歴史の世界

楚漢戦争㉖ まとめ その2

前回からの続き。

今回は項羽と劉邦がいよいよ歴史の中心人物になる時期の話。

有名な鴻門の会にも触れる。

第三幕:懐王政権と鉅鹿の戦い

懐王政権

項羽劉邦とともに項梁軍の別働隊として転戦していたが、項梁の敗死を知り拠点であった彭城へ戻った。

この時 項羽はまだ24歳か25歳の若年者で、周囲の人間は項羽が項梁の後を継ぐことができるとは思わなかった。そこで懐王は 項梁の配下であった宋義に近づいて彼の後ろ盾で権力を握った。

懐王は都を長江下流の盱台(くい)から戦いの最前線に近い彭城に遷して新しい体制を作った。そして冠軍(総司令)を宋義、副将を項羽として次の戦場に向かわせた。この戦いが鉅鹿の戦いだ。

各地の状況

鉅鹿の戦いを見る前に各地の状況について。

  • 秦・楚地域:既に書いたとおり。
  • 韓:章邯率いる秦軍の進軍に伴い、秦の勢力下に入る。
  • 魏:旧魏王室の公子だった魏咎(ぎきゅう)が魏王となっていたが、秦軍に攻め落とされた。
  • 燕:陳王の配下だった韓広が燕王となっている。
  • 斉:旧斉王室後裔の田市(でんし)が斉王となっている。ただし実権は相国の田栄。項梁と確執があり、対秦戦争には参加しなかった。
  • 趙:陳王の配下だった張耳・陳余が、趙の公子であった趙歇を王として擁立していた。

今回の鉅鹿は趙の領土。

秦軍と趙軍の動き

秦軍の章邯は項梁を敗死させた後、趙への攻撃に移った。辺境の楚東部への攻撃よりも中華の中心部である趙南部への攻撃を選択した。

二世3年(前207年)10月、章邯は大都市である邯鄲(旧趙国の首都)に入城されては長期戦になってしまうと考え、先回りして邯鄲の城壁を破壊、住民を移した。さらに秦は中央から王離将軍率いる精鋭部隊を派遣する。

張耳らは鉅鹿に籠城し、陳余は救援を募りに外へ出た。

攻撃が開始され、状況が厳しくなった張耳は何度も陳余に外からの攻撃を要請するが、陳余は「いま攻めても玉砕するだけだ」と言って動かない。

このような状況で城陥落は時間の問題となっていた。

楚軍、攻撃を開始する

11月、宋義を総大将とする楚軍は まだ黄河の南の安陽に留まっていた。宋義の戦略は鉅鹿の戦いが終わった後に、疲弊した秦軍を攻撃するというものだった。その間に斉国と同盟を結んで秦に対抗しようという長期戦略を考えていた。

副将であった項羽はこれに反抗し、宋義を斬って全権を奪い行進を開始する。

12月、項羽はついに秦軍へ攻め込む。秦軍は後方部隊も合わせて50万、項羽軍は5万程度。項羽は兵力差をものともせずに秦軍を片っ端から斬り殺していった、そのあいだ、陳余や他の援軍はその戦闘を砦から見ていた、という。

1月、王離が捕虜となる。中央から派遣された精鋭部隊は壊滅。後方を担当していた章邯は敗走したが追撃され、最終的に項羽に降伏する。

この劇的な逆転勝利は全て項羽の手柄と言って過言ではなかった。項羽が反秦勢力のトップに立ったことは言うまでもない。

別働隊の劉邦

劉邦項羽らの本隊とは別に楚の西部への攻撃を担当した。劉邦は楚地域にある秦と楚の勢力の境界にある碭郡の郡守に任命されていたが、項羽が王離軍を破るまでこの地からほとんど離れない地域で一進一退を繰り返していた。

f:id:rekisi2100:20200731061658p:plain

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p118

  • 前回書いたとおり、秦暦は10月を年始とすることに注意。

項羽が王離軍を撃破すると、総崩れとなった秦軍を一気に攻め込み西進した。しかし洛陽で進軍を止められると今度は武漢から秦都・咸陽を目指した。

劉邦軍は、項羽ら主力軍と比べてはるかに劣る戦力しか持っていなかったので、主要な県城の主に対して「いま降伏するなら今の地位を安堵してやる」と説得して降伏させることして、成功した。政治力(?)の勝利。

漢元年(前206年)10月 *1劉邦軍は、掃討戦をしながら咸陽へ進軍した項羽よりも早く到着すると、秦の三代目の子嬰(皇帝ではなく秦王)が劉邦に対し無条件降伏し、ここに秦は滅亡する。

「関中王」劉邦

一時的でも、関中を征服した劉邦は関中王として庶民に振る舞った。

なぜそんな振る舞いをしたのかというと理由がある。話を楚軍が鉅鹿の戦いに参戦する前まで戻す。

この時点で楚軍が関中へ攻め込むことは将軍たちは不可能だと思っていた。このような状況の中で懐王は諸将を前にして「先に関中に入った者をこの地の王とする *2 」と宣言した。懐王は手元に領土も金品も権力も持っていなかったので空約束くらいしかできなかった。この空約束を「懐王の約」という。

さて、劉邦は関中を攻め落とした。懐王の約を根拠に関中王として振る舞った。関中の三老(為政者層の者たち)を集めて自分が新しい王であることを宣言した。

有名な「法三章」(殺人・傷害・窃盗だけを罰するとした3か条の法律 *3) を宣言したのはこの時点である。ただし法三章で治まるはずもないので、実際には秦律を用いていたようだ *3

鴻門の会

さて12月になると、項羽軍が大軍を引き連れて函谷関 *4 に到着した。

劉邦は懐王の約を根拠に漢中王となったのだが項羽はこれを承知しないだろうという観測から、劉邦は函谷関で項羽の関中入りを止めた。

項羽はこれに激怒し、函谷関の防衛を撃破して進軍し劉邦への攻撃の準備に入った。このような状況で開かれたのが有名な鴻門の会だ。

鴻門の会は一言で言えば劉邦項羽の軍門に降った一連のイベントだ。『史記』にはそのように書いてはいないのだが、後の敵となる項羽の軍門に降ったということを歴史に書き残すことは憚(はばか)られたのだろう。

劉邦は「漢中王」の自称を取り消し、関中におけるすべての権限を項羽に差し出し、それまでの「無礼」を不問にしてもらった。



*1:二世皇帝・胡亥が二世3年に死んだため、『史記』では次の年の表記を「漢元年」とした。『漢書』は「髙祖元年」としているように、「この年から髙祖・劉邦の天下である」という歴史観司馬遷漢帝国の時代の人だからそうしたのは当然。

*2:先入定關中者王之

*3:法三章の宣言自体も嘘かも知れない。秦律を用いていたことは発掘した文書で分かっているという。

*4:関中への入り口

楚漢戦争㉕ まとめ その1

これまで長々と楚漢戦争について書いてきたが、今回はそのまとめを書く。(といっても複数の記事になってしまう)。

楚漢戦争の起点は定説がないようだ。このブログでは、起点は劉邦項羽に対して正式に反旗を翻した彭城の戦いとしている。

ただしこのブログでは、三国志の物語が黄巾賊の乱から話をするように、楚漢戦争を陳勝呉広の乱から話を進めている。このまとめでもこの乱から始めることにする。

暦の問題

最初に暦の問題を書いておく。ややこしいので予め理解しておく必要がある。

史記』では年の表し方は秦の始皇帝の元年(略して秦始皇元年または始皇元年)とか二世皇帝二年(二世二年)などと書かれる。ちなみに元号というものは前漢武帝代から始まった。

秦の暦は特殊で、10月が年始となる。つまり、秦始皇元年(前251年)の9月の次の月が始皇二年(前252年)10月となる *1 。このブログでは便宜的に西暦も10月を年始とする秦暦に合わせることにしている。

もうひとつ、『史記』では秦二世皇帝が二世三年(前207年)の9月に死んだ後、明くる月は「漢元年10月」としている(『漢書』では「高祖元年」という書き方をしている)。暦は秦暦を継承して、10月が年始となる。

  *   *   *

さて、それでは本題に入ろう。

第一幕:陳勝呉広の乱

f:id:rekisi2100:20200410083156p:plain

出典:浅野典夫/図解入門よくわかる高校世界史の基本と流れ/秀和システム/2005/p65

反乱の原因

まずは反乱の原因から。

陳勝呉広の乱は前209年、秦の二世皇帝元年に起こった。秦による中華統一の前221年からわずか12年しか経っていない。

つまりは始皇帝の政策に大きな問題があったから反乱が起こったと見るべきだろう。

上記の図解は政策についてまとめてある。大きな問題を2つ挙げるとすれば、不満の蓄積と防衛の問題だ。

不満の蓄積の面について。

  • 郡県制:旧六国(秦以外の国々)の有力者(旧王族・貴族)らの既得権益を剥奪して恨みを買った。
  • 造営事業:労役増加を含む大増税によって民衆の不満が高まった。

こういった不満が高まるのは百も承知だった。戦国時代の秦においてはこのような不満は法治つまり厳重な管理社会を築いて抑え込んできたが、広大な中国本土を短期間でそのような社会に変えることは不可能だ。だから武力によって鎮圧するしか無い。

そこで防衛面について。

各地の防衛を担当するのは郡だった。郡には郡守(軍の長官)を中央より派遣するのだが、兵隊は現地の庶民から徴兵した。反乱が起こった時はまず郡の軍隊が鎮圧に当たるが、対応しきれない時は中央から軍を派遣する。

しかし、陳勝呉広の乱が起こると旧六国地域の郡の軍のほとんどが、中央から派遣された官僚らを殺して反秦勢力と化した。

全国の郡の兵隊が一気に敵になることを始皇帝は想定していなかった。まあ普通はそんな事を考える必要はないのだが、そのような状況を作ったのは始皇帝の政策だった(上記参照)。

反乱の始まりと終わり

陳勝呉広は庶民だった。

二世皇帝2年(前209年)7月彼らは北方辺境の防衛をするために徴兵された。しかし、北方へ行く途中で大雨に遭って足止めを喰らい、期日中に目的地に到着することができなくなった。秦の法律は期日に到着できなかったらどんな理由であろうと斬首というものだった。

陳勝呉広はどうせ死ぬなら一花咲かせて死のうと決意し、引率の将尉を殺して徴兵された兵士を味方につけ反乱軍になった。

f:id:rekisi2100:20200612131043p:plain:w600

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p83

彼ら反乱軍はかつて旧楚国の都になったこともある陳県を手中に収め、ここを都として張楚国を建国した。「張」は「大いなる」という意味で、ようするに楚国の復活を意味した(両者ともに楚人)。

陳勝呉広の成功を伝え聞いた各地の庶民は一斉に反乱を起こし、中央から派遣されてきた官僚を殺して反秦勢力と化した。ほとんど旧六国全土が反秦となった。

陳王 *2 となった陳勝は各地に兵を派遣して反乱を支援した。各地を影響下に置こうとしたのだが、派遣した配下の者たちが陳王のコントロールを離れて勝手なことをやりだしたため統率は取れなかった。

楚軍は秦都・咸陽にも出兵し都の近くまで進撃するが、将軍・章邯の軍に撃退されてしまう。ここから秦の反撃が始まる。これが9月のこと。

章邯は楚軍を押し返しながら東進し、12月 *3 には楚都・陳を攻め落とした。陳王は敗走の途中で臣下の一人に殺される。

こうして陳勝呉広の乱からはじまる張楚国はわずか半年足らずで滅亡するのだが、彼らから始まった各地の反乱勢力は健在だった。

第二幕:項羽と劉邦(と項梁)の登場

時間を少し遡って二世2年(前209年)9月。

項羽の叔父にあたる項梁が陳勝らに刺激されて決起した。

項梁はわけあって会稽郡(呉)にいたが、会稽郡守であった殷通を殺して自ら郡守となり、兵をまとめて長江を北上した。

項梁は楚の大将軍項燕の末子ということもあり、行軍するにつれて、反秦勢力が彼のもとに糾合した。

さらに二世3年(前208年)1月、項梁に陳王の使者と称する人物が訪れ、陳王が項梁を上柱国(宰相)に任命すると言ってきた。陳王は12月に殺害されているのでこの人物は偽物なのだが、この時点では情報が錯綜していたようで陳王の安否は確認できない状況だった。ともかく項梁はこれ以降、楚の上柱国を名乗ってさらなる求心力を得た。

4月、戦国四君で有名な孟嘗君のかつての領地であった薛で、項梁は各地の反秦勢力に大同団結を呼びかけて会盟を開いた(この時に劉邦も参加した)。ここで陳王の死が正式に確認されて、新しく楚国を建国する必要性が出た。

ここで会盟に駆けつけた一人である范増が「旧王族を王に立てるべきだ」と主張し、項梁がこれを認めた。王族を探すことに苦労したが、やっとのことで羊飼いに身を落としていた心という人物を見つけ出し王に据えた。これが懐王だ。

6月、新しい楚国を建国して体制を整えると攻勢に出た。項梁軍は総じて良く戦い、ジリジリとだが章邯の軍を西に押し返していった。しかし9月になると秦より大軍の増援が到着し、章邯は 慢心を見せた項梁に一気に攻め込み敗死に追い込んだ。

ここで新しい楚国が一気に壊滅の危機に見舞われる。

*1:閏月がある場合は9月の次に後9月(閏9月)が来る。

*2:本来なら楚王と呼ばれるべきだが、『史記』では「陳王」と書いてある

*3:年が変わって二世3年(前208年)

楚漢戦争㉔ 戦後の韓信の処遇

楚漢戦争後、漢帝国成立の後、韓信は粛清される。

史記』における韓信の列伝である淮陰侯列伝には以下の一文が書いてある。

項羽已破,高祖襲奪齊王軍

出典:史記/卷092 - Wikisource

  • 項羽已に破れ、高祖遅いて斉王の軍を奪う。 *1 ) 斉王は韓信のこと。

佐竹靖彦『劉邦*2 によれば、項羽との戦いの後に劉邦が少数の兵を率いて韓信の本営に突入して軍の指揮権を奪ったのだろう、という。

高祖本紀にも同様のことが書いてある。

そして佐竹氏は以下のように続けて書く。

劉邦の権力欲と状況判断能力、さらに決断力は、韓信を上まわっていた。韓信の軍を奪うことに成功した瞬間、劉邦の権力は天下に及ぶことになった。

出典:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/p497

斉王・韓信はその抜きん出た軍才により、劉邦項羽と天下を三分できる人物だった。ただし、配下の蒯通に天下三分の計を勧められたが、韓信は悩んだ末にこれを退けたという。

劉邦韓信のことを信頼していたなったようだ。同郷の臣下への信頼度とは隔絶した差がある。上のエピソードもそうだが、滎陽を陥落された劉邦が修武に着いた途端に韓信に告げもせずに軍権を奪ったこともある *3

信頼されなかった韓信

劉邦韓信を信頼していなかった。

劉邦陣営において韓信の能力を最初に認めたのは蕭何だったことは以前書いた *4劉邦は蕭何の強い推薦によってはじめて劉邦韓信を大将軍にし、周りの反対を押し切ったのだ。

韓信軍には常に同郷の灌嬰と曹参をつけていたし、韓信が斉を鎮撫するために仮の王になることを劉邦に求めたところ、劉邦は怒りのあまり韓信軍に攻め込もうとさえした。

戦後の韓信の転落

漢帝国建国の後、韓信は斉王から楚王に転封されたまでは良かったがその後に冷遇の憂き目に遭わされる。

紀元前201年、同郷で旧友であった楚の将軍・鍾離眜を匿ったことで韓信劉邦の不興を買い、また異例の大出世に嫉妬した者が「韓信に謀反の疑いあり」と讒言したため、これに弁明するため鍾離眜に自害を促した。鍾離眜は「漢王が私を血眼に探すのは私が恐ろしいからです。次は貴公の番ですぞ」と言い残し、自ら首を撥ねた。そしてその首を持参して謁見したが、謀反の疑いありと捕縛された。韓信は「狡兎死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので、私もまた煮られるのか?」と范蠡の言葉を引いた。劉邦は謀反の疑いについては保留して、韓信を兵権を持たない淮陰侯へと降格させた。

出典:韓信 - Wikipedia

この「淮陰侯」こうが『史記』の淮陰侯列伝の由来だ。

その後、鉅鹿の郡守に任命された陳豨が反乱を起こすと、韓信長安でクーデタを起こそうと計画したが、蕭何の謀計によりあっけなく捕まって処刑された。

最期は蕭何によって捕らえられたのは皮肉な運命だ。

韓信に同情する司馬遷

藤田勝久氏は『史記』の著者である司馬遷の評価を以下のように解説している。

司馬遷は……つぎのように評価している。

もし韓信に、謙譲の精神があり、功績を誇らなければ、(周の建国で功績があった)周公旦や召公奭、太公望たちに匹敵し、後世の子孫までいけにえを供える「血食」の祭祀をつづけたであろう。これに努めず、天下がすでに定まってから反逆を謀った。宗族が殺されたのは当然ではないだろうか。

蕭何や曹参にも劣らない、最大の賛辞ということができる。たしかに韓信は、蕭何や曹参らの援助をうけており、漢王朝のブレーンとしてなら、官僚や諸侯王の一人としてとどまれたかもしれない。しかし韓信の功績は、すでにそれを許さなかったし、楚王として東方を広く領有することは危険であった。おそらく司馬遷は、こうした韓信の功績をあからさまに称賛できなかったのだろう。

一方で司馬遷は、かれの最期を嘆いている。これは韓信を非難すると言うよりも、その失脚の原因を説明しようとしたのではないだろうか。

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社メチエ選書/2006/p201-202

史記』においては韓信の活躍は特に詳細に描かれている。「背水の陣」で有名な井陘(せいけい)の戦いはその一つだ。これらの韓信のエピソードは彼が兵書に通じていたことを明らかにしているが、他の古典にも通じていたのかもしれない。これらの素養を実践として活かした人物は韓信が第一で、あまりにも抜きん出た才能ゆえに危険視されて粛清されてしまった。司馬遷はその才能を惜しみ、そして哀れんだ。

ただし韓信が粛清された最大の理由は「外様」だったからだ。このことは周知の事実だが、司馬遷は当然、書くことはできなかった。



楚漢戦争㉓ 雌雄決す ── 垓下の戦い

形成は劉邦陣営に大きく傾いたが、ここから一気に勝負に向かわずに、この後しばらく戦争は続く。

以下に、雌雄が決する垓下の戦いまでを書く。

f:id:rekisi2100:20200925113301p:plain:w600

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p187

広武山での直接対決

漢4年(前203年)10月 *1、 成皋において曹咎が敗北して自害したという報を聞くと、項羽は彭越との戦闘を止めて西に移動した。

劉邦陣営は成皋の東の広武山に陣して項羽と対峙して。直接対決だ。

項羽陣営は食糧に乏しいため焦っていた。彭越に兵站ルートを破壊され、食糧を焼き尽くされていたからだ。さらに韓信がいつ楚に侵攻してきてもおかしくない状況だ。劉邦陣営は当然それを熟知している。この時のエピソードが残っている

*2

漢楚両軍は長い間対峙を続け、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた劉太公を引き出して大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ」と迫ったが、劉邦はかつて項羽と義兄弟の契りを結んでいたことを持ち出して「お前にとっても父親になるはずだから殺したら煮汁をくれ」とやり返した。次に項羽は「二人で一騎討ちをして決着をつけよう」と言ったが、劉邦は笑ってこれを受けなかった。そこで項羽は弩の上手い者を伏兵にして劉邦を狙撃させ、矢の1本が胸に命中した劉邦は大怪我をした。これを味方が知れば全軍が崩壊する危険があると考え、劉邦はとっさに足をさすり、「奴め、俺の指に当ておった」と言った。その後劉邦は重傷のため床に伏せたが、張良劉邦を無理に立たせて軍中を回らせ、兵士の動揺を収めた。

出典:劉邦 - Wikipedia

怪我の回復が長引いたため、しばらく大きな動きはなかった。また、この間に父・劉太公と妻・呂雉の返還するための交渉を行っている。

広武山での停戦協定

漢4年(前203年)8月、項羽陣営はあいかわらず彭越の遊撃に手を焼いて、食糧が乏しくなっていた。

劉邦陣営の父妻の返還を含む停戦協定の申し入れに項羽は一度は拒否したものの、9月には提案を受け入れた。その場所が広武山だ。

f:id:rekisi2100:20200925112834p:plain:w600

出典:藤田氏/p183

広武山の西と東にそれぞれ劉邦項羽の陣営が対峙する。上のように両者の城の跡地が1972年の調査によって認められた。半分は黄河の水路の中にある。

両陣営の間には鴻溝という溝があった(「鴻溝」は大きな溝を意味する)。和約(停戦協定)の条件はこの鴻溝の西を劉邦の領土、東を項羽の領土とし、その上で人質の父妻を返還するというものだった。父妻が戻ってきた時、劉邦陣営は「万歳」と叫んだという。

あまりにもアバウトな領地の分割は、おそらく両者とも和約を守る気はなかったのだろう。劉邦は父妻の奪還を、項羽はなんとしても食糧を得る時間が欲しかった。収穫期が来れば項羽は息を吹き返すことができる。

和約の直後、項羽が広武山を離れると、陳平と張良劉邦に和約を破り急襲することを進言する。劉邦はこれに従って攻撃した。韓信と彭越に出兵するように命じたが、彼らは命令に従わなかったという。結局、劉邦は返り討ちにあってしまった。

破れて固陵の城に着いた劉邦張良になぜ韓信と彭越は命令に従わなかったのか聞いた。張良は二人の封地が決まっていないことを指摘して「韓信には楚地の大半を、彭越には魏地を与えることを確約すれば、両者は憂いなく戦うでしょう」。劉邦張良の策を用いて韓信と彭越を従わせることに成功したという。

この部分は『史記項羽本紀にあるが、個人的には、本当は単独の急襲をして敗北したのに、後で歴史改竄をして、敗北したのは韓信と彭越が命令を守らなかったせいとした、と思っている。あまりにも取ってつけたような進言を張良がするだろうか?

垓下の戦い

さて、項羽が敗死する最後の戦い、垓下の戦いだ。

しかし上の地図を見ると、なぜ項羽都城である彭城に戻らなかったのかという疑問が起こる。

その答えは、すでに彭城は劉邦陣営によって攻め落とされてしまったからだ。少し詳しく説明すると、斉を征服した韓信軍が楚に南下していたが、韓信は配下の灌嬰に彭城に派遣しその周辺を攻め落とさせた。

彭城より北の昌邑とその周辺も彭越により攻め落とされ、項羽の行く場所はすでに失われていた。

もはや項羽楚国の滅亡が明らかになった時、楚の大司馬周殷も寝返った。

垓下において劉邦陣営は劉邦の他に韓信・彭越・灌嬰・劉賈・周勃・その他大勢が集結し項羽軍を囲んだ。最終決戦は項羽の10万に韓信の30万が攻めかかり、項羽の敗死によって勝負が決した。

こうして楚漢戦争が終わり、劉邦が天下統一して漢帝国が建国される。

異説を考える

(佐竹靖彦『劉邦*3 によれば、「垓下の戦い」という戦闘はなく、その代わりに「陳下の戦い」があったとしているが、このことはここでは書かない。)

史記』に書かれる中国の正史においては、広武山での停戦協定(和約)の後、劉邦韓信・彭越と合して総攻撃をかけるはずだったが、両者が従わず、その理由を張良は両者の領土が未確定だったからだと言っている。そして劉邦は彼らの領土を確定して命令に従わせることに成功したという。

しかし、既に上記したことだが、張良の取って付けたような策で韓信・彭越が横に振っていた首を縦に振るだろうか?

また、停戦協定の後、項羽が彭城に戻ろうとした時には既に彭城は陥落していた。このことは韓信が停戦協定後にいち早く動いたことにならないだろうか?

このような疑問から、異説を考えてみることにした。

起点は停戦協定直後に劉邦項羽に攻めかかった時点。

劉邦軍が単独で項羽に攻めかかった

1つ目のシナリオは、本当は劉邦韓信・彭越に命令を発することなく、項羽軍に攻めかかり、そして惨敗した。その後になって両者に命令を発し、垓下の戦いで勝利した。

停戦協定直後に韓信・彭越を含めて作戦が立てられた

劉邦が惨敗したのは、項羽を引きつけるための囮だった、というシナリオ。作戦を立てたのは韓信となる。

停戦協定前に既に作戦は立てられていた

すばやい彭城陥落を見ると、このようなシナリオも考えたくなるが、考えすぎだろうか。

歴史改竄の動機は韓信

佐竹靖彦『劉邦』によれば、『史記』は高祖本紀や項羽本紀には歴史改竄が施されているが、列伝などでは史実が残っている場合がある(またはその可能性が高い)とのこと。司馬遷は改竄することに後ろめたさを感じていたのかもしれない。

私は、広武山での停戦協定から垓下の戦いまでの間の歴史は改竄されていると思っているわけだが、では、改竄の動機は何だったのだろうか?

それは韓信の功績の大きさにあると思っている。彭越も同様。

楚漢戦争全体を見渡せば、本来なら、功績の第一は韓信であり、第二は彭越にある。それなのに、劉邦の論功行賞において功績第一が蕭何、第二が曹参であった。これは韓信・彭越が「外様」であったと同時に警戒されていたということだ。そしてこの両者は漢帝国建国後に粛清されている。

停戦協定直後の戦いにおいて、韓信・彭越が劉邦の命令に従わなかったと歴史改ざんすることによって、両者に「二心あり」という印象付けをしたかったと推測する。

そして、次回は本当の功績第一である韓信について書く。




前漢帝国の歴史は既に書いている。

中国_前漢 カテゴリーの記事一覧》を参照。


*1:「漢」暦は10月を年始とする

*2:このエピソードは、楚漢戦争の物語の名場面のひとつなのだが、長くなるので、簡潔にまとめられているwikipediaの引用で済ませることにする。

*3:中央公論新社/2005

楚漢戦争㉒ 逆転劇

前回の滎陽城陥落の後からの劉邦の逆転劇を書いていく。

f:id:rekisi2100:20200911071656p:plain:w600

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p164

前回、滎陽城から逃走し、成皋で戦って再び逃走したところまで書いた(以下の場所は上図を参照)。劉邦黄河を北に渡り、韓信の軍が駐屯する修武にたどり着く。

劉邦は修武に着くとすぐさま韓信の軍隊の指揮権を取り上げ自軍に編入し、韓信を趙の相国として徴兵されてない民を新たに徴兵させ、その軍で斉を討つように命令した。この時、劉邦は将軍たちを召集して配置換えを行ったという。趙の地は張耳が守ることになった。これは漢3年(前204年)の7月のこと(藤田氏/p173)。

劉邦軍の反撃

韓信軍の精鋭を得た劉邦は8月、盧綰と劉賈に2万の兵を与えて白馬津 *1 を渡らせ、彭越とともに楚軍の兵站ネットワークの破壊攻撃を繰り返した。

項羽は大司馬・曹咎(そうきゅう)に成皋を守備させて彭越討伐に出た。しかし、漢4年(前203年)10月 *2 、曹咎は城を出て交戦し敗北した。曹咎は自害し、成皋は劉邦の手に落ちた。

韓信の斉掌握

8、9月の収穫期が終わるのを待って10月に、韓信は十分な態勢を整えてから斉を侵攻する。しかしこの前に劉邦は斉と和議を結ぶために儒者の酈食其を送っている。和議は成功して斉の警戒が緩んだところに韓信は侵攻し、斉はたやすく陥落した。酈食其は斉王田広に煮殺された。

韓信、楚の大軍を破る

斉王は楚に救援を求め、11月、楚はこれに応じて司馬龍且と周蘭を派兵した。号して20万。実数はこれより少なかったとしてもこの軍勢は当時の楚軍にとって投入できる最大限の軍勢だった *3韓信はこれを撃破した。

劉邦、圧倒的優位に立つ

滎陽陥落して項羽が優勢が確固たるものになったと思いきや、韓信を中心とする活躍により劉邦が優位に立つ。そして項羽陣営は大軍勢を失い、致命的なダメージを受けてしまった。

後世から見ると、韓信と司馬龍且・周蘭の戦いが楚漢戦争の勝敗を決したということができる。

韓信以外の活躍

上記のように韓信の勝利によって劉邦が決定的に優位に立つことができたが、他にも活躍した人物がいる。何人か挙げておこう。

陳平

滎陽の陥落の前に陳平の工作によって項羽と参謀の范増を離間させたことは有名だ(范増はこの後すぐに死んだ)。劉邦はこの後も陳平に大金を与えて内部分裂工作をやらせた。この結果、項梁の挙兵から参加していた鍾離眜が項羽に疎んじられ、後のことだが、大司馬(総司令官)の周殷は先に寝返った黥布を頼って劉邦陣営についた。

佐竹氏 *4 によれば、陳平の工作のターゲットは主として項氏一族であった可能性が高いとのこと。項伯・項襄・項它らが劉邦によって諸侯に封ぜられているのは陳平の工作の結果だということだ。

彭越

彭越は彭城の戦いの後に項羽軍に敗れて黄河の北に逃げていたが、滎陽の陥落の前から南下して遊撃的に楚の領内を襲って兵站を破壊し食糧を焼き払った。項羽ら主力軍には勝てなかったがそれ以外の軍勢に勝つほどの勢力を持ち、敵の主力を避けて兵站破壊活動を繰り返した。

蕭何

項羽軍の兵站ネットワークが破壊されたのと対象的に、劉邦軍は蕭何のおかげで兵站を築き保つことができた。楚漢戦争後、蕭何は戦功第一とされた。兵站の他に、蕭何は丞相として関中の内政を全うした。



*1:上図の朝歌の南、黄河の反対側

*2:「漢」暦は10月を年始とする

*3:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/p464

*4:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p299

楚漢戦争㉑ 滎陽の攻防

前回書いた彭城の戦いにおいて劉邦は惨敗し、劉邦自身は辛くも彭城から逃げ切って態勢を整えようとしていた。

彭城の戦いが劉邦項羽の第一番目の直接対決とすれば、滎陽(けいよう)の戦いが第二番目の戦いとなるのだが、今回はその間の情勢について書いていく。

劉邦の敗走と黥布の寝返り

辛くも彭城を脱出した劉邦は、呂沢(呂后の兄)が駐屯していた下邑に着いて一息つくことができた。ただしここも項羽の領地内であることに変わりなく安全ではない。劉邦は西の碭郡(かつて劉邦が郡守だった地)へ行き士卒を集め、さらに西の虞へ移動したところで黥布の寝返りを画策した。

f:id:rekisi2100:20200911071656p:plain:w600

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p164

黥布はどういうわけか彭城の戦いに参加しなかった *1。 このことは劉邦陣営の上層部では周知の事実であったらしく、劉邦が「誰か黥布を寝返らせることができる奴はいないのか」と問うたところ、説客の随何が進んでその役を買った。

史書が伝える随何と黥布の会見については《随何 - Wikipedia》に詳しく書いてある。このエピソードの真偽はともかく黥布は項羽から離れ劉邦陣営につくことになった。

ただし、黥布は項羽が派遣した項声・龍且の軍に大敗し、妻子すら殺されてほとんど身一つで劉邦陣営にたどり着くことになる。それでも、劉邦としては項羽陣営が多大なリソース消費をして劉邦陣営が立て直す時間を稼ぐことができた。

劉邦はさらに西に引いて滎陽(けいよう)に駐屯する。滎陽は太行山脈(黄土高原の東端)と伏牛山脈(秦嶺山脈の東端)に挟まれている華北平原の最西部にあり、ここを項羽陣営に奪取されると中原の進出が極めて困難になる。

関中で留守を預かっていた蕭何は兵籍につけていない老人や未成年者を徴発して滎陽に送った。さらに韓信も兵を集めて合流し、南方の京・索の付近で楚軍を破った *2。これにより彭城の戦いの敗戦に歯止めをかける事ができた。

戦後の勢力図

戦後、項羽と劉邦以外の勢力がどう動いたか?

  • 趙・陳余:項羽と講和する。
  • 斉・田横:項羽と講和する。ただし斉の傘下に入っていた彭越は斉を離れ黄河を北に渡って黄河の河畔で群盗生活にもどった *3
  • 楚:九江王・黥布が劉邦に寝返る。しかし楚軍に攻め込まれ黥布軍は壊滅し、黥布は身一つで劉邦陣営にたどり着く。他の楚の王たちは史書に出てこない。戦争に参加しなかったようだ。
  • 魏:彭城の戦いの前に劉邦に寝返った西魏王・魏豹が再び項羽に寝返る。西魏王に戻ったようだ。宰相を任されていた彭越はすべてを失って少ない手勢を率いて黄河の北へ逃れた。
  • 韓:戦後の韓王信についてはよく分からないが、劉邦陣営にいたようだ。
  • その他:劉邦に降伏した司馬欣、董翳(とうえい)が項羽に走った。

このように戦前とは一転して項羽の圧倒的優位になった。当面は項羽が攻勢のまま事態は進んでいく。ただし寝返った面々は形勢が変われば再び裏切るような面々なので項羽も気が抜けない状況だ。

持久戦の展開

劉邦は勢いに任せて敗戦した先の戦いを反省して持久戦に転じた。

劉邦、関中に戻る

まずその計画の一環として関中の政治の安定化を図った。

漢2年6月、漢王は櫟陽(やくよう)に帰った。そこで子の盈(えい)を太子に立て、関中にいる諸侯の子たちを櫟陽城の護衛とした。このとき章邯が守る廃丘を攻め、その周囲に堤防を築いて城郭を水攻めにしたという。ここで章邯は自殺した。[中略]

こうして関中を定めた漢王は、祠官を置いて、天地や四方、上帝、山川などの祭祀を整えた。[中略]

やがて収穫期をむかえた秋8月になって、ようやく漢王は滎陽に出動した。

出典:藤田氏/p163-164

このような国家体制の確立は蕭何をトップとして旧秦帝国の官僚たちによって為されたと思われる。漢帝国秦帝国をシステムごと継承したことは良く知られていることだ。

滎陽の攻防

持久戦の2つ目の計画は滎陽の籠城戦だ。

滎陽の地には秦帝国が関東諸国の攻撃に備えて構築した一大軍事基地があり、敖倉(ごうそう)という大倉庫群が敷設されていた。この地と滎陽城を土塀で両側を囲った甬道(ようどう)を築いて糧道を確保した。さらに黄河への甬道も築いて前線の軍事拠点とした *4 *5

滎陽の攻防で劉邦陣営は項羽軍の攻撃を良く耐え抜いたが、劉邦が戻ってきても情勢が好転するということはなかった。

別働隊、韓信

3つ目の計画は、項羽軍が滎陽陥落に集中している間に、韓信を総大将とする軍隊に北方を攻撃させるというものだ。つまりは劉邦が囮となって項羽軍本体を引きつけ、その隙に韓信が他地域を平らげるという計画。韓信軍には曹参や灌嬰等の有力武将を参加させている *6

韓信軍は9月に櫟陽を出発し、裏切った魏豹が守る西魏を攻める。西魏は滎陽の後方(西)にあり、関中との連絡を遮断できる位置にある。

韓信軍は臨晋から渡航するように見せかけて夏陽から渡航して一気に攻め入った(黄河は川幅が広く激流のため渡航可能な場所は限られている)。西魏の都・安邑は攻め落とされ魏豹は捕虜になった(地名は上の地図参照)。

漢3年(前204年)10月 *7、 趙を攻める。陳余との対決の場である井陘(せいけい)の戦いは背水の陣で有名だ (井ケイの戦い - Wikipedia 参照)。韓信の戦勝により陳余と趙王歇は斬られた。

その後、韓信は燕の臧荼に使者を派遣して帰順を求めた。臧荼はこれを承諾した(何月に帰順したかは不明)。

これによって、黄河以北は劉邦陣営の支配下に入った。

滎陽陥落

韓信軍が大躍進を遂げる一方で、劉邦のいる滎陽の攻防は芳(かんば)しくなかった。

紀元前204年、楚軍の攻撃は激しく、甬道も破壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。ここで陳平は項羽軍に離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増・鍾離眜との間を裂くことに成功する。范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。

離間の計は成功したものの、漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を劉邦の影武者に仕立てて項羽に降伏させ、その隙を狙って劉邦本人は西へ脱出した。その後、滎陽は御史大夫の周苛、樅公が守り、しばらく持ちこたえたものの、項羽によって落とされた。

西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて滎陽を救援しようとした。しかし袁生が、真正面から戦ってもこれまでと同じことになる、南の武関から出陣して項羽をおびき寄せる方がいいと進言した。劉邦はこれに従って南の宛に入り、思惑通り項羽はそちらへ向かった。そこで項羽の後ろで彭越を策動させると、こらえ性のない項羽は再び軍を引き返して彭越を攻め、その間に、劉邦も引き返してくる項羽とまともに戦いたくないので、北に移動して成皋(現在の河南省鄭州市滎陽市)へと入った。項羽は戻ってきてこの城を囲み、劉邦は支えきれずに退却した。

出典:劉邦 - Wikipedia

ここでも劉邦は多数の犠牲を出して辛くも逃走している。こうして劉邦の弱将のイメージがついた。その一方で項羽劉邦を攻撃することに執着しているところから軍事戦略の欠如を指摘されている(劉邦側の軍事戦略は韓信が担っていた)。

彭越について。

彭越は彭城の戦い以前は劉邦に拠って魏の宰相となり、魏地の攻略を任されていたが、彭城の敗戦後に項羽陣営に全て奪われて、少ない手勢を引き連れて黄河以北へ落ち延びた。

その後の行動は詳しくは分からないが、各地を転戦する遊撃戦を展開して軍功を上げ、さらには項羽陣営の糧道を断つなどの活躍もあった。このような動きに項羽は惑わされた結果、劉邦はいくつかのピンチを逃れることができた。



*1:私の素人考えでは、元々黥布自身が項羽の配下であると認識していなかったのではないか。 もうひとつ、 黥布が分封された九江の地は彼の故郷を含んでいるのだが中国本土の中心から遠く離れた辺境で、楚の美味しい部分(北部)は全て項羽の領地となっていることに不満があったのではないか

*2:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p163

*3:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p245

*4:藤田氏/p163

*5:佐竹氏/p247

*6:佐竹靖彦/劉邦中央公論新社/2005/p436

*7:漢という元号は10月を年始とする。ここでは西暦も便宜的に連動させている

楚漢戦争⑳ 彭城の戦い

いよいよ彭城の戦い。漢王劉邦が西楚覇王項羽に宣戦布告して、楚漢戦争の本番が始まる。

ただし、楚漢戦争の始まりの時期は諸説あるようだが、このブログでは、劉邦項羽に対して宣戦布告したこの時点を楚漢戦争の起点とする。そして彭城の戦いの起点も この宣戦布告とする。

宣戦布告

秦・韓・魏それぞれの地域をほぼ制圧した劉邦が洛陽に到着したところ、新城郷の三老が劉邦に謁見して、義帝が殺された顛末を詳細に語ったという。

漢王は大いに哭(こく)すと、喪を発して3日のちに、使者を送って諸侯に告げさせた。

天下は共に義帝を立て、北面してこれに仕えた。いま項羽が、義帝を江南に放逐して殺したのは、大逆無道である。寡人は親しく喪を発し、諸侯はみな喪服を着ている。……願わくは、諸侯王に従って、楚の義帝を殺した者を撃たんことを」

出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p156

  • 寡人とは《徳の寡 (すく) ない者の意》一人称の人代名詞。戦国時代の王や諸侯が使用していた *1が、劉邦もこれを採用した。

↑は『史記』高祖本紀による。

小さな村(郷)の三老(郷のまとめ役 *2 )が義帝殺害の詳細を何故知っていたのか とか、三老が知っていることを劉邦が何故知らないのか など、いろいろツッコミどころがあるのだが、とりあえず劉邦は義帝の弔い合戦という大義名分を使って項羽を打倒すると宣言した。

劉邦は既に項羽にて期待していたのだが、これをもって初めて劉邦項羽に正式に敵対することを宣言した。

楚漢戦争の始まりの時期は諸説あるようだが、このブログでは、劉邦項羽に対して宣戦布告したこの時点を楚漢戦争の起点とする。そして彭城の戦いの起点も この宣戦布告とする。

「56万」という勢力

史記』高祖本紀によれば、劉邦は56万の兵力をもって彭城(項羽の西楚の都)を攻めた。

本当に「56万」人もいたのか はさておき、劉邦陣営はどのような勢力だったのか?

漢中・巴蜀の直属の兵と秦(関中)・魏・韓の降兵のほかに参加した勢力は陳余の趙の勢力だけだ。

斉は交戦中、燕の臧荼や楚の項羽以外の諸侯王は日和見をきめて参戦しなかった。黥布が項羽の参戦要請を断ったことは有名だ。

彭城制圧と項羽の急襲

項羽は斉の反乱軍と戦闘中で、都・彭城を留守にしていた。ここに劉邦の大群が押し寄せ、彭城はあっけなく陥落された。

劉邦は連合軍に対して全軍の指揮を執らず、各国の軍に指揮を任せていた。また彭城制圧後、かつて秦の咸陽を制圧した時のように劉邦を諫める者もいなかったために、城内の財宝を荒らした上に城内の女性を犯し、毎日酒宴を開く有様であった。

出典:彭城の戦い - Wikipedia

項羽の急襲

斉の地で反乱軍の掃討戦に転戦していた項羽は彭城陥落の報を聞いて、すぐさま彭城に向かう。

英布の援軍もなく彭城が制圧されたことを聞いた項羽は激怒し、すぐさま斉と停戦協定を結び、3万の精鋭部隊を編成。彭城へと戻った。

連合軍に士気がない上に酒に酔っていることを知ると、項羽は夜明けと共に城の西側から攻め、城内の連合軍を打ち破り、漢軍10万人余りを殺した。連合軍が城外に出ると項羽は追撃し、さらに漢軍10万人余りが睢水に追い詰められて殺され、川の水がせき止められるほどであったという。

そのため、連合軍は散り散りになって逃走し、劉邦は途中に家族が住む沛に立ち寄るものの既に劉太公や呂雉ら家族が捕らえられ、劉盈とその姉を見つけたので馬車に乗らせて逃亡した。途中、劉邦は恐怖に駆られて馬車から子供たちを突き落として逃げようとしたものの御者の夏侯嬰に諭されて子供らと共に逃亡した。

出典:彭城の戦い - Wikipedia

劉邦の家族は故郷の沛県にとどまっていた。父親の太公と妻の呂雉(のちの呂太后)は子どもたちと別に逃げた道中で項羽軍に捉えられて人質になる。

  *   *   *

これ以降のことは次回に続く。