前回からの続き。
今回はスキタイ人の話。
「スキタイ」という呼称について
「スキタイ」という呼称はギリシア語。ペルシア語が「サカ」が転化したものとされる。青木建『アーリア人』(p28) *1 によれば、彼らの自称も「サカ」だったらしい。
スキタイ人と同時代にサカ人という騎馬民族がいた。文化的な差異は少ないので大きく見れば同種なのだが、歴史の中では地域的・時代的な違いも考えて彼らを別の民族とみなして語られている。
キンメリア人よりも多く語られるスキタイ人
スキタイ人はキンメリア人の次に歴史に現れたとされる騎馬民族だが、キンメリア人の物的証拠がほとんど無いのに比べてスキタイ人の証拠(遺跡など)はユーラシア・ステップに広く、たくさん遺っている(オリエント世界だけではない)。
そういうわけで、最古の騎馬民族が語られる時、キンメリア人の話はほとんどされずに、スキタイ人が展開されるわけだ。
広義(?)のスキタイ
前7世紀から前3世紀にかけて黒海北岸の草原地帯を中心として成立した騎馬遊牧民族スキタイの文化。史上最古の騎馬遊牧民の文化の一つとして知られる。広義には,スキタイと同時代に北方ユーラシアにひろまった同様の騎馬遊牧民族の文化をも〈スキタイ文化〉と呼ぶ場合がある。
引用の前者の話もするが、まずは後者のスキタイ文化の話からしていく。
スキタイ文化(考古学の見地から)
林俊雄『スキタイと匈奴』 *2 に「スキタイ系文化」の編年表が載っている。「系」をつけたのは、黒海北部のスキタイ文化との区別した書き方。
ただし、同書では以下のようにも書いている。
ギリシア人がスキタイと呼んでいるものとペルシア人がサカ(サカイ)と呼んでいるものとは同じだとするヘロドトスの解釈は、おそらく正しいだろう。南方の定住地帯に住む人々は、北方の草原地帯に住み同じような文化を持つ騎馬遊牧民をスキタイとかサカなどと総称したのであろう。とすれば、同じ言語を話し、同じ人種に属していたかどうかとは関係なく、西は黒海北岸から東は中央アジア、さらにアルタイ、トゥバを越えてモンゴル高原に至るまで、文化的に近い騎馬遊牧民をスキタイと呼んでも間違いではなかろう。
出典:林俊雄/スキタイと匈奴 遊牧の文明(興亡の世界史)/講談社学術文庫/2017(2007年に出版されたものの文庫化)/p131
さて、編年表に話を戻す。
スキタイ系文化より600~700年早い時期、前1500年頃(小アジアでヒッタイトが栄えた時代)にユーラシアステップの西からスルブナヤ文化―アンドロノヴォ文化―オクニョフ文化 *3 がある。
この次にカラスク文化が書かれているが、ユーラシアステップ東部のみらしく、その西側は空白になっている(年代は上記と下記の文化のあいだ)。
そして前9世紀中盤からスキタイ系文化が始まる。
ただし、黒海北岸地域の「先スキタイ期」は少し早く、前900年頃に始まっている。林氏の論によれば、「先スキタイ期」も大きくはスキタイ文化(またはスキタイ系文化)になるだろう。
ここでスキタイ文化の起源が黒海北岸なのではないかと思える。以前は専門もそう考えていた。しかし、1970年代からユーラシアステップ東部での遺跡調査が行われるようになり、東方起源説の証拠が多く出土するようになった。
考古学の遺物の評価・鑑定の話は私には分からないので、以下の結論の部分だけを引用する。
馬具と武器に関しては,ユーラシア草原地帯の東部と西部でほぼ同時に登場しているが,スキタイのスキタイたるゆえんである動物文様は,東部の方が(100~200年ほど)早いと言わざるを得なくなった。
初期スキタイ美術こそ,よそからの借り物でない,スキタイ独自のものである。北カフカス,黒海北岸にスキタイ動物文様が出現するより以前に,南シベリアの一角に早くも初期の動物文様が現れていることから,スキタイの東方起源説が一気に有利になったのである。武器や道具は誰でも利用しようとするために,普及・伝播が早く,特定の地域,一つの文化だけに限定されることが少ない反面,直接役に立たないデザインや文様には,各文化の個性や好みが色濃く反映されているからである。
遺物だけみると、東部の遺物は西部より古いものが発見されていないようなのだが、それでも引用の理屈で東方起源説が有利となっているらしい。
(続く)