歴史の世界

最初期の騎馬民族 その3 (権力の階層化)

前回からの続き。

中国文明との交流/騎馬民族の形成

前9世紀半ばごろは,世界的な気候変動期にあたり,乾燥期から湿潤期への移行期間に相当する。半砂漠だったところが草原に変わり始めた。また,西アジア鉄器時代に入っていたが,草原地帯には鉄器は浸透していない。しかし,青銅器の生産においてはかなり高度に発達し,すぐれた武器や馬具の生産が可能となっていた。さらに西周時代の中国との交流も始まっていたようで,軍事力を有する騎馬遊牧民が形成されていったと考えられる。モンゴル草原で発見された大型ヘレクスル(注2)の遺跡は,まさにこのような騎馬遊牧民の発展を象徴する造営物とみなすことができよう。

注2 モンゴル高原から北方のブリャーチヤ,トゥバ,アルタイ,さらには西方の天山山中などに分布する。積石塚と方形あるいは円形などの石囲いからなり,鹿石を伴うこともある。モンゴル人は一般に「ヒルギスフール」(キルギス=クルグズ人の墓)と呼ぶが,19世紀にそれを聞いたロシア人研究者が「ヘレクスル」と表記したために,それ以来,考古学上はその名称で呼ぶようになった。ヘレクスルは,方形の石囲いが一辺200メートル,中央の積石塚の高さが5メートルに達する大きなものから,石囲いの一辺あるいは直径が10メートル前後の小さなものまである。

出典: 林 俊雄(創価大学教授)/ユーラシア草原の遊牧文明とその歴史的役割 *1

  • ヘレクスルは積石塚だが古墳といったほうが個人的にはイメージが湧く。

スキタイと言えばオリエント世界の民族と考えていたが、騎馬民族の起源(というか騎馬戦術の起源)はユーラシアステップ東部の遊牧民中国文明の交流の中で生み出された可能性に言及している。これは興味深い。

ただ、「前9世紀半ばごろ」は気になるところ。黒海北部の「先スキタイ期」が前900年頃ということなので、騎馬民族の形成の過程をどのように想定しているのかが気になる。 とりあえず、「騎馬民族の形成は前9~前8世紀に起こった」と少し広めにスパンを取れば問題は無いだろう。

いまさらだが、騎馬民族の誕生はスキタイ系文化の中で起こったということになる。林氏は直接書いてない(と思う)が、多分そうなのだろう。

ヘレクスルは積石塚で、これは日本の古墳をイメージすればいいと思う。遊牧民はもともと積石塚を造る文化を持っており(クルガンと呼ばれる)、スキタイ文化の人々が中国文明と接して従来の積石塚からヘレクスルという新しい形を創造したのだろう。

モンゴル高原:権力の階層の形成

このヘレクスルでは馬の骨が多数出土している。これは犠牲として捧げられたものだが、何かしらの祭儀が行われたのだろう。そして祭儀に参列した人数はその犠牲の数から推測することができる。

林氏が発掘調査・研究に関わったモンゴル高原のオラーン・オーシグ山の近くの高原にあるヘレクスルでは、200-300人の人々が集まった可能性があると書いている。広大な草原の中でこれほどの人数を集めることができるのはそれなりの権力者だとのこと *2

また、この遺跡には大中小の複数のヘレクスルがあり、身分の階層化が示唆されている。すでに権力構造が形成されていたのだろう *3*4

以下は年代について。

多くの馬を飼うことのできる権力者が紀元前10世紀ごろには存在していたことを立証するものである。中国の時代でいえば,西周時代の初期に当たる。ただし,これら紀元前10世紀ごろの馬には馬具がけられていない。

また,モンゴル高原遊牧民集団の文物が中国側の資料や発掘品の中にも類似品が見つかっているほか,逆に中国のものが北方高原やアルタイ地方からも出土しているので,相互の間に青銅器の交流があったことは確かである。さらにさかのぼって殷代の後半ごろ(前12世紀ごろ)から交流はあったと思われる。

出典:ユーラシア草原の遊牧文明とその歴史的役割

また、林氏が関わったものではないが、モンゴル中西部のジャルガラントにある遺跡では2千頭を下らないと思われる馬の犠牲の骨が見つかっている。これより、万単位の祭儀の参列者が想定され、林氏は《前9世紀ころ、モンゴルの草原に騎馬遊牧民のおおきな権力が生まれたことを意味するだろう》(p42)と書いている。

東から西へ

『スキタイと匈奴』の第4章(草原の古墳時代)では、古墳の傾向が東から西に伝わっていく様相を描き出している。

この章ではヘレクスルという用語が使われていないが、おそらく「ヘレクスル≒古墳」で合っているだろう。

古墳の埋葬者が全て王であるわけではないのだが、そもそも騎馬民族の王というものがどのようなものかも問題なのだ。

林氏自身は前800年前後とされるアルジャン古墳(モンゴル高原*5 は「王墓」と考えている。鉤括弧「」をつけているのは多少ためらいがあるからだ。

とりあえず、王と呼ぶかどうかは別として、首長や高貴な権力者たちの墓が東から西へと造られていった。

そしてようやく、オリエント世界の定住民たちがスキタイ人の存在を文字に遺すようになる。

(続く)



*1:林俊雄『スキタイと匈奴』の一部を要約したもの

*2:林俊雄/スキタイと匈奴 遊牧の文明(興亡の世界史)/講談社学術文庫/2017(2007年に出版されたものの文庫化)/p40-41

*3:p42

*4:セム系部族社会の形成:ユーフラテス河中流域ビシュリ山系の総合研究》に概要がある(カラー写真つき)。

*5:ロシア連邦の一部のトゥバ共和国