第二帝政期にパリ改造が為された。これはナポレオン3世ではなくパリ知事のジョルジュ・オスマンが主導したものだ。ただし、ナポレオン3世の強い支持がなければ実現できなかったとされる。
パリ改造が必要だった理由
劣悪な衛生環境: 迷路のような狭い路地にゴミや排泄物が溢れ、コレラなどの伝染病が度々大流行していた(「太陽の光が届かず、空気も通らない」と批判されていた)。
深刻な交通渋滞: 産業革命による人口急増に、中世の馬車道のままの道路網が追いついていなかった。
頻発する暴動(政治的理由): 狭く入り組んだ路地は市民が「バリケード」を築きやすく、革命や暴動の温床になっていた。
オスマンによる「3大改造」のポイント
①幾何学的な「大ブールヴァール(大通り)」の建設
オスマンは、中世の過密な街区を容赦なく取り壊し、凱旋門などの記念碑的建造物を中心とした放射状・直線的な大通り(ブールヴァール)を何本も通した。
その目的としては、表向きは「 通気と日当たりを良くし、市内(特に新設された鉄道駅間)の交通をスムーズにすること」だが、裏の目的としては「軍隊や大砲がスムーズに移動でき、バリケードを築きにくくして暴動を鎮圧しやすくすること」ということも兼ねていた。
②徹底した景観の統一(オスマン様式)
大通りに面して建てられるアパルトマン(集合住宅)には、法律で厳格なルールが課された。
- バルコニーの位置(2階と5階に連続したバルコニーを設けるなど)
- 建物の高さ(道路の幅に応じた制限)
- 外壁の素材(薄黄色の石灰岩「ピエール・ド・タイユ」の仕様)
これにより、現在もパリの象徴となっている、どこを切り取っても美しく統一された街並み(オスマン様式)が完成した。
③目に見えない「地下インフラ」と「緑化」
オスマンの功績で最も偉大とも言われるのが、エンジニアのベルグランと共に作り上げた上下水道網だ。飲用水と生活用水を完全に分離し、地下に巨大な下水道を巡らせることで、パリの衛生環境は劇的に改善した。
また、街の東西に「ブローニュの森」「ヴァンセンヌの森」を整備し、市街地にも多くの公園や街路樹を配置して、都市に「肺(呼吸の場)」を与えた。
ロンドンの都市計画との比較
「パリ改造」と、同時期の「ロンドンの都市計画」は、相互に強い影響を与え合った。
実は、時系列で見ると「ロンドンからパリへの影響」が先にあり、その後に大変貌を遂げた「パリからロンドンへの逆影響(刺激)」が生まれるという、面白いライバル関係に属性していた。
ただし、両者は「過密化・不衛生の解決」という同じ目的を持っていたが、そのアプローチ(手法と理念)は真逆であった。
| 比較項目 | パリ改造(第二帝政期) | ロンドンの都市計画(同時代) |
|---|---|---|
| 主導者 | 国家・皇帝(トップダウン) ナポレオン3世とオスマン知事の強力な権力。 |
地方自治・民間(ボトムアップ) 首都土木庁(MBW)や民間地主、議会。 |
| 都市デザイン | 幾何学的な統一美 凱旋門を中心に直線的な大通りを配置。建物の高さや意匠も法律で統一。 |
有機的・実用主義 中世以来の曲がりくねった道をそのまま活用。地主ごとに開発したため統一感は薄い。 |
| 区画整理の手法 | 強権的な強制収用 国家が土地を強制的に買い上げ、古い街並みを一網打尽に破壊・再構築。 |
法手続きと利害調整 私有財産権が強く、道路一本通すのにも議会の承認や地主との交渉に長い時間を要した。 |
| 衛生・インフラ | 一体型の大インフラ 給水・下水システムを道路網と同時に一体整備。 |
必要に迫られた部分最適 1858年の「大悪臭」を機に、バザルゲットが世界最大級の地下下水道網を完成させる。 |
| 緑化(公園) | 計画的な配置 ブローニュの森、ヴァンセンヌの森を東西に配し、市街地にも中規模公園を配置。 |
既存の王室財産の開放 ハイド・パークなど、もともとあった王室の狩猟場などを市民に開放(パリのモデルに)。 |
ロンドンをお手本として始まったパリ改造は、ナポレオン3世の独裁的権力によって、本家ロンドンを驚かせるほどの「美的な近代都市」へと進化を遂げた。
ロンドンはその後、パリの圧倒的な美しさに刺激を受けつつも、自国の「私有財産を守る」という民主的なルールの中で、地道に機能性を突き詰めていった。
パリ改造と世界都市への飛躍
オスマンのパリ改造(1853〜1870年)は、中世の過密都市を近代都市へと脱皮させた。さらに1855年から1900年にかけて計5回開催されたパリ万博は、改造された近代都市パリを世界にお披露目する最高の舞台となった。特に1889年万博ではエッフェル塔が、1900年万博ではグラン・パレやアレクサンドル3世橋、そして地下鉄(メトロ)1号線が誕生し、パリは最先端技術と建築の都として世界を魅了した。
第二帝政より後の話になるが、「ベル・エポック(良き時代。19世紀末から第一次世界大戦(1914年)の勃発まで)」に「世界の中心としてのパリ」のイメージが決定づけられた。
この時期には、美しい大通り(ブールヴァール)にはカフェ、オペラ座、高級デパートが立ち並び、世界中から芸術家や富裕層が集まった。消費文化と芸術の中心地となった。
以下、蛇足
インターネットが普及する前までは、「花の都パリ」は日本人の憧れの都市だったろう。しかし、普及後はパリやフランスの現実が分かってしまって、日本人が憧れるほどのものでもないことも分かってしまった...というのが個人的な印象だ。
ただ、実際は文化・芸術などの発信地としては日本・東京よりもフランス・パリのほうが影響力はあるのだろう。