当された。

出典:エロア資金 - Wikipedia

ガリオア資金はエロア資金より前の援助で、食料などの生活物資を援助するものだったが、経済を安定させる最低限度には全く届いてはいなかった。アメリカが日本弱体化を狙っていたので当然だ。

そして、上記の引用の要因はアメリカの方針転換(逆コース)を意味する。日本の復興はこの方針転換によって始まったのだ。

この大きな流れからすれば、石橋の経済政策方針は相対的に小さな評価になってしまう。そして石橋が設立した復興金融金庫の復金債による過度のインフレが石橋の評価をさらに下げている。

次回は復興金融金庫について書く。