歴史の世界

法家(10)韓非子(「一個人」を考慮しない思想)

韓非子』は、神秘主義・理想主義を排除して、現実主義の立場を採った。この時、『韓非子』は「人は利で動く」という人間観を採用した結果、人間の一人ひとりの理性や能力に期待することを頭の中から排除した。

韓非子』は一貫して君主の立場に立って考え、臣下・庶民は集団としてしか扱わなかった。

  *   *   *

この件についてのテキストは冨谷至『韓非子 ── 不信と打算の現実主義』(中公新書/2003)。

韓非子―不信と打算の現実主義 (中公新書)

韓非子―不信と打算の現実主義 (中公新書)

「一個人」を考慮しない理由

世の人間のうちですぐれた資質を有する人物、特異な才能をもつ者は少数であり、数にして絶対多数を占める世の人間は、その資質においては凡庸な輩である。人間観を形成し、何にもまして人間を対象とする政治を考えるうえで、視点を置かねばならないのは凡庸な資質を有する者である。

出典:冨谷氏/p156

韓非子』の絶対多数の「凡庸な輩」は「理性的判断をおこなわず、本能的に功利へと、打算へと向かう」と冨谷氏は書いている。

前回に書いたことだが、『韓非子』は「人は利で動く」という人間観を持っている。儒家が根本倫理としている親子・家族の関係でさえ、『韓非子』は、利益と打算で成り立っている、と言い放つ。

冨谷氏が「理性的判断」と「本能的功利」を対置して書いているところに注意。冨谷氏の説明において、「理性」という言葉は重要なキーワード。先に進む。

東洋と西洋の法的思考の違い

韓非子』はよく『君主論』のマキャベリと比較されるが、冨谷氏の本では、マキャベリだけでなく『リヴァイアサン』のホッブズと「罪刑法定主義」を打ち出したアンゼルム・フォイエルバッハとも対比させている。

そして彼らとの比較によって冨谷氏が言いたいことは、法を語る時に「統治の対象たる人間を集団として捉え、個人、個性にはきわめて冷淡である」こと、言い換えれば、一個人の理性的判断のことを考慮していないこと。(p167)

このことが「東洋と西洋の法的思考」、の根本的な違いとなっている(p166)。これは、より正しく言えば現代中国と現代西欧の法的思考の違いである。日本は現代西欧の法的思考を受容して現在に至っているので、現代中国との法的思考とは全く違う。

そういうことで、この記事で扱う問題は、現代の世界規模での問題に関係している。

マキャベリとの比較

君主論』からの引用。

まずは共通点から。

人間というものは、一般に恩知らずで、空惚(そらとぼ)けたり隠し立てをしたり、危険があればさっさと逃げ出し、設けることにかけては貪欲であるから、彼らに恩恵を施しているあいだはひとり残らずあなたの側へついてくる……いざという時には当てにならないのだから。そして人間というものは、恐ろしい相手よりも、慕わしい相手のほうが、危害を加えやすいのだから。……邪(よこしま)な存在である人間は、自分の利害に反すればいつでも、これ(恩愛)を断ち切ってしまうが、恐怖のほうは、……付きまとって離れない処罰の恐ろしさによって、つなぎ止められているから。(第17章)(p159-160)

「人は利で動く」という点は共通している。

次に相違点。

外敵よりも民衆のほうを恐れる君主は、城砦を築くべきだが、民衆よりも外敵のほうを恐れる君主は、これ無しで済ませるべきだ。……最良の城砦があるとすれば、民衆に憎まれないことだ。(第20章)

   *

どのようにすれば君主が側近を見分けられるのか。それには決して過(あやま)たない方法がある。すなわち、あなたから見て、側近があなたのことよりも自分のことのほうを考えているときには、またすべての行動においてひたすら自分の利益を追求していることが明らかなときには、そういう輩は忠実に保たせるためには、側近のことを思いやり、その名誉を称え、彼を富ませることによって、自分への恩義を深めさせ、数々の地位と任務とに彼を与(あずか)らせて、君主がいなければ自分が存在し得ないことを、……配慮しなければならない。互いにこのような関係になったとき、一方が他方を信頼できるようになる。(第22章)(p161)

上の文章を引用した後に冨谷氏は両者の相違を《人間の中に存在する「理性」を認めるかどうかにかかっているのではないだろうか》と書いている。または『君主論』は《他者が理性にもとづいて判断し、行動するものと考え、それにより導き出される結果を期待》して、『韓非子』はその可能性を排除する。(p161-162)

上の引用では『君主論』は民衆や臣下を信頼することが可能であることを示している。その一方で『韓非子』はそのような可能性を端(はな)から考慮に入れていない。『韓非子』は「人は利で動く」という人間観を徹底している。

ホッブズとの比較

リヴァイアサン』と『韓非子』の共通点。

人間は生まれつき与えられた同じ条件下で、等しく自己の保全、利己的快楽を求める。不信・競争心そして虚栄心、それが人間の本性である。この本性に従って人は力と奸計によって他者を支配しようとし、そこに戦争状態が生まれる。いわゆる「万人の万人に対する戦い」にほかならない。(水田洋訳『リヴァイアサン』第13章、岩波文庫)(p163)

「人は利で動く」という点では同意見。

しかし、ホッブズ自然法自然権を述べているところに決定的な相違点がある。

自然権とは「各人が彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の欲するままに彼自身の力をもちうるという、各人に賦与されれている自由である。彼の判断と理性において、そのために最も適当な手段と思われるあらゆることを、おこなう自由である」(『リヴァイアサン』第14章)(p163)。

また自然法とは「人間の本性の中には、秩序ある状態への志向が備わっており、それに従って一定の秩序が形成される規範」と定義づけられている。(p108)

リヴァイアサン』では「万人の万人に対する戦い」から脱却して秩序ある社会を作るために、コモンウェルス(国家)の設立が必要だ、そして国家との社会契約により自然権を放棄して国家主権者に服従しなければならない、と主張する。

これに対して、『韓非子』はそもそも一個人の自然権など全く考えていない。『韓非子』は一個人の理性、さらに言えば一個人を考慮することすらしていない。

韓非子』の主張する統治方法の根底にある考えは以下のようなものだ。すなわち、人間(集団)は自己の利益でしか動かず、彼らを統治するには威嚇を用いて一方的に統制するしか功を奏さない。(p165)

そして、一方的な統治は当然のことながら独裁体制となる。

罪刑法定主義フォイエルバッハとの比較

罪刑法定主義とは《いかなる行為が犯罪とされ,これに対していかなる刑罰が科せられるかが,あらかじめ法律によって定められていなければならないという近代刑法の原則(法律なければ刑罰なし)》 *1

罪刑法定主義と『韓非子』の共通点としては法律の明文化、罰則規定を持つ成文法が挙げられる。

しかし、罪刑法定主義は個人と国家(庶民と為政者)の契約(社会契約)の下の法である点で『韓非子』と異なる。

さらに、罪刑法定主義を確立したとされるアンゼルム・フォイエルバッハとも考えが異なる。

罪刑法定主義の論拠となるフォイエルバッハの心理強制説について冨谷氏は以下のように簡潔に説明する。

犯罪によって得られる利益と、それに対して科せられる刑罰の不利益を考察して、後者を前者よりも少し大きくして、犯罪と刑罰を法典に規定しておけば心理的に抑制がきき、一般の予防が成就される。(p119)

罪刑法定主義と『韓非子』の違いは、前者が法の条文で威嚇して犯罪を予防しようとするのに対し、後者は刑罰の執行を庶民に見せることによって威嚇して予防しようとする点にある。

言い換えれば、前者が庶民の理性的判断(心理的抑制)を前提としているのに対し、後者は理性ではなく本能的功利的判断(人は利で動く)を前提としている。(p119-120)

まとめ

以上のように、法・政治思想を語る時に、近代西欧が個人の権利を配慮する一方で、『韓非子』はそれらを全く考慮しないところに決定的な違いがある。

現代日本は近代西欧の価値観を共有する。その一方で、現代中国は『韓非子』の法思想を受け継いでいると思われる。現代中国が独裁体制を堅持できているのは『韓非子』の思想がいくらか貢献しているのかもしれない。


関連事項

以下は『韓非子』とは直接関係ない話。

現代中国の法と体制に関する話。

現代中国の法の運用は今でも見せしめ刑の様相が根深いそうだ *2。現代でも『韓非子』の法思想が続いていると言っていいかもしれない。

宮脇淳子氏によれば中国の法律が見せしめ刑であるのは中国の人口が多すぎるせいだと説明している。 *3

また、「アジア的専制と生態史観--もぎせかチャンネル」で、梅棹忠夫『文明の生態史観』の説明によれば、遊牧民(モンゴル人)に支配されたユーラシア(ロシア・中国など)の社会システムは独裁体制で、その端にある西欧・日本はパブリックまたは「和」を尊重し、これを基にして民主体制を敷いている。このことは、地政学ランドパワー・シーパワーと話がつながっている。

国史において、人口増加や遊牧民支配は『韓非子』が編纂された後の時代に起こった出来事なので、『韓非子』が中国の体制・法体系を作った原因だ、とは言えない。

むしろ、人口増加・遊牧民支配の結果 出来上がった中国社会を統治するために『韓非子』が採用された、と言ったほうが辻褄が合うだろう。



法家(9)韓非子(『韓非子』の人間不信について)

韓非子』の人間不信については《人主の患は、人を信ずるにあり。人を信ずれば則ち人に制せらる》(備内篇)の言葉を引用して説明を済ませることもできるが、この記事ではもう少しだけ深堀りして見ようと思う。

韓非子』はどうして「人間不信」に至ったのか?

この件についてのテキストは冨谷至『韓非子 ── 不信と打算の現実主義』(中公新書/2003)。

韓非子―不信と打算の現実主義 (中公新書)

韓非子―不信と打算の現実主義 (中公新書)

副題に「不信」とあるように、人間不信のワードはこの本のテーマの一つだ。

《信なくば立たず》 ── 儒家の主張

《人を信ずれば則ち人に制せらる》の正反対の言葉が、《信なくば立たず》。これは『論語』の言葉。

孔子に始まり孟子さらには荀子へと継承されていく儒家の思想は、人間の善意への信頼、人間同士の信義……が人間存在の条件であるとしてきた。

子貢「食料、軍備、信義、この三者のうち何が不可欠でしょうか?」
孔子「それは、信義だ。人間は死から逃れられない以上、飢餓と安全もある意味では犠牲にせねばならないこともあろう。しかし、信頼・信義は違う。これがなければ人間はそもそも存在しないのだ」(『論語』顔淵) 「信なくば立たず」、今日でも政治家のキャッチフレーズとして使われる言葉だが、韓非はそういった楽天主義を、ものの本質がまったく理解できていない愚かで浅薄、それゆえ間違いと不幸を招来する考えとして切り捨てるのである。(p101)

上が『論語』の言葉。次は『孟子』の言葉。

宋牼(そうけい)という墨家の非戦論者と孟子の会話が告子下篇に見える。

「わたしは戦争がいかに不利益であるかを力説することで戦争をやめさせたい」
孟子「あなたは、利ということをもって説得し、説得されたほうも利益に従って撤兵し、兵隊たちも闘いを喜んでやめ、利益を第一と考えるでしょう。臣下は利のうえから君主に仕え、子たるもの打算のうえから親に仕え、弟たるもの打算のうえから兄に仕えるということになります。これでは、君臣兄弟すべて仁義をうちやり利益・計算だけを考えて人間関係をもつ。そのような状態が長く続いた国はありません。利益を捨てて仁義のみによって人間の関係を保つべきです」(『孟子』告子下)(p92)

この文《君臣父子兄弟、利を去り仁義を懷(おも)いて、以て相接するなり》も『韓非子』の考えと正反対だ。『韓非子』は、「人は利で動く」とし、仁義を否定する。

徳・仁・義をその根本倫理に置く儒家思想、その出発点は血の繋がりにもとづく人間関係、親と子、家族である。家族の結びつきに認められるアプリオリな[先天的な--引用者]意識・感情、つまりそれは親が子に対する愛情、子が親に懐(いだ)く敬意(孝)、兄弟間の融和と尊敬(悌)であり、これらは生まれながらにして備わる人間の善意と考えるのである。[中略]

[さらに]家族の情を根本に、それを君臣関係に拡大擬制することで、国家権力の承認に転化させること、これが儒家の唱えた統治イデオロギーであった。(p94)

この主張に対して、韓非は唾棄するがごとく否定する。

韓非にとって、あまりに理想主義的、楽天的で、実現にほど遠く、しかしながら、したり顔で倫理道徳の実現を説く思想、まったくもって現実離れしているがゆえ、どうにも我慢できない一派、それは儒家であり、とりわけ孟子の思想であった。(p94)

《人を信ずれば則ち人に制せらる》 ── 『韓非子』の主張

《人主の患は、人を信ずるにあり。人を信ずれば則ち人に制せらる》は『韓非子』備内篇の冒頭にある。

君主にとって、人を信ずることは有害である。人を信ずれば、自分がおさえられる。

臣下は、君主と血縁関係があるわけではない。君主の力におさえられて、やむをえず服従しているだけだ。[中略]

君主がわが子を盲信すると、腹ぐろい臣下は君主の子を利用して私欲をとげようとする。[中略]

君主が妻を信ずれば、腹ぐろい臣下は君主の妻を利用して私欲をとげようとする。

出典:西野広祥・市川宏 訳/中国の思想 [I] 韓非子徳間書店/p40

さらに備内篇が続けて言う。

君主の妻は、血縁関係になく、老いて容色を失えば寵愛を失って自分が生んだ子も愛されなくなる。しかし子供が君主になれば国母としてやりたいことは何でもできる。だから妻は夫の死を願うのだ。(p41)

これは中国の庶民においても似たようなもの。夫の家に嫁いだ妻は血縁関係になく、現代中国の宗族社会では妻は夫と姓が別だ。極論を言えば中国における妻は跡継ぎを生む道具に過ぎない、と岡田英弘氏主張した*1

「人は利で動く」

儒家は人間同士の信義をもって人間存在の条件、言い換えれば信義が無ければ「人でなし」、と考えていた。

ところが、『韓非子』はそれを否定し人間存在の条件とか性善説性悪説などという議論をことごとく否定して、人間はただただ利益を求めて行動するという性質にだけ言及している。

人は己の利益を求めて行動する。利益とは、金銭的、物質的な実利はもちろんのこと、名誉、自己満足も含み、いってみればすべて己にとってプラスになるもの、ひとはそれを無意識のうちに計算し、それを得ようと行動する、人間のもって生まれた性とは所詮そんなものだと、韓非は明快に言い放つ。[中略] これが韓非の主唱するところなのである。(冨谷氏/p90)

以下は『韓非子』からの引用。

人を雇って農事をしてもらうのに、主人が美味しい食事を作って雇い人に食べさせたり銭布を調達して支払ったりするのは、雇い人を愛するからではなく、彼に良い氏ことをしてもらおうとするからだ。雇われた者も一生懸命に働くのは、主人を愛するからではなく、そうすれば美味しいものが食べられ、金がもらえるとふんでいるからだ。自分のプラスのみを考える、だから人が事業をおこなったり、物を与えたりするとき、互いに得をすると思えば仲よくなり、損をすると思えば、親子の間にも恨みの気持ちが生ずる。(外儲説左上)(p89-90)

上の『韓非子』からの引用は我々にとってあたり前のことのように思えるが、当時(戦国末)の儒家の愛だの信義・仁義だのという主張に反駁しているわけだ。

ただ、『韓非子』は信義・仁義だけではなく、感情や情緒的なもの一切を些末なものと考えているような気さえする。

まとめ

そして人間の感情的なものを思考の外に置いた『韓非子』は「人は利で動く」という一点だけを前提にして論を組み立てる。

家族関係は、(儒家の主張する)愛や孝などで結ばれているのではなく打算・利益によって結ばれている。家族関係からしてそうなのだから、君臣関係ならなおさらそうだ。

君主たるもの君臣が信義で結ばれているなどと信じれば、寝首をかかれる。それだけではなく、妻には(比喩ではなく)寝首をかかれないように十分に注意すべきだ。

これが人間不信に至る考え方だ。

そして

「人は信用できない。信義など期待しない」、人間に対する不信、これが韓非の思想の基礎であり、出発点だったのである。(p101)

おまけ

現代中国では庶民に至るまで、『韓非子』の考え方が浸透している。このことは岡田英弘氏、宮脇淳子氏、石平氏らの書籍を読めば理解できるだろう。

さすがに、『韓非子』ほどドライではないが、日本人の情緒で中国人に接すれば、《信ずれば則ち人に制せらる》どころか、資産を吸い取られた後にお払い箱にされる。中国大陸に進出した日本の企業を思い起こせばすぐに理解できるだろう。



*1:岡田英弘/この厄介な国、中国/WAC BUNKO/2001 (『妻も敵なり』(1997)を改訂)/p84

法家(8)韓非子(『韓非子』の「徳」/「徳」の原義)

諸子百家のシリーズで「徳」に関する記事を何個か書いたが、今回やっと納得できた気がする。

韓非子』の「徳」にからめて書いていこう。

諸家の「徳」

現代の日本では「徳」は儒家が唱えた概念、つまり「仁愛にもとづく人倫道徳の概念」 *1 に近い意味で使われることが多い。

道家のそれは《道家(28)荘子(徳/徳充符篇/明鏡止水)》で書いている。

さて『韓非子』二柄での使われ方を引用する。

名君は二つの柄(え)を握るだけで、臣下を統率する。二つの柄とは刑・徳のことである。刑・徳とは何か。罰を加えることを「刑」といい、賞を与えることを「徳」という。臣下というものは罰をおそれ賞をよろこぶ。君主が二つの柄を自分の手で握っていれば、臣下を「刑」でおどし「徳」で釣り、思いのままにあやつることができる。

出典:西野・市川氏/p28

「刑・徳」はつまりは「アメとムチ」で、「徳」とは「アメ」にほかならない。『韓非子』に出てくる「徳」は基本的に「アメ」程度の意味に考えておけばいいらしい。

「徳」の原義

さて、戦国時代の思想家たちはこの「徳」の概念を意味は違えど重要視していた。そうなると思想家の色眼鏡にかかっていない本来の「徳」の意味とはどういうものだったか。

「徳」という漢字の語源をネットで調べると、諸説あるのだが、一番多く見られる説は
《彳+直+心》
で元々は「悳」という字があってこれに彳がついて「真っ直ぐな心で行動する」が原義になった、というもの。この説は儒家の「徳」と直結するが、その他の「徳」とは縁遠い。

次に多かったのが、
《彳+省+心)》
で、これは《彳+省》に心が後から付いた、というもの。これは白川静『字統』にあるようだ。「徳」あるいは「省」の「目」の上にあるものは呪飾(古代の呪術的なメイク?)を表している。古代の為政者たちは目の上にメイクをして地方を視察したらしい。この視察のことを「省」または「省道」という。呪飾による一時的でしかなかった呪力から、次第に恒久的な内面的な力(他人に影響を与える力)へと変化して、それが「徳」の原義となる。そして後になって、「得」と同音であることから「力を与えられて生成されたもの」という意味で使われるようになった。 《入墨と徳について。: Strings Of Life 参照》

いろいろ調べてみると「直」という字は「省」から派生した字だという。そういうわけで、「真っ直ぐな心で行動する」という説は間違いだ、というのが私の結論だ。

「徳」という字は西周の金文に見られ、小南一郎氏によれば、「徳」の意味は「ある家系が王権との関係を通して持っている生命力」を意味することが明らかになっている *2

冨谷氏によると小南氏による「徳」の定義は「天上に源泉する生命力」だそうだ(冨谷氏/p143)。

さて、初期の儒家つまり『論語』では「徳」を以下のような意味で使っている。

「子曰、天、徳を予に生(な)せり。」(『論語』術而)(冨谷氏/p143)

意味は「天はわたしに使命を果たすべき力を与えてくれているのだ」。

儒家が用いる「徳」が道徳的な意味合いを持つようになるのは孟子からかもしれない。

そして、儒家の「徳」が「仁愛の力」、『韓非子』の「徳」が「カネ(アメ)の力」で、「他人に影響を与える力」ということは共通している。



本当は、『韓非子』の「徳」をメインにしなければならないのだが、「徳」の原義でやっと納得が言ったので、こちらがメインになってしまった。

気が向いたらリライトしよう。

*1:冨谷至/韓非子中公新書/2003/p141

*2:保立道久『現代語訳 老子』(ちくま新書/2018/p229-232)で「徳」について解説してあるが、保立氏は小南氏の『古代中国 天命と青銅器』を参照している。

法家(7)韓非子(儒家との比較 -- 「矛盾」と「守株」)

「矛盾」と「守株」は『韓非子』由来の言葉。

この2つの言葉は儒家を批判する文章の中から生まれた。

この記事では2つの言葉をもって『韓非子』が儒家に対してどのような批判をしたのかを見ていく。そこに儒家と法家の違いが見えてくる。

「矛盾」

「矛盾」のエピソードは『韓非子』難一に出てくる。

楚の国に盾と矛とを売る男がいた。かれはまず自分の売る盾の宣伝をした。
「この盾の丈夫さときたら、たいしたものだ。何で突いたって、突きとおせるものではない」
つぎに、男は矛の宣伝をした。
「この矛のするどさときたら、たいしたものだ。どんなものだって、突きとおせないものはない」
ある人がたずねた。
「その矛でその盾を突いたら、どうなる」
男は答えにつまってしまった。
何によっても突き通すことができたに盾と、何でも突きとおすことのできる矛とが、同時に存在することはできない。

出典:西野広祥・市川宏[訳]/中国思想[I]韓非子徳間書店/1996/p151

上は現在通用する一般の「矛盾」の意味の語源。

さて、『韓非子』はこのエピソードをもって何を批判したかったのか?それは同時代の儒家と、儒家が崇め奉る聖人の堯と舜だ。堯と舜の両者は天下を良く治めた聖人で、堯は舜に禅定したとされる。

韓非子』難一によれば、堯が天子(君主)だった時、舜は3つの地方の混乱を治めて正常化し、3年で天下を正常化した。これをもって儒家たちは舜の仁徳を称賛する。

しかし『韓非子』は言う。「舜が天下を正常化したのなら、その頃 天子であった堯は何をしていたのか?」

韓非子』は《天下を良く治めたのが舜であれば、堯は聖人と呼ばれるほどの人物ではないということになる》と主張する。強引な理屈のような気がするが話を先にすすめる。

韓非子』または法家の立場からすれば、もともと次代の天子の舜が方々を駆け回って混乱を処理する必要はなく、天子である堯が法と権力と官僚体制によって治めれば済むことだ。

さらに言うには、天下には数限りないほどの混乱があるというのにその一つ一つに聖人が出向いて治めようとしたら何年あっても天下を治めることはできない。よって儒家のいうような徳治などできるはずがなく、法家の主張する法治で治めなければならない。法治で天下を治めるのならば、たとえ聖人・名君でなくとも治めることはできる。

以上が「矛盾」のエピソードが出てくる文章の要旨。 *1 *2

守株

「守株(しゅしゅ)」。国語辞書には《いつまでも古い習慣にこだわること。進歩がないこと。》 *3 とある。

北原白秋作詞『まちぼうけ』は「守株」のエピソードを歌にしたもの。このエピソードは『韓非子』五蠹(ごと)にある。

宋の国である男が畑を耕していた。そこへウサギがとびだし、畑の中の切株にぶつかり、首を折って死んだ。それからというもの、かれは畑仕事はやめにして、毎日切株を見張っていた。もう一度ウサギを手にいれようと思ったのだ。しかしウサギはそれきり。かれは国中で笑い者になったという。

出典:西野・市川氏/p82-83

このエピソードを使って『韓非子』は儒家の懐古主義を批判した。

曰く、儒家は古(いにしえ)の聖人を称賛し、大昔の礼を現代に蘇らせて秩序を取り戻そうなどと主張するが、人口増加・領域拡大・日進月歩の技術革新で激しく変化する天下を、古の礼を以って治めようとする儒家は守株の男と何も変わらない。

法によって世の中の激動に即応できる法家との違いを主張している。

(法治の限界は別の記事で書く。)



法家(6)韓非子(「勢」と「術」)

今回は「勢」と「術」について。

「勢」

「勢」については別の記事の《慎到の節》 で書いたので、先に読んでほしい。

韓非子』難勢篇は慎到の勢の概念に賛同する論説だ。

そして以下のように「勢」について書いている(『韓非子』難勢篇より)。

堯・舜、そして桀・紂などは、賢聖、暴君としての両極であり、千年にひとり出るか出ないかの存在である。われわれが考えねばならないのは、そのような例外に属する人物ではなく、ごく平凡などこにでも転がっている輩であり、世の中それが大多数を占める。したがって堯や舜の聖人の出現を待つなどということは、千年に一度の偶然を期待するようなもの、乱世を千年我慢して、ただの一度の治安を願うに等しい。しかも、たとえ堯・舜が出てきたとしても一個人としては自らの能力には限りがある。全体、大多数を治めるには、然るべき地位・権威を盾に褒賞・刑罰をシステマティックに運用していくことが一番である。

出典:冨谷至/韓非子中公新書/2003/p146-147

結局のところ、君主の地位と その地位が有する権勢(すなわち「勢」)がシステマティックに動く体制を構築せよ!ということになる。

「術」については内儲説上篇に「七術」がある。

権勢、地位よりもいっそう技術的、テクニックに傾くものとして、君主はいまひとつの「術」を習得しておかねばならない。「術」とは、臣下・部下の操縦術、掌握術であり、功利的行動を人がとり、それゆえ「人を信ずれば、人に制せらる」という教訓から導き出されたものであった。

韓非子』内儲説上篇に「七術」篇があり、そこで七種類の操縦術を開陳している。

  1. 多くの手がかりを集めてそれを突き合わせて総合的、実証的に判断する。
  2. 威厳をもって、必罰をおこなう。
  3. 能力を発揮させるために、然るべき者に恩賞を与える。
  4. 個別に分離独立して意見を聴取し、実績に従って結果責任を問う。
  5. 不可解な命令や態度をわざとして、臣下を疑心暗鬼にさせ、また臣下をそれで試す。
  6. 知らないふりをして、質問して、どう応えるのか観察する。
  7. 意図することの逆のことを言ったりしたりして、相手の反応を見る。

右にいう「信賞必罰」「実物証拠主義」は、改めていうまでもなかろう。[中略]

徹底した人間不信は、なんといっても(5)(6)(7)であろう。「七術」に挙がる具体例はこんな例である。

県の長官であった龐敬は、市の役人を視察し、責任者を呼び出した。しばらく立って対面していたが、別に何も命令せずにそのまま帰した。役人たちは、長官と自分たちの責任者が何か自分たちのことに関して話し合ったに違いないと疑心暗鬼になり、何もしないでも統制がきいた。[中略]

不可解な命令を出し、疑心暗鬼にさせるこれが例である。

韓の昭侯は、爪を切手そのひとつを自分で隠しておき、部下たちにはなくしたといって探させた。ある者が自分の爪を切って、それをなくした爪だといって差し出した。昭侯はそれで誠実な部下と不誠実な部下を見極めた。

「知らないふりをして、部下を試す」という例である。

第一には、法律を準則としてそれに忠実に乗っ取る、刑罰と徳を運用における推進力とする。第二には、為政者個人の資質に過度な期待をせず、権威・地位という装置の上で、臣下を掌握する術を会得して政治をおこなう、そうすればどんな凡人君主でも一定の成果をあげることができ世の中の安寧秩序は達成できる。これが韓非の政治論であった。

出典:冨谷氏/p148-150

  • 「刑罰と徳」の徳とは、儒家の言う道徳のそれではなく、「アメとムチ」のアメに近い。

もうひとつ、「形名参同術」について。

もともとの形名参同術を発案した人物は申不害。この人物と形名参同術については記事の 《申不害の節》 に書いた。

韓非子』はこのアイデアを採用したのだが、『韓非子』の指向に合うように改変している。

韓非子は先輩の申不害から、形名参同術の理論を導入したのだが、韓非子は術的法や厚賞厳罰、君主の権勢などを、形名参同術と密接に結合する形に理論を進展させている。こうした操作によって形名参同術は、形名術に委ねれば自動的に臣下を督責でき、君主は賢智を用いた煩雑な判断をせずに無為でいられるといった申不害の段階から、法と賞罰による威嚇を背景に、より積極的に君主権への絶対服従を強制する段階へと、その威力を増大させたのである。

出典:浅野裕一/雑学図解 諸子百家/ナツメ社/2007/p264

形名参同術については『韓非子』揚権篇に書いてある。

法術思想の矛盾

以下は浅野裕一氏の見解。

法術の士について。

韓非子は、「智術の士は、必ず遠見にして明察。明察ならざれば、私を燭(てら)すこと能わず。能法の士は、必ず強毅(きょうき)にして勁直(けいちょく)。勁直ならざれば、姦を矯(ただ)すこと能わず」(『韓非子』孤憤篇)と、いかなる誘惑にも乗らず、どんな迫害にも屈せずひたすら君主と国家の安泰のみを願って闘い続ける、法術の士の存在を強調する。また法術の士のパートナーとして、法術の士の価値を認め、要職を占める重臣たちの妨害を排除して、彼の意見を採用する名手の存在をも記す。

国家の要職を占める重臣たちは、その権力を悪用して、さまざまな陰謀をめぐらす。いかにも国家や君主のためにしているかのように見せかけながら、その裏では私腹を肥やし続ける。[中略]

だが法術の士は、どんなに利益を餌にみせられても、決してつられたりはしない。どんなに脅迫されても、決してひるんだりはしない。法術の士は、自分の利益には目もくれず、命を落とす危険も顧みない。[中略]

法術の士が活躍するためには、その価値を高く評価して任用してくれる君主が必要である。そうした君主を韓非子は「明主」とか「明王」と呼ぶ。明主と法術の士。韓非子によってこの二種類の人間だけは、曇りなき叡智を備え、欲望に目が眩(くら)まず、恐怖にたじろがず、決然として国家の前途に深謀をめぐらす、純粋な仕事師、ピューリタン的人間として描かれる。だがそうした人間が出現する保証は、実はどこにもない。

出典:浅野氏/p266-268

韓非子』難勢篇において、堯・舜のような聖人も桀・紂のような暴君も千世に一度しか現われず、他の君主は彼らに比べれば平凡な君主たちで、その凡主たちでも国の秩序を保てるようにするために「勢」という概念を編み出した慎到に賛同している。

しかし『韓非子』は上の引用のように「明主」を求めている。

韓非子は、現実の暗さに目覚めよと説いて、偶然の幸運に頼る統治を甘美な幻想として退け、一貫して「必然の道」(『韓非子』顕学篇)を追い求めた。だが韓非子の鋭い理論も、実はその根柢に、明主と法術の士の出現といった偶然性に一切を託さんとする、大いなる幻想を宿していた。理想主義者の魂を現実主義者の仮面と衣装で演じ続けようとしたところに、韓非子の思想の、そして韓非子の人生そのものの悲劇が存在したのであり、彼もまた地上のあまりの暗さに耐え切れず、架空の幻夢の中に、己と世界を救済しようとしたのである。

出典:浅野氏/p268

手厳しい。

韓非子』は現代においても利用されている思想書なので、単なる幻想・妄想の類いのアイデアではないことは確かだ。



法家(5)韓非子(「法」)

今回は『韓非子』の「法」について。

法家の思想は法によって世の中を治めようという政治思想だ。そしてこの「法」とは成文法のことで、文書化して世に示して人々に従わせることを基本とする。

これを前提として、『韓非子』の「法」の目的とはどういうものか?

「法」の目的

第一は、法令を無視して私的権力の拡大を狙う重臣を摘発・排除し、君主権の強化を実現することである。第二は、法や賞罰によって、民衆の価値基準を農耕と戦闘にのみ統一し、富国と強兵を実現することである。第三は、法治により犯罪を防ぎ、社会秩序を維持して、民衆すべてに安全な社会生活を保障することである。

出典:浅野裕一/雑学図解 諸子百家/ナツメ社/2007/p258

上の目的は法を君主の名のもとに公布することを前提とする。法を破ることは君主の命令に背くことを意味する。簡単に言えば以下のようになる。

「第一」の目的は君主権の強化
「第二」の目的は富国強兵
「第三」の目的は治安維持 *1

「第一」の目的の考えは、申不害と慎到の思想に影響されたと考えられている。この中には、重臣(大貴族)の政治・行政の裁量権を制限することで彼らの権力の源を縮小することも含まれる。これも君主権の強化につながる。

ただし申不害と慎到は法の客観性・中立性を強調し、君主の恣意的な法の運用をも戒めている。そうすることで君主が暗愚の場合でも法によって国の秩序が保つことができる、というのが両者の主張だ。

「第二」の目的の考えは、商鞅の思想に影響されたと考えられている。

商鞅の考え方の中には、富国強兵の実現の他に、法を用いて君主の意思の実現という目的が含まれる。つまり、法は《君主の意思を実現するための誘導技術》 *2 ということになる。この考えは、上述した申不害と慎到の考えと対立する。韓非は商鞅の方の考え方に重きを置いた。

「第三」の目的については以下に新たに節を作って書いていこう。

刑罰について

さて、「第三」の目的、治安維持について。治安は刑罰によって維持する、とする。

刑罰については、冨谷至著『韓非子』(中公新書*3に頼る。

まず、時代と国境を超えた一般的な刑罰の目的は以下の3つ。

  1. 犯罪者に応分の罰を与える。応報。
  2. 犯罪者ではなく、将来の犯罪を防ぐための予防・抑止。
  3. 犯罪者の更生・教育。

そして『韓非子』の刑罰の目的は2番目の予防・抑止が唯一でありそれ以外は存在しない *4。 予防・抑止については「刑を以て刑を去る」(内儲説上・飭令)の他にも以下の文章が挙げられる。

いったい厳刑は、誰しもが畏れるもの、重罰は誰しもが嫌がるもの。したがって、聖人は畏れるものを公布して、邪悪を防ぎ、嫌がるものを設定して、悪事を予防した。だから、国が安定して暴乱が起こらないのだ。(姦劫弑臣)(冨谷氏/p113)

韓非子』の刑罰の特性について3つ。

  1. 刑罰はその法律の明文を認識させることで予防を期待するのではなく、厳刑の執行を人々に知らしめて、同様のことをしないようにさせることを期待する。
  2. 罪を犯した人間には、確実に刑罰を実行しなければならない。そうしないと予防効果が発揮できない。
  3. 「萌芽の措置」。大事件につながる小さな犯罪・違反に対して重刑を科す。大事件を萌芽の段階で未然に防ぐことを目的とする。 *5

以上が冨谷氏の解説。

韓非子 不信と打算の現実主義 (中公新書)

韓非子 不信と打算の現実主義 (中公新書)

現代中国まで続く『韓非子』の「法」思想

ところで、東洋史家・宮脇淳子氏によれば、中国の法律は現代に至るまで「見せしめ刑」だという *6

宮脇氏によれば、人口が多くなりすぎた中国において罪を犯した人間に確実に刑罰を実行することは無理なので、厳刑によって未来の犯罪の予防・抑止を期待する方法を採っている。だから賄賂に対する刑罰が死刑になるわけだ。これは現代でも変わらない。現代中国は「西側諸国」の法のシステムが違うことはこのブログで何度も書いてきた。

韓非子』の「法」の思想は現代中国まで受け継がれているが、全てそのまま継承されるとまではいかなかった。『韓非子』にも「時代が変われば、政治も変わらなければならない」という趣旨のことが書いてあるので、『韓非子』の思想の受容も代わって当然だ。



法家(4)韓非子(『韓非子』とは?/著者と時代背景)

この記事より『韓非子』について書いていく。

今回は、時代背景の話がメイン。荀子と韓非の関係について。

韓非子』とは?

韓非子』は法家を代表する書。この書は戦国末期の韓非によって書かれた(ただし後代の複数の人々の手も入っている)。『韓非子』には法家の先人たちの主張が盛り込まれており、法家の集大成と言われている。

内容については次回から何回かに分けて書いていく。

著者・韓非の生涯

韓非の生涯は司馬遷の『史記』「老子韓非子列伝第三」および「李斯伝」などによって伝えられているが、非常に簡略に記されているに過ぎない。『史記』によれば、出自は韓の公子であり、後に秦の宰相となった李斯とともに荀子に学んだとされ、これが通説となっている。なお、『韓非子』において荀子への言及がきわめて少ないこと、一方の『荀子』においても韓非への言及が見られないことから、貝塚茂樹は韓非を荀子の弟子とする『史記』の記述の事実性を疑う見解を示しているが、いずれにしろ、その著作である『韓非子』にも『戦国策』にも生涯に関する記述がほとんどないため、詳しいことはわからない。[中略]

荀子のもとを去った後、故郷の韓に帰り、韓王にしばしば建言するも容れられず鬱々として過ごさねばならなかったようだ。たびたびの建言は韓が非常な弱小国であったことに起因する。戦国時代末期になると春秋時代の群小の国は淘汰され、七国が生き残る状態となり「戦国七雄」と呼ばれたが、その中でも秦が最も強大であった。とくに紀元前260年の長平の戦い以降その傾向は決定的になっており、中国統一は時間の問題であった。韓非の生国韓はこの秦の隣国であり、かつ「戦国七雄」中、最弱の国であった。「さらに韓は秦に入朝して秦に貢物や労役を献上することは、郡県と全く変わらない(“且夫韓入貢職、与郡県無異也”)」といった状況であった(『韓非子』「存韓」編)。

故郷が秦にやがて併呑されそうな勢いでありながら、用いられない我が身を嘆き、自らの思想を形にして残そうとしたのが現在『韓非子』といわれる著作である。

韓非の生涯で転機となったのは、隣国秦への使者となったことであった。秦で、属国でありながら面従腹背常ならぬ韓を郡県化すべしという議論が李斯の上奏によって起こり、韓非はその弁明のために韓から派遣されたのである。以前に韓非の文章(おそらく「五蠹」編と「孤憤」編)を読んで敬服するところのあった秦王はこのとき、韓非を登用しようと考えたが、李斯は韓非の才能が自分の地位を脅かすことを恐れて王に讒言した。このため韓非は牢につながれ、獄中、李斯が毒薬を届けて自殺を促し、韓非はこれに従ったという。

出典:韓非 - Wikipedia

時代背景

上述したように、著者・韓非は戦国末期の人。彼が生きた時代は以下のような時代だった。

秦の独走が決定的になると、縦横家の口舌による外交はもはや無用のものとなり、戦国諸国では、国制の合理化が急速に進む。その帰結が秦漢専制国家である。現行の諸子百家の文献のほとんどは、この時期に成書したが、『管子』『司馬法』『周礼』『商君書』などは、来るべき理想国家のモデルを示すべく編纂されたものである。秦の相邦・呂不韋(?~前235)の『呂氏春秋』編纂など、思想統制の趨勢が現れ、儒家では孟子楽天的な性善説を否定する荀子(前340?~前245?)の性悪説が登場し、その弟子で法家の韓非子(前280?~前233)は、奸臣に騙せれない国君の心得に議論を矮小化した。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p56‐57(吉本道雅氏の筆)

戦国中期の諸子百家の全盛期と比べて、より現実的・合理的な風潮になっていったようだ。

韓非子』について《奸臣に騙せれない国君の心得に議論を矮小化した》というのは個人的には言いすぎだと思うが、吉本氏は戦国中期の思想に比べて面白みに欠けると思っているのかもしれない。

韓非の師匠とされる荀子も時代の影響を受けた一人である。

荀子の影響について

韓非 - Wikipedia》に「荀子の影響」という説がある。そこからの引用。

韓非の思想への荀子の影響については諸家において見解がやや分かれる。

  1. 貝塚茂樹は韓非と荀子の間に思想的なつながりは認められなくはないが、商鞅や申不害らからの継承面の方が大きく、荀子の影響が軸となっているとの見解ではない。
  2. 金谷治荀子の弟子という通説を否定はしないが、あまり重視せず、やはり先行する法術思想からの継承面を重視する。
  3. それに対し、内山俊彦荀子性悪説や天人の分、「後王」思想を韓非が受け継いでおり、韓非思想で決定的役割をもっているといい、その思想上の繋がりは明らかだとしている。したがって内山は荀子の弟子であるという説を積極的に支持している。なお「後王」とは「先王」に対応する言葉で、ここでは内山俊彦の解釈に従って「後世の王」という意味であるとする。一般に儒教は周の政治を理想とするから、「先王」の道を重んじ自然と復古主義的な思想傾向になる。これに対し、荀子は「後王」すなわち後世の王も「先王」の政治を継承し尊重すべきであるが、時代の変化とともに政治の形態も変わるということを論じて、ただ「先王」の道を実践するのではなく、「後王」には後世にふさわしい政治行動があるという考え方である。

出典:韓非#荀子の影響 - Wikipedia

「先王」というのは堯舜や西周の初期の王を含む儒家が聖人として崇めている伝説上の王たちのこと、「後王」は春秋戦国時代で「現実に努力した王」 *1 たちのこと。

性悪説」で大事なことは、「人間は生まれながらに邪悪な心を持っている」という論ではなく、「生まれたての赤子は欲望むき出しの行動をする」という意味。荀子の言う「悪」とは「人の性は、生まれながらにして利を好むこと有り」(『荀子』性悪篇)、つまり欲があることで、これを矯正せずに放置しておけば、他人に危害を加えることとなる、だから教育が必要だ、というのが「性悪説」の考えだ。

そして荀子の場合の教育は「礼」だ。これに対して、韓非は「法」を教育して遵守させようと考えているのだが、この部分を除けば韓非は「性悪説」を認めていると言えるかもしれない。「性善説」論外だ。

「天人の分」とは、天(=自然現象。天災など)と人間との間には相関関係は無いとする説。当時は天命思想とか天人相関説など天(=自然現象。天災など)と人間との間には相関関係があるとする風潮が流行していた。 *2

荀子は占卜などのオカルト(当時は科学だと思われていた)も無駄なことだと主張した。

韓非もこれらと同意見で、卜占に関しては例えば以下のように言っている。

越王勾践(こうせん)は、国宝の亀を使った占いを恃(たの)みとして、呉と戦って敗退し、臥薪嘗胆の日々を送ることになる。以後亀などは棄ててしまって、法律を明確にし、人民の支持を得て呉に復讐を遂げた。(『韓非子』飾邪)

出典:冨谷至/韓非子中公新書/2003/p85-86

また天(自然現象)と人間の関係については語る必要があるどころか《正面から論ずるに足らない命題でしかなかった》*3

これらを見れば、韓非は荀子に影響を受けたと言えるようだ。ただし、韓非は当時の風潮(の一部)に従っただけなのかもしれない。まあ、こういうことを疑い出すと切りが無い。

(荀子については記事 《儒家(6)荀子》 に書いた。)