歴史の世界

楚漢戦争⑦ 鉅鹿の戦い 後編

前回からの続き。

二世3年(前207年)12月

項羽軍到着前の状況

この12月に項羽軍が秦軍に攻め込むのだが、ここで項羽が攻め込む前の状況を確認しておこう。

章邯はまず鉅鹿の糧道を絶ち、鉅鹿の兵は飢えはじめた。陳余は援軍を率いてやって来たものの章邯軍の多勢ぶりを恐れてただ見守っているしかなく、張耳は何度も救援要請をしたが、陳余は動かなかった。そこで張耳は家臣の張黶(ちょうえん)と陳余の親族である陳澤を使者に送り「かつて刎頸の交わりを交わし、また数万の軍を擁しながらなぜ援軍を送らないのか? 援軍を送って共に死んでくれないか」という手紙を送った。だが、陳余は「ここで援軍を派遣しても無駄死にするだけだ」と断った。張黶と陳澤は食い下がって5千の兵を陳余から借りて章邯軍を攻めたが、歯が立たずに二人とも戦死し、5千の兵は全滅した。これを見ていた他国の援軍や張耳の息子の張敖も章邯の強さを恐れ、見守るしかなくなってしまった。

出典:陳余 - Wikipedia

兵力の差はどのくらいだっただろうか。佐竹靖彦『項羽』では鉅鹿軍を包囲するのは中央から来た王離軍20万、後方支援が章邯軍30万で合わせて50万という数字を提示している。

これに対して項羽軍が来る前の反秦勢力の数字はよくわからない。陳余軍が数万という数字が張耳・陳余列伝にある。張耳の鉅鹿軍本体の数字は分からないが、20万の軍勢が一気に押しつぶせない程度の人数はいたはずだ。この他には項羽本紀には十余の救援軍がいたと書いてある。

飢えに苦しんでいる張耳としては、鉅鹿にいる全部の反秦勢力が団結して戦えば包囲は破れると考えただろう。餓死するくらいなら戦死したほうがマシだと考えるところまで切羽詰まっていた。これに対して「ここで戦っても犬死するだけだ」と陳余は考えた。張耳と陳余は項羽のおかげで助かるのだが、この一件のせいでその後の2人は敵対することになる。

項羽軍の攻撃

f:id:rekisi2100:20200703083239p:plain:w300

出典:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p162

  • ↑の地図の「安陽」は諸説あるとのこと。

佐竹靖彦『項羽』では項羽軍は5万強だったという。

項羽黄河の東岸に着くと、まずは当陽君と蒲将軍に2万の兵に河を渡らせて戦わせたがあまり戦果は得られなかった。この後また陳余から援軍を請われたので、今度は全軍をあげて河を渡り、舟を壊し、3日分の食料以外のものをすべて焼き払い、決死の覚悟で秦軍に挑んだ。

兵数に圧倒的な差があるのだが、これを自軍の武力と勢いでカバーしようとしている。秦軍に勝つための戦略などほとんど無かっただろう。そんな項羽軍に犬死したくない陳余が救援を要請したというのだが、本当だろうか?

さて、楚軍の戦いぶりに関しては項羽本紀では反秦勢力の諸侯の目線で語られている。

この時、楚軍の戦士は諸侯中もっとも強力で、諸侯の軍で鉅鹿を救援し防壁を築くものが十余軍あったが、どの軍も出て戦う者がなかった。楚軍が秦軍を撃つと、諸将はみな防壁の上から見ていた。楚の戦士は一人で十人の敵に当たらぬ者がなく、楚の雄叫びは天を動かすばかり、諸侯の軍は人々みな恐れておののかない者はなかった。

出典:小竹文夫・小竹武夫訳/史記本紀Ⅰ/ちくま学芸文庫/1995/p204

数ヶ月も膠着状態だった戦いを項羽軍は数日のうちに終わらせた。

20万の王離軍は壊滅し、1月、王離は捕虜となる。章邯軍は敗走した。

戦後、反秦軍の諸侯たちはみな項羽の前にひれ伏して服属した。

戦後

以下のことは鉅鹿の戦いの後から1年2ヶ月の間の話になる。

章邯は司馬欣を都に送り皇帝に指示を請うが、逆に宮中の腐敗や趙高によってあらぬ罪を着せられ家族が処刑されたことを知った司馬欣に「功を立てても誅殺され、功を立てなくても誅殺される」と言われ、殷墟で将兵と共に項羽に降伏した。

この際、章邯・司馬欣・董翳の3名を項羽は鷹揚に助命したものの、3名に従った20万の秦兵は数で楚兵を圧倒しており、蜂起による楚軍の被害を憂慮した項羽の指示で、夜襲を受け坑殺された。

出典:章邯 - Wikipedia

反秦勢力鎮圧軍の総司令官であった章邯が項羽に投降し、これにより秦帝国が盛り返す可能性は無くなった。滅亡が確定したと言っていい。

王離が率いた部隊は中央軍の大部分であったが壊滅し、反秦勢力の鎮圧部隊は章邯とともに投降した(20万もの秦兵はその後 項羽の指示により坑埋めにされた)。

この時点で、項羽が号令できる兵は秦帝国を遥かに上回り、戦闘に参加しなかった反秦勢力も項羽の命令を聞かざるを得ない状況になりつつあった。

漢元年(前206年)

暦と元号について

二世3年8月に二世皇帝胡亥が趙高に殺害されている。

秦暦は前207年9月まで「二世」の元号を使い、前206年10月から秦王子嬰の元年が始まる。

しかし『史記』においては、前206年10月から「漢元年」となっている。このような元号は使われていなかったのだが、司馬遷歴史観においては、二世皇帝の死によって秦帝国は滅亡して漢帝国が始まったということになっている。ここではこれに従う。

項羽と劉邦の対立

『史記』秦楚之際月表によれば、 項羽は漢元年(前206年)10月に諸将・諸侯の兵40万を従えて西進し河南(河南郡?、函谷関の東の地域)に至る *1

11月、新安(現・河南省)で上記の20万の元秦兵を坑殺した。

そして12月、項羽はようやく函谷関 *2 へ到着したが、行く手を阻む者は秦軍ではなく劉邦の軍だった。劉邦軍が項羽軍より先に秦を落としていたのだ。

ここから項羽と劉邦の確執が始まるのだが、その話は別の記事で書く。



*1:將諸侯兵四十餘萬,行略地,西至於河南

*2:首都・咸陽に繋がる道の要所

楚漢戦争⑥ 鉅鹿の戦い 前編

さて、いよいよ鉅鹿の戦い。

鉅鹿の戦いは趙国の鉅鹿での戦闘。秦と楚の勢いが逆転する重要なイベント。そして項羽が楚国の実権を握り、それだけでなく、反秦勢力のほとんどを従える存在となる。

この戦いは秦帝国から前漢帝国の過渡期の中でサラッと流されやすいのだが、秦帝国の滅亡が不可避となる重要なイベントであり、楚漢戦争を理解する上でも重要なので詳しく書いていく。

史記』に書いていない部分に関しては佐竹靖彦『項羽*1 による。

項羽

項羽

鉅鹿の戦いが行われた鉅鹿は趙国の都市の一つ。

趙国は張楚国・陳王の配下だった張耳・陳余が、かつての趙の公子であった趙歇を王として擁立していた。趙の都は西部・信都。

以下の年月は基本的に『史記』秦楚之際月表による。

秦の二世2年(前208年)後9月(閏9月)

秦の総大将・章邯は秦の二世2年(前208年)9月に項梁軍に大勝した後、後9月(閏9月)に趙国を本格的に攻略することにした。新しい楚国を倒すために東部に深入りするよりも、首都・咸陽に より近い趙国を制圧することを選んだわけだ。斉の勢力を深追いしすぎて項梁らに敗北した反省がうかがわれる。

秦軍が趙に来るという情報を聞いた張耳・陳余は計画を練り、張耳は趙王と共に鉅鹿(邯鄲の北東)で籠城し、陳余は常山(鉅鹿の北西)に行って兵を集めることにした。

一方、章邯は秦都・咸陽から派遣された王離軍に鉅鹿を包囲させ、自身は兵站を含む後方支援をした。章邯は鉅鹿と棘原(黄河の北岸)を繋げる甬道を築いた。甬道とは食料などの物資運搬を行うための特別な道で、道の両側に障壁を築いて敵の攻撃を防ぐ。これにより鉅鹿の籠城戦の王離軍に十分な補給を確保した。

楚国はこの後9月に宋義を上将軍(総大将)とした楚軍も趙国の救援に出発させている。

二世3年(前207年)10月

秦の暦は10月に年始を迎える。年が明けて二世3年(前207年)10月、章邯はかつての趙都・邯鄲を攻撃・破壊して住民を他に移した。ここに籠城されると陥落させるのに数年を要すると判断したからだ *2

燕国からは将軍・臧荼が救援として到着、また斉からは田都が田栄の意に反して項羽の下に駆けつけた。

宋義率いる軍とは別に、楚国は劉邦軍を西へ派遣する。劉邦軍は成武(定陶の東南)の南で東郡と王離軍の別働隊を破る *3。 ただし、劉邦軍のそれ以上の戦績は芳(かんば)しくなかった。

このような状況の中で、宋義率いる楚軍は安陽に着いてから動こうとしなかった。

f:id:rekisi2100:20200703083239p:plain:w300

出典:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p162

  • ↑の地図の「安陽」は諸説あるとのこと。

11月

安陽逗留46日が経ったとき、項羽は宋義に秦軍を直談判したが拒否される。

宋義の戦略は籠城戦で秦軍が勝利した後で、疲弊しているところを叩くというものだった。さらに宋義は斉と同盟を結ぶ算段をつけて、息子の宋襄を斉の相にすることとなった。かつての大国であった楚と斉が同盟すれば秦に対抗できるというわけだ。佐竹氏によれば、懐王・宋義は戦国時代のような複数の国に別れた中国の未来を思い描いていたのだが、項羽は秦軍を攻め滅ぼすことしか考えていなかった。

さて、宋義は自ら無塩まで行って宋襄を送るための大酒宴会を行った。そういった中で、兵士たちは飢え凍えていた。

ここで項羽は決断する。

項羽は、「秦が趙を打ち破れば、さらに強大になる。懐王は宋義を上将軍に任じ、国運を託しているのに、宋義は兵を憐れまず、子の出世という私事ばかり考えている。社稷の臣ではない」と言い、懐王の命令と偽り、宋義が斉と謀り反逆したとして、宋義が帰ってきたところを殺害する。諸将は項羽に従い、項羽を仮の上将軍とする。また、宋襄も追いかけて殺害した。懐王は、項羽を上将軍に任じ、項羽が趙救援の軍を率いることとなった。

出典:項籍 - Wikipedia 

佐竹氏によれば、『史記項羽本紀では、この時 諸将は怖れおののいて項羽服従したと書いているがそうではなく、諸将と兵たちは「秦を倒す」という反秦勢力の本来の目的に立ち戻った項羽を積極的に支持し、これがその後の奇跡的な大勝利につながった、としている。

続く。



*1:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010

*2:史記』秦楚之際月表による。『史記』張耳・陳余列伝では邯鄲破壊の後に張耳らが鉅鹿に入城したことになってる

*3:史記』秦楚之際月表には《攻破東郡尉及王離軍於成武南》とあるが、王離軍は鉅鹿を包囲しているので、こちらは秦の中央から派遣された王離軍の別働隊と思われる

楚漢戦争⑤ 項梁の死と楚国再編

今回は、項梁の突然の戦死とその後の楚国の再編について。

項梁の死後、項羽がスムーズに後を継いだわけではなかった。今回は項羽が権力を握る前までの話。

項梁、対秦戦に動く

項梁の動向については、前々回からの続きとなる。

(秦)二世2年(前208年)6月、陳王の死と張楚国滅亡を確認した後、項梁は新しい楚国を建国した。建国に関する諸々の取り決めを終えた後、いよいよ秦への攻撃に乗り出す。

7月、項梁は東阿(斉の西部)に司馬龍且(りょうしょ)を送り、斉の田栄を助ける。田栄については前回書いたが、魏での秦軍との戦いに敗れて東阿まで逃げていた。援軍を受けた田栄は追撃してきた秦軍を大破することができた。その直後に田栄は斉都に向かい、クーデタを起こした田仮たちを追放して実権を奪い返す。

項梁は東阿に到着した後、田栄に共に秦軍を攻めるように要求するが田栄はこれを拒否した(前回の記事参照)。

項梁の死

秦軍側の総大将あるいは総司令官である章邯は、東阿から退却した後、防戦にまわる。おそらく、都に増援を要請して、増援軍が到着したら攻勢に出る方針だった。

f:id:rekisi2100:20200629031140p:plain:w600

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p98

一方、項梁は自ら動く前にまず項羽を動かした。項羽城陽を落としたが、濮陽・定陶を落とすことはできなかった。しかし、雍丘で秦軍を破り、三川郡守の李由(秦の丞相李斯の長男)を討ち取った。その後、項羽は外黃は降すことはできないまま陳留で戦った。

項梁は自ら行軍し、定陶を落とせなかった項羽を雍丘へ進ませた後に定陶を攻撃し、これを撃破した。そしてこの後に雍丘の戦勝を聞いて、項梁は慢心したという。

9月、秦中央は章邯に中央から大軍を与えて定陶を攻撃させ、その結果、楚軍は大敗し項梁は戦死した *1

史記項羽本紀では項梁の戦死は自身の慢心・傲慢さの結果だとしているが、兵力の差で圧倒されて大敗したというのが本当のところだろう。

楚国、国の再編を余儀なくされる

項梁の戦死を知った項羽は陳留の攻撃を止め、彭城に撤退した。

項梁の死は楚国にとって大問題だった。1個の軍だった時なら項羽が後を継ぐことでまとまれたが、国家となるとそうはいかない。項羽はまだ24歳か25歳の若年者で武力以外の能力は他人に認められる実績がなかった。

ここで傀儡の王のはずの懐王が権力を握ることとなる。おそらく彼の背後に項梁・項羽とソリの合わない人々が集まって知恵をつけたか操っていたのだろう。

懐王は都を長江下流の盱台(くい)から楚秦戦の最前線に近い彭城に遷し、新しい体制を作った。

まず呂臣を司徒(大臣)に、父の呂青を令尹(宰相)に任命した。呂臣の素性については詳しくは分からないが、元々は張楚国の陳王の配下で、陳王を殺害した御者(車夫)の荘賈を殺した後、自らは私兵を組織して秦軍と戦っていたが、楚軍が西に秦軍してきた際に英布軍に合流した。このような人物がいきなり国家の中枢の責任者になった理由については分からない(素人なりに考えれば、張楚国の残党を吸収するために、呂臣らが必要だったということか?)。

そして内政より大事な軍編成だが、上将軍を宋義、項羽を次将、范増を末将とした。その上で、別将(楚国に合流した小軍団)も上将軍に従属するように命じた。宋義が総大将(総司令官)になったということだ。

宋義は戦国楚で令尹の経験があるという人物だが、項梁の決起から共に行動したメンバーの一人だった。宋義は定陶で勝利して慢心していた項梁を諌めたが聞き入れられず、項梁が敗北することを予期した。これを聞いた懐王は宋義を呼び出してその先見を讃え、そして「面接」をした後、懐王は大いに悦び宋義を上将軍に任命した *2

さて、この軍編成で、次の決戦の場である鉅鹿の戦いに臨むわけわけだが、佐竹靖彦氏によれば、宋義を総大将としたこの軍を項羽を除いては軍事には素人のものたちばかりが将軍になることになった》と評している *3。佐竹氏によれば、范増が末将になったのも、懐王を王にしてくれた論功行賞だということだ。

この決定について項羽が抵抗したという記述は無い。ただし、鉅鹿に到着する手前で、宋義にブチ切れることとなる。



*1:項羽本紀《秦果悉起兵益章邯,秦果悉起兵益章邯,擊楚軍,大破之定陶,項梁死。》

*2:項羽本紀《王召宋義與計事而大說之,因置以為上將軍……》

*3:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p150

楚漢戦争④ 各地の動き

前回は項梁の快進撃を書いたが、ここで一旦、張楚国滅亡後の各地の情勢を整理する。

各地の情勢(1月以降)

話を簡単にするために戦国時代末期の七国の地図を基(もと)に話を進める。

陳勝呉広の乱の勃発から項梁の台頭までの期間のことについては記事《楚漢戦争① 陳勝・呉広の乱》参照)

f:id:rekisi2100:20190307180411j:plain

出典:戦国七雄 - Wikipedia

秦の暦は10月を年始とすることに注意。このブログでは西暦もこれに連動させている。

張楚国が滅亡したのは二世2年(紀元前208年)12月で、項梁が懐王を戴いて楚国を建国したのが同年6月。

  1. 楚:北西部は、張楚国の滅亡後は秦軍の勢力圏に入っている。東部は1月以降、項梁の勢力に入る。6月に項梁が懐王を戴き楚国を建国する。南西部に関しては情報が無い。

  2. 燕:陳王の配下だった韓広が燕王となっている。二世3年10月に鉅鹿の戦いに将軍・臧荼を派遣するまで情報が無い。

  3. 韓:陳勝呉広の乱以降に「韓王」は存在しない。張楚国建国直後は張楚国の勢力圏に入っていたが、その後反撃されて秦軍の勢力圏に入る。

  4. 秦:一度は攻め込まれたものの押し返して函谷関を出て攻勢に回っている。張楚国滅亡後、韓の地域と楚の北西部を攻略し勢力圏に入れてさらに東に攻勢をかける。

  5. 斉:旧斉王田氏の後裔 田儋(でんたん)が王となっている。田儋が動くのは4月に入ってから。後述。

  6. 魏:旧魏王室の公子 魏咎(ぎきゅう)が王。1月から張楚国を滅ぼした秦軍の将軍・章邯に攻められる。その後については後述。

  7. 趙:張楚国建国後に陳王の配下の将軍だった武臣が王となったが、その後の内紛により武臣は殺され、1月に張耳・陳余(彼らも陳王の配下の将軍だった)が趙の公子であった趙歇を王として擁立した。その後 数カ月間に亘って国内での戦闘が続いてこれを平定した直後に秦軍が攻めてくる。

以上を踏まえ上で、その後の歴史を見ていこう。

魏での戦い

張楚国を制圧した秦軍は1月、北上して魏を攻める。魏王咎は臨済(旧魏の都・大梁の東南)で戦うが包囲される。

4月、臨済がいよいよ陥落に近づくと、魏王咎は宰相周市(しゅうし、しゅうふつ) *1 を派遣し、斉王儋(田儋)と楚の項梁に援軍を要請する。この時、斉から田巴(でんぱ)、楚から項它(こうた)が派遣され、一時的だが、秦軍の包囲を解いた。

6月に入ると、再び秦軍が臨済をほうすると、斉王儋が自ら臨済に進軍するが、秦軍の攻撃により魏・斉軍は撃破され、斉王儋と魏宰相・周市が戦死した。

これにより魏王咎は民の安全を条件にして降伏し、この約束が守られたことを確認した後、焼身自殺した。魏は秦軍により鎮圧された。

斉の政変

斉王儋の死後、弟の田栄は敗残兵を集めて斉の西部の東阿に逃げた。

しかし田栄のいない斉で田仮(戦国斉の最後の王である田建の弟)を王とするクーデタが起きた。斉王儋が戦死(または行方知れず)してしまったのでそうするしか無かったのかも知れないが、田栄としては承知できるはずがなかった。

田栄は東阿で楚の司馬龍且(りょうしょ)の援軍と合流して秦軍を退けて、楚軍と別れて斉の都に戻った。

田栄は、項梁が行った章邯への追撃には参加せず、斉で田仮が擁立されたことを怒り、すぐに兵を率いて帰還して、田仮を攻撃して追放した。田仮は楚に亡命し、田角・田閒兄弟は趙に行ったまま帰ってこなかった。

同年8月、田栄は田儋の子の田巿(でんし、でんふつ) *2 を擁立して王として、自身は田巿の相国となる。弟の田横は将軍となり、斉の地を平定した。

同年9月、章邯を追撃した項梁から、ますます兵力が増大していた章邯討伐を行うための援軍要請を受ける。田栄は、「楚が田仮を殺し、趙が田角・田閒を殺せば、援軍を出そう」と条件を出す。楚では懐王・項梁[6]ともに断り、斉と同様、項梁からの援軍要請を受けていた趙もまた、田角・田閒を殺して斉と交易をしようとはしなかった。

出典:田栄 - Wikipedia

この後、項梁は秦軍との戦いの中で戦死してしまう。項羽は田栄が援軍を出さなかったことを恨み続ける。

まとめ

項梁(楚)の勢力は6月までに快進撃を続けてきたが、一方で秦軍も攻勢を強めて反秦勢力に猛反撃している。

魏は秦軍の手に落ち、趙は別の秦軍が攻略中。斉は中立で燕は情報無し。

建国前に秦軍と楚軍は干戈を交えているが、項梁と秦将軍・章邯が激突するのは9月になってからだ。




以上の情報源はwikipediaの各人物の記事による。


*1:「し」と読む場合は「市場」の「市」で、「ふつ」と読む場合は「巾」に「一」で構成する「巿」という漢字。「市(いち)」とは別の漢字。つまり2説ある。

*2:この名前も上述の周市と同じく「市」「巿」の2説ある。 ── 引用者

楚漢戦争③ 雪だるま式に増える項梁勢力

前回からの続き。

項梁・項羽は精鋭8千兵を引き連れて、会稽郡を出て長江を渡って北上する。

反秦勢力を吸収

項梁は地元の会稽郡を平定し郡守(郡のトップ)となり、さらに(詐称だが)張楚国の上柱国(宰相)と称した。ただし、張楚国は既に秦軍に撃破されて崩壊していた。陳王(陳勝)は敗走して行方知れずになっていた(陳王が配下に殺されたという情報は他の地方の各勢力は長く確認できずにいた)。

下の地図で項梁らの行軍ルートが確認できる。

f:id:rekisi2100:20200612131043p:plain:w600

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p83

二世二年(前208年)1月、項梁は八千の精鋭を引き連れて長江を北上し、広陵に入る。2月には更に北上して下邳を拠点とする。下邳は項梁の故郷の下相のすぐ北にある。

項梁軍は東陽県で陳嬰、行軍の途中で英布・蒲将軍の軍を新たに配下に加えることになり大軍となった。『史記項羽本紀によれば、このときの兵力は6~7万だという。項梁は秦軍と当たる西方ルートに進まず、地図にあるように東方を北上して反秦勢力を集結させることに努めた。

反秦勢力の代表格・秦嘉との対決

さて、秦嘉という人物もまた陳勝呉広の乱をきっかけにして決起した人物だ。

陳勝呉広の乱の直後、秦嘉は数人の仲間と決起し、東海郡(現・山東省臨沂市と江蘇省北部)の郯(たん。現山東省の郯城県)で囲んだ。この時 陳王は将軍を派遣して秦嘉をコントロールしようとしたが秦嘉はこの将軍を殺し、さらに大司馬(大将軍)を自称して陳王から事実上独立した。

1月、張楚国が崩壊した後、秦嘉は楚の公族で名門である景氏の後裔の景駒を王に擁立した(拠点は留、沛の近辺)。こうして張楚国に代わる楚国を再建して反秦勢力の吸収を図った。劉邦も一時期だけだが彼らの配下に入った。

さて、2月に入り反秦勢力のトップの座をかけて秦嘉と項梁が衝突することになる。しかし あっけなく項梁軍が秦嘉軍を撃破し、秦嘉は4月に反撃を試みるが戦死する。景駒も逃亡の途中で死んだ。

これにより秦嘉側の残党をも吸収し、項梁が陳王に代わる反秦勢力の最大勢力となった。

楚国建国

4月(または6月)、項梁はさらに北上して薛(せつ)に入る。薛は戦国時代の斉の孟嘗君の領地として有名な場所。

項梁はここで会盟を開く。反秦勢力の大同団結を呼びかけ、各地の諸勢力を集めた。この場所で陳王が死んだことを確認した上で集まった諸勢力は項梁を陳王に代わるトップと認めて、自らは配下となって秦に立ち向かうことを誓った。劉邦もこの会盟に加わって項梁の配下になった。

ここで楚漢戦争の中でも重大なイベントが起こる。それが楚国建国。キーマンは范増という人物。

范増は居巣(現在の安徽省巣湖市)の人、後に項羽の参謀となり項羽に亜父と呼ばれた人物だ。薛の会盟の時に駆けつけた一人でこの時すでに70歳に達していた。范増は項梁の前に出て以下のように献言する。

陳勝の敗北は当然のことです。秦が六国(魏・趙・韓・斉・楚・燕)を滅ぼした時、楚は最も罪が無かったのに、懐王は秦に入ったら帰してもらうことはありませんでした。楚の人は今でもこのことを憐れんでいます。だから、楚の南公[5][6]も『例え楚が三戸になろうとも、秦を滅ぼすのは必ず楚であろう』と言ったのです。陳勝は初めに決起しましたが、楚王の子孫を立てずに、自ら王となったため、勢いは長続きしませんでした。あなた(項梁)は江東で決起しています。楚で蜂起した将たちが争ってあなたに就くのは、あなたの家柄が代々の楚の将軍であるから、楚王の子孫を王に立てるであろうと考えているからです」 出典:范増 - Wikipedia (「南公」についてはよく分かっていないらしい)

項梁はこの献言に従った。『史記項羽本紀には「民の願いに従った(從民所望也)」ともある。どこの馬の骨か知れない陳王を庶民が王として戴く気にはなれないということか。でもそうなると劉邦はどうなのだろうか?

さて、項梁は旧楚の懐王の孫(または玄孫)で民間の羊飼いの心という人物を王として擁立した。これを懐王(のちの義帝)として、楚の王室を復活させて(張楚のような偽物ではなく)真の楚国の復活を演出した。

あたらしい楚国は東陽に近い盱台(くい)に首都を置き、陳嬰を上柱国として民政に当たらせてスタートした。

懐王が項梁の傀儡として演じ続けていれば問題なかったのだが、懐王は今後 王としての権力を行使するようになる。ここで二重権力が出来上がってしまい、これが後に項羽の足を引っ張る事態となる。



楚漢戦争② 項梁・項羽の決起

陳勝呉広の乱に呼応するように項梁・項羽が決起した。

秦を滅ぼして、いちおう天下統一を果たしたのは「西楚の覇王」と呼ばれた項羽だが、決起した時は叔父の項梁の副将だった。

項梁・項羽の決起は項梁を中心に話を進めよう。

項羽

項羽

項梁という人物

項梁は戦国末期の楚の大将軍項燕の末子。項氏は楚の名門の一族だった。

項燕は秦軍20万の侵略を撃破したが、翌年に60万で進軍してきた秦軍に敗れ、その翌年に再戦を挑んだが敗れて戦死した人物。『史記』によれば、陳勝呉広が乱を起こした時に「人民から人気のある扶蘇・項燕であると詐称した」とあるので、楚で英雄視されていたことが分かる。

項氏は項城(現・河南省)が本拠地であったが、項一族は戦国楚の滅亡により下相(現・江蘇省)に移った。しかし項梁は人殺しを犯して敵討ちを避けるために呉(現・浙江省)に移った。

呉に移った項梁は実力者たちから親分として立てられ、大事業や葬式などがあると項梁が元締めとなった。

郡守となる

さて、二世2年(前209年)9月に陳勝呉広の乱が起きて、各地の庶民が郡県の長が殺して決起する中で、会稽郡守(軍の長官)は項梁を将軍にして秦に対して決起しようとした。しかし項梁は項羽を呼んで郡守を殺させた。

項梁は郡守の首と印綬を持って郡の役人の前に立った。数十人が項梁に襲いかかったが、これを項羽が全て撃ち殺した。残りの役人は項梁を郡守と認めるよりほかなかった。この後、郡内の県に人を遣(や)って収めた上で8,000人の精鋭を集めた。豪傑たちを組分けしてそれぞれ校尉・軍侯・司馬を決めた。項羽は裨將(副将)とした。

楚の上柱国を詐称

二世2年(前209年)1月 *1 、郡を平定した項梁のもとに陳王の使者と称する人物が訪れた。この人物は陳王の命として項梁を上柱国(宰相)に任命すると言った。

しかしこれは全くの出鱈目だった。先月12月に既に陳勝は配下に殺害されている。この謎の人物は召平といい、広陵江蘇省)の人物。彼もまた陳勝らの乱に呼応して決起したのだが、広陵の人々を従わす事ができずにいた。そうしているうちに張楚国が陳王ものとも消滅してしまったので、召平は会稽郡を平定した項梁を頼ることにした。

召平は項梁に対して上柱国になれと言っただけでなく、加えて「江東(会稽郡)はもう平定したから、はやく西のかた秦を撃つように」と言った。しかし実際は北の広陵に進軍させた。『史記』にはたまにこういった謎めかしい人物が出てくるので面白い。史実なのかどうかは置いといて。

いずれにしろ、知ってか知らずか項梁は召平の言葉に従って上柱国を名乗り、広陵へと秦軍を始めた。

話は次回へ続く。

項羽について

ここで軽く項羽について書き留めておく。

項一族については項梁のところで書いた。項梁は叔父。

史記』によれば、項羽は文字を習っても覚えられず、剣術を習ってもあまり上達しなかった。項梁はそのことで項羽を怒ったが、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。剣術のように一人を相手にするものはつまらない。私は万人を相手にする物がやりたい」と答えたので項梁は喜んで集団戦の極意である兵法を項羽に教えた。項羽は兵法の概略を理解すると、それ以上は学ぼうとしなかった。

項梁に従い、呉に移住した。成人すると、身長が8尺2寸(1尺が23-24cmとして約188-196cm)の大男となり、怪力を持っており、才気は人を抜きんでていたこともあって、呉中の子弟はすでに項羽には一目置いていた。

出典:項籍 - Wikipedia (名は籍、字が羽)

引用は『史記項羽本紀の通り。項羽劉邦の敵なので、上段のようなネガティブな書きぶりは前漢の時代では仕方がなかったようだ。下段が司馬遷にとってのせめてもの抵抗なのかもしれない。



*1:秦の暦は10月を年始としている。つまり10月に年が変わる

楚漢戦争① 陳勝・呉広の乱

楚漢戦争は「項羽と劉邦の戦い」とも呼ばれ、劉邦項羽に対して反旗を翻す前206年から始まるのだが、ここではその前段として最も重要な陳勝呉広の乱から話を始める。

陳勝呉広の乱

陳勝呉広の乱

秦の始皇帝の死後の前209年に起こった農民反乱。翌年鎮圧されたが、秦の滅亡をもたらした。

始皇帝の死の翌年の前209年7月、秦の支配に対して起こされた農民反乱。この後に中国で続く、農民反乱の最初のものとして重要。その首謀者陳勝呉広はいずれも貧農出身。かれらが反乱を起こすとたちまち中国全土で秦の圧政に対する不満が噴出して、各地で呼応する反乱が起こった。陳勝呉広の軍は内紛から瓦解し、鎮圧されたが、それに誘発された農民出身の劉邦の挙兵、また楚の王族であった項羽の挙兵などが一挙に秦を滅亡させることとなる。

陳勝 貧農出身の人物
陳勝は河南の貧農出身であったが軍隊に徴発され、任地に赴く途中、大雨に遭って入営に遅れ、そのままでは死刑になると考え、仲間の呉広とともに兵士に反乱を呼びかけた。前209年に蜂起し、引率の隊長を斬り、陳勝が将軍、呉広が都尉となって群衆を扇動した。そのときの言葉が「王侯将相いずくんぞ種あらんや」である。たちまち数万の大軍となると、陳勝は王位につき「張楚」という国号を称した。また各地で呼応する反乱が起こった。しかし、陳勝呉広は力を持つと昔の仲間を無視するような態度に出たため二人とも部下に殺され、反乱は内部から瓦解した。

出典:陳勝・呉広の乱

この反乱はわずか半年で終わったが、これに呼応した勢力が秦帝国を倒したことは引用の通り。

反乱決起から陳県入城まで

二世元年(紀元前209年)7月、陳勝呉広は辺境守備のため、半ば強制的に徴兵された農民900名と共に、漁陽へと向かっていた。しかしその道中、大沢郷(現在の安徽省宿州市の東南部)にさしかかったところで大雨に遭って道が水没し、期日までに漁陽へとたどり着く事が不可能になる。秦の法ではいかなる理由があろうとも期日までに到着しなければ斬首である。[中略]

彼らはまず大沢郷を占領、それから諸県を攻略し、陳を取るころには兵車600乗・騎兵1000余・兵卒数万の大勢力になっていた。陳を攻めた時、郡守・県令は既に逃亡しており、副官が抗戦したがあっという間に陥落した。陳に入城した陳勝はここを本拠とし、即位して王となり、国号を張楚と定めた。

出典:陳勝・呉広の乱 - Wikipedia

陳勝呉広の両者は貧農層の人だった。2人は官吏に命じられて人夫を護送する任務を負わされていた。上記のように、彼らは座して死罪を待つか反乱を起こすかの選択を迫られた時、引率の尉(下級将校)を殺して反乱することを選択した。

f:id:rekisi2100:20200612131043p:plain:w600

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p83

彼らの行動は地図に示されている。

陳に入城する時の軍勢は郡ひとつ分に匹敵した。

ここで陳渉[渉は陳勝のあざ名 -- 引用者]たちは、陳郡の治所[政庁のある所]で、県令に代わって守丞が防衛していた城郭を占領した。

こうして陳県を占領するまでの過程をみると、陳渉たちは、一応は秦の郡県制のシステムにのっとりながら、その軍事系統を奪取していた。だからその蜂起は、漢代の賈誼(かぎ)が秦の滅亡を評した「過秦論」でいうように、必ずしも「木を伐って武器とし、竿を掲げて旗」としたり、「弓や戟(げき)の武器を持たず、スキやクワ、こん棒などを持って、食料を取って天下に横行した」というものではないとおもわれる。そして数日すると、県の三老と豪傑たちを招集して、ともに計略を練っている。

出典:藤田氏/p84

陳を落として拠点を作るという戦略を持てたということは、反乱から陳県入城への過程で将校クラスの人物が陳渉陣営にいたことになる。陳県入城の後も貧農の陳勝が受け入れられたことが信じられない出来事のように思うのだが、誰かお膳立てができる人物がいたのだろう。

張楚」建国

陳県の人々に受け入れられた後、陳勝は「張楚」を建国し、自らを陳王と名乗った。「張楚」は「大いなる楚」という意味 *1 だが、楚王ではなく陳王と名乗ったのは陳周辺しか支配できていないかららしい。

史記』秦始皇本紀によれば、この乱が起こった後に、各地で過酷な統治に苦しんでいた若者が呼応して郡県の長らを殺して反乱を起こしたとしているが、貧農が王になるという事態を見れば、反乱以前に秦帝国の統治能力は既にガタガタだったのではないかと想像する。

反乱の全国波及

以下に楚以外の地域への反乱の波及を書いていく(ただし韓の地域の言及は無かった)。

張楚国はわずか6ヶ月で潰されてしまうのだが、それでも陳勝(陳王)たちの活躍が目覚ましかったことは以下の記述で証明しているように思う。

ただし陳王はそれなりに戦略的に動こうとしていたが、彼の求心力はかなり弱かったようで、部下たちは勝手に動き回った。これに対して陳王は事後承認せざるを得なかった。

前209年8月、陳王は武臣 *2 を将軍として、邵騒を護軍に、張耳・陳余の2名を左右校尉にして、趙を攻撃させる。10城を攻略した後、説得工作により30城を戦わずして降伏させることに成功。武臣は邯鄲に入り趙王となった。陳王は激怒したがこれを処罰する力を持たず、しぶしぶ承認することにした。趙王は陳王からの秦への攻撃の命令を聞かずに自勢力の拡大を目指した。

8月、趙王は韓広 *3 に燕の地の攻略を指示した。

9月、旧燕国のかつての貴人や豪傑たちが韓広を燕王に押し立てる。趙王はこれを咎めるために燕に出兵したが返り討ちに遭い、燕王は独立した。

前208(二世2)年10月 ── 秦暦では10月で年が変わるので、10月から二世2年が始まる。当記事ではこれに従って、西暦の表記も変える ── 、狄の人、田儋(でんたん) *4 が狄県の県令を殺して斉王と名乗った。

田儋は陳王の軍勢と関係が全く無い状態で自立し、陳王が派遣した周巿(しゅうふつ) *5 は撃退された。

11月、魏王室の後裔である魏咎 *6 が魏王となる。10月に魏を平定していた周巿が陳王と交渉の末に成り立ったという経緯がある。周巿は魏の相となった。

江蘇省山東半島南部近辺

時期は不明だが、陳王が秦嘉 *7 らを数名を東方へ派遣する。彼らは東海郡守を郯(たん。現山東省の郯城県)で囲んだが、陳王はさらに武平君畔を将軍にしてここに派遣した。秦嘉は武平君に従うことを拒んで彼を殺し、大司馬(大将軍)を自称して陳王から事実上独立した(王とは自称しなかった)。

張楚国滅亡まで

ここでは、張楚国の対秦への戦いと同国の滅亡までを書く。

前209(二世元)年8月、呉広が仮王として、複数の将軍を与えて滎陽(けいよう。陳の北西)を攻撃する。滎陽は攻防の要地で李斯の息子李由が三川郡の長官として守っており、呉広らはこれを陥落させることができなかった。

周文が将軍として咸陽へと進軍する。函谷関(秦の畿内の東部との境界)を突破して9月には咸陽の近くの戯で秦軍と戦うが敗戦。11月まで戦闘を続けながら函谷関の東の澠池(べんち)まで敗走したがここで自刎する。

呉広の監督下にあった将軍・田臧は、周文の自刎の報を受け、呉広を陳王の命と偽って殺し、滎陽の軍を割いて秦軍を迎え撃ったが敗戦。田臧は戦死した。滎陽に残っていた軍も撃破された。

上記の軍勢を破った秦軍はさらなる張楚の軍勢を蹴散らして、いよいよ11月、本拠地の陳に攻め込んだ。12月に陥落。

陳王は王都・陳の西で対戦していたが、陳陥落後に転戦を続けている最中、自分の御者に殺された。これで張楚国は滅亡、陳勝呉広の乱は一応終わりとなる。

乱後の展開:鉅鹿の戦い

陳勝呉広の乱が鎮圧され、将軍・章邯を中心に秦軍は各地の残勢力の鎮圧を進めたが、この進軍が止まったのが鉅鹿の戦いだった。

少し手前から話を進める。

8月に武臣が趙王になったことは既に書いたが、11月に内紛により殺された。

趙王配下の校尉(武官)であった張耳・陳余はかつての趙の公子であった趙歇を王として擁立、信都を都とした。

話を秦軍に移す。章邯を中心とする秦軍は12月に張楚軍を滅ぼした後、新たな敵である項梁(項羽の叔父)らの軍勢と戦っていたが、前208(二世2)年9月、項梁を敗死させる。

章邯はこれを転機として、閏9月、今度は黄河を北上して趙の攻略へと向かう。

章邯は邯鄲で趙王・張耳・陳余に籠城されたら簡単には陥落できないと考え、先手を打って攻略し民を移して破壊した。やむなく趙王らは鉅鹿で籠城することにした。

秦軍は大軍をして鉅鹿を包囲して陥落寸前まで追い込んだが、援軍に駆けつけた項羽が秦軍を打ち破った(二世三(前207)年11月)。

この戦いが秦軍優勢と劣勢の転換点となるのだが、この続きは次回以降で書く。



*1:藤田氏/p84

*2:武臣 - Wikipedia

*3:韓広 - Wikipedia

*4:田タン - Wikipedia

*5:周フツ - Wikipediaによれば、巿(ふつ)は「一」と「巾」から成り、市(いち)は「亠」+「巾」から成る別の字である。

*6:魏咎 - Wikipedia

*7:秦嘉 (秦末) - Wikipedia