歴史の世界

ドイツ近世史③ 三十年戦争以前の略史 後編

ハプスブルク家の全盛期

前回のマクシミリアン1世の婚姻政策によってスペインその他の領域もハプスブルク家が所領することになった。フランスの立場からすれば東西両側から挟まれ、さらに南北(北イタリアとネーデルラント)にもハプスブルク家の所領があるので、「包囲されている」という恐怖から逃れられない。この恐怖がフランス絶対王政に何らかのモチベーションを与えたのは想像に難くない。

マクシミリアン1世の次の皇帝はカール5世(在位:1519年 - 1556年)でスペイン王も勤めたが、手に余ったらしく次の代からはスペイン王ドイツ王を別にすることにした(スペイン=ハプスブルク家オーストリアハプスブルク家の分裂)。

神聖ローマ皇帝はフェルディナント1世(カールの弟。在位:1503年 - 1564年)、スペイン王フェリペ2世 (カールの息子。在位:1556年 - 1598年)。フェリペの方は大航海時代を代表する「太陽王」と呼ばれたスペイン最盛期の王だ。

大航海時代宗教戦争の詳細は別のところで書いたので省略)

ドイツ近世史② 三十年戦争以前の略史 前編

ドイツ近世史については三十年戦争後をメインに書くことにする。この記事ではそれ以前の歴史をかいつまんで書いていく。

帝国を変えた男、マクシミリアン1世

マクシミリアン1世はオーストリア大公ハプスブルク家6人目のローマ王(ドイツ王、在位:1486年 - 1493年)[注釈 1]、そして1508年からは神聖ローマ帝国史上初めてローマで戴冠式を挙げることなく選ばれしローマ皇帝を名乗り以後のローマ王もこれに倣い皇帝を称した[注釈 2]。また諸侯の要請を受け帝国を領邦国家連邦として法制化し、帝国の範囲を「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という国号でドイツに限定した[注釈 3]。治世を通して皇帝と帝国の権威は縮小したが、一方で一諸侯としては自身と子・孫の結婚政策で成功をおさめてハプスブルク家の隆盛の基礎を築きマクシミリアン大帝と称される。[中略]ハプスブルク家ならではの多民族国家の姿が、マクシミリアン1世の時代に生み出されていった。

[注釈 1]ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時のドイツはまだ国家・地域・民族以前の文化集団に過ぎない。またイタリアへの宗主権を備える。
[注釈 2]マクシミリアン1世以前は古代ローマ帝国内でローマ人と混交したゲルマン諸国の後継国家群を漠然と神聖ローマ帝国と呼び、皇帝は古代帝国の名残であるローマ教会の教皇に認可され戴冠していた。「神聖ローマ皇帝」は歴史学的用語で実際の称号ではない。
[注釈 3]帝国の制度はドイツに限定されたが、ボヘミア王は皇帝が兼任する選帝侯であり続けたし、北イタリア諸邦も帝国イタリアと呼ばれ司法面で皇帝の宗主権を仰いだ。

出典:マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝) - Wikipedia)

上記で分かる通り、マクシミリアン1世の治世は神聖ローマ帝国の歴史の大きな画期の一つだった。

「婚姻政策」

マクシミリアン1世の件で最も有名なのが「婚姻政策」だ。

マクシミリアン1世が展開した「婚姻政策」によって、現在の国名で言えばオーストリア、スペイン、ベルギー、オランダ、イタリア南部、チェコハンガリーに及ぶ、ハプスブルク帝国が出現することとなった。

出典:マクシミリアン1世<世界史の窓

詳細は書かないが、「婚姻政策」によってヨーロッパじゅうの地域をハプスブルク家は領有することとなる。これを「ハプスブルク帝国」と呼ぶこともあるが、実態は「神聖ローマ帝国ハプスブルク家の所領」であり「本物の国家」ではないことに注意(念の為)。

スペイン・ハプスブルク家オーストリアハプスブルク家に挟まれたフランスは両家に恐怖を怯えながら敵視して戦い続けることになるのだが、その原因を作ったのはマクシミリアン1世だ。

ドイツ国民の神聖ローマ帝国

マクシミリアン1世……は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」の国名を公文書で用いた。神聖ローマ帝国はイタリアに宗主権を主張しつつも、版図がもはやドイツ語圏及びその周辺に限られ、世界帝国建設という目的の放棄も明確となった。こうして中世は終わりを迎えた。

出典:神聖ローマ帝国#ハプスブルク家の伸長 - Wikipedia

神聖ローマ帝国ハプスブルク家の所領を明確に区別した。これはドイツのハプスブルク家以外の帝国等族(政治参画者たち。前回の記事参照)の要求だった。帝国等族たちの要求が以下の帝国改造につながる。

帝国改造

話が前後するが、1495年に開催されたヴォルムス帝国議会の話。ここで帝国改造が議論され決定された。

マクシミリアン1世はフランスとの戦争を通じ、消極的ながらもドイツを近世国家へ移行させた。父帝死去直後の1494年、35歳の王はイタリア半島に侵攻していたフランス国王 シャルル8世との戦争状態に入り、イタリア戦争が始まった。翌1495年、王は諸侯に軍資金を求めるヴォルムス帝国議会を開催し、さらに全ドイツ国民から税を徴収する「一般帝国税」の導入と兵士の提供を求めた。これに対し、マインツ大司教を中心とした諸侯代表たちは諸改革案を提案。当時、ドイツには新体制を構築しようとする帝国改造が求められており、王は妥協して同意した。なお帝国改造とは言うものの、改革の対象はドイツ地域のみであり、イタリアは既に帝国行政の範囲外であった。

帝国改造の根本は治安維持であり、決闘の禁止などがその例である。古代よりゲルマン貴族には、決闘による報復と権利回復(フェーデ)が広く認められていたが、略奪目的の言いがかりも多かった。期間限定でフェーデを禁止する「平和令」はたびたび出されていたが、帝国改造ではこれを徹底したのである。帝国改造はフェーデを完全に禁止する永久ラント平和令、フェーデに代わって封臣間の政治的争いを解決する帝国最高法院の設置、及び帝国最高法院の選挙区である帝国クライスの設置から成る。帝国クライスは徐々にドイツの自立的な地方行政区分へと変化し、治安維持の実務・徴税・帝国軍編成の管理運営に加え、17世紀には国防をも担っていく。なお、帝国クライスは同時に設置された中央政府「帝国統治院」の選挙区でもあったが、早くも1502年に統治院は廃止されている。また、帝国最高法院には皇帝(国王)の権力が殆ど及ばない仕組みだったため、皇帝直轄の帝国宮内法院が1497年に設置され、二つの最高裁判所が併存することとなった。

出典:同上

こうして法律や国家体制が整えられたわけだが、16世紀から宗教改革がヨーロッパ全体を巻き込む戦争の場となり、神聖ローマ帝国三十年戦争における一番の被害者となる。

ドイツ近世史① 神聖ローマ帝国を知るために必要な用語

「ドイツ近世史」については三十年戦争後をメインに書くことにする。この記事ではそれ以前のポイントになる知識をかいつまんで書いていく。

選帝侯

「選帝侯」とは神聖ローマ帝国の皇帝になるための選挙権を持つ7つの有力諸侯。1356年にカール4世が発した金印勅書によって決定されたことが最初(選帝侯<世界史の窓 を参照)。

被選挙権ではなく選挙権であることに注意。

帝国等族と帝国議会

まずは等族と等族国家という用語の説明の引用から。

ヨーロッパ中世末期および近世初期に典型的な,特権的上層階級の利益の擁護を目的とする特権国家。等族とは,封建秩序のもとで種々の特権を享受していた諸身分,すなわち貴族,聖職者,都市住民 (市民) が階層的に分化しつつも,君主に対する関係においては一つの一体性をもつ集合体をいう。等族は租税承認権をはじめ,財政事項や軍事,外交,宗教問題についての同意権をもつ等族会議をもち,さらに君主から独立した独自の財政,行政,軍隊を保有したので,その最盛期には君主と相拮抗し,1国家内に2つの国家が相対立して存在するがごとき観を呈した。しかし,絶対主義的統治体制の確立とともに,等族の影響力は次第に消滅していった。

出典:等族国家(とうぞくこっか)/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - コトバンク

「等族」とは貴族、聖職者、都市住民 (市民) などの一定程度の特権・身分を持った人たちの総称(または上位カテゴリ)。

「等族国家」とは彼らが議会に参加して政治に参画する制度を持つ国家のことを指す。「等族国家」は「身分制国家」と言い換えることができる。ヨーロッパ近世で良く出てくる「三部会」は典型的な等族議会。

そして神聖ローマ帝国の「帝国等族」とは神聖ローマ帝国の中の等族だという意味だ。「帝国等族」は(選帝侯を含む)諸侯、高位聖職者、帝国自由都市(の代表者?)などが含まれる。

最後に、「帝国議会」は等族議会のこと。三部会とだいたい同じ。

帝国裁判所

帝国の司法機関としては皇帝が主催する宮廷裁判所(Hofgericht)が存在していたが、15世紀の帝国改造運動の一環として司法改革が求められた。フリードリヒ3世は司法は皇帝のレガリア(大権)であるとして改革に抵抗していたが、マクシミリアン1世は諸侯、等族の要求に妥協をし、1495年に永久ラント平和令を施行させる機関として専門の法律家による帝国最高法院(Reichskammergericht)が開設された。だが、マクシミリアン1世はこれに対抗すべく国王/皇帝の裁判所である帝国宮内法院(Reichshofrat)をウィーンに開設しており、帝国には2つの最高法廷が存在することになった。[中略]

両裁判所は通常の刑事、民事訴訟は扱わない上訴の最上級法廷である。帝国裁判所は諸侯間や諸侯と帝国等族との係争を私的な武力行使(フェーデ)ではなく法的手続きによって解決することを目的としており、制度は1670年代頃に定着して帝国の平和維持や宗教対立の緩和に一定の役割を果たしている。

出典:神聖ローマ帝国#帝国裁判所 - Wikipedia

帝国の最高裁判所。皇帝の大権を制限するようために設けられたと言っていいだろう。イングランドでも同じようなことがあった。ここらへんの顛末は次回に書く。

帝国クライス

「クライス」は領域とか区画のこと。ドイツ語Kreisは円(サークル)という意味があるので、そこから意味が派生したのだろう。

帝国クライス」は帝国内の区画のこと。

1500年に6管区の帝国クライスが設置され、更に4管区が1512年に設置されている。クライスは帝国最高法院陪席判事の選出、平和維持と防衛の分担調整、貨幣制度の監督、そして公共平和の維持を目的とした帝国内諸邦のほとんどを含む地域行政単位である。[中略]全ての領域が帝国クライスに含まれている訳ではなく、ボヘミア王冠領・帝国騎士領や帝国内のドイツ騎士団領地などの小邦、そして・スイス・北イタリアの帝国諸侯は除外されている。

出典:神聖ローマ帝国#帝国クライス - Wikipedia

帝国クライスの重要な役割は地域内の治安維持、つまり一揆や暴徒化した傭兵、諸侯の侵略行為などに対応する単位。大規模な平和破壊行為に対しては複数のクライスが共同で当たることもあった。

もともとは帝国最高法院陪席判事の選出のための区画だったらしいが、他の目的が後の時代に付け加わった。

帝国クライスの治安維持活動により、弱小等族単独では対応が困難であった大規模な平和破壊活動に対処することが可能となり、徒(いたずら)な戦禍の拡大を防げるようになった。また、クライス会議を通じて地域行政の調整を行うことで、帝国の連邦的性格を決定付けた。

出典:帝国クライス - Wikipedia

近世イングランド史⑨ 「大英帝国」の始まり

大英帝国」の「帝国」は「各地に広大な植民地を持つ」という意味での帝国。ローマ帝国のそれもそういう意味。

ちなみに「神聖ローマ帝国」は古代ローマ帝国を継承しているという意味でそう呼ばれるが、18世紀フランスの哲学者ヴォルテールが,「神聖でも,ローマ的でも,帝国でもない」と評したことは有名、だそうだ。 *1

大ピットの台頭。

イギリス史において「ウィリアム・ピット」は2人いて、大ピットと小ピットと区別される。小ピットはナポレオン戦争の時にでてくるが、ここで登場するのは大ピットのほう。

1708年に大地主の庶民院議員の息子として生まれる。オックスフォード大学トリニティ・カレッジやオランダ・ユトレヒト大学で学んだ後、1735年に庶民院議員選挙に当選して議会入りを果たした。

ホイッグ党に所属したが、当時はホイッグ党優越の時代であり、トーリー党が脅威でなかったため、ホイッグ党内で党派対立があり、ピットもロバート・ウォルポール首相の「軟弱外交」を批判する若手タカ派議員として活躍。やがて庶民院で大きな影響力を持つようになった。1746年にはヘンリー・ペラム首相の求めに応じて、陸軍支払長官に就任し、続く第1次ニューカッスル公爵内閣でも留任したが、処遇に不満を抱き、政権内から政権批判を行うようになったため、1755年に罷免された。

1756年に七年戦争が勃発し、その戦争指導の失敗でニューカッスル公爵内閣が総辞職すると、代わってデヴォンシャー公爵を名目上の首相(第一大蔵卿)、ピットを事実上の首相(南部担当国務大臣)とするデヴォンシャー公爵内閣が成立した。

出典:ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵) - Wikipedia)

名誉革命あたりからイングランド(→イギリス)は着々と国家としての土台を築いてきたが、大英帝国を完成させた男は大ピットである。

歯に衣着せぬ論調で周りとも王とも衝突しては辞職することを繰り返したが、そのたびに呼び出されて要職に就いた。

七年戦争大英帝国誕生のきっかけとなった戦争

七年戦争は、1756年から1763年まで行われた戦争[中略]。

ハプスブルク家オーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因であったが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスとオーストリアとロシア、スペイン、スウェーデン)に分かれて……当時の欧州列強が全て参戦しており、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。

出典:七年戦争 - Wikipedia

この記事では、イギリスに関する部分のみ書くことにする。

この戦争を指導したのが大ピットだ。ピットは愛国者として有権者に大人気で、彼の演説で熱狂して喜んで戦費となる税金を支払った。

ピットの戦略は明確です。海洋重視です。……新大陸とインドこそ、イギリスが大英帝国として飛躍する天王山に定めたのです。 [中略]旧大陸への方針は明確でした。「カネだけ出して血は流さない」介入です。ヨーロッパで墺仏露の三大国そのほか連合軍を相手に孤軍奮闘するフリードリッヒ大王には、申し訳程度の陸軍を援軍として送ります。その代わり、戦争継続が可能なだけの大量の資金援助を決断します。

出典:倉山 満. 嘘だらけの日英近現代史 (SPA!BOOKS) (p.87). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.

イギリスはヨーロッパの戦争にはプロイセンを金銭的に支援しただけでほとんど出兵せず、専ら植民地でのフランスのと戦いである北米大陸でのフレンチ=インディアン戦争、インドでのプラッシーの戦いと第三次カーナティック戦争に専念した。イギリスとフランス・スペイン間では同じく1763年2月10日にパリ条約を締結して講和が成立し、イギリスはフランスから広大な植民地を獲得した。

出典:七年戦争<世界史の窓

これでフランスの北米とインドの植民地をほぼ奪うことに成功し、大英帝国と呼ばれるようになった。

このあとに、産業革命アメリカ独立戦争の時代になるのだが、そこらへんは近代史のほうに回そう。近世史はここでおわり。


近世イングランド史⑧ 政党政治家が政治をする時代

前回からの続き。

王朝交代

女王アンが1714年に死去。子供がいなかったため、王位継承法に適うステュアート家の血を引きプロテスタントである唯一の人物ソフィア *1、 の息子が王として迎え入れられた。これがジョージ1世、ハノーヴァー朝の創始である。

ソフィアは先王アンとかなり遠縁で、ドイツ(神聖ローマ帝国)のハノーファー選帝侯に嫁いだ。だからジョージ1世はイギリス王になる前はドイツ人だった(名前はゲオルグ)。

議院内閣制と政党政治の確立

議院内閣制と政党政治の確立
 1721年からホイッグ党ウォルポールは第一大蔵卿として内閣をとりしきり、実質的な首相として政治に当たった。このときジョージ1世は英語をよく解さず王位を兼ねるドイツのハノーヴァーにたびたびでかけていたので、閣議には出席せずウォルポールに任せる状態となっていた。ウォルポールは20年にわたり首相の在にあったが、1742年の選挙でホイッグ党がトーリ党に敗れると、議会での信任はえられないとして内閣を総辞職した。これが、議会の多数派政党が内閣を組織し、少数になれば辞任して議会に対して責任を持つという責任内閣制(議院内閣制)が成立した。また議会政治は政党が選挙によって多数党の位置を競い、多数党が内閣を組織するという政党政治の枠組みが出来上がったことでトーリ党とホィッグ党が近代的な政党へと脱皮していった。

出典:イギリス<世界史の窓

この頃から「議会で決定された法律を王が拒否することは出来ない」ということが"決まり"された(これを憲法習律というらしい)。

ウォルポールは評判の良くない政治家だったが、国王の制止を振り切って選挙の結果(不信任)を受け入れたことによって「議院内閣制の祖」として歴史に名を残すことになった。 *2

イングランド史における17世紀まで続いた王と議会の政争は18世紀に入って薄れていき、立憲君主国の体制が確立された。

ウォルポールの平和」

海外の権益の多くを獲得し、議会政治も確立しつつあったイギリス。これからヨーロッパやアメリカ・アジアへと戦争をして勢力拡大していく...と思いきや、ウォルポールは平和外交を行なった。ウォルポール自身は戦争嫌いで血を見るのも戦争にカネを使うのも嫌いだった。

落ち目のスペインと戦争が起こった時も(1727年英西戦争)、それまでは外交を外務大臣に任せきりだったウォルポールが外交の場に出てきて講和条約を結んでしまった。

ヨーロッパ大陸で起こっていたポーランド継承戦争(1733)などに干渉するなどもってのほかだった。当時のヨーロッパの"勢力均衡の掟"からはかけ離れていた行動だったので、ヨーロッパにおけるイギリスのプレゼンスが低下した。

そしてウォルポール政権の終盤に、転機となる「ジェンキンスの耳戦争」(1739)と呼ばれる戦争が起こる。

イギリス南海会社はアシエントと称される貿易契約によって部分的にスペイン領西インド諸島と貿易を許されてはいた。しかし、本来は上納すべき貿易利潤をスペインに申告せず、また密貿易をも行っているとして、スペイン側は沿岸警備隊を使って強攻策すなわち拿捕を始めた。イギリス商人がユトレヒト条約の規定に違反したためスペインが捜査権を行使してイギリス船舶と積荷を没収したのである。船舶の拿捕の件数は当初1年あたり数件から10件程度とわずかであったが、イギリス国内では次第にスペインに対する反感が強まっていった。そして1738年、レベッカ号船長ロバート・ジェンキンス大尉が、拿捕されたときにスペイン人に切り落とされたという自身の片耳を庶民院に証拠として提出した。すると、イギリスの世論はスペイン報復論に沸き立った。

対外宥和政策を固持することによって財政的安定をはかっていたウォルポールは世論に押し切られる形で1739年10月、スペインに宣戦布告し、ここに「ウォルポールの平和」は終焉を迎えた。

出典:ジェンキンスの耳の戦争 - Wikipedia

アヘン戦争のような「イギリスが悪いのに逆ギレして起こした戦争」。

単なる喧嘩で切られた耳を持ってきてアジテーションしただけだと、当時から疑われていたので *3ウォルポールはやる気ゼロだったが、この戦争がオーストリア継承戦争(1740-1748)というヨーロッパ対戦に巻き込まれる入口になってしまった。

それでもウォルポールは直接的役割を取らず直接軍隊は送らなかったが、皮肉なことに、戦費のための増税が直接的なきっかけとなり退陣に追い込まれた(極力戦争に巻き込まれないようにした行動を弱腰と批判されていたのに!)。

ちなみに、オーストリア継承戦争ではイギリスはオーストリア神聖ローマ帝国)と同盟したが、ウォルポール政権退陣後も中途半端な援助・参戦しかせず、オーストラリアの不利な形の講和を結んで戦争は終わった。


*1:家系図での確認はステュアート朝 - Wikipediaを参照のこと

*2:倉山 満. 嘘だらけの日英近現代史 (SPA!BOOKS) (p.80). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.

*3:倉山 満. 嘘だらけの日英近現代史 (SPA!BOOKS) (p.79). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.

近世イングランド史⑦ イングランド王国から大ブリテン王国へ

前回からの続き。

メシュエン条約

1703年イギリス代表メシュエンJohn Methuenとポルトガル代表アレグレテ侯爵との間に調印された通商条約。条約はわずか3条からなり,ポルトガルが奢侈(しやし)禁止令を解いてイギリス毛織物製品の輸入を認める代償として,イギリスはポルトガルのブドウ酒をフランス産よりも1/3安い関税で輸入するというもの。この条約は,ポルトガル産ブドウ酒の輸出による対英貿易赤字の是正,イギリス船に対するポルトガルからの往路の積荷確保を目的としていた。通説では,この条約によってポルトガルはイギリス毛織物製品の独占市場となり,ポルトガル工業の衰退,対英従属の原因となったとされているが,この条約はむしろ17世紀後半から深まった対英従属の結果として締結されたものである。たしかにこの条約によって毛織物マニュファクチュアは決定的な影響を受けたが,工業全体の発展を遅らせたのは,18世紀前半大量にブラジルの金が流入して外国製品の輸入が容易になり,17世紀末に進められた工業化政策が放棄されたためである。

出典:メシュエン条約/株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」 - コトバンク

上記のように栄華を極めたポルトガル帝国は植民地もろとも(事実上の)イングランドの属国になった。

1707年合同法と大ブリテン王国の誕生

イングランド王国スコットランド王国は、17世紀のほとんどの時期において同君連合を組んでいたが、主に宗教の相違のために紛争が頻発していた。政治力で圧倒的優位なイングランドスコットランドを吸収合併することを何度も試みたが失敗してきた。

だが、18世紀初頭になるとスコットランドイングランドは政治的にも経済的にも力の差が開くばかりなのにもかかわらず、険悪な状況が続いたが、外国扱いにして貿易を規制するという恫喝を加えた *1

そして経済的にも行き詰まっていたスコットランドがついに折れて、両議会が統合することが決定された(1707年合同法)。もちろん、事実上のスコットランド併合である。

これによりブリテン島は一つの国家となり、名称はグレート・ブリテン王国(大ブリテン王国、Kingdom of Great Britain)となった。

アイルランドアイルランド王国として存続していたが、歴代のイングランド王がずっとアイルランド王を兼任してしていた。クロムウェル護国卿時代から植民地化が進んでいたといわれるが、正式に大ブリテン王国と併合したのは1801年のことだ。

ユトレヒト条約

1701年に始まったスペイン継承戦争は1713年にようやく終結する。終結するための講和条約ユトレヒト条約

フランスvs「フランス包囲網」の戦いだったでウェストファリア体制からの「勢力均衡」が働いた戦争ではあったが、フランスの勢力拡大が頓挫された代わりに(イングランド改め)グレートブリテン王国がヨーロッパ覇権国となった。

ユトレヒト条約の要点
その主な内容は次の通り。

  1. フランスとスペインが永遠に合同しない事を条件にフェリペ5世のスペイン王位継承を承認
  2. イギリスはスペインからジブラルタル、ミノルカ島を獲得、フランスからニューフアンドランド、アカディア(ノヴァ=スコシア)、ハドソン湾地方を獲得
  3. オランダはスペイン領ネーデルラントの数市を獲得
  4. プロイセン公国は王号を認められる
  5. サヴォイアシチリア王国を獲得(後にサルデーニャ島と交換、サルデーニャ王国となる)

ユトレヒト条約の狙いと意義
狙い フランス(ブルボン朝)の力を抑え、その他の諸国イギリス・オランダ・プロイセンオーストリアスウェーデンなとの勢力均衡を維持することにあった。これ以降の国際関係においてはこの勢力均衡の維持が図られ、フランス革命及びナポレオンの登場によってこの均衡は破られるまで続くこととなる。
歴史的意義 この条約の歴史的意義はイギリスが海外領土を拡大し、イギリス帝国繁栄の第1歩を築いたところにある。また、領土獲得にもまして歴史的意味が大きかったのは、イギリスが付帯条項としてフランス・スペインから、アフリカの黒人奴隷を新大陸のスペイン領に運ぶアシエント(奴隷供給契約)を譲渡され、かつ毎年五〇〇トンの船一隻を、貿易のためスペイン領アメリカに派遣する許可を取ったことであった。この結果、スペインのアメリカ大陸植民地支配は大きく後退することとなった。

出典:ユトレヒト条約<世界史の窓

グレートブリテン王国はメシュエン条約でポルトガルを実質的に属国にし、ユトレヒト条約でスペインからスペインの権益の多くを獲得した。つまりは大航海時代の遺産の多くを18世紀初頭にグレートブリテン王国が我が物としたわけだ。


近世イングランド史⑥ 名誉革命

前回からの続き。

名誉革命

前回の最後に引用した通り、イングランドカトリック国にしようとするジェームズ2世に対して議会は我慢の限界が訪れた。そしてクーデタを画策する。

我慢の限界を超えた貴族たち[議会]は、ジェームズ二世の娘のメアリとその夫のオラニエ公ウィレム三世と連絡を取り合います。ウィレム三世はジェームズの甥でもあります。

そして一六八八年、ウィレムは五万の大軍を率いてブリテン島に上陸します。[中略]

ジェームズ二世の逃亡後、議会はメアリの即位を望みますが、ウィレム三世は連れてきた陸軍で脅しながら王位を要求します。結果、夫婦での共同統治となりました。

出典:倉山 満. 嘘だらけの日英近現代史 (SPA!BOOKS) (pp.59-60). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.

クーデタは成功して名誉革命と呼ばれるようになる。イギリス史においては、メアリはメアリ2世、オラニエ公ウィレム3世はウィリアム3世と呼ばれる。メアリはクーデタ以前より英国教会信者だった(オランダに嫁いだのに?)ので改宗する必要はなかった(ウィリアムのことは知らない)。

実際には小規模の戦闘がおこり無血だったわけではないが、当時まだ記憶に新しいイングランド内戦に比べると無血に等しいということで無血革命とも呼ばれている。

出典:名誉革命 - Wikipedia

何が「名誉」かと思ったら「清教徒革命に比べたら諸規模な戦闘でクーデタが成功したから」ということらしい。

しかしスコットランドアイルランドで起こったカトリックの反乱の鎮圧では多くの血が流れた。

権利章典

一六八九年に権利章典が制定されます。ここでは、マグナ・カルタや権利の請願以来の権利の確認のほか、議会が毎年開かれるようになります。「議会が行事ではなく、制度になった」と言われる所以です。

出典:倉山 満. 嘘だらけの日英近現代史 (SPA!BOOKS) (p.60). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.

権利章典はクーデタの正当化のために書かれたものだが、後世にとっては上の引用の中身が最も重要だ。

ファルツ戦争

ファルツ戦争
ルイ14世によって企てられた一連の侵略戦争フランドル戦争オランダ戦争スペイン継承戦争)のひとつで,1688年から97年にかけて行われた。アウグスブルク同盟戦争とも呼ばれる。神聖ローマ帝国の公領であり,アルザスの北方に位置するファルツ公家に男子相続者が絶えると,ルイ14世は,弟オルレアン公の妃が同家の出身であることを口実として領土を要求,ファルツに出兵した。折しもイギリス,オランダ両国は,イギリス名誉革命によって国王に迎えられたウィリアム3世ルイ14世の宿敵で,オランダ共和国長官を兼ねる)の正統性をめぐり,先王ジェームズ2世を支持するルイ14世と対立していたから,ドイツ皇帝やフランスの勢力拡大を嫌うスペイン,スウェーデンなどのヨーロッパ諸国と結び,対仏大同盟を結成した。戦闘はドイツ,北イタリア,ネーデルラントアイルランドで展開され,また同時期にフランスとイギリスは,東インドと北アメリカで植民地獲得をめぐって激しい戦いを繰り広げた(北アメリカでの戦争はウィリアム王戦争と呼ばれる)。フランスは当初優勢であったが,同盟国側の包囲陣の前に次第に劣勢となり,97年ライスワイクの和約を結んだ。

出典:ファルツ戦争(ファルツせんそう)/株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典 - コトバンク

この戦争は第二次英仏百年戦争の始まりとされているが、これについては別の機会に。

ここで注目したいのはウェストファリア体制の下、勢力均衡が働いたことだ。

このころの戦争は、王様がカネで雇った傭兵にやらせるゲームであり、外交の手段でした。一六四八年ウェストファリア条約で終わった三十年戦争でもって、ヨーロッパの国々は宗教戦争には懲り懲りしていたのです。土地やカネなどの利益をめぐって争い合うだけであり、相手の全存在を潰すまでやるような宗教戦争とは違います。だから、それぞれが取るモノを取ったら、適当なところで引き上げるのが常です。

出典:倉山 満. 嘘だらけの日英近現代史 (SPA!BOOKS) (p.65). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.

凄惨な戦闘がなかったわけではないが、宗教戦争の頃よりは数段マシにはなった。「正義を完遂するまでは戦争は止めてはならない」という戦争観はすでに終わり、「キリの良いところで勝敗を決めて止める」という戦争観がヨーロッパ各国に受け入れられている。

イングランド銀行設立

イングランド銀行が設立されたのも共同統治の時代の1694年。のちに大英帝国中央銀行になるのだが、設立当初は国債を引き受ける目的の商業銀行だった。

対フランス戦争の巨額の戦費をまかなうため、……[政府は]民間から120万ポンドを公募して資本金として1694年7月27日にイングランド銀行を設立した。

その設立にあたっては金融業の先進国であるウィリアムの母国オランダの資本の導入された。この銀行は、公募金を政府に貸し、それと同額の銀行券を発行する特権が与えられ、預金、貸し付け、商業手形割引、為替などの金融業務を開始した。この変革は「財政革命」とも言われ、このような近代的な国債制度・金融制度によってイギリス財政は安定し、さらに18世紀のイギリスの産業革命期の企業の融資によって経済発展の基盤となった。また、18世紀のフランスとの激しい植民地戦争をイギリスが勝つ抜くことが出来たのは、このような財政と経済の安定が寄与するところが大きかった。

出典:イングランド銀行<世界史の窓

秋田茂『イギリス帝国盛衰史』 *1 によれば、それまでは国債の多くはアムステルダム銀行が引き受けていた。英蘭の同君連合を活かした取引だ。設立時も、引用の通り、オランダが関与した(おらんだは別個にイングランド国債を引き受け続けた)。また、この頃は「原初的なナショナリズム」が国際紛争の中でヨーロッパ中に醸成され始めた時期であり、「オランダに頼り過ぎではないか?」というような考えが働いたのかもしれない。

さらに秋田氏によれば、「これ以降、ロンドン・シティが金融、及び国家の財政に直結していく」としている。ちなみに、紙幣発行はイングランド銀行以外の銀行でも発行されて流通していた。

王位継承法

ウィリアム3世は、メアリとの間で子供がなかったので、その死後、名誉革命で追放したカトリックのジェームズ2世の子孫が王位を継承するおそれがあった。そこで新たに王位継承の順位を定めておく必要が生じ、1701年6月12日、王位継承法を制定した。そこで定められた原則は、イギリス国王はイギリス国教会に属すべきこと、カトリック教徒及びカトリック教徒と結婚したものは国王になれないこととされた。具体的にはメアリの妹のアンを指名し、アンの死後はスチュアート家のジェームズ1世の孫娘であるハノーヴァー(ハノーファー)選帝侯ソフィア(ゾフィー)およびその子孫とする、と規定した。実際、ウィリアム3世の死後は、アン女王が継承し、その死後はソフィアの息子がジョージ1世として迎えられる(ハノーヴァー朝のはじまり)。

出典:イギリス<世界史の窓

これにより2つのクーデタ(革命)の尻拭きができた。以前のような王位継承問題による紛争はなくなった。

2人の王の死と評価

メアリ2世は天然痘に罹り33歳の若さで1694年に亡くなる。その後はウィリアム3世の単独統治となった。2人の間に子がなかったため、王位継承者はメアリーの妹アンに決まっていた。ウィリアム3世は1702年に、落馬が原因で亡くなる。

メアリ2世についてはよく分からない。内政は議会が行ない、対外戦争についてはウィリアム3世が行なった。

ウィリアム3世は、内政には口出しできなかったが、対外(対フランス)戦争においては率先して関わった。上記のファルツ戦争でも彼が戦争を主導した。死の直前となる1701年にスペイン継承戦争が起こると(この戦争もルイ14世が起こした)、彼は他国の王たちと話し合い同盟を結んだ。

ウィリアム3世はイギリスの王である前にオランダの首長であったために、フランスの膨張はなんとしても食い止めなければならなかった。反戦派のトーリー党と衝突しながら妥協して戦争を継続する場面もあった(ホイッグ党はウィリアムを支持)。

ウィリアム3世の治世は、上記にあるようにイギリス銀行の設立に伴い、国債による国家の発展が見込める体制ができつつあった。18世紀以降、産業革命を背景に大英帝国は世界覇権を握っていくが、権利章典や王位継承法によってイングランドの過去の問題を一気に解決した時代だった。ただし、これが彼の手腕だというわけではない。

いっぽう、オランダにおいては...

一方でオランダにとって、ウィリアム3世イングランド王即位によるイングランドとの連合は、長期的には不利益をもたらした。イングランドとの条約でオランダ海軍はイングランドを上回らないよう制限が設けられ、共同作戦の指揮権も握られた。以後オランダ海軍はイングランド海軍の下風に甘んじることになり、貿易や海運でもイングランドに掣肘されることになり、オランダは次第に凋落へと向かっていった。

出典:ウィリアム3世 (イングランド王) - Wikipedia#%E5%A4%A7%E5%90%8C%E7%9B%9F%E6%88%A6%E4%BA%89%E6%9C%9F)


*1:幻冬舎新書/2023/p146-151