歴史の世界

中国文明:先史⑦ 新石器時代 その5 中期新石器時代 後編

前回からの続き。

集落の特質

黄河・長江両流域

黄河・長江両流域においての集落の特徴。

集落は環壕(環濠)*1に囲まれていた。主に野獣から集落の成員と家畜を守るためだ。

集落内は一定の規制が守られていた。諸問題はリーダー及び長老などにより決定されていたと思われるが、彼らと一般成員の間に峻別されるほどの差は無い、つまり階層社会というよりも平等社会だった。

階層の兆候が見られるようになるのは中期新石器時代の末期からである。

遼河流域西部

遼河流域西部の紅山文化では上の流域より先に階層分化の兆候が現れる。

まずこの地域固有の墓として積石塚(つみいしづか)がある。この墓は明確な階層分化を表すとされている。またこの地域に属する牛河梁遺跡では玉器を副葬されている積石塚が多く発見されている。玉器は宗教的な意味合いが込められているとのこと。被葬者が(経済的な優位性を示すと言うよりは宗教的権威者であったことを示している*2

さらに紅山文化では集落内の階層化だけではなく、集落間の階層もあったようだ。

牛河梁遺跡群では、積石塚が分布する範囲の北部中央付近の山の斜面から「女神廟」と呼ばれる祭祀用建造物が発見されている。ここでは細長い土坑の中に、壁体と共に動物や人物像の塑像が発見されている。とくに大きな女性の塑像は、この祭祀用建物を「女神廟」と呼ばせた理由にもなっている。「女神廟」と複数の積石塚がセットとなって牛河梁遺跡群が、紅山文化社会の中心的な集落軍となっているのである。

すなわち宗教的な裏付けをもって社会的に突出した個人が排出しただけでなく、集落構造においても中心的な存在が出現しているのである。宗教的権威者の墓葬と「女真廟」に見られるような祭祀センター的な存在として牛河梁遺跡が存在し、しかも他集落との集落間格差が出現しているのである。

しかし、その段階の社会構造は、決して世襲による首長制社会に達していたわけではなく、宗教的な行為における個人的な権威者が社会を束ねていたのではないだろうか。

出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p189

女真廟」に見られるような祭祀センター的な存在とはギョベクリ・テペを想起させる興味深い話だ。

この地域で集落間格差が明確に確立する時期は、二里頭文化が栄える時期である夏家店下層文化になってからとのこと。

ここで牛河梁遺跡に関する興味深い仮説を引用しておこう。

2015年1月に合衆国科学アカデミー紀要に発表された中国科学院のXiaoping Yang、合衆国ニューメキシコ大学のLouis A. Scuderiと彼らの共同研究者による内モンゴル自治区東部の渾善達克砂丘地帯の堆積物の検討によれば、従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した[10]。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、のちの中国文化へと発達した可能性が指摘されている[11]。

[10] Groundwater sapping as the cause of irreversible desertification of Hunshandake Sandy Lands, Inner Mongolia, northern China 合衆国科学アカデミー紀要
[11]New Thoughts on the Impact of Climate Change in Neolithic China Archaeology誌解説記事

出典:紅山文化#遼河文明 - Wikipedia

紅山文化#玉石と精神文化、牛河梁遺跡 - Wikipediaによれば、牛河梁遺跡を中心とする一帯を「首長国」「王国」と呼ぶ研究者がいるようだ。

また、wikipediaに「遼河文明」というページがあるのだが、上のような事象をもって文明としているようだ。

農業と社会の変遷

ここで宮本一夫氏が下の本で何度も繰り返して書いていることを引用しよう。

すでに述べたように、農耕の開始期とは決して生産性においては高いものが期待できる段階ではなく、あるいは農耕が始まったからといって、すぐに安定した食糧生産が可能になったわけでもない。まさしく農耕の発生とは、更新世から完新世への移行期における、一定の環境域の周縁部における新たな人類の環境適応でしか無かったのである。

出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p173

農耕の開始期には、森林で狩猟採集だけで満腹になれた集落もあれば、森林と草原の境界で両方の食料資源を享受できた集落もある。上の「一定の環境域の周縁部」では、狩猟採集だけでは腹を満たすことができないので苦肉の策として植物栽培を始めた。最初は家庭菜園か内職に近い感覚だったのかもしれない。

少し話がそれるが、「一定の環境域の周縁部」で新しいことが起こるというのは、「人類の誕生」の時もそうだし*3、近代ヨーロッパの誕生もそうだった*4

抽象的な意味では「歴史は繰り返される」と言えなくもない。

さて、話を戻そう。農業と社会の変遷のはなし。

おそらく、初期の農耕に従事した人たちは女性である。これはもともと野生穀物の収穫が女性の主たる仕事であったことの延長であり、栽培化の過程にも女性ならではの細やかさと忍耐強さが必要であったに違いない。

そしてまた、種籾を翌年に遺さないといけないという食料の保存は、すでにそれだけでリスクをもった社会であり、そうしたリスクを集団内で治めまとめる組織的なまとまりが必要であったのである。なにしろ気候不順に際して、種籾を残しながら飢饉の飢えをしのぐのは大変困難であり、集団として統制がとれていなければ、簡単に消費され、さらに集団が瓦解し死滅してしまうからである。

出典:宮本氏/p173

狩猟採集が生業の主力だった時代は種籾の重要性に無理解な人々が多かったに違いない。そのような環境の中では種籾が食われてしまうようなことが多くあったことだろう。

しかし気候変動が起き環境が温暖湿潤化した前6000年以降*5は上のようなリスクは大幅に軽減されたことだろう。栽培植物は飢饉によって途絶されるリスクも軽減され、順調に人類の望む方向に進化した(つまり改良された)だろう。

こうした中で栽培植物の増産と安定的な生産量を背景に、いよいよ本格的な農耕が始められることになった。すなわち「土木作業や狩猟を得意とする男性も、農耕という生産活動に共同して組織的に労働を投下していく段階に」入ってきた*6

黄河流域の畑作(アワ・キビ)農耕では男性は土起こしやその他土木作業を行い*7、長江下流域でも男性が力仕事である犂耕を行ったと思われる*8

こうして、粗放農業から集約農業へ移行が始まって さらに農業が発展していった。

農業の発展は生産高の増加を意味するのだが、増加の幅は各人、各集落において一様ではなく、ここに格差が生じる。この格差は社会階層と集落間の階層を生むことになる。ただし、明確に階層化されるのは後期新石器時代に入ってからのことになる。



*1:黄河は環壕、長江は環濠。水堀をめぐらせた場合に環濠と書き、空堀をめぐらせた場合に環壕と書いて区別することがある。

*2:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p187-188

*3:人類最古の祖先は疎林から別の疎林へ地面を歩くために二足歩行を始めた。定説ではないかもしれない。

*4:アジアに清・ムガールオスマン帝国という強大な国がある端にヨーロッパがあったのだが、大陸ではなく海に出て大航海時代を経て、アメリカ大陸で金・銀と肥沃な農地を「発見」し、そこから搾り取ったカネをうまく利用した英仏が中心となって近代ヨーロッパを築いた。

*5:前回の記事参照

*6:宮本氏/p174

*7:石鏟(せきさん、スコップのようなもの)が墓に副葬されている(宮本氏/p117)

*8:崧沢文化(前3900-前3200年)の三期(おそらく晩期か末期)に石犂(せきり)が出現する(宮本氏/p147-148)

中国文明:先史⑥ 新石器時代 その4 中期新石器時代 前編

中期新石器時代(前5000-前3000年)。

前5000-前3000年(7000-5000年前)の気候は温暖湿潤だった。農耕地帯は温暖化のおかげで拡散した。

完新世の気候最温暖期(ヒプシサーマル)

完新世の気候最温暖期 - Wikipedia」によれば、前5000-前3000年の期間の温暖化は地球規模のものだった。この事象が起こったメカニズムも分かっている(wikipedia参照)。

中国の先史ではこのイベントは かなりの影響があった(後述)。

同時代の西アジアやエジプトの先史では あまり取り上げられていない。ただし、この時期の末期に両地域で文明が誕生しているので何らかの影響はあったのかもしれない*1。その他の地域についてもよく分からない。

ちなみに、ヒプシサーマル(hypsithermal)のサーマルは温度、ヒプシは高いの意味。

農耕地帯の拡散

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出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p36

  • 左下の数字は「前3000~前2000年」ではなく、「前5000~3000年」のような気がするのだが、どうだろう?
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前4000年文化圏分布*2
  • 仰韶文化は中期新石器時代の中心となる文化。仰韶文化の中心部の黄河中流域は後に文明の中心部になる地域だ。歴史の順に言うと仰韶文化(前5000-前3500年)→龍山文化(前3500-2000年)→二里頭文化(前2000年、文明の誕生)。この地域は後に「中原(ちゅうげん)」と呼ばれる。

長江中・下流域では安定して農耕集落が広がっていくが、これは気候の最適化だけではなく、技術の進歩もあったようだ。

以下の引用では、長江下流江蘇省にある高郵龍虬荘遺跡を例に挙げて説明している。

同遺跡で出土した炭化米は、遺跡が存続した期間内に徐々に大粒化する傾向を示しており、段階的に品種の改良が進められたことも明らかになっている。稲作農耕はイネ栽培化初期の粗放な形のまま拡大したのではなく、水田の造成、品種の改良、農具の改良、およびそれらを可能にする集団の組織化とともに拡張されていったと考えられるのである。徐々に進行したであろう水田造成など稲作に伴う環境の改変は、長江中・下流域において、いわゆる江南地方の原初の景観を形成することになったであろう。

出典:西江氏(世界歴史体系 中国史1)/p41

水田の造成が行われるようになるの中で灌漑をするようになったのだろう。華北においても灌漑農法は中期新石器時代の内に始められたのだろう(文献では確認できなかったが)。

稲作の初期の風景

少し話はそれるが初期の稲作農耕の風景について話をする。

上の西江氏の引用で「段階的に品種の改良が進められたことも明らかになっている」とある。初期農耕が発見される遺跡では農具がほとんど検出されないらしいが、これに対して初期農耕がどのようなものだったか仮説を立てている人がいる。以前の記事「先史:中国における農耕の起源について」で触れた本田進一郎氏である。

本田氏は上述の記事で紹介した倉田のり氏の珠江流域起源説を支持した上で、農耕は湿原で行われ、舟を使っていたとする。

「無意識の選択」(品種改良)により、初期農耕のイネは脱粒しやすいもので、脱穀時はイネの穂を棒でたたいたり、手で扱(こ)いだり(しごいたり)して収穫することから始まったと思われる(栽培化の前の野生イネの脱穀も同じ)。だから特殊な農具は必要なかった。

稲作に舟を使っていたという推測は環濠が水利の意味を持っていたということから伺える*3

「穂摘具で収穫するようになったのはかなりあとで、穂摘具を使用するようになってから、非脱粒性の形質が強く選択されるようになった」。穂摘具などの収穫道具が検出される用になるのは超高下流域では崧澤文化(6,000年前)以降、中流域では屈家嶺文化(4,500年前)以降だ。

以上は本田氏の説だ。詳しくは本田氏のブログ記事「イネの起源2 2018年4月11日:Origin of Oryza sativa – 農業と本のブログ」を参照。



*1:メソポタミア文明のカテゴリーエジプト文明のカテゴリー参照

*2:Eastern China blank relief map - File:Eastern China blank relief map.svg - Wikimedia Commons」の地図を使用。
wikipediaの諸文化のページと『世界歴史体系 中国史1』(p33)を参考にした。
私見!中国人(漢民族)の歴史 ( 歴史 ) - とりとめなき飲み屋 - Yahoo!ブログ」というブログ記事も参考になった。

*3:西江氏(世界歴史体系 中国史1)/p40

中国文明:先史⑤ 新石器時代 その3 前期新石器時代

前回は「早期石器時代」について書いた。その続き。

この記事でいうところの「前期新石器時代」は「前7000-前5000年」(9000-7000年前)。宮本一夫氏(2005)*1の時代区分を採用している(前回の記事参照)。

この時期に、食料の割合において栽培穀物の比重が高くなり、文化の跡が詳しく分かる遺跡が各地に見られるようになる*2

各地に文化圏が形成される

前6000年頃になると、以下のように文化圏が揃ってくる。

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前6000年文化圏分布*3
上の地図の他に長江下流に跨湖橋文化という文化があるそうだが、よく分からない。さらにこの文化の前に上山文化というものがあり「中国最古級の文化」だとする記事もあるのだが情報が少ない*4

黄河流域および遼河流域の遺跡は、基本的に山麓扇状地・微高地などに形成されている。その理由をまず2つだけ書いておく。

  • 2つの河川が黄土を含み氾濫を起こしやすい川で、平地に住居を構えることができなかった。
  • この時期は略奪農法(おそらく焼畑農法*5が主流だったと思われる。ただし、参考文献にはこのような説明は書いていなかった。

加藤瑛二氏は下の論文のまとめで以下のように書かれている。

広域的な黄河流域及び華北平野の山麓部にに位置する古代遺跡には、多くの地域で貝殻が出土しており、遺跡は丘陵地か微高地を選定して立地した傾向にある。このことは、古代遺跡の立地点が内陸立地であり、河川の水系の変化に関連しない高地に立地したことが確認された。特に仰韶期から商代(約7000年~3000年B.C.)の古代遺跡の立地点は現在よりも水位が高く、極めて湖水環境に富んだ環境下に立地したことを示唆している。

出典:加藤瑛二/中国黄河流域の古代遺跡の立地環境(PDF

時代が下るにつれ水位が下がり、それに伴って住居も下に移った。

裴李崗文化と磁山文化は、多くの共通点が認められ、磁山=裴李崗文化、または裴李崗=磁山文化とも称される*6。その西にある老官台文化も共通性が高い。以上3つの文化の地域は、後代に仰韶文化と呼ばれる一つの文化圏となる。

遼河西部の興隆窪文化は、おそらく黄河流域からの農耕の拡散を受容して農耕は始まっていたのだが、なお狩猟採集が生業としての比重が高かった。*7

これに対し、長江流域にある彭頭山文化の集落は、「平原縁辺部の狭い範囲から始まってしだいに低平地に広がり、やがて広大な洞庭湖を取り巻くネットワークをもつようになったと考えられている」*8

長江は黄河に比べて氾濫が起きにくかった。湿地帯に散播する散播農法で栽培していたようだ(長江文明 - Wikipedia )。この頃は遺跡では、まだ灌漑農法は発見されていない。

まとめ

小澤正人氏(1999)は前6000-5000年の特質を以下のようにまとめている*9

華北ではアワを中心とした農耕が行われ、これにブタ・イヌ・ウシといった家畜の飼育、そして狩猟・採集・漁撈などを組み合わせた生業体系が成立している。このような生業体系に伴い石斧、石鍬、石・貝包丁、石鎌といった生産工具の組み合わせが成立する。さらに食物加工具として磨盤・磨棒が広く使われる。

華中では稲作農耕が成立している。牧畜や狩猟・採集などについては資料がなく詳細は不明である。農耕具は石斧と局部打製石器のみで、前期前半の状況と大きな変化はない。ただし木・竹製農具の存在を想定する必要があるかもしれない。

出典:小澤正人・谷豊信・西江清高/中国の考古学/同成社/p57

興隆窪(こうりゅうわ)遺跡や彭頭山文化の八十垱遺跡が最古級の環濠集落と言われている。野獣から人間と家畜を守るために造られた。これらの遺跡が長期に亘る住居だということは明らかだ。

またこのような土木作業を行うにはリーダーが必要になるが、この時代の社会は まだ平等社会で首長や上層の特権などは見られない。

そして南北を問わず、住居配置や整然とした集団墓地の存在から一定の規律があったようだ。土器は技術水準が高くないことから集落内の成員が作っていたと考えられている(専業化されていない)。(同上/p57-58)




*1:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p107-108

*2:宮本氏/p107-108

*3:Eastern China blank relief map - File:Eastern China blank relief map.svg - Wikimedia Commons」の地図を使用、改変。
wikipediaの諸文化のページを参考にした。
私見!中国人(漢民族)の歴史 ( 歴史 ) - とりとめなき飲み屋 - Yahoo!ブログ」というブログ記事も参考になった。

*4:参考ページ:浙江省の竜游で青碓新石器時代早期遺跡を発見 | 中国通信社

*5:前回の記事参照

*6:磁山文化 - Wikipedia

*7:宮本氏/p182-183、劉煒・趙春青・秦文生/図説 中国文明史 1 先史 文明の胎動/創元社/2006(原著は2001年出版)/p72

*8:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p28(西江清高氏の筆)

*9:この本ではこの時期を新石器時代前期後半としている

中国文明:先史④ 新石器時代 その2 時代区分/早期新石器時代

時代区分

「○○年前」バージョン

  • 早期(11000-9000年前)
  • 前期(9000-7000年前)
  • 中期(7000-5000年前)
  • 後期(5000-4000年前)

「紀元前/BC」バージョン

  • 早期(前9000-前7000年)
  • 前期(前7000-前5000年)
  • 中期(前5000-前3000年)
  • 後期(前3000-前2000年)

今回は宮本一夫氏(2005)*1の時代区分を採用した。宮本氏の区分だと早期は13000年前から始まるが、このブログの旧石器時代の終わりの年代を11000年前にしてしまっているので、変更した。

宮本氏の大まかな説明によると

  • 早期:土器・農耕が出現する。遺物の発見が少なく細かな変化過程を述べることができない。
  • 前期:食料の割合において栽培穀物の比重が高くなり、文化の跡が詳しく分かる遺跡が各地に見られるようになる。
  • 中期:農耕の安定的発展・地域拡大、地域間交流の活発化の一方で、各地域の土器に特殊化が見られるようになる。仰韶文化を指標とする段階。
  • 後期:地域内での階層化、土器作りにおける専業化、青銅器の出現(西北地域や華北)。

以上を見ていくと、メソポタミア西アジア)文明やエジプト文明の発展段階とほぼ同じだ。この2つの地域と比べると1000年ほど遅れているようだが、これらの地域からの影響はあまり無く、独立して発展したようだ。

新石器文化で影響が見られるのは小麦の輸入と青銅器くらいしか思い当たらないが、家畜なども影響があったかもしれない。

早期新石器時代

定住の始まりと土器の出現

旧石器時代末(旧石器時代後期後半)の頃にはドングリなどの堅果類の採集や中・小動物の狩猟を中心とした食物獲得戦略に移行していた。宮本氏はこのような環境の変化が当時の人々を定住へとなめらかに導いたと主張している*2。このことは、記事「中国文明:先史② 旧石器時代 後編(後期旧石器時代) - 歴史の世界」に書いた。

早期新石器時代に入るとこれらの食料資源の仲間に、穀物すなわちイネ(華中)やアワ・キビ(華北)が入る。

この時期に より一層 定住する傾向が進んだと思われるが、それでも早期の遺跡がほとんど見つからないのは、可能性として定住への移行のプロセスが緩やかだったことや半定住という形が長い間主流だったことや定住の形態が(狩猟採集民のキャンプと同様の)将来に跡を遺りにくいものだったことが考えられる。

さて、早期の始まりは最終氷期の終わり、温暖湿潤完新世の始まりなのだが、この頃に土器が出現する。

土器は堅果類や穀物の煮沸具として開発された*3。肉や魚介類も煮込んだことだろう。

土器は新石器時代の始まりを決める指標の一つである。(新石器時代について参照)

農耕の始まり

中国における農耕の始まりは、華北がアワ・キビ、華中がイネ、華南は早期はまだ狩猟採集文化だった。

最初に書いておくが、人類が農耕を始めた動機は、積極的に食料の増加を求めたためではなく、もともと行っていた狩猟採集の補完として始められた。だから農耕が始められた地域より、同時代の狩猟採集だけで生活できた地域の方が安定して豊かだったと言われている*4。華南は狩猟採集が安定的にできたので、農耕をやる動機がなかった。華南では、農耕社会が華北・華南で確立された後に農耕を受け入れることになる。

さて、アワ・キビとイネの栽培家は およそ1万年前と考えられているようだ。

とりあえず記事「先史:中国における農耕の起源について」を書いた。

まず、イネから。

イネの起源

イネの栽培化の前に、イネがどうして人類に目をつけられたのか?という話から。

[ヤンガードリアス期の]冷涼化は野生イネの[多年生からの]一年生草本化を促し、華中では果実類や堅果類の生育を阻害した。これが野生イネに人間の関心が集まった原因であろう。さらにこの気候変動は、弱い夏のモンスーンによる寒冷で短い夏とともに、強い冬のモンスーンに見られる厳しい冬という、気候条件をもたらした。

この気候変動により、野生イネの一年生草本化やそれに伴う胚乳の増大がもたらされた。この野生イネの変化の過程で、人類は採集戦略として野生イネに関心を向けないではいられなかったであろう。

さらに、ヤンガードリアス期以降の気候の温暖化と東アジアの地形環境に即したモンスーンの発達は、高温湿潤の夏を生みだし、イネにとって良い育成条件となる。この生態的な変化により、人類は次第に採集戦略をイネの栽培に特化させていくことになるのである。

出典:宮本氏/p94

キビが祖先の野生種から栽培種に至るまで2000年かかった(後述)というから、イネも同じだとするとどうなるか?

ヤンガードリアス期が終わって(11700年前)、2000年経つと、およそ1万年前となる。

起源地の候補については上の「先史:中国における農耕の起源について」の記事のリンク先参照。

アワ・キビ

ある研究者達は北京に近い華北の平原部にある幾つかの遺跡*5で野生の穀類について調べた。各遺跡から出土した土器にこびり着いてた炭化した穀類を調べたところ、野生植物の種から栽培植物であるアワが誕生するまでに2000年かかったという*6

以前に、コムギの野生種が栽培種に変わるプロセスについて書いた(先史:農業の誕生(新石器革命)と西アジアの新石器時代初期 )。

一般に、野生種から栽培種に変わるためには、同じ場所の野生種を毎年収穫して繰り返し種子が播かなければならない。そしてそのためには、定住か半定住が不可欠である。

さて、少し話は逸れるがキビについて面白い記事を見つけたので一部引用しておこう。

新石器時代ユーラシア大陸で、人々の生活が狩猟採集から農耕に移行する架け橋となった作物が、約1万年前の中国北部で栽培されていたキビだったということが分かりました。

キビは、今となっては食用にされることが少ない作物です。どちらかといえば、鳥のエサというイメージを持っている人が多いんじゃないでしょうか。でも、考古学雑誌「Archaeology Magazine」によると、当時の遊牧民や狩猟採集民族にとっては、とても便利な作物だったんです。

というのも、多くの水を必要とする上に植えてから収穫まで100日近くかかる米に対して、キビなら約45日で収穫ができるからです。しかも、あまり水を必要としないので、定期的に移動をしながらでも、農業ができます。

これまでは安定的に食料を供給できる農耕社会は、水の確保とコミュニティの形成が前提にあると考えられてきました。ですが、今回の発見によって初期の農業と社会に対する見解が変わってきます。

出典:新石器時代、狩猟採集と農耕のギャップを埋めた作物が明らかに | ギズモード・ジャパン



*1:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p107-108

*2:宮本氏/p78

*3:宮本氏によれば(p79)これは仮説らしい

*4:宮本氏/p97

*5:東胡林遺跡、南荘頭遺跡など

*6:Early millet use in northern China | PNAS March 6, 2012/Xiaoyan Yangほか

中国文明:先史③ 新石器時代 その1 新石器時代の始まりについて

新石器時代の始まりを何時にするか?

新石器時代でも近代でもそうだが、その始まりを何時にするかは学者(あるいは学派)によって違い、数種類 存在することになる。

中国の新石器時代についても同様だが、ここではその時点の候補を幾つか取り上げてみよう。ただし、ただ一点だけで決められるものではなく、複数の指標を含めて考慮されることは全ての時代区分において同じである。

候補①:農耕の始まり(およそ1万年前)

中国における農耕の起源については、記事「先史:中国における農耕の起源について」で書いた。

中国の農耕発生当初の分布は華北がキビ・アワ、華中がコメ(イネ)で、その起源は およそ1万年前と言われている。

小澤正人氏(1999)*1はこの画期を採用している。

候補②:完新世の始まり(13000年前~11000年前)

宮本一夫氏(2005)*2西江清高氏(2003)*3完新世の始まり(最終氷期の終わり)を画期とした。

ただし宮本氏はこの画期を13000年前とし、西江氏は11000年前としている。

この違いは、完新世がヤンガードリアス期(12900年前-11700年前)と呼ばれる亜氷期を含むか含まないかという問題にある。以前はこの2つの説が並立していた(3つ以上あったかもしれない)。なので完新世という用語を見たら注意が必要。

この問題は2008年に国際地質科学連合という組織により完新世の始まりはヤンガードリアス期の終わりをもって始まる(つまりヤンガードリアス期は最終氷期の一部である)ということに決定されている*4

さて、話を戻そう。

最終氷期が終わって完新世に入り、安定的な温暖湿潤の気候が地球規模で起こった(現在も完新世だ)。このような気候変動の中で大型獣が消滅して、人々は小型獣の肉食と堅果類・穀類を中心とした植物食をあわせた食生活(食料獲得戦略)をするようになった(宮本氏/p78)。このような現象の舞台が長江の中下流域一帯(中緯度地帯)である。

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出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p75

  • 上の図は後期旧石器時代後半の石器分布を表す。
  • 宮本氏は「小型剥片石器」の地域が次の新石器時代に栽培植物を産んだとしている。
  • 「小型剥片石器」の地域は他の2つの石器の中間ということが重要なのではなく、環境が重要なのだ。つまり寒冷で草原の華北と亜熱帯で森林の華南とその中間の温暖湿潤の華中ということが重要。

大型獣を追いかけ回す必要がなくなり活動範囲が狭まると、次第に定住をするようになる。

このような中で土器が発明され、堅果類のアク抜きや穀類の粥が作られたと言われる。ただし穀類は野生種のものを採集していたのであり、時を経て栽培するようになった(農耕するようになった)。

以上のように気候変動により環境が大きく変わり、それに伴い生活環境が一変した。時代区分にふさわしい。

教科書などではこの時期を「およそ1万年前」と書いていることが多い。1000~3000年ほどの誤差が生じるのだが、詳細を要しない場面ではこのようなアバウトな数字はアリなのだろう。

候補③:磨製石器の出現(1万5000年前)

磨製石器の出現のことは前回の旧石器時代後期後半のところで書いた。中国の先史ではこの時期は旧石器時代後期後半つまり旧石器時代末とされている。

前回に書いたが、磨製石器の叩き石や石皿は堅果類を叩き割ったり、磨り潰して粉末にするために使われた。つまりこの時期にそれまでの人類の食生活と比べて新しい変化が見られた。

15000年前は最終氷期の最後の亜間氷期ベーリング/アレレード期(14700-12900年前)*5の始まりの頃であり、ヤンガードリアス期という亜氷期が無ければ、農耕の出現は1000年早まっただろう。

まとめ

このブログでは、西江氏が示した11000年前を採用する。最終氷期の終わり、更新世の始まりの画期は石器時代の画期としてもふさわしいと思われる。

*1:小澤正人・谷豊信・西江清高/中国の考古学/同成社/p33-34

*2:中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p76、年表。

*3:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p23

*4:日本第四紀学会|第四紀学最新情報・第四紀の定義

*5:Bølling-Allerød warming - Wikipedia

中国文明:先史② 旧石器時代 後編(後期旧石器時代)

前回からの続き。

後期旧石器時代(4-1万年前)

後期旧石器時代の主役はホモ・サピエンス(現代型新人)。

この時代の初期に中国本土に流入し始める。そして新石器時代を迎える前までにはホモ・サピエンス以外の人類(古代型新人)は絶滅するのだが、この詳細については分からない*1

後期旧石器時代の時代区分

  • 前半:4-1.5万年前
  • 後半:1.5-1.1万年前

以下詳細。

後期旧石器時代前半

ホモ・サピエンスは中国本土(シナ)に無かった石器文化(石刃文化)を持って華北進入した*2

中国本土に無かった石器文化とは石刃技法を使った石器群である(ホモ属の特徴について ④打製石器 参照)。

この石器文化が華北流入した後も旧来の剥片石器群が中心として使われ続け、石刃技法の石器の比重は大きくはない*3

この時代は草原の草食動物(野生ウマやロバなど)を集中的に狩猟しており、高度な専門化がみられる。

いっぽう、華中・華南には石刃技法は伝わらず、旧来の石器文化が継続した。

後期旧石器時代後半

15000年前という時期は最終氷期の最後の亜間氷期ベーリング/アレレード期(14700-12900年前)の始まりの頃。

華北。細石刃技法が出現する。(ホモ属の特徴について ④打製石器 参照)

草食動物の狩猟のさらなる高度化が進む。

華中。前半では変化は起こらなかったが後半では起こった。

中期旧石器時代華北の剥片石器中心の文化がこの時期の華中に出現した。

華南。前回に引き続き、旧来の石器文化を使い続けた。

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出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p75

  • 上の図は後期旧石器時代後半の石器分布を表す。
  • 宮本氏は「小型剥片石器」の地域が次の新石器時代に栽培植物を産んだとしている。
  • 「小型剥片石器」の地域は他の2つの石器の中間ということが重要なのではなく、環境が重要なのだ。つまり寒冷で草原の華北と亜熱帯で森林の華南とその中間の温暖湿潤の華中ということが重要。

もう一つ重要なこと。それは「古代型新人」と言われる化石人類*4が絶滅して「現代型新人(ホモ・サピエンス)」の時代になるのだが、以上のように石器文化は「古代型新人」の伝統を受け継いでいることだ。一部の中国人学者はこのことをホモ・サピエンスの「多地域進化説」の証拠だと主張するが、これに対し「アフリカ単一起源説」側の学者がどのように説明してくれるのかが知りたい。

新石器時代へ向けた新しいトレンド

栽培植物の話は新石器時代の記事で詳しくやるが、その前にこの時期に新石器時代へ向けた新しい動きがある。

この時期の華北・華南を問わず、石皿・叩き石が出土する*5 *6 *7

石皿・叩き石は食物加工具の一種で、叩き石でドングリなどの堅果類の殻を叩いて割って、石皿を使って製粉する*8。これは中国だけではなく、西アジアでも日本でも同じだ。

さらに注目すべき点がある。以下引用。

このような食物加工具は、中期までは出土していない。むろん人類は早くから植物資源を活用してたと考えられるが、それを加工するための専用の石器はなく、やはり狩猟による動物資源が食料の中心であったと考えられる。それに対して後期に専用の加工具が出土することは、採集による植物資源の活用に積極的に踏み出したことを意味している。このような植物資源の積極的な利用がやがて新石器時代での農耕へとつながることになったのであろう。

出典:中国の考古学/p32(小澤氏の筆)

石皿や叩き石は磨製石器で、磨製石器新石器時代の指標とされている。つまり磨製石器は出土した遺跡文化は新石器時代に達している可能性を示す遺物である。

現に、縄文時代が、新石器時代とされているのは(そう考えていない学者もいるらしいが)縄文時代とされる遺跡から磨製石器が出土するからだ(磨製石器の出土が十分条件ではない)。

最終氷期が終わるにしたがい、気候の温暖化によってこれまでの狩猟対象であった大型獣の消滅とともに、小型獣への狩猟対象の変化は、必然的に獲物を追う狩猟範囲を移していったに違いない。あるいは植物資源を主たる食料源とするように、次第に食料獲得戦略の変化と活動範囲の縮小化は、定住社会への移行をなめらかに導いたに違いない。

出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p78

  • 後期旧石器時代後半の始まりはべーリング/アレレード期(14700-12700年前)という亜間氷期の始まりと重なる。宮本氏はこの時期を最終氷期の終わりとしている。上の本が出された時期は最終氷期の終わりの時期が学者によって違っていたが、2008年に国際地質科学連合というところで、最終氷期の終わり=更新世の終わり=ヤンガードリアス期の終わり=11700年前と決められた。要注意。

宮本氏が書いていることは、西アジアでも起こったことだ。

さて、私が見ている参考文献の中でこの時期(1.5-1.1万年前)を新石器時代に区分しているものは無かった。磨製石器以外に「新石器時代的なもの」が無かったのかもしれない。

ただし、以上書いたように新たな動きではあることは確かだ。



*1:私が読んだ参考文献には書いていなかった

*2:南部からの進入については私が読んだ参考文献には書いていなかった

*3:小澤正人・谷豊信・西江清高/中国の考古学/同成社/1999/p27(小澤氏の筆)

*4:後期ホモ・エレクトスネアンデルタール人か?これも参考文献に書いていないので分からない

*5:中国の考古学/p32

*6:宮本氏/p76-77

*7:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p24(西江清高氏の筆)

*8:宮本氏/p76-77

中国文明:先史① 旧石器時代 前編(前期・中期旧石器時代)

先史の最初、旧石器時代の話に入る。

旧石器時代の始まりと終わり

中国の旧石器時代の始まりは、当然、最初の人類が住み始めた頃に始まるのだが、最古の人類は誰かという話だ。

私が読んでいる参考図書は2000年前後に出版されたもので(中国の新石器時代を扱う最近の本が見つからなかった)、これらの本には元謀原人(元謀人。中国雲南省元謀の遺跡で発見された化石)がその人だとされている。

元謀原人は180~170万年前と中国では主張されているが、著者達はその数字を認めることに躊躇しているようだった。

しかし2008年に元謀原人の年代測定が再び為されて、170万年前頃、という結果が出たそうだ(東アジアの初期ホモ属 雑記帳/ウェブリブログ 2009/01/07 )。

さらに、元謀原人の次に古いとされてきた藍田原人(陝西省南部)についても最近の調査で「165万~154万年前頃に絞り込まれ」た(藍田人の年代の見直し 雑記帳/ウェブリブログ 2016/05/08 )。

さらに、河北省陽原県の泥河湾盆地では人骨の発見はないものの人類の活動の痕跡が発見され、調査により170万~160万年前頃の跡だと推定されているという(中国北部の170万~160万年前頃の人類 雑記帳/ウェブリブログ 2014/02/13

さらに、今年(2018年)には「212万年前頃の石器」が発見されたと言う。

中国陝西省上陳(シャンチェン)村の遺跡で発見された100個ほどの石器が年代測定の結果、212万~126万年前頃と推定されたという(中国北部の212万年前頃の石器(追記有) 雑記帳/ウェブリブログ 2018/07/12。リンク先のブログ記事からネイチャーやナショジオの記事に行ける)。

私は最古の人類の年代が170万年前というのは古すぎるのではないかと思っていたが、逆に今年になって212万年前という数字が出てきた。

212万年前というのはユーラシア大陸の人類史上、最古の人類になる。そういうわけで中国にとどまらず、世界規模でセンセーショナルな発表ということになる。

時代区分

上の年代区分はかなりアバウトなものなので目安程度で。前期旧石器時代の始まりは上で書いたように、「最古の人類は誰か」という問題が解決していないので(解決しないかもしれない)、設定できない。

西江清高氏によれば*1、大まかな区分として

としている。3つの人類がどのように交代したのかは分かっていないらしい。

「原人」とは初期ホモ属すなわちホモ・エレクトスのこと*2北京原人・元謀原人など。

「古代型新人」はおそらくホモ・エレクトスの後期型と思われるが分からない。「原人」と比べると脳容量は増大したが*3、形質的特徴は「原人」から継続しているという*4

「現代型新人」はわれわれと同じ、ホモ・サピエンスのこと。「ホモ・サピエンスはアフリカで誕生した」というのが一般的(ほぼ確定的)なのだが、中国人学者(の一部?)は多地域進化説を唱え、「現代型新人」は「古代型新人」から進化したと考えている。

その証拠に形質的特徴が受け継がれているではないか!と主張する。代表的な特徴はシャベル型切歯(上の前歯び裏側のくぼみ大きい)で、これは北京原人の特徴であり、モンゴロイドの特徴でもあるそうだ。中国の「多地域進化説」派を反駁する術を私は知らない。

石器について

(石器の種類については記事「ホモ属の特徴について ④打製石器」で書いたので参照)。

旧石器時代の石器は ほぼ打製石器

前期・中期旧石器時代で発見される石器はオルドワン型石器群という石器の中でも最初期のものに限られる。ヨーロッパなどでは「アシューリアン石器群」とか「ムステリアン石器群」などと発展していったのと対照的だとされる。

ただし、オルドワン型石器群の中で、時代により変化がある。ヨーロッパ人が作り出した石器の発展の区分*5が中国の石器の区分に適していないのかもしれない。

さて、中国における石器の変遷の話を進めよう。

前期・中期旧石器時代

オルドワン型石器群

まずオルドワン型石器群の説明から。

この石器群は大小の石(礫=れき・つぶて)から作られる。「礫を打ち欠いて制作した簡単な礫器や剥片」*6

詳しくは「ホモ属の特徴について ④打製石器」参照。

前期旧石器時代について

[前期旧石器時代の]石器は華北と華南で構成が異なる。華北では大型の製品と小型の剥片が出土する。華北では大型の製品と小型の剥片石器が出土する。前者の製品としてチョッパー・チョッピングトゥール・大型尖状器があり、後者の製品としてはスクレイパー・小型尖頭器がある。華南では前期を通して大型のチョッパーが主となり、これに不定形の剥片石器が加わる。

出典:小澤正人・谷豊信・西江清高/中国の考古学/同成社/1999/p22(小澤氏の筆)

  • 上の引用の「華南」は華中も含んでいる。中国本土(シナ)を三分する時は「華北・華中・華南」、二分する時は「華北・華南」。要注意。

中期中期旧石器時代について

[中期旧石器時代の]石器は華北では大型の製品と小型の剥片石器の組み合わせから、大型の製品が衰退する傾向が見られる。そして後半になると定型的な剥片を素材として、多数の石器を作り出す技術が定着する。これに対して華南では前期以来のチョッパーなどの礫器と不定形な剥片による石器群が継続している。

出典:同書/p26-27

  • こちらも「華南」は中も含んでいる。

華北と華中・華南の石器群の差異を生んだ要因として、自然環境に由来する生活様式の違いが指摘されている。高温多雨な気候下で竹林などの森林が発達し、森林棲(せい)の動物食とともに植物食に依存することが多かった南方では、植物の根を掘ったり、木を切るのに適した大型の礫器が有効であったのに対し、冷涼乾燥した草原環境のもと、草原棲の動物に依存することが多かった北方では、削ぐ、切るといった肉の処理に適した小型剥片石器が有効であったと考えられる。環境への適応と関係した北と南の石器群の違いは、最終氷期をむかえた後期旧石器時代にはいっそう鮮明になる。

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p21-22(西江清高氏の筆)

ただし、シナの南西部の雲貴高原あたり(つまり山地・高原)では、多種の定型的な剥片石器を主としている*7。この地域では動物食の依存度が高かったようだ。

華南の森林棲(せい)の動物食はパンダと剣歯象(ステゴドン)とのこと。これらの動物の狩猟は華北の石器群のような専門性を要しなかったか、有機物の狩猟具が存在したのかもしれない*8



*1:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p19

*2:上で紹介した212万年前の石器と推定されているものが受け入れられれば、ホモ・エレクトスよりも古い人類かもしれない

*3:藍田原人が780cc、北京原人が900-1200ccにくらべて、「古代型新人」の金牛山人は1390cc

*4:西江氏/p17

*5:G・クラーク氏が発案した「モード論」が有名

*6:オルドワン石器 - Wikipedia

*7:国史1/p21

*8:中国の考古学/p32