歴史の世界

エジプト第2中間期③ 第17王朝/エジプト統一戦争

今回は第17王朝について。

この王朝がヒクソスを滅ぼし、エジプトを統一する。統一したイアフメス1世は第17王朝の王であったが、エジプトを統一したということで新しい王朝、第18王朝の初代に分類されている(イアフメスの先代王カーメスが第17王朝の最後の王とされる)。

第17王朝

前回に引用したものを再び引用する。

ヒクソスが第15王朝を樹立したことにより、第13王朝のファラオの末裔であるエジプト人の有力者たちはテーベに退くことになった。その支配者たちが第16・17王朝にあたる。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p132

当時の記録が断片的なものしか無いため第13王朝と第16・17王朝が具体的にどのように繋がっているのかは分からないが、とにかく16・17王朝は中王朝時代(第13王朝)のエジプトの伝統を継承したエジプト人による王朝ということだ(第16王朝については前回の記事参照)。

第17王朝の全体的な事柄についても、第2中間期の他の王朝と同じく、史料が少なく詳細なことは分かっていない。

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出典:エジプト第15王朝 - Wikipedia (一部改変)

  • 下部の焦げ茶色はクシュ王国(ヌビア)。

上は第15王朝と第16王朝とアドビス王朝の地図だが、第17王朝は第16王朝の後継王朝で、両者は第15王朝に臣従していたとされる。領域の変化については分からないが、それほど変わる余地は無い。

エジプト統一戦争

臣従から戦争へ

第17王朝は、おそらくは第15王朝に臣従していたというのが大方の見方だ。このことについては以下の物語から推測されている。

第19王朝時代に成立した『アポフィスとセケンエンラーの争い』という説話によれば、第15王朝のアペピ(アポフィス)王は「テーベの神殿で飼われているカバの鳴き声が煩くて王の眠りを妨げるので殺すように」という殆ど言いがかりのような要請を送っている。対してセケンエンラー(タア)は使者を親しく迎え入れ、アペピへの二心無きことを誓ったという。これが完全な史実とは考え難いが、タアもまた即位した当初は先代の王たちの方針を受け継いで、親ヒクソスの姿勢を維持していたと考えられる。

出典:セケンエンラー - Wikipedia

これがセケンエンラーの時代に戦争へと変わった転機については"あるミイラ"から推測されている。

上のリンク先でかなり詳しく書いてあるが、2021年にある発表があった。

考古学者のザヒ・ハワス(Zahi Hawass)元考古相とカイロ大学(Cairo University)のサハル・サリム(Sahar Salim)教授(放射線学)は、セケンエンラー2世は戦場で捕虜となり、その後「処刑式」で殺害されたと結論づけた。

出典:3600年前のファラオの死因、先端技術でついに解明 エジプト:AFPBB News

彼のミイラの頭部にはヒクソスの武器(斧や槍)の傷跡があり、手元は変形されているが、その他の身体はほとんど目立った外傷はなかった。このことから上のような結論がなされた。

ミイラの写真はAFPBB Newswikipediaのリンク先にある。

敗北から勝利へ

捕らえられた父王に代わってカーメスが王になり、戦争を継続させた。

カーメスについては彼自身が首都テーベのカルナック神殿に奉納した石碑が遺されている。これによると、現状維持を望んでいたの当時の大臣たちの前でカーメス王は以下のように説いた。

ヴァリスに1首長あり、クシュに他の首長あり。而して余はアジア人・ヌビア人の同盟とこのエジプトに割拠せるすべての輩の渦中に座す。…人皆、アジア人の奴役のために衰え、息いを知らず。余は彼と戦い、彼の腹を引き裂かんとす。それすなわち、エジプトの救出とアジア人の殲滅を余の願いとすればなり。

出典:エジプト第17王朝 - Wikipedia

カーメスは国をまとめてヒクソスに戦争を仕掛け、快進撃でヒクソスの首都アヴァリスの近郊まで兵を進め、そこで略奪をしたあと退却した。

古代エジプトの石碑は誇張が多いため、そのまま史実であると考えるべきではないとされるが、ともかく、カーメスはヒクソスと戦争を続け、次代のイアフメス1世に繋いだ。

エジプト統一

カーメスの弟、イアフメス1世(アアフメス1世、前1570-1546年)が悲願のエジプト統一を実現するイアフメスはヒクソスをパレスチナまで追いかけて滅ぼす。

彼の時代から新王国時代と第18王朝が始まるのだが、その後の話は別の記事で書く。



エジプト第2中間期② 第15王朝(ヒクソス政権)と第16王朝ほか

第15王朝(ヒクソス政権)の実態はよく分かっていない。その理由はエジプト政権である第17王朝と第18王朝がヒクソス政権の遺物を破壊してしまったからだ。

第15王朝

第15王朝の誕生については前回書いた。

支配について

第15王朝は前1650年頃にナイルデルタの東部アヴァリスを首都として成立した王朝だ。

ピーター・クレイトン氏によれば *1、 ナイルデルタの南方にあるメンフィスを陥落させたのは前1720年ごろだ。

ただし、馬場匡浩氏によれば *2、 メンフィスの一角であるコム・ラビア遺跡の発掘で、第2中間期の層は中王国時代から連続的で、レヴァント系の遺物が皆無に近いということだ。つまり、第15王朝が直接支配した証拠がきわめて乏しいということ。

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出典:エジプト第15王朝 - Wikipedia (一部改変)

  • 下部の焦げ茶色はクシュ王国(ヌビア)。

第15王朝はエジプト全土を直接支配したわけではなく、同時代に第16王朝、第17王朝などが存在したが、これらの王朝は第15王朝に臣従していた。

交易・外交

第15王朝の主な交易相手はレヴァント(シリア・パレスチナ)とキプロスだった。第17王朝の最後の王カーメス *3 の石碑によれば、ヒクソスは「チャリオット、馬、船、木材、金、ラピスラズリ、銀、トルコ石、青銅、斧、油、香、脂肪、蜂蜜」を輸入していた。輸出品は(アペピ王の治世の話だが)エジプト南部からの略奪品(特に彫刻)だった *4。略奪品の他に朝貢品もあったかもしれない。

パレスチナ(の一部?)は第15王朝の直轄地であったため、交易以外に文化もエジプトに流入した。

またエジプト外に、第15王朝の王の遺物(スカラベ印章など)が多く発掘されている。レヴァント以外ではアナトリアヒッタイトの首都であるハットゥシャやクシュ王国(ヌビア)のケルマ、クレタ島(ミノア文明、東地中海)など。

エジプトは、ヌビアと交易・外交を古くから行ない、中王国時代からはレヴァントとの交易が盛んになったが、第15王朝になると地域も量も拡大し、文化面でも交流が盛んになった。大城道則氏はこの時代が《国際的エジプト王国の始まり》としている。ナイルデルタが東地中海で最も情報が集まる場所だった *5

第16王朝について

第16王朝は歴史的な価値が低いらしく、古代エジプトの参考文献にほとんど言及されていない。さらには、第16王朝がどういう性質なのかも研究者によって意見が別れている。

このことは「エジプト第16王朝 - Wikipedia」によって書かれている。

これによると、旧来の定説は《第16王朝は第15王朝に従属する諸侯を纏めたもの》とするもので、ヒクソスの王朝だと考えられていた。

しかし近年に異論が出た。

考古学者のKim Ryholtは近年の研究で、第16王朝がヒクソスによる王朝ではなく、第17王朝以前にテーベを本拠地としたエジプト人による王朝であったという新しい見解を発表している。研究では、第17王朝初期から中期までの王たちと末期の王たちは異なる家系に属しているとして、従来第17王朝と呼ばれてきたテーベ王朝の前半の約70年間を第16王朝、後半の約30年間を第17王朝とする新しい説を唱えている。また、最初の王家が断絶したのは、第15王朝を中心とするヒクソスの勢力によってテーベが一時的に征服されたためであるとしている。しかし、比較的新しいこの説は裏付けとなる証拠に乏しく、反対する研究者も多い。

出典:エジプト第16王朝 - Wikipedia

馬場匡浩氏は第16王朝についてわずかに触れている。

ヒクソスが第15王朝を樹立したことにより、第13王朝のファラオの末裔であるエジプト人の有力者たちはテーベに退くことになった。その支配者たちが第16・17王朝にあたる。

出典:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/2017/p132

このブログでは、この説を採用する。

アビドス王朝について

上の地図で「Abydos Dynasty?」というエリアがあるが、これは存在の有無自体が議論になっている。歴史的な重要性が低いため、ここでは触れないことにする。



*1:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p121

*2:馬場匡浩/古代エジプトを学ぶ/六一書房/p132

*3:在位:前1573-1570年

*4:Fifteenth Dynasty of Egypt - Wikipedia

*5:大城道則/古代エジプト文明/選書メチエ/2012/p76

エジプト第2中間期① ヒクソス政権(第15王朝)の誕生

エジプト第2中間期についてはwikipediaのように第13王朝から始まる説もあるのだが、このブログではヒクソス政権が始まる第15王朝から始まる説を採用する。

この時代の中心はヒクソスというシリア・パレスチナ(レヴァント)から来た民族だが、エジプト人政権の第17王朝がヒクソスをエジプトから追い出してエジプトを統一する時にこの時代は終わる。

なお、エジプト第2中間期より前の時代については以下のカテゴリーで書いている。

第15王朝以前の状況

第15王朝が成立する前は、第13王朝(前1782-1650年頃)と第14王朝(前1725-1650年頃)が並立していた。

この時代のことは以前に書いたが *1、 少しおさらいする。

第13王朝は王の短期間の交代が目立つものの、完成された官僚機構によって全エジプトがよく治められていた。ただこの政権の中盤に差し掛かると弱体化し、下エジプトの支配ができなくなり、レヴァント系の第14王朝が成立した。

上の2つの王朝の終焉に関しては確証できる史料は遺っていない。これらの終焉の直前にヒクソスの第15王朝が成立する(前1663-1555年頃)。

ヒクソスは下エジプト(ナイルデルタ)の東部アバリスに首都を置き、勢力を広げていった。

ヴァリス(テル・エル・ダバア遺跡)の発掘

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出典:Avaris-Wikipedia

ヴァリスの遺跡はテル・エル・ダバア遺跡と呼ばれ1970年代にM・ビータック氏率いるオーストリア隊により発掘された。

以下は馬場匡浩『古代エジプトを学ぶ』 *2 による。

この地は第12王朝の始祖であるアメンヘムハト1世の治世に始まる。建設当時の目的はレヴァント方面の防衛強化と東地中海の交易、シナイ半島の採鉱の拠点だった。

ところが第12王朝末の層からはレヴァント系の建築が多く出土する。研究者の解釈は傭兵となったレヴァント系の人々の住居だということだ。

第13王朝になると、レバントの人々の流入が更に増えて行政や軍の高官が出てくる。まるで西ローマ皇帝の滅亡の直前を見ているようだ。

第13王朝の権力が下エジプトまで届かなくなった後のアヴァリスの詳細は分からないが、最終的にはヒクソスが実権を握ってこの地アヴァリスを首都とした。

ヒクソスの旧来のイメージと現実の違い

上述の通り、ヒクソスはレヴァント系の人々の一部だった。馬場氏よれば、第15王朝の直前にダバア遺跡の一層の広がりが見られる。この解釈はレヴァントからの新しい移住者にあるとのこと(上掲書/p131)。

新しい移住者が入ってくる要因として次のことが挙げられる。

ネヘシの治世と考えられる1705年頃以降、デルタ地域が長期の飢饉と疫病に見舞われた痕跡が発見されている。これらの災厄は第13王朝にも打撃を与えた可能性があり、王権が弱体化し、多数の王が短期間で交代する第2中間期の政治情勢の一因となり、ひいては第15王朝の急激な台頭を招いた可能性がある。

出典:エジプト第14王朝 - Wikipedia

古代エジプト史では環境が政治を動かす強い要因として何度も出てくる。

さて、古代エジプト史における重要史料である『エジプト史』にはヒクソスは以下のように描写されている(以前はこれが史実だと思われていた)。

古代エジプトの伝統的な歴史認識において、ヒクソスは野蛮な侵略者と見なされていた。プトレマイオス朝時代に『アイギュプティカ(エジプト史)』を著したマネトの記録では、ヒクソス(第15王朝)による支配をエジプトを襲った災厄、異民族支配として描いている。

「トゥティマイオスの代に、原因は不明であるが、疾風の神がわれわれを打ちのめした。そして、不意に東方から、正体不明の闖入者が威風堂々とわが国土に進行して来た。彼らは、圧倒的な勢力を以て、それを簒奪し、国土の首長たちを征服し、町々を無残に焼き払い、神々の神殿を大地に倒壊した。また、同胞に対する扱いは、ことごとく残忍をきわめ、殺されたり、妻子を奴隷にされたりした。最後に彼等は、サリティスという名の王を1人、指名した。彼は、メンフィスに拠って上下エジプトに貢納を課し、最重要地点には守備隊を常駐させた。」

マネト『エジプト史(AIGUPTIAKA)』より

出典:ヒクソス - Wikipedia

マネトはプトレマイオス朝時代の人物だが、ヒクソス政権と同時代の第17王朝やヒクソスを追放した第18王朝もヒクソスを異民族として恐怖の対象として敵視し、または蔑視していた。

ヒクソスによる支配からエジプトを「解放」したテーベ(古代エジプト語:ネウト 現在のルクソール)政権(第17、第18王朝)が残した記録にはヒクソス支配をして「アジア人の恐怖」と呼ぶものもある。

「(中略)「人みな、アジア人の奴役のために衰え、息いを知らず。余は彼と戦い、彼の腹を引き裂かんとす。それすなわち、エジプトの救出とアジア人の殲滅を余の願いとすればなり。」かくて、最高会議に侍る高官たちの応えて曰く、「照覧あれ、アジア人の恐怖はクサエにまで(及ぶ)」と。彼ら、一様に(=異口同音に)応えて、その舌ひきつりぬ。(後略)

カーメス王第3年の日付をもつテキストより

出典:同上

このような歴史観は、考古学における発見によって上述のように変更されてきた。現在では、ヒクソス政権は下エジプトに長く住み着いていたレバント系の君侯が王になったという解釈が支持されているようだ。

ただ、ヒクソス政権の数十年前にレヴァントから大量の移住者が入ってきている点は、個人的に引っかかるところではある。

ヒクソスと馬車の関係

『エジプト史』などによる歴史観によって、ヒクソスはエジプトになかった武器すなわち戦車や複合弓などを使用してエジプトに侵略・征服したという歴史が長く信じられてきた。この歴史観によれば、ヒクソス政権と同時代のエジプト人政権(第17王朝)はヒクソスの「新技術」を習得してそれらを使ってヒクソスを滅ぼした、としている。

しかしこの歴史観は後世の第18王朝が使用した「新技術」を「ヒクソスがエジプトに輸入したに違いない」という推測でしかなく、たとえば上述の『古代エジプトを学ぶ』ではテル・エル・ダバア遺跡でヒクソスの「新技術」の使用の証拠について触れていない。

また、馬車についてはその技術を含めミタンニが開発したというのが一般的だが、ミタンニは前16世紀に成立した国家だ。だから「新技術」がエジプトに輸入されたのはヒクソス政権が成立したずっと後のことになる。

ヒクソスを含むパレスチナ由来の人々(世界史用語でアジア人とされることがある)は「新技術」が無くても元々武力に長けていて、さらに疫病や干ばつで混乱している状況の中で、ヒクソスが実験を握ったというのが妥当な推測になるだろう。



「アフリカ_エジプト文明②」シリーズを書く

エジプト文明については以前にも書いている。

rekishinosekai.hatenablog.com

↑のカテゴリーでは、エジプトの先史からエジプト中王国時代まで書いた。

今回から新しいカテゴリー「アフリカ_エジプト文明②」を設けて、エジプト中王国時代の後のエジプト第2中間期(ヒクソス政権など)から書いていく。

古代エジプト文明 世界史の源流 (講談社選書メチエ)

古代エジプト文明 世界史の源流 (講談社選書メチエ)

  • 作者:大城 道則
  • 発売日: 2012/04/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

「中東_メソポタミア文明②」と並行して書く。

「中東_メソポタミア文明②」と並行して書こうと思っている。この2つのカテゴリーは古代エジプトメソポタミアの文明圏がシリア・パレスチナを覆うように重なってオリエント世界を形成するので、両者を同時に見ていかなくてはならないからだ。

さらには、エジプトはこの頃は、オリエント世界で最も重要な国、いわゆる覇権国なので、エジプトの事情を知らないとオリエント世界を語れないという事情もある。

「オリエント世界」というカテゴリーを作ろうとも思ったが、今のところ別個に書いていこうと思っている(今後変更するかもしれない)。

このカテゴリーで書くこと

ここで書くことは、エジプト第2中間期から(ヒクソス政権の第15王朝から)。第18王朝から始まるエジプト新王国時代も書くが、その後を書くかどうかは決めていない。

ヒクソスとはシリア・パレスチナから南下した人々の一部で、セム系と言われている。

第18王朝を築いたエジプト人で、ヒクソスをエジプトから追い出して、さらにパレスチナまで追いかけて滅ぼした。彼らはヒクソスに統治されたことを屈辱だと思っていたらしく(ナイル川下流だけだが)、ヒクソスの建造物その他をことごとく破壊して回った。そのため、ヒクソス政権の詳しい事情は他の王朝に比べるとかなり少ないらしい。



【書評】内藤陽介『世界はいつでも不安定 - 国際ニュースの正しい読み方』

この本は、Youtube保守系教養番組「チャンネルくらら」の中の番組「内藤陽介の世界を読む」から、国際ニュースを理解する上で重要なものをピックアップして書籍化したものだ。

「内藤陽介の世界を読む」とはどういう番組かと言うと、世界各国の各地域の国内事情を紹介するような番組。大手マスコミが報道するようなニュースから、日本にとってどうでもいいアフリカの国の事情まで幅広く扱っている。

今回のこの本は、そのようなネタの中からニュースバリューのあるものをピックアップし加筆して、丁寧にわかりやすく解説したものだ。

著者について

著者の肩書は郵便学者。郵便学というのは巻末の説明では《切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を提唱し、研究・著作活動を続けている》とある。ただし、この本では郵便学の話は少しだけ出てくる程度だ。

上述のとおり、『チャンネルくらら』でレギュラー出演されている。保守系の人だと、私自身は思っているが、本人がそのように自称(?)したことは聞いたことが無い。イデオロギーに凝り固まっているタイプの保守ではないことを付け加えておく。感情保守でもないし、陰謀論に騙されるような保守(?)でもない。

郵便学の関係で世界各国の事情に通じている(歴史の薀蓄も含む)。大学・大学院時代はイスラム学を専攻。

「はじめに」より

地上波のテレビ報道では、ある種の〝思い込み〟を前提に議論が組み立てられており、その前提を壊さないことを優先しているという傾向があることは指摘しておいてよいでしょう。たとえば、先に上げたトランプ氏の評価についても、不法移民を排除すべきだという彼の主張を、(合法的な手続きを踏んでいる人も含めて)移民そのものを排除すべきと曲解し、攻撃してきた反対派の主張を無批判に受け入れた結果、トランプ氏は差別主義者だから人権に配慮するはずがない、というような思い込みがあったことは想像に難くありません。
また、地上波メディアの報道番組では、速報性という観点から、どうしても、事実の推移を逐一追いかけていかざるを得ない面があり、その歴史的・思想的な背景などもじっくりと掘り下げていく余裕を確保しづらいという面もあるでしょう。
そこで、本書では、最近の国際ニュースの中から、特に重要と思われる米国、中国、中東、ロシア・トルコの話題をいくつかピックアップし、その背景についてもじっくり読みこんでいきたいと思います。
新型コロナウイルス禍で世界的に閉塞感が漂う中、年明け早々の1月6日にはアメリカ・ワシントンD.C.の連邦議事堂に暴徒が侵入する事件が起き、2月1日にはミャンマーで軍事クーデターが発生するなど、不安定な情勢が続いている〝世界〟を読み解くためのヒントの一つとして、ぜひ、本書をご活用ください。

出典:世界はいつでも不安定 - 国際ニュースの正しい読み方 -(内藤陽介) | ワニブックスオフィシャルサイト

大手マスコミの報道は、

  • 〝思い込み〟やイデオロギーによって曲解されたり(リベラル色が強い)、
  • 中東や中央アジアなどの日本に馴染みのない地域には無関心だったり、
  • 中国を忖度しなければならなかったり、
  • 各国から恫喝や嫌がらせを受ける可能性のある報道を自粛したり

しているので、これらの報道を見聞きしてもなかなか理解できない。日本の大手マスコミは危険な仕事はしてはいけないらしいので、海外の有名メディアのように海外のとくダネを世界に配信できるスキルを持っているジャーナリストがほとんどいない。そもそも新聞記者はジャーナリストではなく、サラリーマンだ。

そういうわけで、この本は、マスコミが解説してくれないニュースの背景を書いていこうというコンセプトを持っている。

事実ベース、忖度無しなので、基礎知識の習得するために一読をおすすめしたい。

目次

第1章【アメリカを読む】南北問題で知る、米大統領選と左翼運動
第2章【中国を読む】香港・ウイグル征服を狙う野望を読み解く
第3章【中東を読む】日本人のためのイスラエルと湾岸諸国入門
第4章【ロシア・トルコを読む】リビアからコーカサスにいたる紛争ベルトの重要性

出典:同Webページ

内容

本書は4つの章で構成されているため、各章のボリュームが大きい。

1・2章はマスコミで扱われる話題を主題に置いて、マスコミが解説しないような背景を解説している。いま現在の事情だけでなく、歴史的背景も丁寧に書かれている。

この2つの章は米中冷戦の今後を理解する上でも必要な知識だ。アメリカにとって左翼運動は、(バイデン政権にとっても)弱点になっていく可能性は十分にある。一方で、中国はウイグルを弱点だと思っていないし香港も世界の非難をモノともせずに併呑しようとしているのだが、いわゆる「西側諸国」は中国が非道であるということを共有して結束しようとしている。日本国民も有権者としてこれを共有すべきだろう。

長引くと思われる米中冷戦の中で多くのニュースが飛び交うわけだが、一般人の私たちがそれらを少しでも理解できるようにこの本は知識を提供してくれる。

3・4章は私たちの馴染みのない中東と中央アジアの話。馴染みのない地域なので1・2章よりも基本的な知識に多くの紙幅が割かれている。ありがたい。

中東諸国も中央アジア諸国も大半が独裁国家だという基本的な知識は重要だろう。本書の中では大国に依存する(すがりつくといっていい)国を幾つか紹介しているが、こんな国々の言うことを聞いてたら いくら大国であってもお金が足りなくなる。そのような "お荷物国家"が世界中にあるので、「世界はいつでも不安定」なのだ。この本を読めば、「世界平和を実現するためにはどうすればいいんだろう?」と悩まなくて済むようになる。

重要な点

世界の混沌や不安定さを嘆くよりも、不安定であることを前提に、日本としての身の処し方を考えるほうが建設的!
世界の中で我々が「どうすべきか」という問いに答えるためには、世界が「どうなるか」と正確に予測せねばならず、そのためには現状を正確に認識する必要があります。

出典:同Webページ

世界平和というリベラルチックな言葉は、この本を読めばレトリックか方便か枕詞くらいの意味しか持たないこと思えるようになるだろう。

日本国民として国際政治を見る場合、何よりも大事なのは国益であり、現実の正確な認識と予測と合理的な方針と行動である。

けっして、不安定の原因であるダメダメ国家の更生などはではない。彼らの和平は個々の国家の国益のためである。あたり前のことだが、大手マスコミはそのように書かないので勘違いしている人がいるかもしれないので念の為。

感想

この本のターゲット層は副題にあるように「国際ニュースの正しい読み方」を知りたい人たちになる。この本一冊で十分なわけではないが、これを理解できれば少しのあいだは国際政治通になった気分になれるだろう(私はなった)。

個人的には3・4章がタメになった。うすうす気づいてはいたが、中東・中央アジアの国々の多くは独裁国家で、日本人の常識から考えるとダメダメ国家だ。これらの国々をちゃんと知ったら韓国がマトモな国だと思うようになるかもしれない....

日本は中露+Wコリアに囲まれていて、不幸だと感じることがあるが、まあ日本が仮に引っ越すことができても隣国のロクでもない国と付き合わなければならない。とにかくは周囲を海で囲まれていることに感謝しようと思う。

個人的備忘録(各章)

以下は蛇足。

第1章【アメリカを読む】

この章はトランプ政権を中心として、南北問題、ポリティカル・コレクトネス(PC)、BLM運動、左翼(アンティファなど)、大統領選挙後の顛末などについて書かれている。

3月10日に発売された本なのでバイデン大統領に関する話は少ないのだが、左派・リベラルの背景については書かれているので参考になるだろう。

また、PCや環境については日本に"輸入"され続ける話なので、日米の状況の違いを知る必要があるのでこの本は有用だと思う。

第2章【中国を読む】

諸外国が対中国批判をする時の中心論点となる香港・ウイグルを中心として書かれているが、香港の方が多く紙幅が割かれている。

一国二制度」を謳って成立してきた香港は、中国だけでなくアメリカや他の先進諸国にとっても使い勝手が良かった。香港人にとっても中国の経済成長が上り調子に良くなっていた頃には我が世を謳歌していたようだ。

このwin-win-winの状況は習近平の国際社会を無視した強引な併呑の意思により崩壊したのだが、これらの背景については本書を参照のこと。

第3章【中東を読む】

UAEイスラエルが国交を樹立したというニュースから始まり、UAEとはなんぞやという話と内藤先生の有名な「サウジアラビアdisり」が書かれている。

内藤氏曰く「サウジアラビアは(北朝鮮すらできる)テロすらできないダメダメ国家」。このように事実あからさまに書いてくれるのでこの本は有用だ(テレビじゃ無理だろう)。

中東諸国はほとんど独裁でグダグダな政治をやっているので、これをみればどうして「世界はいつでも不安定」なのかが分かるというものだ。

※ この章と後の第4章は日本人にとって馴染みが無いものなので、1・2章よりも基礎的な知識が書かれている。ありがたい。

第4章【ロシア・トルコを読む】

ナゴルノ・カラバフ紛争を中心にロシア・トルコそして中央アジアから北アフリカに繋がる「紛争ベルト」地帯の諸国について書かれている。

ここではトルコのエルドアン大統領の行動について知ることができる。日本人にとって、いやトルコ以外の人々にとって、トルコが大国だと思う人は少ないはずだ。しかしエルドアン大統領は中東および中央アジア北アフリカに対して大国のように干渉政策を展開している。

日本から地理的に遠いこともあり、日本のメディアではトルコを取り上げることは少ないが、エルドアン大統領は国際政治のプレーヤー(アクター)として活躍しようとする意思を持って行動していることに注目する必要がある。

この章にはその他の国々の事情もけっこう詳しく書いてある。



ミタンニ② オリエント世界の外交/滅亡

前回からの続き。

情報のほとんどがエジプト側の史料なので、エジプト中心の記事になってしまった。

エジプトと交戦(オリエント世界の始まり)

エジプトの情勢について

エジプトの歴史の詳細は別の機会に書くとして、ここでは必要最小限のことだけを書く。

少しさかのぼってヒクソスの話から。

ヒクソスはエジプト北部を支配した「アジア系の異民族」のような書き方をされるが、パレスチナ地方から移住した人々で、(ミタンニが開発したと言われる)馬-戦車技術によってエジプト北部を征服・支配した。

エジプト人であるアアフメス1世(前1570-1546年)がヒクソス追放とエジプト統一に成功し、ここからエジプト新王国または第18王朝が始まる。アアフメス1世はパレスチナに逃げたヒクソスの残存勢力を追討して滅ぼす。その後パレスチナを支配したと言われている。

さて、第18王朝の三代目となるトトメス1世(前1504-1492年)はシリアに攻め込んだ。遠征軍は大した反抗を受けること無く進撃した。トトメスはユーフラテス川の現代シリアとトルコの国境沿いにあったカルケミシュに境界碑を建て、シリア全域をエジプトの勢力圏であることを宣言した。ただし、彼らにとってシリア・パレスチナはエジプト本土を守るための緩衝地帯という位置づけであった。

五代目ハトシェプスト(女王)はアジア遠征をしなかったために、ミタンニにシリアの領域を奪われた。ミタンニの初期の王たちがこの一体を制服・支配したのはこの時期のことになる。

6代目トトメス3世はハトシェプストの共治王だったが、ハトシェプストが亡くなって(あるいは失脚して)、名実ともにエジプトの支配者となった。ミタンニとエジプトの本格的な戦いはこのトトメス3世から始まる。

トトメス3世の遠征

トトメス3世は単独王となってから20年の間にシリア・パレスチナへの遠征を17回行なった(戦闘なしのものも含む)。この記録はカルナック神殿の壁に刻されている『トトメス3世年代記』と呼ばれる記録による。このような記録をそのまま史実と鵜呑することはできないが *1 、他に頼れる史料が無いためとりあえずこれに頼るしかない。

『世界の歴史①人類の起原と古代オリエント*2 に詳述してある。

トトメス3世が単独王になった年に第1回遠征が行なわれた。攻撃対象はパレスチナ(現代シリア南部の一部からイスラエルまでの領域)。パレスチナはトトメス1世が征服した地域であったが、カデシュの首長(王または君侯)を盟主とする反エジプト同盟が組まれていた。

メギドの戦い(前1457年)と呼ばれるこの遠征の結果はエジプトの勝利に終わり、パレスチナ全域を征服した。トトメス3世はこの地域を幾つかの管区に分け、貢租を徴収するために監督官を設置した。屋形氏はこれを「植民地政策」と書いている。

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出典:Map 2013-07-26 02-51 - File:Map 2013-07-26 02-51.jpg - Wikimedia Commons

これ以降もパレスチナの君侯は不満をくすぶりつづけていたようで、カデシュは反同盟を画策していた。トトメス3世は第5回遠征でウラッザ(現代シリアの地中海沿岸)に港を確保し、第6回遠征でシミュラから上陸してカデシュを占領し、シリア全域も手中に収めた。これで反エジプト同盟は崩壊した。旧来の「植民地政策」に加え、軍役提供義務化と君侯の長子をエジプトに人質として連れていき、エジプトの教育を受けさせた。

第8回遠征でエジプト軍はミタンニと激突する。ここでようやくミタンニが出てくる。小林登志子氏や屋形禎亮氏は反エジプト同盟の背後にミタンニがいるとしている。しかし、ミタンニ軍はアレッポとカルケミシュで敗北し、その後はユーフラテス河の東に逃げて戦いを避けた。ミタンニの記録はこれだけ。トトメス3世は帰路の際にカデシュを再占領した。

それでもカデシュは反抗を止めず、第9回遠征が行なわれる。パレスチナの支配が確立されたのは第17回遠征でカデシュを占領して以降のことだという。

その後、総督職が新設され、シリア・パレスチナを3分割して属州とし、州都を設けて直轄領とし、その他の都市は君侯に自治をさせた。

エジプトとの同盟

トトメス3世の次代のアメンヘテプ(アメンホテプ)2世(前1428-1397年)の時代もパレスチナにおいての遠征があった。またしてもカデシュを盟主とする反乱が起こり、アメンヘテプはこれを破った。

こうした交戦の日々から一転して停戦の機会が訪れる。その原因はミタンニがヒッタイトに要衝アレッポ(ハラブ)を占領破壊されたことだという(この時点でアレッポはミタンニ側の勢力圏にあったことになる)。

アメンホテプ2世とミタンニ王アルタタマ1世(前14世紀初期)は平和交渉に入った。この間に、アルタタマはヒッタイトを追い返すことに成功した。

同盟が結ばれたのは、アメンホテプ2世の次代の王トトメス4世(前1397-1388年)になってからだ。アルタタマ1世との同盟は、シリア北部はミタンニの、シリア南部とパレスチナはエジプトの支配領域とし、アルタタマ1世の娘をエジプト王に嫁がせることで決着した。

オリエント世界初期の外交

エジプトとミタンニの間で交わされた同盟はオリエント世界の外交関係の始まりとなった(前14世紀中期)。

この時期のオリエント世界で最も重要な国はエジプトとなり、エジプトと同格の同盟国はミタンニ、ヒッタイトバビロニア、アラシヤ(キプロス島*3 だった。有名なエジプト側の記録アマルナ文書によると、これらの国はエジプトを「わが兄弟」と呼び、自らを「大王」と称した。一方、シリア・パレスチナの属国はエジプトっを「わが主人」と呼び、自らを「僕(しもべ)」と称した(『古代メソポタミア全史』/p156)。

ミタンニの滅亡

ミタンニ自身の文献がほとんど無いため、以上のようにほとんどエジプトの話になってしまった。

エジプトはミタンニとの同盟のために比較的長い平和を享受できたが、ミタンニはヒッタイトアッシリアに傑物が現れたために、短期間で滅亡してしまうことになる。

前14世紀後期のミタンニの内部事情は、当時のミタンニ王トゥシュラッタがエジプト王に書き送った十数通の書簡によって知ることができる *4

上述のアルタタマ1世の後、シュッタルナ2世、アルタシュマラと継承されるのだがアルタシュマラは王宮内の反逆分子によって殺され、弟のトゥシュラッタが即位することになった。幼少期に即位したトゥシュラッタは成長して権力を握って王宮内から反逆分子を一掃したが、これらの勢力はミタンニの東部を根拠地としてアルタタマ2世を擁立し、ヒッタイト王シュッピルリウマ1世(前14世紀後半)の庇護を得る。

ヒッタイトは国内で長く内紛が絶えなかったが、シュッピルリウマ1世がこれを統一して強国にした。

シュッピルリウマは即位したばかりの頃のトゥシュラッタを攻撃するも所詮は敗北する。

ここでシュッピルリウマは方針を変えて、直接対決を避けて外交で包囲する戦略を採る。上述のようにアルタタマ2世を庇護下に置くこともそのうちの一つだ。

[シュッピルリウマは]ミタンニ東部の国々と外交交渉で条約を結ぶなどの策を弄し、さらにミタンニを挟み撃ちするような形になるバビロニアから、王女を娶っている。

出典:『古代メソポタミア全史』/p161

改めて首都ワシュカンニを攻め込むと、トゥシュラッタは戦わずに逃げたが、息子の一人に殺害されてしまう。この後、アルタタマ2世がミタンニ王に就いたが、この時点でミタンニはヒッタイトの属領となってしまったようだ。さらに、かつてのミタンニの属領であったアッシリアが独立し、勢力は細るばかりだった。

アルタタマ2世の息子シュッタルナ3世はアッシリアを頼ってヒッタイトから独立しようとしたが、アッシリアからの援軍はなかった。シュッピルリウマはトゥシュラッタの息子の一人(のちのシャッティワザ)にワシュカンニを攻めさせて占領後王位に就かせた。

しかしシュッピルリウマはミタンニの要衝地のカルケミシュとアレッポ(ハラブ)を2人の息子に治めさせたため。ミタンニの領地はさらに小さくなった。

シャットゥアラ2世がミタンニ王として知られる最後の王だが、この後は歴史からミタンニの名は消えてしまった。



*1:小林登志子『古代メソポタミア全史』(中公新書/2020/p149, 152)によれば、《エジプトだけでなく、古代の王たちは勝利をより大きく記すが、敗北は敗北と書かないことが普通である。現時点では、ミタンニとエジプトとの戦いについては、もっぱらエジプト側の史料によって語られているので、注意を要する。》と書いている。

*2:中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p523-525(屋形禎亮氏の執筆部分)

*3:アラシヤは銅の産地として経済力を誇っていた

*4:『世界の歴史①人類の起原と古代オリエント』p339

ミタンニ①

今回はミタンニについて。

オリエント世界の到来はエジプトがシリア・パレスチナに進出してきたことから始まるが、その時のシリア(とその周辺)の覇権国がミタンニだった。

ミタンニはフリ人(フルリ人)が建国した国。まずはフリ人の話から。

フリ人(フルリ人)

フルリ人(英: Hurrian)またはフリ人は、古代オリエントで活動した人々。紀元前25世紀頃から記録に登場する。彼らは北メソポタミア、及びその東西の地域に居住していた。彼らの故郷は恐らくコーカサス山脈であり、北方から移住してきたと考えられるが、確かではない。現在知られている彼らの根拠地はスバル(Subar)の地であり、ハブール川流域や後には北メソポタミアと歴史的シリアのいたるところで小国を形成した。

出典:フルリ人 - Wikipedia

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出典:Hurrians - Wikipedia

地図の「HURRIAN KINGDOMS」の場所に幾つものフリ人の都市国家が分立していた。ウル第三王朝のシュルギ王(前2094年2047年頃)がこの地域に何度も征伐に赴いたことが記録に遺っている。

ウル第三王朝が滅んで前二千年紀に入るとアムル人がメソポタミア・シリアの国々を支配したが、フリ人は民族の消滅を免れた。

シリアでは幾つかの王朝が覇を唱えたが、前1600年に当時の覇権国ヤムハド王国がヒッタイトのムルシリ1世(前1620-1590年頃 )に滅ぼされる。

ムルシリ1世は前1595年にバビロンも撃破して、その後に「フルリ人の王国も撃破した」 *1 と記録されている。

ムルシリ1世が帰路するとすぐに暗殺されてヒッタイトは混乱期に入るので、シリアは権力の空白地帯となる。

ここにフリ人が再び勃興する下地が出来上がった。

ミタンニの登場

ミタンニの建国または起源はよく分かっていない。首都であるワシュカンニについては、場所は特定されているものの(シリア北東部テル・エル・ファハリヤ遺跡) *2、 発掘されていない。

ミタンニの始まりは前16世紀頃と言われるが、ミタンニの名前が言及されている最古のものは、エジプトのトトメス1世(前1596-1494年)の時代の墓碑銘である。

それはおそらくエジプトの役人となったミタンニ出身者の墓であるらしい。またこの銘文から、トトメス1世がミタンニの初期の王(パラタルナか、あるいはそれ以前の王)と対戦したことも知られている。

出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 *3 /p336(渡辺和子氏の執筆部分)

ミタンニの情報が増え始めるのは前1500年ごろからだ。

これらの情報によるとミタンニの首都はワシュカンニで、支配したすべての領域を直轄していたわけではなく、周辺は諸王を服属させてミタンニ王の宗主権を認めさせたと言う *4

覇権国へ

ミタンニの各王の事績については、首都ワシュカンニが未発掘のため、ほとんど分かっていない。

フリ人の国ミタンニは前15世紀初期のパラッタルナ王治世には、シリア北部を支配していた。

前15世紀中期のサウシュタタル王治世になると勢力を拡大し、東方はティグリス河東岸のズジをふくむアラプハ王国から西方はユーフラテス河を越えて、シリア北部およびアナトリア南東部のキツワトナ地方まで支配した。この過程でミタンニはティグリス河流域のアッシリアを属国とした。

出典:小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020/p147

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出典:Mitanni - Wikipedia

サウシュタタル(Shaushtatar)はパラッタルナ(Parattarna) *5 の息子で次代の王。パラッタルナのおそらく先代となる王としてシュッタルナ(1世)(Shuttarna I)がいた。シュッタルナの事績は分からないが、トルコ南部(シリアの国境沿い)のアララハ(Alalakh、アララク)でseal(封印?)が発掘されている。これには「son of Kirta(キルタの息子)」と刻されており、シュッタルナより前にキルタ王がいたということになる。ただし、キルタに関しては叙事詩の中の王として書かれているものが発見されているが、碑文などの直接の史料は発掘されていない。

ミタンニの強さの秘訣は「馬」

馬の話は前回書いた。馬を戦車の基本形(戦術?)を考案したのがミタンニで、これによってシリア・北メソポタミアアッシリア)に覇を唱えることができた(しかしこの「基本形」を会得したヒッタイトに、後に滅ぼされることになる。)



*1:ムルシリ1世 - Wikipedia

*2:テル・エル・ファハリヤ - Wikipedia

*3:1998年出版されたものの文庫化

*4:小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020/p145

*5:パラッタルナはParshatatar, Paršatar, Barattarna(バラッタルナ、バラタルナ)など表記が違う。