歴史の世界

アケメネス朝ペルシア帝国 その1 「ペルシア」とは何か?

オリエント世界を統一したアッシリア帝国の滅亡後は4つの王国が分立していた。

これから話すペルシア帝国は、上記のうちのメディア王国の従属国だったが、これを滅ぼし、最終的にオリエント世界全土を併合した。

このブログでは、ペルシア人が歴史に登場した時期に遡って話を始める。

ペルシア人の登場

ペルシア人はインド=ヨーロッパ語族の言語を話すインド・アーリア系の民族。

文字情報のペルシア人の最古の記録は、新アッシリアのシャルマネセル3世の年代記が記されている『黒色オベリスク』。これは前825年に建てられたもの。

アッシリア王シャルマネセル3世(紀元前858年-紀元前824年)の碑文によれば、紀元前843年のディヤーラー川の源流域とザグロス山脈の中の地域への彼の軍事遠征によって、パルスアの国土と都市は破壊された。次に紀元前835年に、同じ地域にもう一度遠征していた際に、27人のパルスアの王達が、自発的にシャルマネセル3世に貢納してきた。[以下略]

出典:パルスア - Wikipedia

ペルシア人の語源は上記の「パルスア」(Parsua、初期の表記はParsuashまたはParsumash)が転化したもの。地名から民族の呼び名がついた。青木健『ペルシア帝国』 *1 によれば、彼らが住んでいたこの地は、古くはシュメール語で「名馬の産地」を意味する「パラフシェ」と呼ばれていた。これがアッシリア語では「パルスアシュ」と呼ばれた(「パルスア」が何語かは分からない)。これがギリシア語に転化して「ペルシア」になった。

ペルシア人(と、のちに呼ばれる人々)は中央アジアから移動して前9世紀にこのパルスアに移住したと考えられている。イラン高原の西北部にあたるこの地は何度もアッシリアからの攻撃を受けて、ペルシア人を含む諸勢力はアッシリアに従属させられた。

ただし、イラン高原西北部には彼ら以外のイラン・アーリア人が次々と移住してきたのでペルシア人は押し出されてしまった(上述の『ペルシア帝国』によれば、前9世紀中には追い出された)。ちなみにこの地を最終的に支配したイラン・アーリア人がメディア王国を建国したメディア人。

さて、追い出されたペルシア人が行き着いた場所はイラン高原西南部のアンシャン。この地は古くから高度の文化・文明を持つエラム人が支配している土地でエラムの首都だったこともある *2エラムの王たちは「アンシャンとスサの王」を称した(スサは後代の首都)。しかし、この地は文明圏や交易ルートから遠く離れた不毛の土地だった *3 。上述のメディア人は土着民を同化したが、ペルシア人エラム人に(同化はされなかったものの)従属した。文化・文明の差があったからだ。

地名の話:「アンシャン」から「パールサ」→「ファールス州」

ここからは「ペルシア」という地名の話。

上述の通りペルシア人はアンシャンに住み着いた。地名により「パルスア人=ペルシア人」と呼ばれていた理屈からすれば、彼らは「アンシャン人」と呼ばれてよいはずだが、彼らは「ペルシア人」と呼ばれ続けた。ただし彼らの王は「アンシャンの王」と呼ばれる。

時代は下って前6世紀後半になり(ダレイオス1世の治世)、かつてのアンシャンの地が「パールサ」と呼ばれるようになった。これが中世ペルシア語で「パールス」、アラビア語形で「ファールス」、そして現代では「ファールス州」という地名となっている。

地名の話:「イラン」と「ペルシア」

「ペルシア帝国」というのは、アケメネス朝や のちのサーサーン朝が自称したものではなく、(古代)ギリシア人がそのように呼んだ他称だった。

古代ギリシアより知識を受け継ぐ欧米人は現在のイランに当たる地域を「ペルシア」と呼び習わし、中国や日本などもそれに倣っていた。

時代は下って20世紀に入り1935年、パーレビ朝(パフラヴィー朝)の初代皇帝レザー・シャーが「ペルシア王国」の国名から「イラン(イーラーン)帝国」に変更した。そして諸国に対してこれまでの「ペルシア」の代わりに「イラン」を使用することを要請した。

そして、やっと彼の地はペルシアではなくイランとなった。ただし、イラン人の話す言語は「ペルシア語」だ。


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