前回からの続き。
前回の最後に引用した通り、イングランドをカトリック国にしようとするジェームズ2世に対して議会は我慢の限界が訪れた。そしてクーデタを画策する。
我慢の限界を超えた貴族たち[議会]は、ジェームズ二世の娘のメアリとその夫のオラニエ公ウィレム三世と連絡を取り合います。ウィレム三世はジェームズの甥でもあります。
そして一六八八年、ウィレムは五万の大軍を率いてブリテン島に上陸します。[中略]
ジェームズ二世の逃亡後、議会はメアリの即位を望みますが、ウィレム三世は連れてきた陸軍で脅しながら王位を要求します。結果、夫婦での共同統治となりました。
出典:倉山 満. 嘘だらけの日英近現代史 (SPA!BOOKS) (pp.59-60). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.
クーデタは成功して名誉革命と呼ばれるようになる。イギリス史においては、メアリはメアリ2世、オラニエ公ウィレム3世はウィリアム3世と呼ばれる。メアリはクーデタ以前より英国教会信者だった(オランダに嫁いだのに?)ので改宗する必要はなかった(ウィリアムのことは知らない)。
実際には小規模の戦闘がおこり無血だったわけではないが、当時まだ記憶に新しいイングランド内戦に比べると無血に等しいということで無血革命とも呼ばれている。
出典:名誉革命 - Wikipedia
何が「名誉」かと思ったら「清教徒革命に比べたら諸規模な戦闘でクーデタが成功したから」ということらしい。
しかしスコットランドとアイルランドで起こったカトリックの反乱の鎮圧では多くの血が流れた。
一六八九年に権利章典が制定されます。ここでは、マグナ・カルタや権利の請願以来の権利の確認のほか、議会が毎年開かれるようになります。「議会が行事ではなく、制度になった」と言われる所以です。
出典:倉山 満. 嘘だらけの日英近現代史 (SPA!BOOKS) (p.60). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.
権利章典はクーデタの正当化のために書かれたものだが、後世にとっては上の引用の中身が最も重要だ。
ファルツ戦争
ファルツ戦争
ルイ14世によって企てられた一連の侵略戦争(フランドル戦争,オランダ戦争,スペイン継承戦争)のひとつで,1688年から97年にかけて行われた。アウグスブルク同盟戦争とも呼ばれる。神聖ローマ帝国の公領であり,アルザスの北方に位置するファルツ公家に男子相続者が絶えると,ルイ14世は,弟オルレアン公の妃が同家の出身であることを口実として領土を要求,ファルツに出兵した。折しもイギリス,オランダ両国は,イギリス名誉革命によって国王に迎えられたウィリアム3世(ルイ14世の宿敵で,オランダ共和国長官を兼ねる)の正統性をめぐり,先王ジェームズ2世を支持するルイ14世と対立していたから,ドイツ皇帝やフランスの勢力拡大を嫌うスペイン,スウェーデンなどのヨーロッパ諸国と結び,対仏大同盟を結成した。戦闘はドイツ,北イタリア,ネーデルラント,アイルランドで展開され,また同時期にフランスとイギリスは,東インドと北アメリカで植民地獲得をめぐって激しい戦いを繰り広げた(北アメリカでの戦争はウィリアム王戦争と呼ばれる)。フランスは当初優勢であったが,同盟国側の包囲陣の前に次第に劣勢となり,97年ライスワイクの和約を結んだ。
出典:ファルツ戦争(ファルツせんそう)/株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典 - コトバンク
この戦争は第二次英仏百年戦争の始まりとされているが、これについては別の機会に。
ここで注目したいのはウェストファリア体制の下、勢力均衡が働いたことだ。
このころの戦争は、王様がカネで雇った傭兵にやらせるゲームであり、外交の手段でした。一六四八年ウェストファリア条約で終わった三十年戦争でもって、ヨーロッパの国々は宗教戦争には懲り懲りしていたのです。土地やカネなどの利益をめぐって争い合うだけであり、相手の全存在を潰すまでやるような宗教戦争とは違います。だから、それぞれが取るモノを取ったら、適当なところで引き上げるのが常です。
出典:倉山 満. 嘘だらけの日英近現代史 (SPA!BOOKS) (p.65). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.
凄惨な戦闘がなかったわけではないが、宗教戦争の頃よりは数段マシにはなった。「正義を完遂するまでは戦争は止めてはならない」という戦争観はすでに終わり、「キリの良いところで勝敗を決めて止める」という戦争観がヨーロッパ各国に受け入れられている。
イングランド銀行が設立されたのも共同統治の時代の1694年。のちに大英帝国の中央銀行になるのだが、設立当初は国債を引き受ける目的の商業銀行だった。
対フランス戦争の巨額の戦費をまかなうため、……[政府は]民間から120万ポンドを公募して資本金として1694年7月27日にイングランド銀行を設立した。
その設立にあたっては金融業の先進国であるウィリアムの母国オランダの資本の導入された。この銀行は、公募金を政府に貸し、それと同額の銀行券を発行する特権が与えられ、預金、貸し付け、商業手形割引、為替などの金融業務を開始した。この変革は「財政革命」とも言われ、このような近代的な国債制度・金融制度によってイギリス財政は安定し、さらに18世紀のイギリスの産業革命期の企業の融資によって経済発展の基盤となった。また、18世紀のフランスとの激しい植民地戦争をイギリスが勝つ抜くことが出来たのは、このような財政と経済の安定が寄与するところが大きかった。
出典:イングランド銀行<世界史の窓
秋田茂『イギリス帝国盛衰史』
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によれば、それまでは国債の多くはアムステルダム銀行が引き受けていた。英蘭の同君連合を活かした取引だ。設立時も、引用の通り、オランダが関与した(おらんだは別個にイングランド国債を引き受け続けた)。また、この頃は「原初的なナショナリズム」が国際紛争の中でヨーロッパ中に醸成され始めた時期であり、「オランダに頼り過ぎではないか?」というような考えが働いたのかもしれない。
さらに秋田氏によれば、「これ以降、ロンドン・シティが金融、及び国家の財政に直結していく」としている。ちなみに、紙幣発行はイングランド銀行以外の銀行でも発行されて流通していた。
王位継承法
ウィリアム3世は、メアリとの間で子供がなかったので、その死後、名誉革命で追放したカトリックのジェームズ2世の子孫が王位を継承するおそれがあった。そこで新たに王位継承の順位を定めておく必要が生じ、1701年6月12日、王位継承法を制定した。そこで定められた原則は、イギリス国王はイギリス国教会に属すべきこと、カトリック教徒及びカトリック教徒と結婚したものは国王になれないこととされた。具体的にはメアリの妹のアンを指名し、アンの死後はスチュアート家のジェームズ1世の孫娘であるハノーヴァー(ハノーファー)選帝侯ソフィア(ゾフィー)およびその子孫とする、と規定した。実際、ウィリアム3世の死後は、アン女王が継承し、その死後はソフィアの息子がジョージ1世として迎えられる(ハノーヴァー朝のはじまり)。
出典:イギリス<世界史の窓
これにより2つのクーデタ(革命)の尻拭きができた。以前のような王位継承問題による紛争はなくなった。
2人の王の死と評価
メアリ2世は天然痘に罹り33歳の若さで1694年に亡くなる。その後はウィリアム3世の単独統治となった。2人の間に子がなかったため、王位継承者はメアリーの妹アンに決まっていた。ウィリアム3世は1702年に、落馬が原因で亡くなる。
メアリ2世についてはよく分からない。内政は議会が行ない、対外戦争についてはウィリアム3世が行なった。
ウィリアム3世は、内政には口出しできなかったが、対外(対フランス)戦争においては率先して関わった。上記のファルツ戦争でも彼が戦争を主導した。死の直前となる1701年にスペイン継承戦争が起こると(この戦争もルイ14世が起こした)、彼は他国の王たちと話し合い同盟を結んだ。
ウィリアム3世はイギリスの王である前にオランダの首長であったために、フランスの膨張はなんとしても食い止めなければならなかった。反戦派のトーリー党と衝突しながら妥協して戦争を継続する場面もあった(ホイッグ党はウィリアムを支持)。
ウィリアム3世の治世は、上記にあるようにイギリス銀行の設立に伴い、国債による国家の発展が見込める体制ができつつあった。18世紀以降、産業革命を背景に大英帝国は世界覇権を握っていくが、権利章典や王位継承法によってイングランドの過去の問題を一気に解決した時代だった。ただし、これが彼の手腕だというわけではない。
いっぽう、オランダにおいては...
一方でオランダにとって、ウィリアム3世のイングランド王即位によるイングランドとの連合は、長期的には不利益をもたらした。イングランドとの条約でオランダ海軍はイングランドを上回らないよう制限が設けられ、共同作戦の指揮権も握られた。以後オランダ海軍はイングランド海軍の下風に甘んじることになり、貿易や海運でもイングランドに掣肘されることになり、オランダは次第に凋落へと向かっていった。
出典:ウィリアム3世 (イングランド王) - Wikipedia#%E5%A4%A7%E5%90%8C%E7%9B%9F%E6%88%A6%E4%BA%89%E6%9C%9F)