歴史の世界

エジプト第3中間期③ 第22王朝 2代目オソルコン1世から/第23王朝

前回からの続き。

2代目オソルコン1世から

シェションク1世(前945年 - 前922年)
オソルコン1世(前924年 - 前887年)
シェションク2世(前887 - 前885年)
タケロト1世(前885年 - 前872年)
オソルコン2世(前872年 - 前837年)
シェションク3世(前837年 - 前798年)
シェションク4世 (前798年 - 前785)
パミ(前785年 - 前778年)
シェションク5世(前778年 - 前740年)
ペディバステト2世 (前740 - 前730年)
オソルコン4世(前730年 - 前715年)

出典:エジプト第22王朝 - Wikipedia

初代シェションク1世を継いだオソルコン1世の治世は平和だった。ただし彼はエジプトが再び分裂する火種を残した。

シェションク1世が紀元前924年頃に死亡すると、長兄のオソルコン1世が王位を継承した。オソルコン1世はアメン大司祭職にあった弟のイウプトに代えて、自分の息子シェションク2世をアメン大司祭とした。そしてシェションク2世を共同王として後継者にする意思を表したが、シェションク2世は父に先立って死亡ししまった。シェションク2世の死亡から程なくオソルコン1世も死亡した。その結果オソルコン1世の別の息子、タケロト1世が王位を継承したが、彼の治世に関しては記録がほとんど残されていない。一方、テーベではシェションク2世の息子ハルシエセがアメン大司祭職を継いでいた。

タケロト1世が死亡すると、オソルコン2世が王位を継いだが、アメン大司祭でありかつての「正統な王位継承者」の息子であるハルシエセの権勢は強く、またテーベに漂う独立の機運も手伝ってオソルコン2世治世第4年、ハルシエセは王を称して共同王となった。

両者の関係は複雑であったが、直接的な対立は最後まで避けられた。そしてハルシエセが死亡すると、オソルコン2世はすかさずアメン大司祭職に自分の息子ニムロトを就けてテーベに対する統制を回復した。しかしこの後も南方のアメン大司祭職を巡る問題は第22王朝の政治的統一に影を落とし続ける。

出典:エジプト第22王朝 - Wikipedia

オソルコン2世の後はシェションク3世が継ぐのだが、彼の素性がよく分からない。そしてアメン大司祭に就いていたタケロト2世(オソルコン2世の孫)は彼を承認せずに、テーベで王となった。これが第23王朝となるのだが、この王朝については別の項で書く。

シェションク3世以降は複数の王が並立する時代に突入するのだが、詳しくは分かっていない。

最終的にはヌビアの王(第25王朝)がアフリカ全土を支配する。エジプトを分割していた諸王はヌビア軍に降伏した。ヌビア王はヌビアに帰るにあたり、諸王を元の領地の王として(属国として)認めたのだが、その後の第22王朝のことは分からない。

第23王朝

上述のようにアメン大司祭であったタケロト2世(オソルコン2世の孫)(前840-815年)が王を名乗って出来た王朝。以前は、第23王朝はナイルデルタ中央の都市レオントポリスを中心とした王朝とされていたが、今は上エジプトを支配した王朝にされているようだ。古代エジプト研究の事情のことは分からない。

タケロト2世の治世11年にペディバステト(彼も出自がよく分からない)(前829-804年)が反旗を翻し、権力争いが起こった。一部の研究者によればペディバステトは第22王朝に援助を受けていたとされる。ペディバステトはタケロト2世の死後に王位に就いた。

タケロト派とペディバステト派の権力闘争はその後も続いた。さらに上下エジプトには第22・第23王朝以外の王(地方勢力)が存在 のだが、権力闘争以外の事績についてはほとんど分からない。

最期の王イウプト2世(前754-715年頃)はヌビアの王の侵略に諸王と同盟を結んで戦うが破れて軍門に降った。

第24王朝

諸王並立時代にテフナクト(1世)(前732–725年)が王と名乗って出来た王朝。ただし彼を含めて2人しか名前が確認されていない。この王朝はナイルデルタ西部の都市サイスを根拠にして主にナイルデルタ西部に勢力を張った。

テフナクトは「西方の首長」、「リビア人の首長」「メシュウェシュの首長」と称していたのでリビア人と思ったら、そうではなく、アメン神官だということだ *1

テフナクトもまた諸王と同盟してヌビアと戦ったが破れて忠誠を誓った。ただしヌビア王は全エジプトを征服した後にヌビアに帰ってしまい、テフナクトは反乱を起こしてナイルデルタを版図とする王となった。

テフナクトの死後、息子のバクエンレネフ(前725-720年)があとを継いだが、再びヌビア軍に攻め込まれ、バクエンレネフは殺されて王朝は滅亡した。



エジプト第3中間期② 第21王朝/第22王朝 初代シェションク1世まで

この記事では、歴代王の整理の出自がどのようなものであったかという問題がほとんどで、事績などは断片的なものしか書いていない。記録が少ないのだから仕方がない。

第21王朝

スメンデス1世 前1069年 - 前1043年
ネフェルケレス 前1043年 - 前1039年
プスセンネス1世 前1039年 -前991年
アメノフティス 前991年 - 前984
オソルコン 前984年 - 前978年
プシナケス 前978年 - 前959年
プスセンネス2世 前959年 - 前945年

出典:エジプト第21王朝 - Wikipedia(一部改変)

王の系譜は諸説あり、上はその中の一つの説。

この王朝の史料は少ないので分かることは少ない。

スメンデス1世はナイルデルタ東方のタニスの知事であったが、第20王朝最期の王ラメセス11世の娘と結婚することで王位継承権を得たとして、ラメセス11世の死後に王となった。在位中に第20王朝の王都ペル・ラムセスからタニスに遷都した。

形式上ではあるが、アメン大司祭国家(前回の記事参照)は彼らを全土の(上下の)エジプトの王と承認した。そしてスメンデス1世はテーベのカルナック神殿の補修工事をしたという記録がある。

プスセンネス1世は、アメンの大司祭(アメン大司祭国家の長、事実上の王)のパネジェム1世とラムセス11世の娘ヌトタウイの息子。この父母の他の数人の息子は大司祭になっているので、1つの家族がエジプト全土を支配したと言えるだろう。プスセンネス1世の事績としては旧都ペル・ラムセスからを解体して、その資材をタニスの建造その他に使ったことが記録されている。ラメセス2世の巨像やオベリスクがタニスにあったのはそのためだ。

アメノフティスはプスセンネス1世の息子のようだが、その次のオソルコン *1リビア系の人物。彼の家系と王家は姻戚関係を持っていた *2

プシナケスは、一説によればオソルコンの娘婿とのことだが、その次のプスセンネス2世は大司祭パネジェム2世の息子。また大司祭の血縁者が王に返り咲く。

歴代の王の素性や治世についてすら論争があるくらいで、治世についてはほんの少しの断片くらいしか分からない。

第22王朝 (初代シェションク1世まで)

シェションク1世(前945年 - 前922年)
オソルコン1世(前924年 - 前887年)
シェションク2世(前887 - 前885年)
タケロト1世(前885年 - 前872年)
オソルコン2世(前872年 - 前837年)
ハルシエセ(前870年 - 前860年)
シェションク3世(前837年 - 前798年)
シェションク4世 (前798年 - 前785)
パミ(前785年 - 前778年)
シェションク5世(前778年 - 前740年)
ペディバステト2世 (前740 - 前730年)
オソルコン4世(前730年 - 前715年)

出典:エジプト第22王朝 - Wikipedia

この王朝はリビア人王朝として知られる。初代シェションク1世はリビア系の部族メシュウェシュの血を引く人物で、祖父のシェションク(シェションクA)は「マーの首長(メシュウェシュの大首長)」という称号を持つ人物で第21王朝の大オソルコンの父でもある。 シェションク1世 - Wikipedia によれば、彼の家系は「王家と縁戚関係を持つ程に大きな権力を得た名士」の家系だった。大オソルコンとシェションク1世は叔父・甥の関係になる。

シェションク1世自身も「マーの首長」の称号を保持し、さらには将軍(軍最高司令官)でもあった。第22王朝最期の王プスセンネス2世にマアトカーラーという娘がいるのだが、彼女はシェションク1世か次代のオソルコン1世の妻と言われている(どちらかは分からなかった)。

このような背景を基に、彼は王となった。ただしあくまでエジプトの伝統を継承する王であり、リビアの文化を優先させるようなことはしなかった。また、彼の根拠地はナイルデルタ中央の都市ブバスティス(リビア人の入植地)であったが、政治は第21王朝に引き続きタニスで執り、王室はブバスティスに置いた。ブバスティスは当然のことながら財力を投入したので経済的にも盛えた。

シェションク1世については、事績が詳しく遺っているので書いていく。

シェションクは自分の息子イウプトをアメン大司祭を送り込むことに成功した。これはアメン大司祭国家を吸収合併したということ、すなわちエジプト再統一を果たしたということだ。イウプトは上エジプト長官、軍司令官も兼任したが、アメン大司祭国家の組織はそのまま継続させた。

もうひとつの大きな事績として、シリア・パレスチナへの遠征がある。多くの研究者は旧約聖書に登場する「シシャク」と比定している。イスラエル関連については別の記事で書くとして、大きくはシリア・パレスチナの遠征は成功を収めた。このことは、テーベの神殿の記録やメギド(現在のイスラエル北部にあった都市)に証拠となる石碑の断片などによって事実と結論付けられている。ただし、彼の地を支配できたかどうかはよく分からないが、できたとしても長くは続かたかった。

シェションクはこの遠征の後に亡くなった。以上のように彼はエジプトの偉大な王の一人と言うことができる業績を上げている。

*1:第22王朝の2人のオソルコンと区別するために大オソルコン Osorkon the Elder と言われることがある

*2:シェションク1世 - Wikipedia

エジプト第3中間期① エジプト第3中間期の説明/アメン大司祭国家

古代エジプト文明の黄昏。

エジプト第3中間期

第20王朝の終わりを以って新王国時代が終わる。そして第3中間期が始まる。

新王国時代では、エジプトはオリエント世界の覇権国家だったが、第3中間期からは国内は混乱が治まらずに国外からの侵略の対象となってしまった。長く続いた栄光ある古代エジプト文明はこの衰退から復活することはなかった。

この「中間期」が終わると次は「末期時代」が始まる。この時代は他国の支配下にある時代だ。

アメン大司祭国家

前1080 - 1074年頃 ヘリホル
前1074 - 1070年頃 ピアンキ
前1070 - 1032年頃 パネジェム1世
前1054 - 1046年頃 マサハルタ
前1046 - 1045年頃 ジェドコンスエフアンクウ
前1045 - 992年頃 メンケペルラー
前992 - 990年頃 スメンデス2世/ネスバネブジェド2世
前990 - 969年頃 パネジェム2世
前969 - 945年頃 プスセンネス3世/パセブカエムニウト3世

出典:ファラオの一覧 - Wikipedia (一部改変)

第20王朝の末期にテーベのアメン神官団が事実上 独立した。これをアメン大司祭国家という。ただし他の王朝とは違い、ナンバリングされていない。

少し遡る。

ラメセス11世(前1098-1070年頃)の治世10を過ぎた頃、クシュ(ヌビア)の総督パネヘシが北上してテーベの街を包囲した。当時の王はペル・ラメセスの王宮(ナイルデルタの東)に居たので、ここから国王軍をテーベに派遣した。

国王軍とパネヘシの戦いは国王軍が勝ったのだが、パネヘシはヌビアに戻って追撃の軍を追い払った。その後の話として大司祭国家の2代目ピアンキと交渉(または戦争)をしたという記録がある *1

国王軍の将軍はパイアンクという人物だが、パイアンクはテーベからパネヘシを追い払った後、「宰相」と「大司祭」を自称してテーベに居座り、上エジプトを支配した。そしてこの地位を継承したのがヘリホルという男で、彼がアメン大司祭国家の初代とされる。

ヘリホルの素性の詳細は分からないが、彼は子供の何人かにリビアの人名を就けたことからリビア系だったかもしれない。第20王朝の末期には軍隊にはリビア人が多く採用されていたので、その中から成り上がった可能性はある。

ヘリホルは独自の元号「ウヘム・メスウト(再生の意)」を採用し、独自に王号と即位名を用いて王として振る舞った。

しかし、第20王朝の王権は認めていた。ヘリホルは財力はあったが(ヌビアの金や神殿の財力)、下エジプトを征服する力はなく、さらに言えば下エジプトと敵対するとシリア・パレスチナとの交易ができなくなる(木材がどうしても必要)。

ヘリホルの次代、二代目ピアンキの治世は4年と短かった。ピアンキとパネヘシの件については上述。ピアンキはラメセス11世と同年に亡くなったとされる。

ピアンキの次代、三代目はパネジェム1世はラメセス11世の娘ヘヌトタウイと結婚し、正当な王であると称したが、下エジプトに新しくできた第21王朝とは友好的な関係を保った。

六代目メンケペルラーは父パネジェム1世よりも"控えめ"だった。

父パネジェム1世がカーケペルラー・セテプエンラー(『ラーの魂の出現、アメンに選ばれし者』の意味)という明確な現人神としての称号を用いたのに対し、メンケペルラーは曾祖父ヘリホルと同じヘムネチェルテピアメン(『アメンの第一の預言者』の意味)の称号を用いた[3]。これはメンケペルラーが自らファラオのような神性を帯びることはなく、あくまでも神の意志の代行者としての立場に留まっていた事を示す。

出典:メンケペルラー - Wikipedia

そして次代のスメンデス2世以降は、王号やカルトゥーシュを使用せず、アメン大司祭として形式的に第21王朝に臣従した(事実上は独立国家のまま)。

下エジプトで第22王朝が成立すると、この王朝はアメン大司祭国家を統合して上下エジプトを統一する。アメン神官団の最高位アメン大司祭の職は王族が占めるが、その他の組織は従来と変わらなかった。つまり新王国時代のアメン神官団に戻った、ということができる。



*1:正確に言えば、ビアンキがパネヘシに会いに行くという記録がある。交渉の内容の記録はない

【読書ノート】江崎道朗『天皇家 百五十年の戦い』

副題は《[1868-2019] 日本分裂を防いだ「象徴」の力》

この本は平成末の平成31年(2019年)4月1日に出版された。ちなみに令和が始まるのが2019年5月1日。

「百五十年」とあるが、中心は平成代の天皇である(現在の)上皇陛下の事績だ。

ただしこの本は、その事績をなぞって懐かしむだけではなく、上皇陛下の事績からそのお考えや思いを明らかにし(「推し量り」と言ったほうがいいのかも)、天皇または皇室が日本国・日本国民にとってどのようなものかを示すものとなっている。

そして、天皇・皇室のことを理解することは「皇室を支える国民の務め」と書いてある。

目次

はじめにー見落とされた「国家の命運と皇室の関係」
第一部 君民共治という知恵ーー近代国家と皇室の関係
    第一章◎中江兆民と「君民共治」
    第二章◎福沢諭吉の「二重国家体制論」
第二部 皇室解体の逆風ーー昭和天皇天皇陛下の苦悩
    第三章◎昭和天皇天皇陛下・戦後の戦い
    第四章◎変質した内閣法制局
    第五章◎皇室の伝統と日本国憲法
第三部 日本分裂を防いだ皇室の伝統
    第六章◎平成の御巡幸
    第七章◎慰霊の旅
    第八章◎沖縄とのかけはし
    第九章◎災害大国を癒す力
    第十章◎敗戦国という苦難
おわりにー皇室を支える国民の務め

出典:天皇家 百五十年の戦い - 株式会社ビジネス社

明治の国家体制が立憲君主制になるまでの流れ

上述の通り、この本の中心は上皇陛下の事績だが、副題には[1868-2019] とある。

約150年前の話としては、(明治天皇の事績ではなく、)日本を(君主がいない)共和制にするか否かの議論(第1章)と天皇論(第2章)が書いてある。

私は、明治維新の当初に立憲君主制が採用されたことを当然のことのように思っていたが、実際は、共和制を主張する人たちが多くいた。

つい先ごろまで尊皇攘夷志士だった人たちが共和制を議論するなんて想像がつかないのだが、そのエネルギーの総量は膨大で渦中にいた公家の岩倉具視は右往左往するばかりだった。

このような議論の中で中江兆民は、国家百年の大計に対して奇をてらうような議論をしてはならないと諭し、以下のように説いた。

共和政治 という のは ラテン語 の「 レスピュブリカー」 を 訳し た 言葉 で あっ て、 政治 を 一部 の 人々 が 独占 する 有司専制 では なく、 全国 人民 の 公 の もの と し て いる 政体 で あれ ば、 どれ も「 レスピュブリカー」 なの だ。 君主 の 有無 は 関係 ない。

出典:江崎道朗. 天皇家 百五十年の戦い (Kindle Locations 256-258). ビジネス社. Kindle Edition.

そして中江自身は「 レスピュブリカー」の訳語は「君民共治」のほうがふさわしいとした。

そして天皇・皇室の意義については以下のように主張する。

天皇 は、 政府、 国会、 人民 の 争い を 超え た ところ に 存在 する ので あっ て、 そうした 天皇 が 存在 し て 下さる こと で、 日本 は どっしり と 荒波 を 進む こと が できる もの なの だ。

出典:江崎道朗. 天皇家 百五十年の戦い (Kindle Locations 331-333). ビジネス社. Kindle Edition.

このことは本の中で著者が何度も強調するところだ。

そして著者はもうひとり金子堅太郎の主張を紹介する。

金子は
《[君主のいない]共和制 の 政治 という もの は、 政治 の 議論 の 分裂 によって 多数派 が 少数派 を 弾圧 する こと になり、 その 悲惨 さは 君主制 の 圧制 より 激しく なる もの だ *1
と指摘し、以下のように、共和制という目新しいものに魅了されてしまっている人たちをたしなめている。

真に 国 を 愛する 政治家 は、 従来 から その 国 に 存在 し て いる 慣習 を 尊重 し て 折衷 的 に 改革 を 行お う と する。 慣習 に 基づく 社会秩序 を 尊重 し ながら 政治 を よく し て いこ う と する 政治 勢力 を 生み出し て いく こと が 政治 の 基本 原則 で ある。

出典:江崎道朗. 天皇家 百五十年の戦い (Kindle Locations 442-444). ビジネス社. Kindle Edition.

金子は、フランス革命に大きな影響を与えたジャン=ジャック・ルソーの理論と、革命理論がイギリスで蔓延ることを阻止しようとするエドマンド・バークの言論を深く比較研究して君主制の優位を説いた。

そして当時の政治指導者層は金子の主張を受け入れて
《日本 は 日本 の 歴史 と 伝統 と 慣習 を 踏まえ た 法 制度 を 作ら なけれ ば なら ない の だ *2》 という考えで一致して進むことになった。

こうした共和制が退けられるのだと、この問題と並行して天皇親政か立憲君主かという議論があった。

この議論では、伊藤博文立憲君主を主張して、結局のところ、国家体制、すなわち政治と天皇・皇室のありかたを
《「 政治権力 の 行使 者 として の 政府」 と「 国家 の 永続性 を 表示 する 政治的 無 答 責 の 君主」
*3
に分けることにした。この部分は中江の主張するところと重なる。

そして薩長藩閥政府を批判する自由民権運動の議論を経て、「天皇の政府」対「天皇の議会」という国家体制に落ち着く。

天皇 の 議会」 などと いう と、 天皇 による 国会 支配 を 正当 化 する のかと 誤読 さ れる こと が 多い が、 その 真意 は、 政府 と 国会 は 対立 する のでは なく、 ともに「 天皇 を 戴く」 という 一点 で 結びつき、 日本 の 国益 と 民 の ため の 政治 を 実現 する パートナー として 見なそ う という こと で あっ た の だ。

出典:江崎道朗. 天皇家 百五十年の戦い (Kindle Locations 523-526). ビジネス社. Kindle Edition.

福沢諭吉が主張する天皇・皇室の役割

第二章の《福沢諭吉の「二重国家体制論」》の「二重国家体制論」とはどういう意味か?

文明開化 を 先導 し た 福沢諭吉 は、「 欧米 文化 摂取 と 資本主義・自由 な 議会 による 富国強兵」 路線 と、「 神武天皇 以来 の 国家 の 安泰 と 国民 の 安寧 を 祈る 皇室 の もと での 国民 福祉 の 増大 と 精神文化 擁護」 という 二つ の 国家 路線 の 両立 を 提示 し た。 これ を 皇室 と 政府 という 二重 国家 体制 と 呼ぶ こと が できよ う。

出典:江崎道朗. 天皇家 百五十年の戦い (Kindle Locations 679-683). ビジネス社. Kindle Edition.

福澤は、天皇・皇室が国家・国民の安寧を、ただ祈るだけではなく(祭祀も重要だが)、守ることも役割だと考えている。

もちろん皇室だけで国民全体を十分に満足させることはできないが、天皇・皇室はこれを実践した。この本で書かれているのは、明治天皇恩賜財団済生会を創設されたこと、昭憲皇太后明治天皇の皇后)は東京慈恵病院の設立および日本赤十字社の基礎づくりへの尽力、大正代には関東大震災で被災した老人たちを救済収容する目的で財団法人浴風会を設立した。近年では私たちが何度も目にしたように上皇・皇太后両陛下が被災地に訪問されて被害者に膝を突き合わせるようにして寄り添っていた。

本書の「戦い」の意味

この本における「戦い」の意味は、一言で言えば、国家・国民の安寧を守る姿勢・行動のことだ。一つ引用をする。

細川 首相 や 国会 の 謝罪 決議 に対して 様々 な 反対 論 が 噴出 し、 論争 が 行わ れ た が、 天皇陛下 は その 論争 と 異なる 次元 で 国家 の 命運 を 守る 戦い をさ れ て い た。 国 の ため に 尽くし た 人 たち が い て、 今 の 日本 が ある の だ という、 国家 として の 連続 性、 国 の ため に 尽くす こと が いささか も 間違っ た こと では ない という、 民族 の 魂 を 守る 戦い を し て 来ら れ た の だ。

出典:江崎道朗. 天皇家 百五十年の戦い (Kindle Locations 2552-2555). ビジネス社. Kindle Edition.

細川首相は前の戦争を「侵略戦争」と表現した初めての首相だ。この次の首相が村山首相になるわけだが、村山政権の時、1995年(平成7年)に「戦後50年の謝罪決議」をした。

これらの言動に対して著者は
《政府 が 遺族 に対して「 お前 たち は 侵略 者 の 子供 で ある」「 侵略 者 の 妻 で ある」 と レッテル を 貼っ た に 等しい。 *4》 と書いている。

戦後の昭和代から皇族の方々は何度と無く戦没者の遺族を訪問して彼らの話を聞き続けた。遺族の痛み苦しみを引き受けるのが皇室の役割だとしているからだ。

そして上皇陛下はこの戦後50年に「慰霊の旅」(第7章)を行なった。そして被爆者や戦没者遺族一人ひとりの話を聞いた。戦後50年という節目の時に政治家からは上のような発言がなされたわけだが、上皇陛下は外国への訪問をせずにひたすら戦没者を悼み、遺族を思い続けた。 *5

これ以外の「戦い」も多く書いている。GHQとの戦いや内閣法制局との戦いも重要だ。

継承の重み

「戦い」の中にはマスメディアとの戦いもあった。戦後ずっと「天皇の戦争責任論」というものが論争の種になってきた。これを上皇陛下に問いただす記者が少なからずいたようだ。

しかし上皇陛下は責任があるとも無いとも言わなかった。その理由は上述のとおりだ。

昭和天皇 の 戦争 責任 論 が 再燃 し ても 政府 が まったく 頼り に なら ない 中 で、「 昭和天皇 の 御心 を 承け 継ぐ」 と 宣言 する こと は、 戦争 責任 という 問題 を 承け 継ぐ こと にも なる。

引き受ける のと、 切り離す のと、 どちら が 楽 かと 言え ば、 もちろん 切り離す 方 が 楽 なの だ。 ドイツ の ワイツゼッカー 大統領 の よう に「 時代 が 変わっ た の だ から、 私 には 戦争 責任 は 関係 あり ませ ん」 という やり方 も あり 得 た。

だが、 天皇陛下 は 安易 な 道 を 選ば れ なかっ た。

出典:江崎道朗. 天皇家 百五十年の戦い (Kindle Locations 1933-1937). ビジネス社. Kindle Edition.

ワイツゼッカー大統領のようなことをしたら伝統を放棄することになる。皇室の意義は失われるのは必定だ。

そして伝統を継承するということは、皇統の継承とともに、天皇・皇室の役割の継承でもある。

「皇室を支える国民の務め」

本書の終わりを締める章が「おわりにー皇室を支える国民の務め」。

ここでは平成28年8月8日の上皇陛下(当時は天皇)のお言葉「 象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」について詳細に解説されている。以下はその一部で、著者が読者に最も訴えかけたい中のひとつだ。

ここ で 陛下 は 極めて 重要 な こと を 指摘 さ れ て いる。《 国民 統合 の 象徴 として の 役割 を 果たす ため には、 天皇 が 国民 に、 天皇 という 象徴 の 立場 への 理解 を 求める》 という 一節 だ。 国民 統合 の 象徴 が 成り立つ ため には、 天皇陛下 の 努力 だけで なく、 国民 の 側 が 象徴 として の 天皇 に対する「 理解」 が 必要 だ と 指摘 さ れ て いらっしゃる の だ。

皇室 が 国民 統合 の 象徴 で あり 続ける ため には、 国民 の 側 にも、 皇室、 特に 皇室 の 伝統 を 理解 しよ う と する こと で「 皇室 を 支える 国民 の 務め」 を 求め られ て いる、 という こと だ。

しかし、 残念 ながら 日本 の 学校教育 では、 皇室 について の 理解 を 深める 教育 は ほとんど なさ れ て い ない。 それどころか、 国歌「 君が代」 反対 闘争 という 形 で、 皇室 批判 の 教育 が 横行 し て いる。 マスコミ も また、 皇室 の こと を あまり 報じ ない し、 日本 政府 も、 天皇陛下 の お 誕生日 などに 盛大 な 行事 を する など し て、 天皇 について の 国民 の 理解 を 深める といった 最低限 の こと さえ もし て こ なかっ た。

出典:江崎道朗. 天皇家 百五十年の戦い (Kindle Locations 3566-3575). ビジネス社. Kindle Edition.

著者はこの「皇室を支える国民の(最低限の)務め」を一人でも多くの国民が自覚することを目的として書かれた。



*1:江崎道朗. 天皇家 百五十年の戦い (Kindle Locations 421-422). ビジネス社. Kindle Edition.

*2:江崎道朗. 天皇家 百五十年の戦い (Kindle Locations 483-484). ビジネス社. Kindle Edition.

*3:江崎道朗. 天皇家 百五十年の戦い (Kindle Locations 492-493). ビジネス社. Kindle Edition.

*4:江崎道朗. 天皇家 百五十年の戦い (Kindle Locations 2471-2472). ビジネス社. Kindle Edition.

*5:江崎道朗. 天皇家 百五十年の戦い (Kindle Locations 2496-2499). ビジネス社. Kindle Edition.

「海の民」

「海の民」は、ヒッタイトや、ミケーネ諸王国、シリア・パレスチナ諸国を崩壊させ、エジプトと大規模な戦争をした驚異の集団として今に伝えられている。

ただし、彼らは非文明人であり、記録を遺しておらず、上記の地域でもエジプト以外の記録は見当たらないかほとんど遺っていないので、エジプトが遺した記録でしか分からない。ただし、エジプトの記録はファラオの戦勝の自賛の記録なので、「海の民」についての調査記録は無い。

結局、詳しい記録は一切無いということだ。考古学的な物的証拠からいろいろ推測されているが、研究者の一致しない部分は多い。

エジプトに遺る記録

まず、「海の民」は特定の民族を指す個体名ではなく、近代になって名付けられた総称である。

現在、「海の民」と考えられている民族の一部はエジプトの記録に遺っている。その代表例が、メルエンプタハ王(前1212 - 1202年頃、第19王朝)とラメセス3世(前1182 - 1151年頃、第20王朝)が遺した記録だ。

メルエンプタハの記録

メルエンプタハの記録には5つの民族が挙げられている。以下引用。

なお、アカイアは紀元前15世紀から紀元前13世紀ごろにはオリエント世界ではアヒヤワとして知られた勢力で、ルッカ人やシェルデン人は海の民出現に先立つ紀元前1286年にはヒッタイトとエジプトが戦ったカデシュの戦いにおいて両陣営の傭兵として活動していたことが記録されている。また、紀元前14世紀中葉のアマルナ書簡でルッカ人の海賊、シェルデン人の王について言及したものが知られる。

つまり、海の民として連合してエジプトなどを侵攻した海上勢力は目新しいものであったが、その個々の構成要素となる集団は、それ以前から地中海世界或いはオリエント世界では知られていた存在であった。[後略]

出典:海の民 - Wikipedia

メルエンプタハの記録は彼の戦勝を自賛するもので、リビア人が主要の敵であり、「海の民」はこれに従う同盟者であった。

エジプトの記録ではメルエンプタハ以前にアクエンアテン王やラメセス2世の頃にも「海の民」の一部とされる人々の記録されているが、彼らは移住民か傭兵として名を挙げられただけで、この頃の彼らの力の総量は微々たるものだった。 *1

ラメセス3世の記録

メルエンプタハとの戦いの約20年後の戦争では、「海の民」は強力な主敵だった。この戦いについては前回の記事で書いた。

ラメセス3世の記録に出てくる民族名は以下の通り(カッコ内は推測)。

  • デニエン(デネン)人(ギリシア本土のダナオイ人)
  • ペレセト人(のちのペリシテ人
  • シェルデン人
  • シェケレシュ人
  • テレシュ人
  • チェケル人(トロイア人?)
  • ウェシェシュ人 *2

これら以外に複数の民族がいたと思われる。さらに破壊された都市の民が加わり膨れ上がった。余談だが、現在の世界中のテロ組織では親を殺害された子どもたちが兵隊にさせられるそうだ。

さて、デルタの戦い(「海の民」vs ラメセス3世。前1175年頃)までの「海の民」の進撃は以下の通り。

f:id:rekisi2100:20210712071547j:plain:w600

出典:Sea Peoples - Wikipedia

上図の"invasions" には武力を伴わない集団的移住も含まれるだろう。これらの"invasions" の原因については研究者の一致は無いが気候変動や火山噴火のような天災が挙げられている。個人的には人口増加の人災も考えてもらいたいところだ。もうひとつ、海賊や遊牧民の存在もあっただろうが解明できないものか *3

結局、「海の民」はラメセス3世の戦いで壊滅した。「海の民」のその後の(文字としての)記録は無い。

「海の民」の一部だったペリシテ人

「海の民」はおそらく、捕まった者は捕虜として奴隷や傭兵になったりエジプトの国境付近で定住を許されたのだろう。詳しくはわからないが。

彼らの中で注目されるのがペレセト人(のちのペリシテ人)だ。ペリシテ人(の祖先)は「海の民」が壊滅した都市アシュケロン(現在のエルサレムの西南に位置する)に定住した。

以下は興味深いニュース。

マックス・プランク研究所の研究者らは、ペリシテ人の町として知られていたアシュケロンで発見された10人の化石のDNAを調査した。[中略]

調査の結果、10人のDNAは、紀元前12世紀ごろにヨーロッパからアシュケロンに人々が押し寄せたことを示していた。

そうした個体のDNAが最も大きな類似点を持っていたのが、古代にクレタ島で暮らしていた人々だ。しかし、サンプルの数が少なすぎるため、彼らのホームランドクレタ島であると特定できたわけではないとのこと。

また、アシュケロンで発見された紀元前10~9世紀の化石のDNAにはヨーロッパからの移民の痕跡はほとんどなかった。これはペリシテ人が現地の人と結婚し、遺伝子が希釈されたことを示している。

出典:イスラエル最大の敵「ペリシテ人」の起源が明らかに。巨人兵ゴリアテはどこから来たのか? | ニコニコニュース



*1:「海の民」の発生と紀元前1300年東地中海古代世界 オマケでサントリーニ島の噴火の話: 現在位置を確認します。

*2:トビー・ウィルキンソン/図説 古代エジプト人物列伝/悠書館/2014(原著は2007年出版)/p346

*3:彼らが戦闘のメインだと個人的には思うのだが、証拠はない

エジプト第20王朝 (新王国時代最期の王朝)

前回からの続き。

以下は第20王朝のファラオの一覧。ほとんどがラメセス(ラムセス)を名乗っているのでラメセス王朝と呼ばれることもある。

前1185 - 1182年頃 セトナクト
前1182 - 1151年頃 ラメセス3世
前1151 - 1145年頃 ラメセス4世
前1145 - 1141年頃 ラメセス5世
前1141 - 1133年頃 ラメセス6世
前1133 - 1126年頃 ラメセス7世
前1133 - 1126年頃 ラメセス8世
前1126 - 1108年頃 ラメセス9世
前1108 - 1098年頃 ラメセス10世
前1098 - 1070年頃 ラメセス11世

出典:ファラオの一覧 - Wikipedia(一部改変)

初代セトナクト

第20王朝の初代はセトナクトだが、この王が即位の経緯も治世の3年に何をしたかも分かっていない。

セトナクトに関する記録は彼の即位の65年後の文書「大ハリス・パピルス」(後述)と呼ばれるものにある少しだけの記述だ。

これによれば以下のようになる(要約)。

第19王朝末期に王朝の権力は喪失して混乱が続いた。これに乗じてイルスというアジア人(シリア人)が反乱を起こして支配した(支配の範囲については書かれていない)。彼は民衆の財産を略奪し、神殿に貢納しなかった。
そしてイルスを倒したのがセトナクトであった。その後、彼自身が王となり、エジプトのすべての秩序を回復した。

ただしこの記述を補強する証拠は何も無いため、歴史として確定されていないようだ。

大ハリス・パピルス

大ハリス・パピルスは貴重な資料であり現在は英国博物館所蔵。 *1

テーベの王家の谷のデル・エル・マディーナ *2 の とある墓で発見された4点のパピルスをコレクターであるハリス *3氏が買い取った。この4点のうち最も有名なものが大ハリス・パピルス *4 と呼ばれるものだが、単に「ハリス・パピルス」といえば、このパピルスを指す。

この文書(パピルス)は、もとはラメセス3世の葬祭殿の公文書館に保管されていたものということだが、最終的に村人の墓にあった経緯は分かっていない *5

ラメセス3世の没した際の日付が書かれているこの資料の大部分は奉納品や祭礼行事などの神殿に関するもので、歴史的な記録は一部に過ぎない。

その記録は(セトナクトのことも前置きとして書いているが)ラメセス3世の治世の記録である。

"最後の偉大な王"ラメセス3世

この王朝で詳しく分かる王様はラメセス3世だけだ。彼は"最後の偉大な王"と呼ばれ、その後、エジプトはオリエント世界の覇権国の座から転げ落ちて再び蘇ることはなかった。

ラムセス3世の戦争

さて、新王国時代の"偉大な王"は国外に遠征して名を残したが、ラメセス3世にはその余裕がなかった。彼は国外からの侵略から国を守りきったことで英雄になった。

ラメセス3世の治世のうち、5年から11年に3度の大きな(被)侵略戦争があった。

即位5年の敵はリビア人。リビア方面の複数の部族が連合してエジプトに攻め込んだが、ラメセス3世はこれらを無難に撃退した。

しかし即位8年の敵は大規模なものだった。これが有名な「海の民」だ(詳細は次回書く)。軍隊だけでなく、女子供と家財道具を引っさげて、移住を意図とした侵略だった。

敵は陸戦・海戦の両方で攻め込んだが、エジプト軍はまず陸で勝利を収め、海戦はデルタ・ナイルの河口で迎え撃って勝利した。

そして11年目の戦争は再びリビア人だった。5つの部族連合。彼らもまた移住を意図した侵略だった。エジプト軍はこれに勝利し、二千余を殺害、二千五百余を捕虜とし *6 、家畜その他の財産はカルナック神殿に寄進した。

ただし、これら捕虜たちはエジプト内の定住を許されたらしく、彼らの末裔が後世に王朝を建てることになる。

海の民とリビア人との戦争についてはラメセス3世の葬祭殿の壁や石碑に絵や文書で詳細に記録されている。

世界初のストライキ

記録に残っている最古のストライキが治世29年に起こった。この記録はトリノストライキパピルス(Turin Strike Papyrus*7 と呼ばれる文書に書かれている。

前述のデル・エル・マディーナは王家の谷の職人の村だったが、彼らは給料として食料が配給されていた。しかしこの配給が滞ったため、村人は山を越えてトトメス3世の葬祭殿の背後に座り込みストライキを行なった。 *8

このようなストライキは治世に複数回あった *9が、その原因は資料には書かれていない。歴史家・研究者たちによると、為政者/役人の腐敗、不作による作物の高騰、寄進し過ぎや建築物の建て過ぎによる財政の逼迫などが挙げられている。

ラムセス3世以降の王朝の凋落を見るとどれもありそうだ(歴史家・研究者たちもそれを逆算して推測しているのだが)。たとえば、寄進により潤ったカルナック神殿は王朝よりも富と権力を持つようになる。また、為政者/役人の腐敗は王の暗殺(後述)とつながるかもしれない。

いずれにせよ、このストライキはラムセス3世以降の王朝の凋落の始まりのような位置づけの事件であったようだ。

暗殺

暗殺については《ラムセス3世 - Wikipedia》に詳しく書かれている。

後継者争いの中で暗殺は決行され、即死したかしばらく経ってから死亡したか分からないが、暗殺は成功してしまった。その後、裁判が開かれ連座を含め多くの者が死刑に処された。

これにより31年間の治世が終わった。

ラメセス3世の死後

ラメセス3世の死後、彼の5番目の王子ラメセス4世が王となった。

ラメセス4世(在位前1153~46年ころ)以降、ラメセス11世まで、80年強のあいだにラメセスの名をもつ王が8人相次いで即位した。在位機関は9世と11世を除けば、いずれも10年以下で、親子関係の不明な場合も多い。官僚の不正、飢饉、物価騰貴、リビアの襲撃などが相次ぎ、国内は混乱が支配している。

出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p584(尾形禎亮氏の執筆部分)

凋落と王墓盗掘

王墓盗掘は、新王国時代以前から横行していた。だいたい王家の谷が隔離・警備されていたのはそれらから墓を守るためだ。

ラムセス9世の治世16年に国家を揺るがすほどの盗掘事件が発生した。隔離・警備されているはずの王家の谷で多数の王墓内の遺物が根こそぎ盗まれていた。この事件の調査報告については現代にまで10件以上の「墓泥棒のパピルス」が遺っているという。 *10

そして最期の王ラメセス11世にいたっては、王朝自身が盗掘まがいのことをしていたようだ。

[ラメセス11世の]墓は例によって未完成で放棄された。しかし、墓にあったがらくたの中から見つかった埋葬に関連する遺物片などからみると、この墓は、古(いにしえ)の王のミイラを他のカシェ[盗掘からミイラを守る隠し場所--引用者]……に移送する途中、金目のものを取り外すための作業場になっていたらしい。衰えていた国家財政を支えるためである。

出典:クレイトン氏/p211

なぜ以上の行為がラメセス11世政権の犯行だと結論付けられたのか疑問に思うところだが、もはや王朝が王墓盗掘自体を防ぐことはできないほど弱体化していたことは理解できる。

第20王朝(と新王国時代)はラメセス11世の死とともに終わるのだが、この終わり方すらもよく分かっていない。ただし、ラメセス11世死去の前にテーベでアメン大司祭国家と呼ばれる勢力が寄進による莫大な財力を背景に独立状態となっていた(上エジプトを支配)。ただしこの勢力は「事実上の国家」であって正式な国家としては認められていない(ナンバリング外の国家)(詳細は別の記事で書く)。

新たな第21王朝(この王朝成立の詳細の不明)とアメン大司祭国家は「第3中間期」あるいは「末期王朝時代」にカテゴリーされる(研究者によって異なる)。これについては別の記事で書く。



*1:Papyrus Harris I - Wikipedia

*2:王家の谷専門の職人とその家族が住む村。墓の秘密がバレないように(盗掘防止の為)、彼らは隔離されていた。

*3:Anthony Charles Harris - Wikipedia

*4:またはPapyrus Harris I

*5:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p213

*6:大城道則/古代エジプト文明/選書メチエ/2012/p153

*7:Records of the strike in Egypt under Ramses III, c1157BCE

*8:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p581(尾形禎亮氏の執筆部分)

*9:尾形氏/p582、ラムセス3世 - Wikipedia

*10:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p221

エジプト第19王朝② メルエンプタハから王朝の終焉まで

エジプト第19王朝① 初代からラメセス2世まで》の続き。

前1279 - 1212年頃 ラメセス2世
前1212 - 1202年頃 メルエンプタハ
前1202 - 1199年頃 アメンメセス
前1199 - 1193年頃 セティ2世
前1193 - 1187年頃 サプタハ
前1187 - 1185年頃 タウセルト

出典:ファラオの一覧 - Wikipedia

メルエンプタハ

ラメセス2世の60年以上に亘る治世は古代エジプトにおける一つの絶頂期だった。ラメセス2世の死の直後はエジプトに喪失感と不安が漂ったと伝えられるが、次代王メルエンプタハはエジプトの平和をよく保った賢明な王だった。

先王ラメセス2世が長寿だったため、メルエンプタハの即位は60歳を超える歳になってからだった。そして彼自身の治世は10年。

メルエンプタハの治世のうちの反乱は、北方のシリア・パレスチナ、南方のヌビア、西方のリビア。メルエンプタハはこれらの反乱を初動で、または先制攻撃によって鎮圧した。同盟国のヒッタイトとの仲も悪くなかったらしく、同国が基金に陥っていた時に食料を援助したという記録がある。

リビア人(リビュア人)

このうち、特に重要なことは西方のリビア勢力である。

先王朝時代から西方のリビア人(リビュア人)は存在していたが、メルエンプタハまでの歴史の中では、南方のヌビア、北方のシリア・パレスチナと比べると重要度は はるかに下だった。

しかしメルエンプタハ治世とその後はリビア人は継続的にエジプトに侵入し、歴代の王はこれを対処しなければならなくなった。

エジプトによってリビア人と呼ばれる彼らは、アフリカ北西部のベルベル人の祖先だ *1。現在もベルベル人と呼ばれる人々がいるが、彼らは単一の民族ではなく、「アフロ・アジア語族ベルベル諸語を母語とする人々の総称」 *2である。古代のベルベル人リビア人)も単一ではなく、幾つかの民族(部族)の総称だ。

本来、ウシ、ヒツジ、ヤギを伴う半遊牧生活を行っていた彼らではあったが、[リビア人の部族である]リブやメシュウェシュは、リビアに定住地を持っていたとも考えられる。その上、彼らは青銅製の剣やチャリオットを保持していたことから、文化的にかなり高い段階にあったと想定されているのである。

出典:大城道則/古代エジプト文明/選書メチエ/2012/p153

この書き方で分かるように、リビア人はいわゆる蛮族だった。彼らの中には農耕生活をする人々もいたかもしれないが、国と呼べるものはなかった。

彼らがメルエンプタハ治世以降に、継続的にエジプトに侵攻した理由は正確に分かっていないが、その一因として気候変動が挙げられている。「海の民」発生の一因もいっしょ。 *3

イスラエル・ステラ(イスラエル碑)

メルエンプタハの10年の治績は彼の治世に作られた3つの石碑の記録による *4 。その中で最も有名な石碑はイスラエル・ステラ(イスラエル碑、Merneptah Stele)と呼ばれる石碑だ。

この石碑はメルエンプタハの戦勝記念碑 *5 (Victory Stele of Merneptah)とも呼ばれている。彼がこの石碑を作らせた目的は西方のリビアとその同盟勢力を打ち負かした記録を遺すためだった。銘文は28行あり、ほとんどがその記録だった。

そして最後の26-28行にリビアの同盟勢力であるシリア・パレスチナ方面の民族名・都市名が書かれている。これら名前は「海の民」と関連付けられると言われているが、これに増して重要なのが「イスラエル」という名が載っていることだ。これが「イスラエル」の名が言及された最古の事例だ。

この銘文によれば「イスラエル」は民族名として扱われていて *6、 「イスラエル」民族は、リビアと組んでエジプトを攻めたが、撃退されてしまった。 *7

ただし、この「イスラエル」が聖書にある「イスラエル」と同一かどうかは議論されて統一されていない。別の証拠となるものが現れない限り決着はつかないようだ。

メルエンプタハより後の王/第19王朝の終焉

メルエンプタハの治世が終わると王朝は凋落した。第19王朝は彼の後、4人の王がいたが、彼らのやったことは王家の谷に墓を造った以外には情報がない。

最後の王(女王)タウセルトの治世の終わりの後、数ヶ月程度の空位期間を経てセトナクトが王となり第20王朝が始まるとされるのだが、この経緯も詳しいことはわかっていない。



*1:ベルベル」はギリシャ語で「野蛮人」を意味する

*2:ベルベル人 - Wikipedia

*3:一例として《地中海東岸の文明は干ばつで崩壊? | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

*4:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p222-223

*5:大城道則/古代エジプト文明/選書メチエ/2012/p144

*6:異民族を表す決定詞が置かれている

*7:銘文については《Victory Stele of Merneptah》に書いてある。