歴史の世界

中期 斉・秦の二強時代

魏の覇権が衰えると、次に目立ったのは斉と秦の2国だった。

秦のことは別の記事で書くこととし、ここでは斉について書く。

(中期と言っても、私が勝手に区分しているだけなので、参考程度に)

田斉:斉の下剋上

春秋時代に斉の桓公は覇者にまでなったが、その後は後継者争いが続いた公族は弱体化した。そして権力は臣下に移り、国氏・高氏・鮑氏・崔氏・慶氏・陳氏の六氏に分散された(この中に公族もいるらしいがどれか分からない)。この中の陳氏が田氏で*1、田氏が6氏による権力争いを制した。

前392年、宣公・康公の宰相だった田和(でんか)が康公を追放して斉公と称した。前386年に周・安王より諸侯に列せられた(田和の諡は太公)。これを春秋より続いた呂姓の斉と区別して田氏の斉すなわち「田斉」と呼ぶ。

第四代・威王

田斉の第四代・威王の治世、三晋(魏・趙・韓)の相互の争いが激化し、魏の覇権が傾き始めた頃、馬陵の戦い(前342年)で魏に大勝する。これにより魏の覇権は急速に衰え、(相対的に?)秦とともに二強の時代を迎える。

威王は王都・臨淄の稷門 (城の西門) 外に学堂を建て知識人を招いた。ここは稷下の学と呼ばれ諸子百家の一大拠点となった。

斉は海に面していて漁業と製塩業など商業が盛んで王都・臨淄は有数の大都市だった。

領地拡大

第六代湣王の時、斉は拡大政策を行なった。

  • 前298年、斉・韓・魏・趙・宋の連合軍で秦を函谷関で破る。
  • 前296年、趙と組んで中山国を滅ぼす。
  • 前286年、斉・魏・楚の連合軍で宋を滅ぼす。

前288年、秦の昭襄王より「東帝」の称号を送られて自称するようになった。そして昭襄王は西帝と称した。「帝」の称号は王の上位であることを意図する。

しかし湣王はこの称号をすぐに捨てて王号に戻したため昭襄王も王号に戻した。この一時的な事件は始皇帝が王の上位の称号を考えた時のヒントになったかもしれない。

話を湣王に戻すと、以上のように、斉は拡大政策を推し進めた。これを脅威を抱いた諸国は今度は「対斉」同盟を結ぶことになる。

突然の衰退:「対斉」戦争

史記』によれば、燕の昭王が父を殺された恨みにより、数十年間、富国強兵に励み楽毅を得てみごとに雪辱を果たした、という話になているが、呉越の臥薪嘗胆のエピソードと似ているため、どれほどが史実なのか疑ったほうがいいと思う。

とりあえず、燕の将軍楽毅が韓・魏・趙・秦の連合軍とともに斉を亡国寸前まで大敗させたことは史実と考えられているようだ(前286年)。

ところで、『史記』とは違うエピソードが書いてある帛書(絹布に書かれた書)が発見されている。

1973年、湖南省長沙市の馬王堆漢墓から、『戦国縦横家書』(日本語訳:工藤元男 朋友書店 ISBN 9784892810336)という司馬遷の時代より古い書物が発見された。これに基づいて蘇秦の事績は大幅に修正された。

蘇秦張儀よりも後の時代に活躍した人であった。その時代、斉は燕の領土を奪い、秦と並ぶ二大強国となっていた。そこで諸国はこの2国のどこと同盟するかという対応に迫られた。また燕は斉への復讐を企てていた。この時に燕に登用されたのが蘇秦であり、斉への使者となった。さらに斉でも外交官となって合従のために奔走するが、実は燕のために斉と趙の離間を図っていた。その結果、まず紀元前288年に燕・斉・趙・韓・魏の5国が合従して秦を攻めたが、5ヶ国連合軍は退却した。次に紀元前284年には今度は燕・趙・魏・韓・楚の5ヶ国が合従して斉を攻撃し、燕は復讐を果たすのである。

出典:蘇秦 - Wikipedia

合従連衡蘇秦張儀のエピソードも有名だ。だが本当に帛書のほうが史実なのか?疑ったらキリがない。

この後、斉は奪われた領土を回復するが、以前のような勢力までには回復できなかった。

これより、秦の一強の時代に突入する。



対斉戦争に関する『史記』の物語には魅力的な登場人物が現れる。対斉戦の将軍の楽毅に始まり、孟嘗君蘇秦、燕の昭王、「隗より始めよ」の郭隗、そして湣王。『史記』をそのまま史実とすることはできないが、読み物としては面白い。

楽毅(一) (新潮文庫)

楽毅(一) (新潮文庫)

*1:陳の公族であった田完の子孫なので陳氏とも田氏とも呼ばれた

春秋戦国:戦国時代④ 称王/遷都/社会の発達

これから戦国時代における称王/遷都/社会の発達について書く。

諸侯の称王

称王とは王を称すること。これまで中原の諸侯は形式的に周王の臣下だったが、王を称するということはこれを否定することになる。それはすなわち周王朝の否定もしくは無視することを意味する。

ここでは代表例として魏の恵王を取り上げる。

前349年、晋が断絶すると、魏恵王は覇者認証を周王朝に迫ったが、魏の覇権を嫌った韓は、前343年、周と謀って秦孝公を覇者に認証させた。そこで恵王は、中原では周王朝だけが保持していた王号を称し、周王朝覆滅を図ったが、斉威王(前357~前320)に馬陵の戦で大敗した。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p53(吉本道雅氏の筆)

魏はそれまでは名目上の晋侯の臣下だったが、恵王は晋に取って代わろうとした。しかし韓はこれを嫌った。魏の権威が増大すれば、韓の権益が魏に削り取られることになる。また魏が覇者となったばあい、韓が魏の命令に従わなければ、攻撃の大義名分が成り立つ。

周のわずかな領土は韓の領土に囲まれていたので、韓が周に圧力をかけて秦を覇者にした。

恵王は、それでは晋に取って代わるのではなく、周に取って代わろう、と思った。

恵王は「夏王」と称した。『戦国策』秦策四の「或為六国説秦王」章に、「魏伐邯鄲、因退為逢沢之遇、乗夏車、称夏王、朝為天子、天下皆従」(魏が邯鄲〔に都を置く趙〕を伐ち、これによって引き揚げて逢沢〔今の河南省開封市の南〕で会を行うと、〔魏王は、夏車に乗り、夏王と称し、〔諸侯と〕朝見して天子となり、天下の者はみな従った)とある。楊寛や吉本道雅は、これが魏の君主が王号を称するようになった始まりであるとする。周や殷以前の王朝とされる夏の王、そして天子と称することで、周王朝に取って代わる意志を示したのである。

出典:佐藤伸弥/周/中公新書/2016/p205-206

吉本氏の説によれば、恵王が王を称するようになったのは、韓が「周と謀って秦孝公を覇者に認証させた」前343年と馬陵の戦いの前342年の間となる。

斉の威王は魏・恵王と王号を相互認証することによって、周王朝と秦の覇者認証を否定した*1

さて、周王は魏の代わりに秦の孝公を覇者に認証した。しかし秦の君主は春秋時代より天命を受けた天子と自認していた*2。そして孝公の次代の恵文王は前331~328年に大攻勢で魏の黄河以西の全ての領土を攻略すると、前325年に周王推戴を放棄し、王を称した。

その他の諸侯は韓・趙・燕、更には小国の宋や中山国までも王を称した(佐藤氏/p207)。楚・越など南方の国は春秋時代より王を称している。

これですでに周王の利用価値はほとんどゼロになったと思われるが、それからも王室は存続している。

三晋の遷都

趙は前386年に邯鄲(河北省邯鄲市邯鄲趙城)に、韓は前374年に新鄭(河南省新鄭市鄭韓故城)に遷都していたが、魏も前361年に大梁(河南省開封市)に遷都した。これらの都城は洛陽から東方・北方に向かう交通路上にあった。楚の副都というべき陳も新鄭・大梁にほど近く、大梁の東方には、『史記』貨殖列伝に「天下の中、諸侯四通」と謳われた陶があった。

出典:吉本氏/p51

中原の中心は洛陽。洛陽は交通上の要衝であり、商業の中心地だ*3。三晋は洛陽に行くために通らなければならない途上に遷都した。それらの地では洛陽から出入りするための通行税を取ることができる。三都は栄えていたと言うから市場利用税も多額になっただろう。

仮に王都ではなく、臣下にこの年を与えたとしたらどうだろう?その臣下は王よりも富むことになり、最終的には、三晋がやったように、下剋上を起こすかもしれない。遷都は懸命な選択だったようだ。

経済状況と富国強兵策

上で書いた三晋が遷都をした頃の経済状況はどのようだったか。

大梁建設の際、魏は黄河から鴻溝を引き、大梁西方に長城・陽池などの防備施設を構築した。民を組織的に挑発することで大規模土木工事が可能になったのである。山林藪沢の開発によって農地も飛躍的に拡大し、誘致に応えて農民が他国に移住することが日常的に行われた。鉄製農具や牛耕の普及小農民の析出が本格化するのもこの頃であろう。

農業生産力の上昇にともない、大量の余剰人口を養う事が可能となり、諸侯の都城をはじめとする都市が発達した。都市に設置された「市」では三晋・周の布銭・斉・燕の刀銭、秦の環銭、楚の蟻鼻銭など青銅貨幣が用いられ、高額取引には黄金も用いられた。三晋では都市ごとに貨幣が鋳造され、都市の自立性の高さと評価されている。

出典:吉本氏/p51-52(文字修飾は引用者)

山林藪沢について

山林藪沢
古代史において、金石竹木あるいは皮革や羽毛など軍需物資を豊富に産した為、しばしば国富の基とされる地の総称。代表的なものに宋の孟諸、楚の雲夢、越の具区、趙の鉅鹿などが挙げられ、戦国韓の新鄭遷都や魏の大梁遷都もそれぞれ滎沢・濁沢の直轄化を目的の1つとしていた。 著名な山林藪沢は君主権の伸張や下剋上だけでなく、国力の浮沈をも左右し、戦国宋の滅亡や斉の没落を招いた済西の役も、「これに淮北を加えれば万乗の国に匹敵す」と評された孟諸の帰属争いが原因だった。 又た孟諸の帰属で紛糾する諸国の耳目を盗んで楚の雲夢を奪った秦は、全国制覇に向けて大きく優位に立つようになった。

出典:中国史補注.1/社会.1<風篁楼

戦国諸国の富国強兵策を支えた経済政策を、どう捉えるかについては、様々な角度からの研究がある。山林藪沢の経営が、その中枢にあったことは、鱒淵龍夫氏が提唱されて以来、定説になっている。出現し普及した鉄製農具によって、その耕地化が進んだ、という側面が重要なことは確かである。秦の場合、鄭国渠という灌漑用水を建設して穀物生産量を増加させたことが、中国統一の原動力になった、と司馬遷は書いている。

が、それ以前に、鉄器出現は、森林の伐採を容易にした、という側面も大きい。これによって森林草原が喪失し、狩猟や牧畜など定着農耕以外の生業は、困難になっていったのである。「夷狄」蔑視の土壌が発生したことになる。それでも残存した山林藪沢は、各地域毎に特徴のある、特に見事な樹木のある場所や、貴重な鉱山、鳥獣魚類の豊富な場所でもあり、何より「夷狄」の根拠地とさせないために、諸侯が直轄地にした場合が多い。その産物は、諸侯自身の収入を生み(「家産化」という)、貴族層と隔絶して強大な国君という存在を出現させた、と考えられている。山林藪沢の産物が「冨」を生んだのは、どこにでもありそうな森林が耕地化によって消滅し、広域流通によって利益を挙げうる希少性のある物資が発生したからである。

蟻鼻銭・刀銭・布銭など、戦国諸国毎に発行された貨幣は、これらの流通を担っていた。

出典:第6講<原宗子のホームページ

富の源であっただけではなく、「何より「夷狄」の根拠地とさせないために、諸侯が直轄地にした場合が多い」も注目点。春秋時代までは都市の周りには夷狄がいたが、戦国の君主たちはこれらを追い出した。戦国の諸侯国は領地が「点から面へ」と変わっていく。つまり領域国家になっていく。

「小農民の析出が本格化」

高校の世界史教科書的には、「鉄製農具と牛耕の普及により農業生産力が向上して、家族単位で農業経営できるようになり、農村共同体が解体された」。ということになっている。

一例が以下の図。

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出典:(pdf)中国における封建制の成立~諸侯の台頭について考える - Z会

上の吉本氏の引用では鉄製農具・牛耕に山林藪沢が加わる。というよりも、「山林藪沢の開発によって農地も飛躍的に拡大し、誘致に応えて農民が他国に移住することが日常的に行われた」ということで、山林藪沢の方がメインのようだ。

「小農民の析出が本格化」について、以上の他にもう一つ説がある。

小農民の経営は不安定であった。血縁に基づく大家族(一家の単位が氏族)で生活することで、食糧費・祭祀費や衣料費などを切り詰めて暮らしていた氏族制社会の解体が難しかった理由である。かれらを単婚家族(小農民、5人家族)として氏族の軛から切り離し、自作農とするためには、国家は豊作・不作に応じて穀価を調節しなければならない。李克は、このように国家が少農民の自営を保護する必要を主張、実践したのである。

出典:渡邉義浩/春秋戦国/洋泉社/2018/p91

李克とは魏の文侯に仕えていたブレーン。彼が「地力を尽くす教え」を記して上のように訴えたという。(同ページ)

さらに、李克に影響を受けたと言われる秦の宰相・商鞅について。

商鞅の第一次変法(孝公3年、前359年)は、氏族制社会の解体を目的とする。

民に対しては、二人以上の男子がいる家を分家させる「分異の令」を発令した。氏族制を分解して単婚家族(5人が標準)を創出するためである。その結果析出された単婚家族を編成するものが、「什伍の制」である。これは、5家(伍)を単位として、連座制をもうけて相互監視させる制度である。伍は徴税の単位となり、徴兵の単位ともなった。これによって、血縁で結びついた氏族ではなく、赤の他人同士が伍により組織されて、官吏の支配を一人ひとりが受ける民となるのである。

渡邉氏/p98

つまり国側は富国強兵の一環として、徴税と徴兵を確実にするために、一人ひとりを支配するために、氏族制社会の解体を推し進めた、というわけだ。

ただし、上述の吉本氏は商鞅の「変法」に関する「『史記』の記述は、戦国後期の法家の創作部分が大きい」として、「分異の令」の確実な証拠がないとして疑義を唱えている。(吉本氏/p52)

ちなみに、李克の「地力を尽くす教え」は『漢書』食貨志に書かれたものらしい。『漢書』は後漢代に書かれた史書だ。

鉄製農具や牛耕の普及

下は落合氏の説。

考古学的な研究が進むと、春秋時代から戦国時代初期までは、鉄製の農具はごくわずかしかつかわれていなかったことが明らかになった。つまり、鉄製農具はあったが「普及」はしていなかったのである。鉄製農具の普及は、今のところ戦国時代中期以降と考えられている。

牛耕も同様であり、牛に牽かせる犂や牛の鼻輪は、戦国時代までの遺跡からはほとんど出土していない。これも、最初にはじめられたのがどの時代かは確定していないが、普及は戦国時代の末期以降ということになる。

出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p86

まとめ

以上をまとめて考えると、「山林藪沢の開発によって農地も飛躍的に拡大し、誘致に応えて農民が他国に移住することが日常的に行われた」をメインにして、富国強兵策として小家族単位の支配(=徴税・徴兵の強化)を推し進めた。と考えるのが妥当かと思う。

これに加えて、国家は商業発達に対して商人から通行税や市場利用税を徴収した。



*1:吉本氏/p53

*2:佐藤氏/p207。秦の君主が天命を受けている話はp178~

*3:記事「中国文明:二里頭文化① 中原につながる黄河・淮河・長江 - 歴史の世界 」参照

春秋戦国:戦国時代③ 前期 最大の勢力は魏

さて、それでは戦国時代の中身の話に入っていこう。ちなみに前期(前5世紀中葉~前4世紀中葉)といっても私が勝手に時代区分したものなので、参考程度に。(記事「時代区分」 参照)

以下の歴史は、『中国史 上』(昭和堂/2016)の吉本道雅氏の執筆部分による。年代も基本的に吉本氏が書いたものを優先して使用した。

概説中国史〈上〉古代‐中世

概説中国史〈上〉古代‐中世

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三晋地図

出典:晋 (春秋) - Wikipedia

最大の勢力は魏

晋が分裂した後、どうなったか?三晋(魏・趙・韓)は晋の公室を取り潰すことをせず、形式だけだが臣従を示した。それでは晋公室を手中に収めていたのはどの勢力か?答えは魏。つまり魏が残りの2つの勢力に命令を出せる立場に立った。

前425年に趙襄子が卒すると、趙献侯(前423~前409)・韓武子(前424~前402)は中牟・宜陽に首邑を遷して衛・鄭の征服を開始し、斉・楚との対立を激化した。晋の正卿となった魏文侯(前455~前396)は、西方で秦を破り、晋烈公(前415~前389)を擁立し、前404年、周威烈王(前425~前402)の命を奉じ、三晋連合をひきいて斉を破った。[中略] 前403年、三晋は、威烈王より諸侯に公認された。三晋はなお晋侯に臣従したが、『資治通鑑』はこの年を戦国時代の開始とする(『繋年』には前422~前420)の晋楚戦争、前404年の晋斉戦争―三晋が越王翳(前411~前376)と結んで斉を攻め、斉・魯がまず越と講和し、ついで斉が魏文侯の率いる三晋軍に大敗した。晋烈公は斉・魯・宋・衛・鄭を率いて周王に朝した―、前400~前397年さらにその後数年に及ぶ晋楚戦争を記す)。

魏武侯(前397~前370年)は、楚を撃退し、周王朝・晋侯を奉じて、秦・楚・斉から中原を防衛する晋の覇権を再現した。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p49-50(吉本道雅氏の筆)

  • 正卿は行政の長。現代で言えば総理大臣か大統領。最高権力者の位置。

上の引用は、魏文侯とその次代武侯の時代に、趙・韓を晋侯の名のもとに従え、戦国七雄のその他の秦・楚・斉を戦争して制した魏が当代最強の国で、覇権を謳歌したことを示している。

魏の文侯

文侯(?―前396/386)
中国、戦国魏(ぎ)の君主(在位前445/424~前396)。字(あざな)は斯(し)、都。知伯を滅ぼした晋(しん)の魏桓子(ぎかんし)の孫。紀元前403年、周の威烈王(いれつおう)の時代、韓(かん)、趙(ちょう)とともに晋から独立して諸侯に列せられた。儒家の子夏を師とし、賢者の段干木(だんかんぼく)を客とし、有能の士を登用して賢君の誉れが高かった。西門豹(せいもんひょう)による灌漑(かんがい)事業、李(りかい)による法典編纂(へんさん)、農業生産力の増強、穀物価格の安定などで国内の中央集権化を推進し、外には呉起や楽羊を用いて中山、斉(せい)、秦(しん)、楚(そ)を討った。文侯の富国強兵策により、魏は戦国初期における強国の一つとなった。[田中柚美子]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)<コトバンク

有能な人材を適所に登用して富国強兵・中央集権を実現させた。文侯は最初の(もしくは最初期の)専制君主だ。後世の戦国君主は彼を手本としたことだろう。斉の威王や燕の昭王は文侯と同じことをしている(あまりに同じなので作り話かもしれない)。

最初の引用にあるように、魏侯は晋の正卿として晋を装い、さらに周王朝への勤王を装って覇者となった。

しかし魏のこの勢力は春秋時代の晋と比較すると、他国の争い・侵略を抑制する力は弱かった。

楚恵王(前488~前429年)が蔡(安徽省寿県)(前447年)・杞(山東省安邱県)(前455)・莒(山東省莒県)(前431)を併合し、越王朱句(前448~412)は、滕(山東省滕州市)(前415)・郯(山東省郯城県)を併合している。さらにまた最初の引用にあるように、趙・韓が衛・鄭の征服を開始し、斉・楚との対立を激化している。

さらには、春秋時代の「覇者体制」*1では、晋に貢納する中小国が多くあったが、魏に貢納するような中小国は大国に併合されて日に日に減少していった。

二代目、武侯

文侯の次代、武侯も覇者としてふるまったが、この時代になると近隣の小国は大国に併呑され、「西は秦、北は趙、東は斉、南は楚・韓などと国境を接するようになり、領土的な発展の余地がなくなった」*2

そして武侯の治世に次のような事態になる。

中原諸侯の存続を前提とする晋(事実上は魏)の覇者は、衛・鄭征服を図る趙・韓の志向と相容れず、前386年以後、三晋間の抗争が延々と続くことになる。魏は、韓を懐柔するため、前375年に鄭の併合を認め、翌年、晋侯にこれを認証させている。さらに魏・趙・韓はそれぞれ斉・楚・秦との提携に走り、これらから中原を防衛する覇権のありかたは自壊した。

出典:吉本氏/p50

三代目魏君、恵王

武侯を継いだのが三代目魏君、恵王(前369-319)だ。「侯」でなくて「王」なのは後述する。

武侯が亡くなると公位争いが起こる。武侯の嫡子で太子であった罃(おう)(のちの恵王)に叔父の公中緩が挑んできた。この内紛に趙・韓が介入して混乱を極めると、趙・韓両国は晋侯を屯留(韓の領地)に遷す(前369年)。さらに、趙・韓両国は周を攻めて周を分裂させた(分裂させた意図が分からない)*3

太子罃が公中緩の殺害に成功したため、魏は元の状態に戻ることができた。

前349年、三晋が晋を攻め滅ぼす。もはや利用価値が無くなったのだろう。最後の君主・静公は庶民になり、領土は三晋で分けられたという*4

前349年、晋が断絶すると、魏恵王は覇者認証を周王朝に迫ったが、魏の覇権を嫌った韓は、前343年、周と謀って秦孝公を覇者に認証させた。そこで恵王は、中原では周王朝だけが保持していた王号を称し、周王朝覆滅を図ったが、斉威王(前357~前320)に馬陵の戦で大敗した。

出典:吉本氏/p53

馬陵の戦いが前341年で、翌・前 340年には秦にも大敗を喫する。これにより魏の時代は終わった。



*1:晋による覇者体制

*2:武侯 (魏) - Wikipedia 

*3:孝王(前440-426)の頃に弟の掲(桓公)を周公の職位とともに王城(洛陽)の領地を与えた。この地に趙・韓が攻め込んだ挙げ句に分裂させ、東周公と西周公ができた。これで元々小さな領土しかない周王国は3分されることとなった。

*4:晋 (春秋) - Wikipedia 

春秋戦国:戦国時代② 晋の分裂、戦国時代のはじまり

戦国時代のはじまり、それは晋の分裂から始まった。

晋の分裂の重大性

春秋時代と戦国時代の画期は晋の分裂とされる。なぜ晋の分裂がそれほど重要なのかは、前回も触れたが、晋国が中原*1の覇権を握っていたからだ(春秋時代④ 晋の文公/晋による覇者体制 参照)。

春秋時代の大国であった晋は他国を併呑することに抑制的であったが(自国がやるにも他国がやるにも)、晋より分裂した韓・魏・趙は積極的に他国へ侵攻した。

これにより弱肉強食の戦国時代に突入することになる。

分裂までのあらすじ

韓・魏・趙は元々は晋の卿(大臣)クラスの家格だった。3氏(三家)のほかに別の3氏を加えて「六卿」という大臣になれる6つの家系があった。

春秋晋では文公が三軍を創設してより、各軍の指揮官である将と佐が卿として国政をも運営し、この将佐を指して“六卿”と通称しました。 将中軍が宰相である正卿を兼ね、以下、佐中軍、将上軍と続き、末席が佐下軍となりますが、初めは必ずしも将佐=卿ではなかったようです。 又た後には、軍と卿が増設された時期もありました。

六卿は本来は“時の六卿”を指していましたが、公室の衰えが決定的となり、伝統的な卿族が六家に絞られたB6世紀半ば以降は、范氏・中行氏・智氏・趙氏・韓氏・魏氏の総称でもありました。尤も、その期間は半世紀ほどに過ぎません。

出典:中国史:春秋補注/晋六卿

六卿のうち、韓氏以外は晋の公室とは別の一族だった。これは文公が長期にわたる公室一族どうしの争いを食い止めるために別の公族の勢力を削ぐ策だった。しかし時を経ると、六卿が権力争いをすることになる。*2

上のリンク先に春秋時代の晋国内部の権力争いの歴史が書かれている。これをみると、覇者として他国の権力争いを抑制する立場にあった晋でさえ頻繁に権力争いをしていたようだ。

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三晋地図

出典:晋 (春秋) - Wikipedia

晋が近隣の小国を滅ぼすとそこに県を設置し長官を置いたのだが、そこに六卿のうちの誰かが任命され、世襲し、権力を拡大していった。諸氏の管理領有する県や都城は当初は分散錯綜していたという*3。上図のように魏の領地が韓のそれを覆うようになっているのはそのためのようだ。

さて、六卿が晋の君主そっちのけで権力争いをしている中で、厲公は(前580-573年)は君主の権力を回復しようと努めたが、六卿の欒書・中行偃に殺された*4。欒書・中行偃が擁立した悼公は賢明だったと言われるが、六卿を圧倒する権力を回復することはできなかった。その後は公室の没落と六卿の権力争いは加速するばかりだった。

春秋後期の時系列。
前490年 六卿のうち、知氏、趙氏、魏氏、韓氏が中行氏、范氏を滅ぼした。
前454年 智瑶と趙・韓・魏が范氏と中行氏の領地を分割して自分たちの領地にした。
前453年 趙・魏・韓が智瑶を滅ぼし、智氏の領地を分割した。これは晋が三分割されたことを意味位する。
前403年 趙・魏・韓が周王朝より正式に諸侯に列せられる。

戦国時代のはじまりの年は複数の説があり定まっていないが、上の趙・魏・韓が事実上晋を三分割した年の前453年と、諸侯に列せられた前403年の2つが有力だ。

范氏と中行氏の滅亡は「両氏の反乱」とされ、知氏も最後の智瑶が強欲だったなどと史書に書かれているが、権力争いを勝ち残った趙・韓・魏の3氏も当然同様なことをやっている。3氏がむしろ勝ち残ったから反乱ではないのであり、智瑶より強欲だったから勝ち残ったとも言える。そして歴史は勝者が書くものだ。

三晋(趙・韓・魏)が晋を分割し独立した後も晋公室は細々と生き残った。前376年になって韓と魏の連合軍により滅ぼされたという*5



*1:おおよそ華北の範囲。当時の「中国」

*2:世界歴史大系 中国史1/山川出版社/p237(ひらせたかお氏の筆)

*3:ひらせ氏/同ページ

*4:厲公は驕奢淫逸にふけったとされているが、

*5:晋 (春秋) - Wikipedia

春秋戦国:戦国時代① 戦国時代の特徴/時代区分

これから戦国時代へ入る。

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出典:戦国時代 (中国) - Wikipedia *1

春秋時代と戦国時代の性質の違い

春秋時代の過半は晋国が中原*2の覇権を握っていた。春秋時代の晋は戦国時代の「戦国七雄」に比べるとはるかに保守的で戦いを好まなかった。晋は同盟諸国の争い事にまで干渉して下剋上を許さなかった。この晋の性格が春秋時代の秩序を統制していた。

晋は近隣の諸侯国を併呑する能力はあったが、おそらくそれらを恒久的に統治する能力がないことを自覚していたのだろう。晋が覇権を握って同盟国(従属国)から貢納(みかじめ料)を受け取るシステムを作ったことはおそらく賢明であった。

しかし戦国時代に入ると大国は小国を併呑するようになった。食うか食われるかの弱肉強食の時代となった。

春秋末期の晋は もはや覇権国家の影すら無いほどに落ちぶれていたが、これが魏・韓・趙の3国に分裂して率先して近隣の小国を併呑していった。春秋時代の秩序に戻ることは無いことは明らかになった。これが戦国時代の幕開けだ。

楚・秦・斉は晋の体制の外にあった大国だが、楚・秦は元々好戦的だったし、斉は君主が姜姓から嬀姓田氏に変わる下剋上が起こった。これに北東の燕が加わり「戦国七雄」の時代に入る。

その他の戦国時代の特徴

上述したとおり、戦国時代は弱肉強食の時代となった。戦争が常態化する中で各国は徴兵制を採用した。

その他の戦国時代の特徴は...以下引用。

春秋時代と戦国時代では、各諸侯の国内の政治でも大きな変化があった。春秋時代は貴族制であり、特に第きぞくである卿の力が大きく、行政・軍事・外交などの権力を握っていた。しかし、戦国時代になると、大貴族が消滅し、代わって君主が大きな権力をもつ「専制君主制」へ移行した。

戦国時代の専制君主制は、君主権が強化されると同時に、成分法(文章化された法律)・官僚制・徴兵制などが制定されたことが特徴である。また、この時期には、思想の発達や都市部での貨幣経済の浸透、鉄製の農具の普及などもあり、文明としても大きく変化した時代であった。

出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p84

時代区分

戦国時代の区分の仕方は一様でないと思うが、ここでは大きく3つに分けてみる。

前期(前5世紀中葉~前4世紀中葉):最大の勢力は魏

戦国時代の始まりの年代は、「wikipedia戦国時代)」によれば、7つもの説があるそうだが、有力なのは晋が魏・韓・趙に分裂した前453年と周王が正式に3勢力を諸侯として認めた403年の2つの説だ。半世紀も違う。どちらでもよいのだが、ここでは便宜的により古い前453年を採用する。

魏の文侯(在位:前445-396年)が他国に先んじて有能な人物を高官に採用して国内を充実させ、国外の戦争でも攻勢を続かせた。諸侯国らの中で最大の勢力を誇ることとなる。

前341年、馬陵の戦いで斉軍に破れ、翌年に秦に攻め込まれると魏の勢力は失墜する。

中期(前4世紀中葉~前3世紀前期):斉・秦の2強の時代

斉は元々大国として知られていたが、威王(在位:前356-320年)の代からさらに勢力を増した。各地から多くの学者を集めた(稷下の学士)のは威王が始めたことだった。

秦は元々大国であったが、この頃に国政改革が行われ(商鞅<前390-338年>の変法が有名)、国力が更に増大し中原に侵攻を繰り返した。しかし、斉を含む他の諸侯国に抑え込まれる形になっていた。ただし、前316年に巴蜀成都重慶)を併合して穀倉地帯を得て、さらに国力を増した。

斉の湣王(在位:前300年-284年)の頃は斉の全盛期であったが、燕の楽毅が率いる5ヶ国の連合軍に斉のほぼ全土の都市を落とされ、湣王は斉の将軍の淖歯に殺害される(前284年、済西の戦い)。斉はその後、湣王の子・襄王を戴いて将軍・田単が失地を回復したが、元の勢力を取り戻すことまではできなかった。

後期(前3世紀前期~前3世紀後期):秦の一強時代

斉の勢力の失墜により、秦の一強の時代となる。他の諸国は合従策や戦国四君の活躍、趙の必死の防衛などで秦の東進にブレーキをかけたが流れを変えることはできなかった。

紀元前221年、秦が斉を滅ぼして中華統一を果たして戦国時代は幕を閉じる。

*1:著作者:上図はPhilg88 、下図はBairuilong

*2:おおよそ華北の範囲。当時の「中国」

春秋戦国:春秋時代⑭ 孔子の登場 その6 徳治/孔子のルネサンス

徳治

「徳治(徳治政治、徳治主義)」とは、「道徳を以って政治をする」とか「徳のある人が政治をする」とかいう意味の言葉。

孔子の言葉として以下のようなものがある。

人民を導くのに法制をもってし、人民を統治するのに刑罰をもってすれば、人民は法律の網をくぐり抜けて恥じることがない。人民を導くのに道徳をもってし、人民を統治するのに礼節をもってすれば、人民は(徳と礼節を失う悪事に対する)恥を知りその身を正すようになる。『論語』(為政篇)*1

出典:『論語 為政篇』の書き下し文と現代語訳:1<総合心理相談 ES DISCOVERY

さて、ここで加地伸行氏は、そもそも道徳とはなにかということについて問いかける。

道徳には二種類ある、とする考え方がふつうである。一つは、普遍的なものである。たとえば、人を殺さないとか、人を裏切らないとかいったもので、古今東西を通じて、人々が納得するものである。いまひとつは、その次代その社会に適合した慣習である。たとえば、奴隷制の時代は、主人に絶対的服従するとか、社会主義国家では、私利の追求を禁ずるとか、といってものである。

出典:加地伸行儒教とは何か/中公新書//p99

一つ目。「人を殺さないとか、人を裏切らないとかいったもので、古今東西を通じて、人々が納得するもの」と書いてあるが、前近代では人を殺さないとか、人を裏切らないとかいったものは共同体を出ると通用しない道徳である。

二つ目は慣習。これは共同体固有のものだ。

つまり、道徳とは、前近代においては、「共同体内部における慣習」ということになる。

中国における共同体とは基本的には村だ。村は一族(宗族)で構成されているから一族の慣習=掟が道徳となる。

そして「徳のある人」とは慣習をよく知っている人ということで村長=一族の長のことになる。

孔子の政治の理想は、法制・刑罰で人民を束縛するのではなく、慣習(村の掟)で束縛すること、という意味になる。そして村長が裁く(結局、犯罪者は村の掟によって裁かれる)。ただし、この場合、慣習は礼によって構成されていなければならない。礼の無い慣習は孔子儒家は認めない。(礼については「「礼」と「孝」#「礼」とは何か」参考)。*2

そういうわけで、礼学の大先生である孔子の政治の理想は、中原(中国)にある全ての村に、法制ではなく、礼を周知させることが基本となるだろう。

ところで、『論語』に以下のような有名な対話がある。

葉の君主が孔子に自信満々に語って言った。『私の治める郷土に、正直者の躬という人物がいる。躬の父が羊を盗んだときに、躬は正直に盗みの証人になったのである。』。孔子は言われた。『私の郷土にいる正直者はそれとは違います。父は子のために罪を隠し、子は父のために罪を隠す。本当の正直さはそういった親子の忠孝の間にこそあるのです。』*3論語子路

出典:『論語 子路篇』の書き下し文と現代語訳:2<総合心理相談 ES DISCOVERY

徳治政治の世界では、この父子は村の掟によってどのように裁かれるのだろうか。

孔子が推し進めるルネサンスまたは宗教改革運動

孔子は全盛時の周の文化・礼制を復元し、それを継承し発展させるべく、魯に新王朝の樹立を願った。だがその実態は、古代の復興に名を借りた創作であり、その意味でこれは、一種のルネッサンス運動だと言える。

また孔子は、自分が進めるルネッサンス運動こそが、真に上天の意志に叶う事業であり、上天はその偉大な使命を、ただ一人自分に与えたとする信仰を抱いた。その意味でこれは、伝統的な上天信仰の元に開始された、一種の宗教改革運動だとも言える。

さらに孔子は、文武の道を復活させると称しながら、その中身を自分の創作とすり替えて先王の功績を横取りし、周に代わる新王朝創設者の地位に自ら収まろうとした。その意味でこれは周の再興を装った、一種の革命運動だとも言える。

孔子はこのような使命を果たすべく、上天よりカリスマを授けられた。儒教は宗教であるか否か、宗教だとすれば、それはいかなる宗教であるのか、儒教とは何かを考えるとき、孔子が自ら開示したカリスマ的性格を、我々は深く記憶しなければならない。

出典:浅野裕一儒教 ルサンチマンの宗教/平凡社新書/1999/p45-46

孔子のカリスマはほとんど門人に限られたようだが、孔子を崇め奉った門人たちの活躍により、孔子の推し進めたルネサンスまたは宗教改革は達成された。ただし、孔子の究極の目的は自分が王となって天下に「徳治」を周知させることだったが、これは実現できなかった。



とりあえず、孔子はこれでおしまいにする。

儒家以外の諸子百家の話は戦国時代の話の中で取り上げよう。

*1:子曰、導之以政、斉之以刑、民免而無恥、導之以徳、斉之以礼、有恥且格。

*2:平氏によれば、現在でも村長が裁判権を持っているとのこと。全部の村がそうだとは私も思わないが。「特別番組「中国人の善と悪はなぜ逆さまか~宗族と一族イズム」石平 倉山満【チャンネルくらら・12月30日配信】 - YouTube」参照。

*3:葉公語孔子曰、吾党有直躬者、其父攘羊、而子証之、孔子曰、吾党之直者異於是、父為子隠、子為父隠、直在其中矣

春秋戦国:春秋時代⑬ 孔子の登場 その5 「天」と「仁」/孔子の登場 まとめ

前回に引き続き、儒教における重要な要素を書いていく。

今回は「天」と「仁」。

「天」は孔子儒教を作った時の重要な要素の一つ。

「仁」は儒教の最高の徳目と言われている。

「天」

中国では古代に葬送儀礼を行なった集団を「儒」と称しました。そのように、儒といえば、もともとは民間の祖先祭祀の儀礼を専門的に執り行なう人たちを指していました。このことと深く関わるのですが、儒教には天を「天なる父」と崇拝する思想が顕著に見られます。

天の崇拝は中東から中央アジア北アジア遊牧民の間に広く見られます。孔子の時代の中国では、すでに定着農耕が広く行われていましたので、農耕民の間では、天は母なる大地に豊かな稔りをもたらす父の威力と感じられていました。

古代、天は天帝ともいわれる人格神として信仰され、王朝の君主は天帝の意志によって立てられたり、廃されたりするものと考えられていました。こうした天帝信仰を背景として、知識人の間では、天を世界のあらゆる物事を律する法則とみなす思想が生まれていきました。そして、やがては宗教的な信仰とは別に、孔子のように世俗的・非宗教的な道徳思想や哲学が中国に盛んとなっていったのです。

孔子は、古くからの父系血族の祖先崇拝を軸とする家族の道徳を、さまざまに価値づけて体系的に整理し、これを社会へ、国家へと拡張して一個の普遍的な道徳思想を完成させました。孔子が拠ってたったのが、「道徳は天の法則としてある」という普遍主義でした。

家族結合の強さが天下の秩序を強固なものにするということから、孔子は「君主や諸侯が家族的な連帯意識でまとまり、道徳にのっとった徳治政治を行なうべきだ」と説いて回ったのだと理解できます。当時は、実力主義で抗争が激化していた時代でした。そのように、力による政治を否定し、道徳に基づいた家族主義的な国家と政治のあり方を説いた孔子に、儒教の根本を見ることができるでしょう。

出典:呉善花(お・そんふぁ)/日本人として学んでおきたい世界の宗教/PHP/2013/p211-212

「天」の思想は、殷代末に西北の牧畜民であった周族が中原に流入したもの。「帝」は殷代中期の武丁が「採用」した一神教的な神。この2つが西周代に合体(習合)して「天帝」となった。

また「天」の思想は、「天命思想」につながる*1。「天命」は周の文王が受命したということで有名だ。天命を受けた者が世界を統治するという思想。「世界」とは文字通り地上の全てである。そして「天命」を受けた者が「天子」で地上の最高統治者だ。

西周代の天子はもちろん周王だったが、周王朝の力が弱まった春秋時代では幾つかの諸侯が天命を受けたと言い出した*2

「天」「天帝信仰」「天命思想」は中国の歴代王朝に受け継がれる。これらの思想・信仰は上述のように儒教固有のものではないが、孔子は自ら説いた「孝」(道徳・倫理)とこれらを見事に調和させた。現代にまで儒教が残っているのは、「天」と「孝」の調和の成果だ、と思う。

「仁」

儒教において最高の徳目は「仁」と言われる。

私個人としては「孝」のほうが重要で、「仁」の意味がよくわからないのだが、一般的に最高の徳目ということになっているらしい。

「仁」は『論語』の中で最も多く語られている徳なのだが*3孔子は相手の質問によってさまざまに答えている*4

しかし、「仁」の本質を語っているものは多くないのではないか(私は調べていないのでわからないが)。

「孝弟なる者は、其れ仁の本為るか」(『論語』学而篇)

これが本質。

「孝弟」の「弟」は「悌」で「兄や目上の者に素直につかえること」*5。つまり、「仁」の根本は、家族愛あるいは、宗族(中国における氏族。父系。)の中の孝悌である。

ただし、孝悌は「仁」の本(もと)と言っているのだから、「仁」が愛情をそそぐ対象は宗族よりも外にまで広がる。だから「仁」を「万人を愛す」と解釈される。

ただし、「仁」はすべての人を平等に愛する「博愛」とは違う。墨子の「兼愛」は「博愛」と同じだが、孟子は〈父を無みし君を無みする禽獣の愛なり〉(親・君主と他人の区別をつけない愛など禽獣の愛と変わらない)と厳しく批判している。

孔子の「仁」は「礼」つまり秩序の中にあり、近しい人にはより濃い愛情を、縁遠い人にはそれなりの愛情を示すのが「仁」である。

「仁」は親戚以外の人たちも慈しむ(思いやる)こと

「仁」は親戚以外の人たちも慈しむ(思いやる)こと。ただし、平等愛ではなく、人間関係の濃度に応じて、愛情の濃度に差異がある。

上のような説明だと当たり前のことのようにしか思えないかもしれないが、「仁」の本質はこれだ。

あとは、「己れの欲せざるところ、これを人に施すなかれ」(『論語』顔淵篇)*6とか、「巧言令色(言葉を巧みに飾り、顔色をとり作ったりするような)な人に仁はない」(学而篇)*7などと語られているが、本質ではない(と思う)。

国史全体を通して中国社会は弱肉強食の世界で、赤の他人を不用意に信じると必ず裏切られるという。「仁者」は赤の他人をも愛することができる人を指すが、他人を愛し裏切られない者がいたら、それは尊敬されるだろう。



*1:天命は旧約聖書に出てくる預言者への信託と同じだろう

*2:春秋前半期の〈秦公及(および)王姫鐘〉に「わが祖先は天命を受け、国土を授けられた。輝かしく明らかなる〔秦の〕文公・静公・憲公は、上天に謹み、天意にかない、蛮方をよく治めた」という意味の銘文が記されている。

*3:湯浅邦弘/諸子百家中公新書/2009/p89

*4:仁 - Wikipedia

*5:悌(テイ)とは - デジタル大辞泉/小学館/コトバンク

*6:五常 - Wikipedia

*7:仁 - Wikipedia