歴史の世界

フランス(19世紀後半)④ パリ改造

第二帝政期にパリ改造が為された。これはナポレオン3世ではなくパリ知事のジョルジュ・オスマンが主導したものだ。ただし、ナポレオン3世の強い支持がなければ実現できなかったとされる。

パリ改造が必要だった理由

  • 劣悪な衛生環境: 迷路のような狭い路地にゴミや排泄物が溢れ、コレラなどの伝染病が度々大流行していた(「太陽の光が届かず、空気も通らない」と批判されていた)。

  • 深刻な交通渋滞: 産業革命による人口急増に、中世の馬車道のままの道路網が追いついていなかった。

  • 頻発する暴動(政治的理由): 狭く入り組んだ路地は市民が「バリケード」を築きやすく、革命や暴動の温床になっていた。

オスマンによる「3大改造」のポイント

①幾何学的な「大ブールヴァール(大通り)」の建設

オスマンは、中世の過密な街区を容赦なく取り壊し、凱旋門などの記念碑的建造物を中心とした放射状・直線的な大通り(ブールヴァール)を何本も通した。

その目的としては、表向きは「 通気と日当たりを良くし、市内(特に新設された鉄道駅間)の交通をスムーズにすること」だが、裏の目的としては「軍隊や大砲がスムーズに移動でき、バリケードを築きにくくして暴動を鎮圧しやすくすること」ということも兼ねていた。

②徹底した景観の統一(オスマン様式)

 大通りに面して建てられるアパルトマン(集合住宅)には、法律で厳格なルールが課された。

  • バルコニーの位置(2階と5階に連続したバルコニーを設けるなど)
  • 建物の高さ(道路の幅に応じた制限)
  • 外壁の素材(薄黄色の石灰岩「ピエール・ド・タイユ」の仕様)

これにより、現在もパリの象徴となっている、どこを切り取っても美しく統一された街並み(オスマン様式)が完成した。

③目に見えない「地下インフラ」と「緑化」

オスマンの功績で最も偉大とも言われるのが、エンジニアのベルグランと共に作り上げた上下水道網だ。飲用水と生活用水を完全に分離し、地下に巨大な下水道を巡らせることで、パリの衛生環境は劇的に改善した。

また、街の東西に「ブローニュの森」「ヴァンセンヌの森」を整備し、市街地にも多くの公園や街路樹を配置して、都市に「肺(呼吸の場)」を与えた。

ロンドンの都市計画との比較

「パリ改造」と、同時期の「ロンドンの都市計画」は、相互に強い影響を与え合っ​​た。

実は、時系列で見ると「ロンドンからパリへの影響」が先にあり、その後に大変貌を遂げた「パリからロンドンへの逆影響(刺激)」が生まれるという、面白いライバル関係に属性していた。

ただし、両者は「過密化・不衛生の解決」という同じ目的を持っていたが、そのアプローチ(手法と理念)は真逆であった。

比較項目 パリ改造(第二帝政期) ロンドンの都市計画(同時代)
主導者 国家・皇帝(トップダウン)
ナポレオン3世とオスマン知事の強力な権力。
地方自治・民間(ボトムアップ)
首都土木庁(MBW)や民間地主、議会。
都市デザイン 幾何学的な統一美
凱旋門を中心に直線的な大通りを配置。建物の高さや意匠も法律で統一。
有機的・実用主義
中世以来の曲がりくねった道をそのまま活用。地主ごとに開発したため統一感は薄い。
区画整理の手法 強権的な強制収用
国家が土地を強制的に買い上げ、古い街並みを一網打尽に破壊・再構築。
法手続きと利害調整
私有財産権が強く、道路一本通すのにも議会の承認や地主との交渉に長い時間を要した。
衛生・インフラ 一体型の大インフラ
給水・下水システムを道路網と同時に一体整備。
必要に迫られた部分最適
1858年の「大悪臭」を機に、バザルゲットが世界最大級の地下下水道網を完成させる。
緑化(公園) 計画的な配置
ブローニュの森、ヴァンセンヌの森を東西に配し、市街地にも中規模公園を配置。
既存の王室財産の開放
ハイド・パークなど、もともとあった王室の狩猟場などを市民に開放(パリのモデルに)。

ロンドンをお手本として始まったパリ改造は、ナポレオン3世の独裁的権力によって、本家ロンドンを驚かせるほどの「美的な近代都市」へと進化を遂げた。

ロンドンはその後、パリの圧倒的な美しさに刺激を受けつつも、自国の「私有財産を守る」という民主的なルールの中で、地道に機能性を突き詰めていった。

パリ改造と世界都市への飛躍

オスマンのパリ改造(1853〜1870年)は、中世の過密都市を近代都市へと脱皮させた。さらに1855年から1900年にかけて計5回開催されたパリ万博は、改造された近代都市パリを世界にお披露目する最高の舞台となった。特に1889年万博ではエッフェル塔が、1900年万博ではグラン・パレやアレクサンドル3世橋、そして地下鉄(メトロ)1号線が誕生し、パリは最先端技術と建築の都として世界を魅了した。

第二帝政より後の話になるが、「ベル・エポック(良き時代。19世紀末から第一次世界大戦(1914年)の勃発まで)」に「世界の中心としてのパリ」のイメージが決定づけられた。

この時期には、美しい大通り(ブールヴァール)にはカフェ、オペラ座、高級デパートが立ち並び、世界中から芸術家や富裕層が集まった。消費文化と芸術の中心地となった。



以下、蛇足
インターネットが普及する前までは、「花の都パリ」は日本人の憧れの都市だったろう。しかし、普及後はパリやフランスの現実が分かってしまって、日本人が憧れるほどのものでもないことも分かってしまった...というのが個人的な印象だ。

ただ、実際は文化・芸術などの発信地としては日本・東京よりもフランス・パリのほうが影響力はあるのだろう。

フランス(19世紀後半)③ 皇帝ナポレオン3世

ルイ・ナポレオン大統領までが第二共和制、ナポレオン3世から第二帝政。

1851年のクーデタ

[大統領の]任期末が近づくと、ルイ=ナポレオンにとって権力を維持しようとすれば憲法を改正するかクーデタで議会を抑えつけるか、のいずれかしかなくなった。議会内部にはクーデタを避け、大統領と議会が話し合う議会政治を維持するには、憲法を改正すべきであるという意見もあった。アメリカの民主政治についての考察で著名な当時の外交官トクヴィルもその一人だった。しかし、議会は憲法改正には応じず、その前に選挙区に3年以上居住しなければ選挙権を認めないという選挙制度を改悪して労働者を排除しようとした。大統領ルイ=ナポレオンは選挙法改正の廃案を提案したが議会はそれを否決した。ここにルイ=ナポレオンは「普通選挙を擁護する護民官」としてクーデタの錦の御旗を得たのだった。<鹿島茂『怪帝ナポレオン3世』2004 講談社学術文庫版 p.122-134>
国民投票によるクーデタの追認 六月暴動以来の弾圧で指導者を失った労働者は、議会共和派の反動化で絶望していた。次第に、ナポレオンの甥という血統でありながら、サン=シモン主義の影響を受けて産業社会の形成による社会改良を主張し、『貧困の絶滅』という著作さえあるルイ=ナポレオンの「皇帝社会主義」に期待する者も出てきた。一方、ブルジョアジーは独裁よりも「赤い妖怪」の方を恐れ、小土地所有者は第一帝政時代の夢を追いナポレオン時代の栄光の再現を望んだ。その国民の多くが第二共和政の議会に不信感を強めていった情勢を冷静に見きわめてルイ=ナポレオンはクーデタを実行した。ルイ=ナポレオンが予想したように国民大衆はクーデタ支持に傾き、12月21日に実施されたクーデタの可否を問う国民投票では、約740万対60万でクーデタが承認され、翌年1月大統領任期を10年とし権限を強化した新憲法が発布される。

出典:1851年のクーデタ<世界史の窓

皇帝としてのナポレオン3世の評価について

事績は後述するとして、先に後世の評価から見ていこう。以下はAI調べ。

敗戦直後から19世紀末にかけては、極めて否定的な評価が支配的であった。ヴィクトル・ユゴーは彼を「小ナポレオン」と呼び、伯父の模倣者に過ぎないと揶揄した。

  • メキシコ出兵の失敗: 傀儡国家樹立を企図したメキシコ出兵が惨敗に終わり、国際的威信を失墜させたこと。
  • 普仏戦争での降伏: 1870年のセダンの戦いでプロイセン軍の捕虜となり、第二帝政を崩壊させた失態。

普仏戦争の降伏が決定的だが、その前のメキシコ出兵の失敗がそれなりに支持が多かったところから批判のほうが多くなる転換点だった。

他方、高評価する向きもある。20世紀後半以降、経済史や都市計画の観点から再評価が進んだ。

  • ビジョナリーとしての側面: パリ改造や鉄道網整備といったインフラ投資が、後のフランスの繁栄を支えた「先見の明」として称賛されるようになった。
  • サン=シモン主義の体現: 「貧困の絶滅」を著した彼が、技術官僚(テクノクラート)を重用し、国家主導で産業を育成した手法は、現代の福祉国家や開発独裁の先駆的モデルと見なされている。

皇帝としての事績

内政方面

復古王政・七月王政の時代は、産業革命が端緒についたとはいえ、産業の発展は不十分であり、また社会全般でもカトリック的な復古的精神が支配的であった。しかし、ナポレオン3世の第二帝政期の約20年間のうち、前半の50年代は、権威帝政の時期といわれて、もっぱら皇帝の専制政治が行われていたが、後半の60年代には自由帝政といわれ、自由主義的・社会主義的な改革も行われた。その時期は、フランスの産業革命が完成の段階に達した時期であり、ナポレオン3世はそれに対応して、保護貿易主義から自由貿易主義に転換し、産業資本家の利益に沿って鉄道の敷設などの産業育成策を進めたのだった。フランスの産業社会の成立を誇示するために、1855年と67年の二回、ナポレオン3世はパリ万国博覧会を開催している。資本主義社会が形成される一方で、労働運動も活発になってきて、社会主義の運動も新たな政治勢力として登場した。その主な変化には次のようなものがある…

出典:第二帝政<世界史の窓

引用部分の後は近代銀行制度の整備、国土の整備、貿易の自由化、パリの改造と繁栄など説明が並ぶ。

パリ改造については次回に書く。

内政については産業革命の時流の中で彼はやるべきことをやって成果を出した。ただし引用にあるように政治的な自由については制限していた(というより逆行したというほうがより正確か)。

労働者の生活環境が改善されたため、労働運動が活発化したというのは他国でも起こった現象だ。

「自由帝政」期では、段階的に政治的自由度が高まる政治改革が為されたが、普仏戦争の大敗と彼地震の退位によりすべてが頓挫してしまった。

外交・戦争方面

  • クリミア戦争:クリミア戦争では、フランスはイギリスと協力してロシアと戦った。
    この勝利によって、1815年のウィーン体制以降低下していたフランスの国際的地位は回復した。ナポレオン3世は「ヨーロッパ外交の中心へフランスを戻す」ことに成功した。

  • イタリア統一支援:ナポレオン3世はカミッロ・カヴールと協力し、オーストリアと戦ってイタリア統一運動を支援した。
    1859年の戦争ではフランス軍が勝利し、その見返りとしてサヴォワとニースを獲得した。
    しかし、カトリック勢力はローマ教皇領保護を重視していたため、ナポレオン3世はイタリア統一を完全には支持できず、外交方針は一貫性を欠いた。

  • メキシコ出兵:ナポレオン3世最大級の外交失敗の一つがフランスのメキシコ出兵である。
    彼は中南米に親仏政権を樹立しようとして、マクシミリアン1世を皇帝に据えた。しかし、現地の抵抗・アメリカ合衆国の反対・軍事費負担などによって計画は失敗した。最終的にマクシミリアンは処刑され、フランス外交の威信は大きく傷ついた。

  • 普仏戦争と帝政崩壊:1870年、普仏戦争が勃発した。
    相手はビスマルク率いるプロイセンであり、ドイツ統一を進める強力な国家であった。
    フランス軍は準備不足であり、さらに軍事制度改革も不十分だったため苦戦した。
    決定的だったのが1870年のセダンの戦いである。ナポレオン3世自身が捕虜となり、第二帝政は崩壊した。

その後フランスでは第三共和政が成立した。

フランス(19世紀後半)② ルイ・ナポレオン(のちのナポレオン3世)大統領時代

ルイ・ナポレオン、大統領になる

ルイ=ナポレオンについては《ルイ=ナポレオン/ナポレオン3世》などを参照。

彼が大統領になった要因として挙げられるのは以下の通り。

  1. ナポレオン1世の伝説的知名度・栄光の記憶(最重要要因)
    ルイ=ナポレオン自身の実績や知名度はほぼゼロだったが、「ナポレオン」という名前だけが決定的だった。

  2. 農民・地方大衆の「秩序と安定」への強い欲求
    フランス人口の約3分の2が農村部。1848年の二月革命・六月蜂起後の混乱、不況、高税、物価高で疲弊していた農民層が最大の票田。 彼らは「社会主義=財産没収・赤い恐怖」と恐れ、穏健共和派や左派を嫌悪。 ルイ=ナポレオンは「秩序の回復」「財産・家族・宗教の保護」を約束し、保守派・秩序党からも「最善の悪」として支持された。 男子普通選挙で初めて投票した900万人の農民が一気に流れ、都市部中心の他の候補を圧倒。

  3. 社会主義・労働者急進派への恐怖(反動票の集中)
    六月蜂起で労働者・社会主義者が血みどろに鎮圧された直後。 ブルジョワ・中小資本家・地主層は「もう左派は許さない」というムード。 ルイ=ナポレオンは左派でも右派でもなく「中道的な強権による安定」を体現する存在に見えたため、右派票が集中。

  4. 他の有力候補の致命的な弱さ
    相対的にルイ=ナポレオンが「マシな選択肢」として浮上。

  5. 男子普通選挙によるポピュリズムの威力
    《「近代的な意味でのポピュリズム」によって選ばれた最初の大統領は、ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)であるという見解が一般的》らしい。

大統領時代の事績

以下の「右派の秩序党」とは、リンク先によれば、労働者の六月蜂起に危機感を強めた反共和政の右派が正統王朝派・オルレアン派にカトリックの勢力も加わって同盟した政党。

[ルイ・ナポレオンは、]1848年12月15日、フランス大統領に就任した。
 ルイ=ナポレオンは、ナポレオンの甥であることが、フランスの大衆にかつての栄光を回復する希望を与え、革命と蜂起で疲れていた国内に安定を与えると考えられたものと思われる。ルイ=ナポレオンは共和派を排除し右派のメンバーからなる内閣を発足させ、「共和政主義者なき共和政」といわれた権力をにぎった。翌年5月に立法議会選挙が行われると、右派の秩序党が53%で過半数を占め、穏健共和派は12%と惨敗、左派(この時は急進共和派と社会主義者が合同し山岳党―モンタニャールと称した)は35%と健闘し、議会は中道派が壊滅し、左右両極化が進む結果となった。
 ルイ=ナポレオンは議会内には基盤がなく、直接的な国民の支持が必要だったので、カトリック勢力の支持を受けていたため、1849年にはフランス軍をイタリアに派遣してローマ共和国を倒し、教皇ピウス9世のローマ帰還を実現した。
 議会では多数派となった右派の秩序党は、大統領ルイ=ナポレオンを無視する形で、集会の禁止、出版印刷税の復活、ストライキの禁止、カトリック教会が初等学校教育を行うことを可能にするファルー法の制定、選挙法の改悪(選挙資格の定住条件を6ヶ月から3年に増やすなど)など、反動的な立法を次々に議決した。このような議会に対して民衆が離反していくのを見ながら、ルイ=ナポレオンは機会を待っていた。

出典:フランス<世界史の窓

上のように、ルイ・ナポレオンがやったと言えるのはローマ侵攻(後述)くらい。大統領はお飾りにされた。ルイは選挙権の制限に反対したが無視された。

ローマ侵攻

ローマ遠征の背景と目的

  • 教皇の亡命と共和国樹立:1848年革命の波及によりローマ教皇ピウス9世が亡命。マッツィーニらによる「ローマ共和国」が成立。

  • ルイ・ナポレオンの思惑:大統領選に当選するためにカトリック勢力の支持を得ようと考え、教皇のローマ帰還を支援する約束をしていた。

  • オーストリアへの対抗:北イタリアに影響力を持つオーストリア帝国より先にローマを掌握し、イタリアにおけるフランスの発言力を確保。

フランス軍の侵攻過程

  • ウディノ将軍の派遣:1849年4月、チヴィタヴェッキアに上陸。当初は「中立的な調停」を名目としたが、実質的には教皇の復権が目的。

  • ガリバルディの抵抗:ジャニコロの丘などで激しい市街戦が展開。ガリバルディ率いる義勇軍が奮戦し、フランス軍は一度敗退。

  • ローマ陥落(7月):増援を得たフランス軍が猛攻を加え、共和国は崩壊。フランス軍による占領が開始され、教皇の世俗権力が復活。

フランス国内の政情不安

  • 憲法違反の指摘:第二共和政憲法には「他国の自由を侵害するために軍隊を用いない」という規定があり、左派(山岳党)が遠征を違憲と糾弾。

  • 1849年6月13日の事件:ルドリュ=ロランら左派指導者がパリで抗議デモを組織。しかし軍によって鎮圧され、指導層は亡命を余儀なくされる。

  • 秩序党の台頭と弾圧:この混乱を機に、ルイ・ナポレオンと保守的な議会は集会の自由を制限し、共和主義的な新聞を弾圧。左派勢力は壊滅的打撃を受ける。

政治的結末

  • ボナパルティズムの強化:左派が自滅したことで、ルイ・ナポレオンは軍と保守層の双方を掌握。独裁への道が平坦になった。

  • カトリック教会の支持:教皇を守った功績により、教育現場などで教会の権限を強める「ファルー法」の成立に繋がる。



ルイ・ナポレオンが皇帝になる話は次回。

フランス(19世紀後半)① 二月革命と第二次共和政

フランスの歴史について書いた記事の直近のものは 《フランス(19世紀前半)③ 七月王政 - 歴史の世界を綴る》。

これには二月革命(1848年革命の発端となる革命)について書かなかったので、「フランス(19世紀後半)」のシリーズは二月革命から始める。

二月革命

フランスの二月革命によって成立した1848年~1852年の共和政体。フランス革命時の第一共和政(1792年9月~1804年5月)に次ぐ共和政。正式には11月の共和国憲法制定からであろうが、一般的に2月の七月王政崩壊後の臨時政府も含めて第二共和政としている。

二月革命 1848年2月、七月王政のギゾー内閣が、改革宴会[政治集会を禁止したことに対抗して宴会の名目で集まった反政府活動--引用者注]の開催を禁止したことに反発したパリ市民が抗議行動を始めると衛兵が発砲して死者が出たため、市民は各所にバリケードを築き、王宮を襲撃した。あっけなく国王ルイ=フィリップは亡命し七月王政が倒れた。フランスではここから年末にルイ=ナポレオンが大統領に選出されるまで一年にわたる激しい政変が続き、またベルリンやオーストリアの三月革命に飛び火し、全ヨーロッパで諸国民の春といわれる民族運動の昂揚によってウィーン体制が崩壊するという激動の始まりとなった。

出典:フランス(6) 復古王政・七月王政・第二共和政<世界史の窓

この革命はフランス革命の小規模版のようなものだ(もしくは超小規模版)。他国に大きなインパクトを与え、自国も政治体制が変わったが、できた政権がグダグダ。

第二共和政

第二共和政
一八四八年、二月革命の結果生まれたフランスの共和政。人民主権・三権分立・大統領制を定めた憲法をもつ。成立後次第に保守的傾向を強めたが、一八五一年大統領ルイ=ナポレオンのクーデターによって倒れ、翌年その皇帝即位で第二帝政期にはいる。

出典:第二共和政/精選版 日本国語大辞典 - コトバンク

ルイ=ナポレオンは後の皇帝ナポレオン3世で、ナポレオン1世の弟ルイ・ボナパルトの三男で、伯父ナポレオン1世の甥にあたる。引用にあるように、彼が、大統領である時期と皇帝になった時期の間に歴史区分がある。

ナポレオン(1世)もそんなかんじだったな。

一連の流れ。

臨時政府の動揺 二月革命の臨時政府には当初、ラマルティーヌなどの穏健なブルジョワ共和派と、ジャコバン派とも言われた急進的な共和主義者がおり、さらに労働者を基盤に社会主義の実現をめざすルイ=ブランらも含まれていた。しかし、臨時政府は革命を推進したパリの大衆の動きに常に左右され、一方では地方農村を基盤とする保守派である王党派(これにもブルボン王家を正統とする派やオルレアン家を支持する派などがあり、また絶対王政の復活を策する過激な王党派から立憲王政体制に妥協的な穏健な王党派までさまざまだった)も活動を続けており、臨時政府の統治は安定しなかった。

4月の選挙 臨時政府のもとでは、ルイ=ブランなどの主張により労働者を救済するための国立作業場の設置など、積極的な改革が進められた。しかし、政権内部にはブルジョワの立場と労働者の立場の違いが次第に明らかになり、また政府が公共事業のために課税を強化したことに対して農村の自営農層が不満をもつようになった。そのような経済不安が続くなか、1848年4月、憲法制定のための四月普通選挙が、21歳以上の男子の普通選挙によって行われた。この結果、穏健ブルジョワ共和派が多数を占め、また王党派も票を増やしたが、急進共和派と社会主義者など労働者の代表は少数にとどまった。この結果を受けたブルジョワ共和派は、労働者の保護よりも、産業や農業の保護、教会との協力を強めることに舵を切り、社会主義勢力の排除を図ることとなった。

六月蜂起 1848年6月、ブルジョワ勢力が主導権を握った臨時政府が国立作業場の廃止に踏み切ると、反発した労働者の蜂起を政府軍が鎮圧するという六月蜂起の事件がおこった。それを力で抑えきったブルジョワ共和派は軍人のカヴェニャックを担いで政治を安定させようとした。一方では、労働者の六月蜂起に危機感を強めた反共和政の右派は正統王朝派・オルレアン派にカトリックの勢力も加わって同盟し秩序党を結成し議会で勢力を増大させていった。 

ルイ=ナポレオンの大統領当選 11月に制定された第二共和政憲法は人民主権、三権分立、大統領制を採用し、男子普通選挙を定め、その規定に従って1848年12月に大統領選挙が行われた。そこで大方の予想を裏切りルイ=ナポレオンが当選し、1848年12月15日、フランス大統領に就任した。

出典:フランス(6) 復古王政・七月王政・第二共和政<世界史の窓(下線は引用者)

革命が成功した後は仲間割れが始まるのは世の常ということで。

臨時政府から選挙を経て、政権は執行委員会(Commission exécutive/行政委員会)へ移行したが、六月蜂起によりカヴェニャック独裁政権があって、大統領当選でルイ=ナポレオンに政権移行。一年足らずの出来事。

続いて政治の内容について。

「権利」と人権意識の拡大

  • 男子普通選挙権の確立→それまでの制限選挙(納税額による制限)を撤廃。

  • 生存権・労働権・団結権などの市民的権利を承認した→社会主義者ルイ・ブランの影響が強く反映した。
    生存権:労働を通じて労働者の生存手段を保証すると明記。貧困対策として位置づけられた。
    労働権:政府は「すべての市民に労働を保証する」と約束。失業者対策として国立作業場(Ateliers nationaux)を設置し、労働の権利を事実上承認。
    団結権:労働者が「自らの労働の利益を享受するために結社する」権利を認める。労働組合や協同組合の形成を奨励。
    臨時政府の権利承認は、1848年革命の革新性を示す。ただし、経済的裏付けがなく、短期で崩壊。マルクスはこれを「ブルジョワ共和制の限界」と批判した。

  • 死刑制度の事実上の廃止(政治犯)と奴隷制廃止→人権意識が大きく前進した瞬間。

国立作業場(ブルジョワとプロレタリアの対立が明確に表面化)

1848年の二月革命後,フランスの臨時政府がつくった国営事業施設。
ルイ=ブランら社会主義者の主張にもとづき,新しい労働組織の形成を目的としたが,実際には,失業者救済の慈善的なものであった。運営の経費がかさみ,かつ労働者層の進出を危惧した資本家・農民層の反対にあい,6月に廃止された。これに反発した労働者によって六月暴動が発生。

出典:国立作業場/旺文社世界史事典 三訂版 - コトバンク

国立作業場の失敗がブルジョワとプロレタリアの対立の表面化に一役買った。

ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)については次の記事で。

オーストリア(19世紀後半)③ ウィーンの都市改造と文化の隆盛

ウィーンの都市改造

1853年の皇帝襲撃事件が起きる前から、ウィーン城壁を撤去しようという意見は多く聞かれた。市街地区に建設用地はまったくなく、19世紀初頭以来、くりかえし建物禁止令が発された。用地の慢性的な不足により建物を建設できないのに対して、ウィーンの人口は19世紀前半の50年でほぼ倍増し、住まいを求める人口が20万人にも達していた。[中略]
1857年7月、長年の懸案となっていたウィーン城壁の撤去計画がまとまり、12月20日にフランツ・ヨーゼフは帝都改造の勅書に署名した。皇帝の決断が30年後の世紀末ウィーンの栄華を導くことになる。……この決定を性急かつ無思慮なものと見なす軍人や保守派市民もいたが、大部分のウィーン市民に受け入れられた。とりわけ労働者は、撤去工事と新たな建設工事によって仕事が増えると歓迎した。
共和主義者は城壁が撤去されることによって宮殿が無防備になると考えたが、そもそもこの古い城壁は武器の飛躍的な発達によって有効性を失いつつあった。むしろ複雑に入り組んだ街区を整理することによって、1848年革命のようにバリケードが築かれる余地がなくなり、治安はより保たれることになる。それまでは狭い城門を通らねばならなかったが、城壁を撤去すれば大量の部隊を周辺から呼び寄せることもできる。支配者側としてはこのような考えのもとでウィーン改造を計画した。これらは、フランス皇帝ナポレオン3世がジョルジュ・オスマンとともに断行したパリ改造の先例にいくらか影響を受けたものである。
それまでウィーン市内を囲んでいた城壁は長い時間をかけてすべて撤去され、旧市街と34ある郊外地区との間に横たわる、防備のための広々としたグラーシ(Glacis)と呼ばれる空間に、リングシュトラーセと呼ばれる環状線が設けられることとなった。リングシュトラーゼの両側にネオ・ゴシック様式の市庁舎や新古典様式の帝国議会を建設するなど、歴史主義的な建造物による都市計画が行われた。また、巨大な兵舎や国防省、警察の中枢がリングシュトラーセの両端に配置された。

出典:フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)#ウィーン改造 - Wikipedia

ウィーンはヨーロッパを東西に流れるドナウ川と南北の交易路 *1 が交差する都市として栄えてきた。これが産業革命などの近代的な発展をきっかけにして人口が膨れ上がった。

大規模な工事は完成までに50年かかったと言われており、1910年には人口200万人の都市になった(世界第4位の都市)。1850年の頃は約50万とされているので4倍になったことになる。

この都市改造は中世的な城塞都市から近代の大都市(世界都市)への転換であり、現在、世界からウィーンが文化の都と呼ばれるようになったのは都市改造があってのことである。

世紀末ウィーン:文化の隆盛

19世紀末(1880年代か1890年代)から第一次大戦(1914)にかけてウィーンで起こった文化の隆盛を「世紀末ウィーン」と呼ぶ。
(呼称や年代には諸説ある。)

ウィーンの都市が改造されて近代化しているにも関わらず、この都市に住んでいる文化人は「世も末だ」と考えていたらしい。

目の前のオーストリアの衰退と民族紛争に対してだけではなく、近代化・科学技術の限界とか価値観(キリスト教的道徳や貴族社会)の崩壊などに対しても「世も末だ」という雰囲気があった。

しかし末法思想 のように「世が悪いから救いを他界に求める」とはならず、「世も末だが、せっかく生まれてきたんだからエキセントリックに生きようぜ」みたいなヤケクソな創造性が爆発したのが世紀末ウィーン。

そして、不安・退廃・性・死・無意識・狂気...といったテーマを徹底的に掘り下げ、芸術・音楽・思想として表現した。

あと、きまって言われることは「カフェ文化」。「カフェハウスで文化が日々量産された」みたいな感じで語られる。

芸術だけでなく思想・学問も栄えた。精神分析で有名なフロイトもこの時期の代表者として挙げられる。その他については 《世紀末ウィーン#ウィーン世紀末芸術の諸相 - Wikipedia》を参照。

*1:バルト海からイタリアのアドリア海を結ぶ複数の交易路が「琥珀の道」と呼ばれている。ウィーンはそのうちの一つのルートの主要な都市。

オーストリア(19世紀後半)② オーストリア=ハンガリー(二重)帝国

「新絶対主義」の終焉?

一連のイタリア統一戦争の敗北、とりわけソルフェリーノの戦い[イタリア・オーストリア戦争(1859)で最大かつ決定的な戦闘--引用者注]に完敗したことは、オーストリア人にとって屈辱的なことであった。フランツ・ヨーゼフは侍従長グリュンネ伯爵を更迭し、内相バッハを閑職に追いやるなどして体制を一新した。職務にとどまった政府要人は皇帝ただ一人という徹底ぶりだったが、世論はなかなか収まらずに皇帝への不満が高まった。[中略]
戦争によって財政状態は一層悪化したため、フランツ・ヨーゼフ1世は改革を迫られた。19世紀半ばの銀行家たちは代議制議会を求めており、これがなければ外国債を募ることはできなかったのである。1860年5月31日、帝国議会が拡大され、「新絶対主義」の時代は終焉を迎えた。また1861年には、二月勅許(憲法)で自由主義的改革を一部導入することを認めざるを得なくなる。それはオーストリアを立憲君主国とするものだったが、しかしフランツ・ヨーゼフは依然として外務と軍事に関する多くの権力を保持した[71]。急進的なハンガリー人は皇帝に権力が集中しすぎるとして反対し、その中にはさまざまな形で抵抗運動を続ける勢力もあった。そのためフランツ・ヨーゼフは怒り、軍隊を派遣してハンガリー議会を解散させた。

出典:フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)#「新絶対主義」の終焉 - Wikipedia

引用にあるように、議会との妥協により独裁色の強い欽定憲法を制定して、"新絶対主義" 時代とさほど変わらないほぼ独裁路線を続けた。

普墺戦争の敗戦からオーストリア=ハンガリー(二重)帝国へ

普墺戦争のことは他の記事で書いたので省略。

アウスグライヒ

アウスグライヒ Ausgleich (ハンガリー語ではキエジェゼーシュ Kiegyezés)とは、妥協を意味するドイツ語である。オーストリアは、1866年の普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)での敗北によって国内体制の再建に迫られ、長らく問題となっていた帝国内のハンガリー(マジャール人)の分離独立の要求に応えざるを得なくなった。

出典:アウスグライヒ>世界史の窓

落ちぶれていくハプスブルク家(オーストリア)の歴史の一片でしかない「アウスグライヒ」を高校生が歴史用語として覚えなくてもいいとは思う。世界史ファンとしては、ハプスブルク家の落日を知っておくのもいいが。

オーストリア=ハンガリー(二重)帝国

1867年、オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世は、オーストリア帝国からのハンガリー王国の独立を認める妥協(アウスグライヒ)を明らかにした。その条件は皇帝がハンガリー王を兼ね、形式的な独立を認める代わりに、同一君主を戴く国家として、実質的支配を維持しようとするものだった。ハンガリー王国の国会はそれを認め、協定を結んだ。
 この協定によって、ハンガリー王国はハプスブルク家の国王のもとで独自の政府と国会を持つが、外交・軍事・財政では共通の方針に従うという二重帝国の形態がとられた。これがオーストリア=ハンガリー(二重)帝国といわれる国家であった。(出典:同上)

独立指向であったハンガリーもオーストリアの大幅な譲歩と、それとは別にロシアの領土拡大の野心への脅威もあり、上のような体制を呑んだ。

同君連合に近いが、外交・軍事・財政は「共同管理」だった。ただし、実務運営はオーストリア優位の不均衡な共同体制だった。

自治獲得の動き

多国籍国家だったので他の民族からも自治を要求する声が飛んでくる。

その後も民族の自治獲得の動きは鎮静化せず、むしろいっそう激化し始めた。まずは工業地帯を握るボヘミア人(チェコ人)の発言力が増し、資本家・経営者および金融業者のほか、医者・弁護士やジャーナリストなどの専門職従事者も多いユダヤ人もまた発言力を増した。従来の地位を保持しようとするドイツ人と、新たな権利を得ようとする他民族との対立が目立ち始めることとなった。ハンガリー地域でも、マジャル化という同化政策に反して諸民族の自治・権利を獲得しようとする動きが高揚してきていた。しかしこの時点では、どの民族も「帝国からの独立」を望んではいなかった。それは、プロイセン主導の統一ドイツならびにロシア帝国という2つの大国に挟まれた地域で、小国が分立していては生き残れないことを自覚していたためである。各地域の住民が「独立」するのではなく、あくまでオーストリア=ハンガリー帝国という大きい枠のなかで「自治」を得る、つまり諸民族の連邦国家を望んでいたのである。

出典:オーストリア=ハンガリー帝国#自治獲得の動き - Wikipedia

1870年代から1900年までのオーストリア

1873年から大不況が始まるがオーストリアはなんとかこの不況を乗り切った。

外交では普墺戦争の敗北後はプロイセン(ドイツ帝国)についていくことを国是のように守っていった(皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の意向)。

1878年ベルリン会議では、露土戦争後、オーストリア=ハンガリーはボスニア・ヘルツェゴビナの行政権・占領権獲得した(併合は1908年)が、第一次大戦の遠因となる。

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の評価

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は1916年まで生きて皇帝で在り続け、実権も握っていた。彼の治世は「勤勉に統治したが、構造改革を避けた」というような評価がされている。

この時期は大不況と民族紛争への対処で大変だったので国家をクラッシュさせなかったことを考えれば凡才以上の評価はされてもいいのではないか。

オーストリア(19世紀後半)① フランツ=ヨーゼフ1世の独裁

19世紀後半からオーストリアをドイツ史から分離することにする。

オーストリアに限れば前回の記事は
ドイツ(19世紀前半)① オーストリアとドイツ連邦

メッテルニヒからフランツ=ヨーゼフ1世へ

1848年革命と総称されるヨーロッパの一連の革命騒ぎの中でウィーン三月革命というのもあった。これにより宰相メッテルニヒは亡命を余儀なくされ、ウィーン体制も崩壊した。

しかし、オーストリアはウィーンやプラハの騒動を鎮圧に成功して革命運動・民族独立運動は抑制され、逆に絶対主義的な体制が確立された。

ただし、多民族国家であるオーストリアは革命運動と民族独立運動の両面を対処しなければならないので、その点がプロイセンに追いつき追い越される大きな要因となった。

新絶対主義
 北イタリア、ハンガリー、ボヘミアの「諸国民の春」と言われた民族蜂起を弾圧して乗りきったオーストリア、ハプスブルク帝国は、その1848年10月、新しい皇帝としてわずか18歳のフランツ=ヨーゼフ1世が即位した。そのもとで立憲制や議会制は棚上げして、多民族国家オーストリア帝国としての一体性を維持した「新絶対主義」とも呼ばれる抑圧体制をとった。しかし、かつてのような強権的支配は不可能であったので、各民族の経済活動には一定の自由を認める方針を打ち出した。特にベーメン(ボヘミア=チェコ西部)はすでに帝国内で最も進んだ工業力を有していたので、繊維工業や鉄工業、機械工業がさらに盛んになった。

多民族国家としての弱点
 オーストリア帝国のハプスブルク家支配の最大の問題は、この国が巨大ではあるが多民族国家であるという点であった。オーストリアはドイツ人(ゲルマン民族)であるが、ハンガリーはマジャール人であり、またその領内にチェコ人、クロアチア人など多数のスラヴ系民族を含み、また北イタリアはイタリア系住民の地域であった。

出典:オーストリア/オーストリア=ハンガリー帝国<世界史の窓

ドイツ国民国家からの離脱

フランクフルト国民会議と「大ドイツと小ドイツ」については以前に書いた。
ドイツ(19世紀後半)① 三月革命

フランクフルト国民会議の大ドイツ主義は「オーストリアがドイツ人以外の民族領域を切り離すことを前提」にしていたため、彼らの提案を呑むことは出来なかった。いやそれ以前に、自由主義のフランクフルト国民会議の提案を絶対主義のオーストリアが受け入れる余地が無かったのだが。

上に紹介した前回書いた記事にあるように、フランクフルト国民会議が夢見た自由主義的な国民国家建設はオーストリア、プロイセン両国から拒否されて彼らは霧散した。

(この節の全体についてはオーストリア/オーストリア=ハンガリー帝国<世界史の窓 参照)

クリミア戦争に中立

……ここでオーストリアは最悪の選択をします。中立です。日本人は中立を「両方の味方」と勘違いしていることが多いので繰り返しますが、逆です。中立とは、「交戦当事国双方の敵」です。そしてクリミア戦争で、オーストリアは文字どおり「両方の敵」として振る舞います。味方してくれると思ったロシアは恨みに思いますし、英仏がバルカン半島方面に進出した際は兵を出して牽制しています。……[オーストリア、フランツ=ヨーゼフ1世は]その場その場でそれなりの合理的理由はあるのですが、目の前のことしか見えていないのです。[中略]
かつてのメッテルニヒは、えげつない交渉をしながらも、世界をどうするかという明確な経綸がありました。政治家らしい政治家です。だから世界の外交史で今でも称賛されるのです。対照的にフランツ・ヨーゼフ一世は、徹頭徹尾、行政官でした。

出典:倉山 満. 嘘だらけの日独近現代史 (SPA!BOOKS新書) (p.105). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.

この本では、フランツ・ヨーゼフ一世はメッテルニヒ、というよりもビスマルクと対象的に説明されている。

イタリア・フランスとの戦争に敗北

ここでは、1859年の戦争に関して書く。イタリア統一に関する戦いの全体像については別途書こうと思っている。

イタリア北西部のサルデーニャ王国は1848年にも諸国民の革命の一環としてオーストラリアからの独立を目的として戦争を仕掛けたが、鎮圧されてしまった。

1859年の戦争では、サルデーニャはフランスと結んでオーストリアに再び挑んだ。

フランス軍はナポレオン3世みずからが率いる12万8千、サルデーニャ軍7万、それにガリバルディの義勇部隊「アルプス猟歩兵旅団」3200人が加わった。迎え撃つオーストリア軍は22万。皇帝フランツ=ヨーゼフ1世が陣頭指揮を執った。

出典:イタリア統一戦争<世界史の窓

当初の戦争はギュライ・フェレンツ伯爵が指揮を採ったがマジェンタの戦いで敗北して解任された。その後は皇帝自らが指揮を採ったがうまくいかずに敗北してしまった。それでも敵方の主力であるフランス側の戦闘もあまり褒められたものでなかったため、オーストリアは深手を追わずに済んだ。

1859年7月になって突如ナポレオン3世は、サルデーニャ側にはからずにオーストリアとヴィラフランカの和約を結んで単独講和し、戦場から撤退した。ナポレオン3世は戦争の長期化を恐れたことと、サルデーニャ王国が全イタリア統一に進みローマ教皇領まで併合するに至ればフランスのカトリック信者の反発を招くであろうと読んで、適当なところで手を引くと判断したためらしい。[以下略]

出典:イタリア統一戦争<世界史の窓

フランス国内でも「国益のない戦争」と厭戦ムードが膨らんでいた。イタリアは怒ったが渋々停戦した。