歴史の世界

古代ギリシア 前古典期③(交易・植民都市・軍事)

地中海の交易はフェニキア人が先行していた。ギリシア人は彼らから多くを学んで後を追った。文字もその一つだが、交易も植民都市の建設も先行した彼らから学んだはずだ。

交易

ギリシアの輸出品はオリーブ油とブドウ(ワイン)などの農産物や土器、それと傭兵だった。傭兵については、エジプト第26王朝の初代ファラオプサメティコス1世(在位: 前664-前610年)が雇ったとされる(ただし記してあるのは前5世紀のヘロドトス『歴史』)。ギリシア人の傭兵はペルシアでも活躍していた。

主な輸入品は、金属(鉄・銅・錫など)。当然武器を作るのに必要 *1。 他にも色々あるが、植民した土地の原住民を奴隷として輸入したらしい *2

植民都市

先行するフェニキア人が地中海の西南に植民したのに対し、ギリシア人は地中海北岸と黒海沿岸に植民した。

出典:フェニキア - Wikipedia

古代ギリシアの歴史に黒海沿岸の植民都市の話はあまり出でこないと思うが、北方騎馬民族スキタイ人の歴史に登場する。

ギリシア人が植民をする主な理由は、人口増加だった。前古典期初期に激増したのだが、彼らを賄う食糧が足りなくなった(ギリシアの土地は山がちな上に地味に乏しい)。

他の理由としては、交易の拠点となる都市の建設だ。

古代ギリシア人は2つの全く違った方法で植民を行なった。1つはギリシア人によって建設された、永久的な、独立した都市である。そして他方は、emporia(エンポリア)と呼ばれる、ギリシア人・非ギリシア人双方が居住した商業都市で、産業的、商業的に重要視された。後者の例としては、東方のアル・ミナ(英語版)、西方のピテクサイなどが挙げられる[35]。

出典:アルカイック期 - Wikipedia

交易の拠点都市は上記以外にはエジプトのナイルデルタに建設されたナウクラティスがある (ナウクラティス - Wikipedia参照)。

軍事(重装歩兵と密集陣形)

ギリシア人がオリエントで傭兵として活躍していたことは上記した。北方人出身のギリシア人はオリエント人よりも良い体格を持っていたのかもしれない。

古代ギリシアのポリス(都市国家)の兵力は職業的な軍人や、国民皆兵的な徴兵制度ではなく、ポリスの市民が義務として武器を自弁して武装し、ポリスの防衛に当たるものであった。はじめは馬を所有する上層の平民である貴族がポリスの防衛の中心となっていたが、手工業が発展し、貨幣経済の浸透によって武器の価格が下落すると一般の平民も武器を自弁し、歩兵として国防に参加するようになった。彼らは動きやすい鎧と甲、大きな楯を持ち長い槍を使ったので重装歩兵(ポプリーテス)と言い、その戦術は盾を揃えて密集部隊(ファランクス)を組んだ。この重装歩兵密集部隊(ポプリーテス=ファランクス)がポリス市民軍の中核としてポリスの防衛に活躍するようになって平民の地位を向上させ、市民の成長が実現していった。

出典:世界史の窓/重装歩兵・密集部隊

密集陣形で戦う戦術と対比されるのがゲリラ戦術だ。

密集隊戦術は明らかに平坦な戦場向きであって、起伏のある地には適していない。それにもかかわらず、長いあいだもっぱらこの戦術がとられつづけ、山がちの土地にふさわしい軽装兵によるゲリラ的戦術が採用されるのは、ようやく前5世紀末のことであった。この執拗なほどの密集隊戦術へのこだわりは、ギリシア人にとって市民共同体としてのポリスの秩序維持が最優先課題であったからなのかもしれない。

出典:ギリシアとローマ/p92

ゲリラ的(遊撃)戦術は、密集隊戦術に比べて段違いに高い戦術と訓練のレベルを必要とした。さらにこの戦術は逃亡の可能性が高くなる。



*1:桜井万里子他/世界の歴史5 ギリシアとローマ/中央公論社/1997/p63

*2:同著/p82