歴史の世界

アーリア人について その2

前回からの続き。

前回は「アーリア人」という用語が人種差別に結び付けられた話を書いたが、今回は現在の学術的用語としての「アーリア人」について書く。

学術的用語としての「アーリア人

アーリア人」という言葉をナチス・ドイツが使ったので、後世にこの言葉がタブー視されたのだが、なんとか学術的用語として残った。

マックス・ミュラーという言語学者宗教学者が「アーリア人」という言葉を産み出したことは前回書いた。この言葉は学術用語の一つとして生き残ったのだが、同時に提唱した「アーリアン学説」は否定されている。

現在、この用語は、インド=ヨーロッパ語族を話す人々の中でインド・イラン語派の言語を話した人々を指す(インド・イラン人、Indo-Iranians と呼ぶ人のほうが多いかもしれない。ヨーロッパ人は含まれない)。

インド・イラン語派 - Wikipedia》 によれば、この言葉の《原郷》はシンタシュタ文化(カスピ海の北東。前2100-1800年)と考えられている *1

そしてこの文化の遺跡で二輪の戦闘用馬車(チャリオット)が発見され、ここがチャリオットや車輪のスポークの発祥の地とも考えられている(異説あり)。

このチャリオットで文化や言語の拡大が成されたと言われる(侵略かもしれないし、交易または文化の受容かもしれない)。

シンタシュタ文化の後継の(または同文化を初期に含む)アンドロノヴォ文化は四方に広がった。

アンドロノヴォ文化から騎馬民族の誕生(キンメリア人やスキタイ人など)までの過程は分からない。言語学・考古学など各分野でも定説は無いようだ。ただし、この過程の中にアーリア人の誕生は有る。

ミタンニがイラン系と主張されることもあるようだ。ミタンニは前16世紀初頭にシリアの覇権を握った国でチャリオットを西アジアに導入した初めての勢力だ。

ミタンニがイラン系ではなくても、北方の遊牧民となんらかの接触(交易と戦闘)が有ったのだろう。そしてかれらの技術を獲得した可能性が高い。



*1:遺伝子情報によれば、この文化はインド=ヨーロッパ語族の《原郷》であるヤムナ文化系統と北ヨーロッパの縄目文土器文化(英語:Corded Ware culture、前2900~2400年)の系統の混合の系統とされる。