歴史の世界

最初期の騎馬民族 その1(騎馬民族について/キンメリア人)

今回は騎馬民族について。

騎馬民族について

以前にも書いたが、騎馬民族の「騎馬」は乗馬という意味の他に、騎乗で戦闘する意味も含む。

騎馬戦術を用いて農耕地帯を略奪するか、または征服、あるいはそこへ移住した多くの民族の総称。[以下略]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/騎馬民族とは - コトバンク

  • 戦闘時の馬の利用は、騎馬が登場する前はチャリオット(二輪馬車)だった。騎馬戦術は、古代・中世では、戦闘の中で重要な要素(近世から近代にかけて火器が次々と発明されて騎馬戦術が劣勢になっていく)。

  • 女真族(後の満洲族)のように元々狩猟採集民だった民族も騎馬民族に含まれるとあるが、基本的には遊牧民騎馬民族の主流。

騎馬民族の起源:キンメリア人とスキタイ人

騎馬民族の最初期の民族として言及されるのはキンメリア人とスキタイ人だ。

文字史料として最初に登場するのはキンメリア人なのだが、この勢力の考古学的証拠(遺物)だと限定できるものがほとんど無いため、スキタイ人が最古の騎馬民族のように書かれることが多い。

スキタイ人については遺物が豊富に出土しているため、それらを使ってスキタイ人および騎馬民族の編年表が作られている。

林俊雄氏の主張では、ユーラシアステップの広範囲で、スキタイ人の文化に近いものが発見されていることから、これらをスキタイ文化と呼び、それらの文化の民族を《スキタイ人と呼んで間違いではなかろう》と書いている *1

以下では、まずキンメリア人について書き、スキタイ人については次回書くことにする。

キンメリア人

騎馬民族の最古の例はキンメリア人。ただし、キンメリア人の史料と考古学的証拠はごくわずかだ。

「キンメリア」という呼称は古代ギリシア人がつけた名で、自称は伝わっていない。最初に記録されているギリシア文献はホメロスの『オデッセイア』だが(同時代とされる)、「冥界(ハデス)への入り口を守護する人々」のような書き方で、実情を伝えていない。

他のギリシア文献だと、ヘロドトス『ヒストリアイ(歴史)』やストラボン『地理誌』があるが、ヘロドトスは前5世紀、ストラボンは前1世紀の人だ。ただし、だからといって全く当てにならない史料だと言うことではないらしい。専門家はギリシア文献と他の史料や考古学的証拠と照らし合わせる作業を行なっている。

同時代史料としてはアッシリアのものがある。アッシリアの史料で「ギミッラーヤ」と呼称される勢力を、現在ではキンメリア人と比定されている。

これによると、「前714年頃、ギミッラーヤがウラルトゥの王を破ったという情報がアッシリアにもたらされた」というのが最古の記録だ *2。ギミッラーヤは断続的にアッシリアの領地に侵入、略奪した。

当時のアッシリア及びオリエント世界の勢力は騎馬戦術を知らずチャリオットで戦ったわけだが、相当手こずったようだ (キンメリア人#アッシリア史料における「ギミッラーヤ」 - Wikipedia 参照)。

ギリシア文献によれば、キンメリア人の本拠地は黒海北部(現在のウクライナ平原あたり)とのこと。様々な異論があるが、あるが考古学的証拠から黒海北部説もあるということで、ここでは一応黒海北部ということで話をすすめる。

青木健氏によれば、キンメリア人がアッシリア及びリュディア(小アジア)に攻め込んでる隙に、スキタイ人黒海北部に侵入され、キンメリア人は小アジアに遷らざるを得なくなった。そして前630-620年代にスキタイ人にさらに追撃されて滅亡してしまった *3

滅亡のもう一つの説として、林氏によると、紀元前7世紀の終わり頃、キンメリア軍はリュディアの王アリュアッテスに敗れ、その姿をほぼ消した。(p94)

青木氏によれば、キンメリア人の古墳とされたものは「スキタイ人以前のものなら、キンメリア人の古墳だろう」という推論でしかないと書いている *4。 ただ、キンメリア人はイラン・アーリア人系の民族だっただろうと思われている。



*1:林俊雄/スキタイと匈奴 遊牧の文明(興亡の世界史)/講談社学術文庫/2017(2007年に出版されたものの文庫化)/p131

*2:キンメリア人 - Wikipedia

*3:青木健/アーリア人講談社選書メチエ/2009/p27

*4:青木氏/p26