前回からの続き。
狭義(?)のスキタイ人
前々回に引用したものを再掲。
前7世紀から前3世紀にかけて黒海北岸の草原地帯を中心として成立した騎馬遊牧民族スキタイの文化。史上最古の騎馬遊牧民の文化の一つとして知られる。広義には,スキタイと同時代に北方ユーラシアにひろまった同様の騎馬遊牧民族の文化をも〈スキタイ文化〉と呼ぶ場合がある。
オリエント世界の記録で言及されている集団は前者。本来、スキタイ人といえばこっちを指す。
今回はこのスキタイ人について書いていく。
先スキタイ時代
スキタイ人がオリエント世界に現れる前の時代は先スキタイ時代と呼ばれる(前9世紀~前8世紀)。この時代区分は正確には黒海北岸・北カフカスのもので、そこはスキタイ人の本拠地だった。
先スキタイ時代のこの地域の遺跡では、東方の青銅品と極めて似ているものが出土している。すなわち、(狭義の)スキタイ人が登場する前に、(広義の)スキタイ人(東方のスキタイ系文化を持つ騎馬民族)がこの地域に到来していたことを意味する。少なくとも文化は伝播していた。
旧来は先スキタイ時代の遺跡群はキンメリア人のものだとされてきたが、現時点ではそれらとキンメリア人を結びつける確かな証拠は無いとされている。(ここらへんのことは私は全く理解していないのでこれ以上言及しない)
スキタイ人の到来
『アッシリア碑文』においてスキタイはアシュグザあるいはイシュクザーヤと記される(紀元前7世紀)。
アッシリア王エサルハドン(在位:前681年 - 前669年)は、マンナエの地(現:西北イラン)でマンナエ軍とマンナエを救援するためにやってきたアシュグザ国(スキタイ)王イシュパカーの軍を撃ち破った。その後、イシュパカーは前673年頃アッシリアによって殺される。ところがその翌年、エサルハドンは自分の娘をイシュクザーヤ(スキタイ)の王バルタトゥアに与えて結婚させ、同盟関係となる。
アッシリアのスキタイ人に関する記録はここで途絶える。そしてこの後のスキタイ人の記録はヘロドトス『歴史』に頼ることになる。
ヘロドトスは前5世紀の人物でそれより前の時代の記述は、司馬遷『史記』と同じように、信憑性をどの程度と考えてよいのか分からない。専門家でも重きを置く人もいればそうでない人もいるらしい。
ヘロドトスによれば、スキタイが(西)アジアを28年も支配したとしている。個人的にはハナから信じないでスルーしたいところだが、専門家は多少の差はあれども考えはするようだ。
そしてヘロドトスによれば、28年後にメディア人によって(西)アジアを追い出されて故郷に帰ったということだが、この故郷(本拠地)は、考古学に照らし合わせて北カフカスだという(雪嶋宏一『スキタイ』/p91-92, 113-127)。
ここまでの状況が、ざっくり言うと前7世紀。
(続く。)