歴史の世界

中国文明:殷王朝⑦ 後期 その4 後期の歴史の流れ

この記事では落合淳思『殷』(中公新書/2015)に頼って書く。詳細はこの本参照。

武丁期(殷王朝後期の初期。前13世紀後半)

現代中国における通説では、殷王朝後期の最初の王(つまり中期の混乱を治め、王朝を再統一した王)は盤庚ということになっているが、落合氏は武丁としている。

ちなみに昔は大邑商(後期の王都。殷=殷墟)を建設したのは盤庚だと考えられていたが*1、考古学の発見・研究により武丁が建設したという説のほうが有力だ*2

武丁期で、いちばん重要なのは文字の出現だ。文字はおそらく新石器時代後期または末期には存在していたと推測されてはいるが、それを証明できる資料はかなり限られている。そして大量に文字資料が出現するのは武丁期だ。(殷王朝④ 後期 その1 甲骨文字の出現 参照)

軍事面では、対外戦争が活発だった。王都を攻め込まれるほどの危機もあったようだが、概ね対外戦争は殷王朝の優位に進み、収束の方向へ向かったようだ。

甲骨占卜の資料によると、武丁は占いの「改竄」を行った。つまり占いの対象となる事項を結果が出た後にでっち上げて武丁が占いを的中させたと演出したのだ。これは武丁自らの呪術的能力・カリスマをアピールするためであった。

また「帝」という神を一神教絶対神に近い神として崇めることも行ったが、これもアピールの一部だろう。

対外戦争が続く不安定な時期にそのような演出も必要だったのかもしれない。または武丁より前にも同様なことが行われていたのかもしれない(武丁より前の王については文字資料が無い)。

祖己~祖甲(前12世紀)

祖己は伝世文献(対象の同時代ではなく後代に書かれた文献)には載っていない王だが、甲骨文字の資料から確認されている。

祖己は武丁期の政治方針を大転換している

軍事面では、対外戦争の頻度が激減した。文字資料からは、どのようなことが起こって激減したのかは読み取れないが、祖己の代から長期の平和が続いたと考えられる(甲骨占卜の資料において戦争の記述が激減した)。

祖己は畿内の各地で狩猟を行った。狩猟は軍事鍛錬や各地の視察・軍事力の誇示が主目的だったようだ。武丁期には他勢力に狩猟の許可を出していたが、祖己の代ではこれを制限している。

信仰・祭祀の面でも大きな転換があった。

武丁期には自然神・祖先神ともに行われていたが、祖己期においては自然神の祭祀が減り自然神の種類も減っていった。さらに自然神を殷王の系譜に取り組もうとする試みも見られた(p167)。これは言うまでもなく祖先神を重視した結果だ。祖己の後になると自然神を殷王の系譜に取り組む試みもなくなった。

さらに、武丁が崇拝した「帝」もほとんど甲骨資料に現れなくなった。祖先神崇拝にとって邪魔だと思われたのかもしれない。

甲骨占卜においては、甲骨への細工を施すことはこの時期にも続けられたが、「改竄」はやらなかった。

庚丁~帝辛(紂王)

庚丁の代から再び対外戦争が行われるようになった。

庚丁・武乙の時期の最大の敵は羌人だった。武丁の代では奴隷や犠牲とされていた人々が組織化して敵として現れた。これに続く勢力として「牲(牲)」「さ」「けい」(表記できない漢字)の3つが登場し、羌を含めて「四邦方」と呼ばれるようになる(「方」は敵国または支配下にない国の意味)。このうち「さ」「けい」は地方領主として殷王朝の支配下にあったが離反して敵国になった。さらに、これに加えて武丁期のかつての敵国「危方」「人方」も認められる。

この状況は武乙の時代の文武丁まで続いたが、文武丁はほとんどの敵対勢力を撃退することに成功した(詳細は分からない)。

文武丁は狩猟(つまり軍事鍛錬と畿内の支配強化)を盛んに行い、また(王の権威を高めるため)祭祀の回数も増やし、中央集権化を図った。これは敵対勢力からの防衛強化のためであった。

また中央集権化の一部として(自己の権力の象徴として)子安貝の賜与をおこなった。南方の海浜で採れる子安貝は内陸の人々にとっては貴重品であった。

しかし中央集権化政策は文武丁の次代の帝辛になると破綻した(帝辛は紂王とも呼ばれる最後の王)。殷王朝の支配下にあった「盂」が反乱を起こして、この鎮圧には成功したのだが、その後まもなく滅亡した。落合氏は「盂』の反乱の原因は中央集権化政策が地方領主の不利益を呼んだのではないかとしている。

盂の鎮圧成功の報告のあとの文字資料がほとんど無いため滅亡の時期は分かっていないがおそらく前11世紀後半と考えられている。

殷代の次は周(西周)だが、周は殷王朝の支配下あったが、おそらく殷王朝に不満を抱く地方領主をまとめ上げて殷王朝に取って代わったのだと思われる。

徳川家康が、豊臣家の天下を奪取したことを彷彿させる話だ。

  *   *   *

以上、『史記』の殷本紀に書いてある話とかなり違う流れになっているが、甲骨文字の資料のみから事実を求めると以上のようになるようだ。現代中国は『史記』のような伝世文献の権威が強く、甲骨文字の資料の方を軽視する風潮があるようで、落合氏が書いたような歴史の流れは、中国研究家にとっては異端なのかもしれない。



*1:伝世文献(対象の同時代ではなく後代に書かれた文献)から そのように推測されていた

*2:殷墟に隣接する洹北商城が盤庚以降の王都だと推定され、この都市が火事が原因で廃棄されたと考えられている

中国文明:殷王朝⑥ 後期 その3 神権政治

自然神と祖先神

自然神/自然への恐れ

人類はその「人類誕生」より自然の中で生きてきた。自然は人類に対して恩恵と厄災の両面を与え続けて今に至る。

科学知識がほとんど無い古代において、人々はあらゆる自然現象を神格化して、それらを祭ってご機嫌を取って、豊穣と平穏を願った。

甲骨文に現れる殷の自然神は数多く有り、何を表しているのか分からない文字(自然神)も多いらしい。しかしこれらの神の多くは川の神と山の神に大別できるという。その他には土や土地、動物、方角などを神格化している。龍などの想像上の動物も自然神の一部らしい。

このような自然神がじつは、王朝以外の諸族によって祭られていた神であり、征服の過程で、殷の祭祀にとり入れられたものである[中略] 。殷王朝は異族の神を祭祀することによって、異族との間に連帯意識を表明し、その支配を有効にしようとしたものと思われる。

出典:伊藤道治/古代殷王朝の謎/講談社学術文庫/2002*1

このようなしくみは古代メソポタミア古代エジプトと同じだ。

祖先神/祟り神

祖先神とは、文字通り祖先を神格化したものであり、甲骨文字では先王への祭祀が多く見られる。特に直系の先王が重視されており、祭祀の例数が多く、また配妣(先王の配偶女性)が祀られているという特徴がある。一方、甲骨文字の末期を除いて傍系の先王は祭祀上で軽視される傾向がある。

殷代において先王の祭祀が多くおこなわれた背景には、王の正当性を保証する目的があったと考えられる。一般的に言えば、王朝の支配権は王が代わるたびに新しくなるのではなく、始祖や建国者が得たものを代々のおうが継承したと認識される。おそらく殷代も同様であり、殷王は代々の先王を祀ることで自己の正当性を主張したのであろう。

出典:落合淳思/殷/中公新書/2015/p84

次に祟り神について。

祖先神というのは、いったいどのような力をもつと当時の人々に考えられていたのであろうか。[中略]

大きな傾向としてみるならば、祖先神の最も明らかな特色は、王をはじめ生人に対するたたりということであろう。[中略]

さらに興味があることは、祖先神のうちでも比較的世代の近い人々に、その力が強く認められていたことである。[中略] 父や母[つまり直系の先王や配妣--引用者]の称をもってよばれる祖先のたたりが多いのである。このことは死者の霊にたいする畏怖感から、考えられるようになったものであろう。

出典:伊藤氏/67-68

伊藤氏は祖先崇拝の根源は死者崇拝(死霊崇拝)にあり、死霊は祟られる人の父母など 近い関係にある人(死者)ほど祟る力が強いと信じられていた、と主張している。(p72)

ただし伊藤氏は、祖先祭祀が固定化することにより、祖先神は「祟り神」ではなく、祭祀を行えば受益を与えてくれる「守護神」と考えられるようになった、としている。(p80)

「帝」への信仰

殷王朝では自然神と祖先神が信仰されていたが、武丁代には、これに加えて「帝」という神が崇拝された。甲骨文字の記述では、帝は神々の中でも権能が強いものとされ、しかも他の神よりも上位に置かれていた。[中略]

帝は人間が祀ることすらできない至高の存在とされていたようであり、甲骨文字には帝に対する直接的な祭祀儀礼が見られない[間接的に「帝雲」や「帝臣」に対して祭祀を行っていた]。[中略]

神話上で神々の頂点に立つ存在は、現代の用語で「主神」と呼ばれる。一般的に言えば、多神教古代文明では、支配者が主神を祀ったり、主神との血縁関係を主張したりすることで、自己の権威を高めることが多い。神話上の神々の関係を現実社会に投影することで、支配を容易にするのである。

殷王朝においても同様に、武丁は「帝」を神話上で主神として設定し、その信仰を司ることで、自身の宗教的権威を高めようとしたのであろう。

出典:落合氏/p132-135

ただし、武丁の死後、「帝」への信仰は一旦とぎれたようだ(甲骨文字でその言及がほとんど見られなくなる)。これが周代に復活する。武丁の代に周へ流入したのだろう。(p135)

犠牲

殷代では、祭祀の時に家畜を犠牲として神への供物とした。これは新石器時代などでも、また世界各地でも認められる。

王が主催する祭祀は臣下も参加し、犠牲として殺された家畜は祭祀の後に彼らに振る舞われたようだ。殷代でも家畜は貴重なものであり、これらを(祭祀に使用した)酒と共に臣下に振る舞うことで、「①王の宗教的権威を構築」「②臣下に王の経済力を示す」「③供物の分配を媒介として君臣関係を確認する(強める)」という意義があった(落合氏/p98)。このようなことも世界史の古代では一般的なことだと思われる。

興味深いこととして、殷代では犠牲の処し方(殺し方)も儀礼の一部になっている。

例えば「燎」という漢字は「組んだ薪に火をつけた」様子を表しているが、これは犠牲を焼き殺す儀礼である。ほかにも儀礼として幾つかの「処し方」がある。

  • 「改」→「蛇を叩き殺す」様子→犠牲を叩き殺す。
  • 「卯」→「肉を引き裂く」様子
  • 「伐」→「武器の戈で首を切る」
  • 「発」→「弓を射る」

犠牲の処し方に幾つもの種類がある理由はよく分からないが、これらの「儀礼」は後代の中国史では死刑のやり方に出てくる(『史記』に登場する)。これを考えると、「儀礼」の効果は「見せしめ」または「見世物(ショー)」である可能性がある。

「人牲」(奴隷の犠牲)/殷代は「奴隷制社会」ではなかった

家畜だけではなく、人も犠牲として大量に「使用」されていた。犠牲となる人々は主に戦争捕虜だったが、犠牲の目的で「人狩り」をすることもあったようだ。犠牲にされた人々で最も多いのが「羌」の人々だ。殷からみて北西の人々。落合氏によれば、殷代には「人食」の習慣はなかったので、「人牲」の目的は軍事力の誇示ではなかったかと推測している。(p104)

さて、祭祀から話が逸れるが、ここで殷代における奴隷について。

奴隷の中では、祭祀の犠牲にされなかった人々もいた。彼らは王や貴族の家内奴隷になって、主人が死んだ時は強制的に殉死させられて主人の墓に埋葬されるか人牲になった。奴隷の一部は逃亡防止のために足首を切断されていたり(刖)、目を潰されていた(民)。(p104-106)

さて、殷代と西周代は「奴隷制社会」であったという学説があった。

マルクスらの唯物史観の発展段階説の一つの段階に「奴隷制社会」というものがあり、郭沫若らがこの段階を殷王朝に当てはめた。

その論拠となる代表的なものが「衆」だ。甲骨文字の中に「衆」が農作業に動員されていることに着目し「衆」を奴隷とみなした(p100)。しかし、当時の甲骨文字で奴隷は「宰」の字で表されており、農業に従事していた記録もない。その他の論拠もすべて論駁されてしまった。

信仰の政治利用

甲骨占卜の操作と改竄

甲骨占卜のことは以前に少し触れた。

中国では、新石器時代から亀の甲羅や家畜の肩甲骨を用いた占い、すなわち甲骨占卜が行われていた。占いの方法は、甲骨に熱を加え、生じたひび割れの形によって将来の吉凶を判断するものである。[中略]

占卜の内容には、王自身の安否や夫人の出産のような王の身辺だけではなく、祭祀や狩猟の挙行、あるいは収穫や降雨の有無、さらには戦争の可否まで含まれており、重要な政策であっても占卜でその実行を決定していたのである。

出典:落合淳思/漢字の成り立ち/筑摩書房/2014/p21

新石器時代ではおそらく純粋に占っていたのだろうが、殷王朝はこれを不正に利用した。

不正利用は大きく分けて2つある。

一つは、甲骨自体への細工。王が祭祀や狩猟を行おうとすることへの可否を問う占卜に対して、結果を「吉」(自分の思い通りの結果)になるように甲骨自体に細工を施した。この手の占卜の結果はほとんどが「吉」あるいは「大吉」だったから占卜というよりもむしろ儀礼的なものだったのだろう。

もう一つは、占いの「改竄」。天候や収穫など人為的には決められない事項について占った結果、その占いが的中したという文字資料が遺っている。これらは天候・収穫などの結果が出た後で、「占卜」(とその結果の添え書き)が作られたと考えられる。なぜこんなことをしたのかと言えば、王の呪術的能力あるいはカリスマを演出するためだろう。

ただし、後者の「改竄」は武丁代のみに限られるようだ。

(文献:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/第3章 政治手段としての甲骨占卜)

神権政治」とはなにか?

殷代の王は盛んに祭祀儀礼を挙行したが、それは純粋な信仰心からではなく、神への信仰を通して自身の宗教的権威を確立することが目的であった。また、祭祀で用いられた青銅器や犠牲についても、王の経済力や軍事力を誇示する働きがあった。

殷王朝の政治は「神権政治」と呼ばれるが、それは決して「紙に頼った政治」ではなく、「支配者が神への信仰を利用した政治」だったのである。

出典:落合淳思/殷/中公新書/2015/p108-109

祭祀に加えて、上にあるような甲骨占卜の不正も神権政治に一部だ。

落合氏によれば、武丁代におこなっていた「改竄」も次の代では行われなくなって、西周では呪術的行為自体の数が少なくなっていった*2

新石器時代から考えれば、殷代の「神権政治」は人々への呪術的行為の効力が減退していく過程・過渡期だったのかもしれない。



*1:『古代殷王朝のなぞ』(角川書店/1967)の文庫版)/p50

*2:落合淳思/古代中国の虚像と実像/p37

中国文明:殷王朝⑤ 後期 その2 体制/軍事

王朝の王統

殷王朝は実の父子相続を基本とする本来の意味での「王朝」ではなかった。つまり世襲する場合もあるがしない場合もあった。

しかしその相続のしくみについては通説が無い(松丸道雄氏は殷王朝は王位継承権を持つ十支族より選ばれたと説明しているが*1、落合淳思氏はこの説を否定している*2 )。

本来の意味での「王朝」ではないということの証拠は、甲骨文字の相違にある。

甲骨文字の研究によって、個々の資料で字体のほか用語や祭祀方法などに相違あるいは共通点が認められ、幾つかに分類できる。そして落合氏によれば、「王朝」は最終的に2系統に分けることができる。ただし2系統に分けられるからといって王統が2つの家系によって作られたとも限らないようだ*3

佐藤信弥氏によれば*4、上の相違・共通点の研究も途上にあるとのことなので、将来には王統の件で新しい発見があるかもしれない。

殷墟遺跡に見る体制

殷王朝はメソポタミヤ古代エジプトと同様に、軍事と祭祀で支えられた初期国家であった。

殷墟遺跡をみると、王宮・宗廟を中心としているが、墓地に関しては王陵区を中心とした空間に王朝を支える集団の氏族・宗族単位の墓地がある。

その配置は王陵区の遠近が王族との家系的な遠近の関係または階層の高低の関係と一致している、と宮本一夫氏は考えている*5

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これらの氏族や宗族は、おそらくは殷王朝の領域内で邑を経営しており、その邑からの貢納が王や王都に集まっていったのであろう。殷の都である殷墟とは、王権を支えているこのような宗族や氏族が集住して、祖先祭祀を繰り返し、集団の統合を誓い合う祭祀都市であったのである。

出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p342-343

王朝を支える集団/王朝の直轄地と支配領域

文字資料が甲骨文に限られているため、官僚機構についてもよく分かっていない。吉本道雅氏によれば《「臣」「亜」「尹」「史」などの臣僚が見え、職能集団をひきいて王朝に奉仕したとされる》*6

王朝の直轄地は畿内または内服と呼ばれ、その外側にある支配領域は畿外または外服と呼ばれる。畿外は王朝を支える集団、つまり王朝に服属する氏族たちの領地だ。これらの領地は中心地となる都邑(族長の本拠地)を持ち、この都邑の周りに複数の「属邑(鄙)」が付属する。

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出典:宮本氏/p348

落合氏によれば、殷代後期の文字資料(甲骨文字や金文)には、殷王朝が新たに領主を封建*7したという証拠はない、また、殷王都地方領主の血縁関係を記した例が見られない。(p73-74)

王との血縁関係を背景として地方領主に封建されたのであれば、諸侯としての正当性はそこに求められるため、殷代であっても血縁関係を明示しないはずがない。この点からも、殷代後期の地方領主は、王によって奉献されたものではないと考えられる。

出典:落合氏/p74

落合氏は、文字資料の無い前期・中期については分からないと一応断っている。

「邑制国家」という用語

「邑」という言葉は、「都市」という意味から「村」までを含む言葉。そして大邑(王都・商=殷墟)→都邑(地方都市)→属邑というように3つ(または4つ)の階層に分けることができる。

都邑の地方都市は土着の(または土着化した)氏族が支配しており、周囲の属邑も支配下にある。

上で書いたように、地方の氏族らは殷王朝とは血縁関係がなく、独立性が高い。これらの地方都市は「邑制国家」と呼ばれ、殷王朝はいわば邑制国家の連合体であった。

ただし世界史的に見れば、「邑制国家」は都市国家であり、古代メソポタミア古代エジプトと同様に殷代は都市国家連合だと言える*8 *9

軍事

上記の地図にあるように、殷王朝の支配領域の外に独立した文化が存在している。周(先周文化)は王朝に服属していたようだが、王朝の外には服属していない集団も幾つか存在していた。甲骨文には、𢀛方(縦にエロ)や土方など、「○方」という敵対勢力が現れる。

これらは殷王朝の青銅器文化などを吸収して勢力を増大したのかもしれない。

殷王朝が敵対勢力と戦う場合、地方領主を動員して戦う。敵対勢力が支配領域のある場所を攻撃してきた場合、王朝の軍隊とその地域を直接支配している地方領主の軍隊で応戦する。*10

落合氏によれば、殷王朝は対外戦争にあたって当該地域の領主にしか動員できない弱い支配力しか持ち得なかったとしている*11

こうした弱い支配力を補ったのが祭祀または宗教だった。

祭祀・宗教については次回の記事で書く。



*1:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p136-137

*2:殷/中公新書/2015/p176

*3:落合淳思/殷/中公新書/2015/p171~

*4:佐藤信弥/中国古代史研究の最前線/星海社/2018/p63

*5:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p343

*6:国史 上(古代ー中世)/昭和堂/2016/p30

*7:《封土を分けて諸侯を建てるの意》天子・皇帝・国王などが、直轄領以外の土地を諸侯に分け与え、領有・統治させること。また、そのような制度。封建(ほうけん)の意味 - goo国語辞書(デジタル大辞泉(小学館))

*8:宮崎市定氏が「邑制国家」という用語を批判しているようだ((邑 - Wikipedia

*9:呂超/宮崎市定の中国史像の形成と世界史構想(pdf 

*10:落合淳思/殷/中公新書/2015/p67

*11:p74

中国文明:殷王朝④ 後期 その1 甲骨文字の出現

殷後期で一番に取り上げるべきものは文字の出現だ。文字自体は殷後期より前にあったと考えられているが、まとまった文字資料として使用できるようになるのはこの頃からだ。

中国の文字はどこまで遡れるか?

後期の都であった殷墟(遺跡)から大量の甲骨文字が出土した。この甲骨文字は、中国史における文字資料として使用できる最古のものだ。

発見された甲骨文字は現代でも使われている漢字の遡ることができる最古の形である。そして漢字の形成の面でも現在のものと同じものになっている*1。さらに文も現代でも通じる。日本人なら高校で習った漢文の書き下し文の知識をそのまま使って読むことができる。

これはつまり、殷後期にはすでに文字使用が以上のような段階まで発展していたことになる。そして、後世に遺らなかった文字がこれより前にあったということになる。

殷後期より前の文字は、おそらく木簡や竹簡に書かれたのだろうが、それらは腐食してしまって現代まで遺らなかったのだろう。

土器(中国では陶器という)の欠片に文字のようなものが描かれているが、ほとんどの場合それらは文を構成しておらず、記号としか思われていない。

そんな中で文を構成していると思われる最古の文字が発見された。

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出典:落合淳思/漢字の成り立ち/筑摩選書/2014/p19

これは文字でないかもしれないが、「二字ずつ並んでいるところを見ると、何らかの文章を表示していると考えるのが自然であろう。」*2

この陶片は山東龍山文化末期の時代のものだ。

東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所のウェブサイトの中の「古文字とは?<中国古文字の歴史」には、以下のように書いてある。

なお、興味深いことに、上に掲げた「丁公陶文」は、焼成の後に文字が刻まれているだけではなく、文字の位置などからして、陶器が壊れて後その破片に文字が刻まれたのではないかと推測されます。この推測が正しいとすれば、この陶文は、「モノ」に付随して記されたのではなく、「書写材料」として廃棄した陶片を再利用して書かれた可能性が出てきます。新石器時代晩期の人はすでに「書写」をしていたのでしょうか。

出典:古文字とは?<中国古文字の歴史東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所

これ以外にも文字あるいは文字かもしれないものは発見されているが、ごく僅(わず)か だそうだ。殷前期(二里岡文化)においても同様だが、骨片に「土ヒツジ乙貞従受…」(下部が欠損)と書かれているものが発見されており、文字が使われていたことは間違いない*3

落合淳思氏は以下のように書いている。

現状の資料では、漢字の出現は紀元前2000年の前後、すなわち竜山文化の末期から二里頭文化の初期というおおよその時代範囲を推定できる程度なのである。

出典:落合淳思/漢字の成り立ち/筑摩書房/2014/p20

甲骨文字とはなにか?

中国では、新石器時代から亀の甲羅や家畜の肩甲骨を用いた占い、すなわち甲骨占卜が行われていた。占いの方法は、甲骨に熱を加え、生じたひび割れの形によって将来の吉凶を判断するものである。さらに、殷代後期には占いに使用した甲骨に占卜の内容を刻むという習慣が流行した。これが「甲骨文字」であり、「卜辞」とも呼ばれる。甲骨は木や竹に比べて硬い材料であるため、地中でも腐食しにくく、三千年の時を経て近代に発見された。[中略]

甲骨文字に記された占卜は、その多くが王の主宰によるものであり、王自身が吉凶判断をしたものも多く見られる。また占卜の内容には、王自身の安否や夫人の出産のような王の身辺だけではなく、祭祀や狩猟の挙行、あるいは収穫や降雨の有無、さらには戦争の可否まで含まれており、重要な政策であっても占卜でその実行を決定していたのである。

出典:落合氏/漢字の成り立ち/p21

ただし落合氏によれば、この占卜には仕掛けがあった。つまり占いの吉凶が王の都合のいいような結果になるようにしていた。この件については別の記事で書くが、新石器時代末期の占卜では上のような操作は仕掛けは加えられていないということだ*4。殷の政治を「神権政治」ということがあるが、この件でその一端を見ることができる。

ということで、甲骨に文字を残したのは占卜の内容を記録するためというよりも、政治のためであったということになる。



*1:落合淳思『漢字の成り立ち』(筑摩書房/2014/p37)によれば、漢字を作る要素は象形・指示・会意・形声の四種類あり、これらは殷後期の甲骨文字の段階で既に全て揃っていた

*2:落合氏/p19

*3:落合淳思/漢字の成り立ち/筑摩書房/2014/p20

*4:落合淳思/殷/中公新書/2015/p110

中国文明:殷王朝③ 中期

中期は混乱期で進展は無かった。

このきじでは、王統と王都の変遷について書く。

この時代も文字資料がないので、考古学的証拠から推測するしかない。

本題に入る前に① 現代中国における古代中国の研究者たちについて

古代中国を研究するための資料は多種多様であり、しかも現在進行形で新しいものがどんどんと出現している。

まずは、さきほど出てきた甲骨文[亀甲や獣骨に刻まれた文字/文―引用者]と金文[青銅器に刻まれた文字/文]。このほか細長い竹片に文章などが書かれた竹簡や、絹の布に書かれた帛(はく)書などもある。このような考古学的な発掘や盗掘などによって土の中からでてきた、主に文字による資料を「出土文献」と呼ぶ。これらの出土文献は古文字と称される漢字の古い形で書かれており、読解には古文字学の知識が必要となる。[中略]

この出土文献というのは中国や台湾で使われる用語である。竹簡に書かれた書物や帛書などはよいとして、甲骨文や金文も文献と言ってしまうには違和感があるかもしれない。これは「伝世文献」と対比するための呼称である。[中略]

伝世文献とは史記』や『春秋左氏伝』『戦国策』『論語』『老子』『孫子』『山海経』といった伝統的に受け継がれてきた漢籍を指す。これらはもともと戦国秦漢期において、竹簡や帛書に小文字で書かれていたのが、何度も書写を重ねられ、時代を経るにつれて書写媒体が紙に変化し、当時通行していた書体に書き改められ、現代まで伝えられてきたものである。

これらの文献を歴史学の資料として用いる場合、甲骨文や金文が殷周時代の同時代史料、一次史料として扱われるのに対し、伝世文献については二次的な史料ということになるはずである。しかし実際には、古の王侯の命令や訓戒などをまとめたとされる『尚書』(『書経』や、西周王朝の官制についてまとめたとされる『周礼(しゅらい)』といった文献が一次的な史料として扱われることもままある。

出典:佐藤信弥/中国古代史研究の最前線/星海社/2018/p7-9(太字は引用者)

もう一つ。

近年では、中国でも殷代史の研究が再び盛んになってきているが、中国(および台湾)では、伝統的に文献資料の権威が強く、整理された甲骨文字資料があまり活用されていないという欠点が見られる。[中略] 殷王朝の支配体制や王の系譜などの研究において、いまだに同時代資料である甲骨文字が軽視されているのである。また、中国では政府による思想統制が厳しいので、大局的な分析や科学的な歴史観の構築が難しいという理由もあるようだ。

先に述べたように、文献資料の殷王朝に関する記述には、作られた物語が多く含まれているが、甲骨文字の発見以前にはそれが鵜呑みにされていた。しかし、近代に甲骨文字が発見され、その解読が進んだことにより、文献資料の記述を検証することが可能になった。

出典:落合淳思/殷/中公新書/2015/p12

「文献資料」というのは前の引用にあった伝世文献のこと。

(日本の古代史学はどうなのだろうか?このことについては調べていない。)

本題に入る前に② 殷王朝の系図

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出典:日本大百科全書(ニッポニカ)/小学館>コトバンク

上の系譜は『史記』「殷本紀」の系譜を甲骨文により一部修正したものと思われる。

「大乙(成湯)」が『史記』の湯王で殷の建国者。「帝辛(紂王)」まで30代。

異論はあるが、便宜的にこの系譜が使われることが多いらしい。

中期の王統と王都の変遷

史記』「殷本紀」に以下の文がある。*1

帝中丁は都を隞に遷した。中丁の弟の河亶甲は相に居住し、河亶甲の子の祖乙は邢に遷った。……中丁より以来、適子を帝に建てることをせずに、かわるがわる弟やその子を帝に立てたので、弟や子たちが帝位を争い互いに代わって立ち、9世に至るまで乱れた。ここにおいて、諸侯で入朝するものはなかった。

従来の考古学的時代区分では、殷文化を前後に二分し、鄭州商城文化(二里岡文化)と安陽の殷墟文化を前期・後期としていた*2が、両者の土器編年のあいだに型式的な隔絶があり、議論を起こしていた。

しかし、2つの遺跡の発見により、隔絶をある程度埋める有力な説ができた。

一つ目。鄭州商城から西北約20kmの鄭州石仏郷小双橋遺跡。規模は東西800m、南北1800mで、遺跡の年代は鄭州商城の末期または直後。「殷の王室に関係するというにふさわしい規模と格式をもった建築群がこの地に造営されていたと考えられる」*3

二つ目。殷墟から北1.5kmの安陽市花園荘村にある洹北商城。東西2150m、南北2200mで宮城・宮殿跡が発見されている。

小双橋遺跡は中丁の都・隞に比定されている。洹北商城の方は盤庚以下数代にわたる都として有力視されている。(佐藤氏/p58)

混乱の後、従来の通説では、盤庚が上記の王統を再統一し、殷墟に遷都したとされていた。その根拠は『古本竹書紀年』の記述にある*4。すなわち「盤庚旬は奄より北蒙に遷った。これを殷という。殷は鄴の南30里にあった。盤庚が殷に移ってから紂が滅ぶまでの273年間は、都を遷すことはなかった」(この「殷」は地名)*5

しかし、洹北商城と殷墟の発掘・研究の結果、異論が起こった。

まず、殷墟から出土する土器の大半が武丁以降のものである*6。また甲骨文字の研究により殷墟で出土する甲骨文字は武丁が最古である*7。また洹北商城の方では、宮殿区1号基壇の地層より焼土塊が確認されたという報告がある*8

以上を根拠にして、盤庚以降の都は洹北商城であり、武丁の代にここが火災に見舞われた時、目と鼻の先の殷(墟)に遷ったのではないかと推定されている*9

ただ、盤庚が王統を再統一したかどうかは考古学上の証拠はない(文字資料は武丁代が最古)。

議論の種であった「鄭州商城と殷墟の土器編年のあいだの型式的な隔絶」も上記2つの遺跡の発見で埋まったとされているようだ。

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出典:宮本氏/p328

  • 上の「白家荘」の時期は鄭州商城の衰退期または直後で、小双橋から出土したものを示している。

落合淳思氏の異論

落合氏は伝世文献ではなく甲骨文字から王統を推測している。落合氏の論拠の柱となるのが「直系合祀」と呼ばれるもの。

「直系合祀」とは王の系譜を合わせて祀るものだが、この直系合祀を示す甲骨文字の資料を調べると祖乙より後は見当たらない。つまり祖乙の後の代より混乱が始まった、と落合氏は考えている。

落合氏によれば、甲骨文字の祖先合祀の組み合わせから以下のような系譜が推測できるという(詳細は本書で)。

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出典:落合氏/p40

落合氏は現在までの考古学的成果と自身の研究を踏まえて中期の混乱を以下のように説明する。

混乱期について、春秋戦国時代に作られた『尚書』や『竹書紀年』では、殷王朝が遷都を繰り返したとしている。しかし、これは「諸弟子」による王位継承を前提にした記述であり、実際には地理的に分裂し、それぞれの王統が各地で独自の本拠地を築いていたとするのが妥当である。

考古学の調査により、殷代中期には二里岡遺跡(鄭州商城)が首都機能を失ったことが判明している。しかも、それに代わる巨大な都城が存在しなくなり、殷代中期には各地に中規模の遺跡が見られるだけである。おそらく、そのうち幾つかが分裂した勢力の本拠地だったのであろう。

殷代中期の遺跡で最も大きなものは、殷代後期の都である殷墟遺跡に隣接する洹北商城である。武丁は殷墟遺跡に都を置いたので、洹北商城はその系統である祖辛・祖丁・小乙の根拠地であったと考えられる(そのほかの勢力は今のところ根拠地不明)。

出典:落合淳思/殷/中公新書/2015/p42

王都の規模

最後に、各王都の規模を記録しておく。

  • 前期:鄭州商城 1700×1870m(東西×南北)
  • 中期:小双橋遺跡 800×1800
  • 中期(後期?):洹北商城 2150×2200
  • 後期:殷墟 6000×4000

洹北商城は鄭州商城よりも大きいので、再統一をしたのは洹北商城の王の建設者かその系統ではないのだろうか。 



*1:和訳は「宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p329 より

*2:概説 中国史 上(古代ー中世)/昭和堂/2016/p27(吉本道雅氏の筆)

*3:小澤正人・谷豊信・西江清高/中国の考古学/同成社/p173-174(西江清高氏の筆)

*4:この件については『史記』の記述よりも正確だとされている(世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p121(松丸道雄氏の筆)

*5:宮本氏/p327

*6:宮本氏/p327

*7:落合淳思/殷/中公新書/2015/p35

*8:佐藤氏/p58

*9:佐藤氏/p58

中国文明:殷王朝② 前期

前回も書いた通り、『史記』などに書かれている殷建国の伝承(湯王が暴君桀王を倒す話)はフィクションである。殷建国の時期は文字資料が無いため本当は何があったのかは分からないので、考古学の資料から推測するしかない。

建国/二里岡遺跡→鄭州商城遺跡

鄭州商城の建設をもって殷王朝は建国されたということになっている。

殷王朝の前身となる勢力の話は前回書いた。この勢力が黄河下流の方から上流へ進出して鄭州に都市を建設した。これが鄭州商城(二里岡遺跡)。

二里岡遺跡は1953年に鄭州市二里岡で発見されたのだが、その後1955-56年の調査により周囲約7kmの長方形の城壁が確認され、西江清高氏によれば、二里岡遺跡は鄭州商城遺跡と呼ばれるようになった*1。ただし、宮本一夫氏は『中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)』(講談社/2005年)で「二里岡遺跡」という呼称を使用している。

副都・偃師商城の建設

先王朝の王都(二里頭遺跡)のわずか(南西)約6kmのところに偃師商城の遺跡がある。この都市は早くも鄭州商城と同時期に建設された。

その理由は以下のように考えられている。

殷の人々は新たな王朝を立てたものの、前王朝の人々の方が政治知識や青銅器の製作技術などを豊富に持っていたため、支配下に組み込むことが必要であった。しかし、もとは王朝を維持するだけの軍事力をもっていたのであるから、警戒することも必要である。そこで、首都である二里岡遺跡(二里頭遺跡の東70キロメートル)だけではなく、二里頭遺跡のすぐ近くに副都である偃師商城も建設し、前王朝の人々を強く支配しようとしたのである。

出典:落合淳思/殷/中公新書/2015/p23

以上は、次代の周王朝が殷を滅ぼした後に殷の勢力圏に副都を建設したことを元にした推測だ(周の王都は渭河流域(漢中)にある鎬京)。

ちなみに、二里頭遺跡が廃絶されたのは前1520年頃。鄭州商城が建設された、つまり殷王朝が建国されたのは前1600年または前1580年頃。偃師商城も同時代だとされている。

前期の勢力圏

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出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p345

前期の勢力は二里頭文化の文化圏を一周り大きくした程度だ。

宮本氏は前期の状況を畿内(王朝の直接支配権)と畿外(間接的な影響圏)に分けて以下のように説明する。

畿内においては、殷王朝の政治的・経済的拠点である城郭が築造されるのである。すでに述べた東下馮、垣曲、府城である。これらは中条山脈に産する銅・鉛鉱石や塩の獲得、さらにはその運搬の基点と考えられる地域に立地している。かつて二里頭文化の人々が移住した場所であった。

一方、盤龍城は畿外である長江中流域に位置し、近隣には湖北省の大冶市銅緑山遺跡などの銅・鉛鉱山が存在し、盤龍山はこうした地域から算出する原材料の集散地であった。まさに殷王朝の前線基地であったのである。盤龍城遺跡には鋳造工房があるが、この工房は青銅彝器(いき)を製造した痕跡はなく、大半が銅や鉛あるいは錫のインゴットを制作していたのではないかと想像される。このような城郭には殷人たちが移住し、青銅資源などの原材料を獲得し、王都へ運ぶといった基点であって、殷王朝の直轄地のようなものであったのであろう。

畿外は、このような服属する地域首長と殷王朝の前線基地のような城郭からなる点的支配領域であったのである。そして点的支配の拠点である城郭には、青銅彝器が副葬された貴族墓が発見されている。おそらくは王朝中心から派遣された殷人貴族であり、礼制の要である青銅彝器が殷王から再分配されたのである。

出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p347

注意すべきところは、線で囲った地域全土を支配しているわけではなく、「前線基地のような城郭からなる点的支配」であるというところ。

上の引用の続きとして宮本氏は、畿外の外側の周辺地域からも資源を獲得するための交流(四川省など)があり、周辺地域は殷王朝から刺激を受けた形で前期以降 青銅器の生産を開始した、としている。

階層システム

宮本氏によれば*2、殷王朝における階層の表示は二里頭文化から継承した青銅彝器(いき)と山東龍山文化の棺槨構造にあった*3。簡単に言うと副葬品と墓の豪華さによって身分の違いを表した。

階層システムにおいての二里頭文化と殷王朝の違いは、二里頭文化のそれは淮河上流など狭い範囲にしか広まらなかったが、殷王朝のそれは上述の盤龍城や黄河下流の河北省藁城県台西遺跡などの遠隔地域にまで広がっていることだ。これは政治支配の広がりを示している。(p334)

もう一つ宮本氏が指摘する点は階層システムとしての棺槨構造を採用したことだ。

殷王朝は……多元的な精神基盤を吸収することにより、より広範な地域文化や人間集団の管理が可能になったということができるのである。すなわち、領域支配が可能になる背景は、さまざまな地域に固有にあった精神基盤を吸収し、さらに上位に新たな精神基盤による社会秩序を形成せしめる必要性があったのである。

出典:宮本氏/p335

他地域の階層システムを採用して、その地域の上位に殷王朝を置くことによってその地域を支配するという方法。

つまり、棺槨構造を採用したのはその階層システムの源流である山東半島地域を支配するためだった。

このようなやり方(他地域の文化を吸収するようなこと)は、殷王朝に始まったことではなく、二里頭文化でも行われていたし、それ以前からもあっただろう。

中国以外でも似たようなことがある。例えば古代のメソポタミア・エジプトなどでは周囲の集落の守護神の上位に王都の守護神を置いた。



*1:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p74(西江清高氏の筆)

*2:p333

*3:山東龍山文化の伝統は岳石文化に残っていたのだろう

中国文明:殷王朝① 殷王朝の先史/誕生/時代区分

史記』などに書かれている殷建国の伝承(湯王が暴君桀王を倒す話)はフィクションである。

殷建国の時期は文字資料が無いため本当は何があったのかは分からないので、考古学の資料から推測するしかない。

「殷」または「商」という呼称について

「殷」は次代の周王朝によって命名したもの*1。日本での中国史ではこの呼称を使用している。

「商」は本来は殷王朝後期の王都の呼称(大邑商)*2 *3。現代中国ではこの呼称を使用している。

殷の前身、下七垣文化(先商文化)

殷王朝勢力の建国以前は「先商文化」と呼ばれている。「先商文化」の詳しい年代は分からないが、黄河下流域の北岸にあった下七垣文化まで遡れるようだ(ただし、黄河は現代の川筋より北にあった*4 )。

下の図は二里頭文化(遺跡)の2期から3期にかけてのもの(二里頭文化(遺跡)の時代区分については、記事「二里頭文化③ 二里頭遺跡/中国で最初の国家誕生」参照)。

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出典:小澤正人・谷豊信・西江清高/中国の考古学/同成社/p129

二里頭文化圏と下七垣文化圏のあいだにあるのが「輝衛文化」だが、二里頭文化3期末に下七垣文化に呑み込まれた*5。「3期」の終わり前1560年、殷建国(鄭州商城=二里岡遺跡の建設)が前1600(あるいは前1580年)ということなので、建国後に輝衛文化を併呑したことになる。

そして前述の通り、殷建国。

その後に、二里頭文化を併呑する。

時代区分

殷代は前1600年から前1046年とされている(殷 - Wikipedia)。

下記の区分は考古学の遺物から推測されるおおよその目安。

  • 前期(前1600(または1580)-1400年)
  • 中期(前1400-1300(または1320)年)
  • 後期(前1300(または1320)-1046年)

※1. 「前1400年」は「夏商周断代工程」(2000年)*6より。
※2. 「前1300(または1320)年」は「殷墟 - Wikipedia」より(殷墟=大邑商は殷王朝後期の王都)。

前期の王都は鄭州商城(二里岡遺跡)。

中期は混乱期で実像がよく分かっていない時期。

後期の王都は大邑商(殷墟)。この頃より、文字資料が出てくる。つまり、中国史における文字が誕生する時期。

詳しくは別の記事で書く。



*1:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p28

*2:「邑」は村、集落の意

*3:殷墟 - Wikipedia

*4:落合淳思/殷/中公新書/2015/p23

*5:中国の考古学/p150

*6:概説 中国史 上/昭和堂/2016/p26