歴史の世界

戦国時代 (中国)⑮ 戦国時代までの貨幣の歴史について 前編

これから貨幣の歴史について書く。

この記事の多くの部分は以下の本を参考にしている。

重要な用語:互酬・再分配・交換

まず、一般的な用語について。

市(いち)
交易・売買取引のための会同場所。市場(いちば)ともいう。いろいろな形態の市が,古代から世界のほとんどの社会に認められる。K.ポランニーによれば,人間社会の歴史全体からみると,生産と分配の過程には,三つの類型の社会制度が存在しており,古代あるいは未開の社会から現代諸社会まで,それらが単一にあるいは複合しながら経済過程の機構をつくってきた。それらは,(1)互酬reciprocity 諸社会集団が特定のパターンに従って相互に贈与しあう,(2)再分配redistribution 族長・王など,その社会の権力の中心にものが集まり,それから再び成員にもたらされる,(3)交換exchange ものとものとの等価性が当事者間で了解されるに十分なだけの安定した価値体系が成立しているもとで,個人間・集団間に交わされる財・サービス等の往復運動,の3類型であり,それぞれの類型は社会構造と密接に連関をもって存在している。

出典: 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版/市(いち)とは - コトバンク

(1)互酬reciprocityは難しそうな用語だが、歳暮や中元を思い起こせば理解できるだろう。贈与し合うことによって互いの関係を認め合い、難事に助け合うことも期待し合うための行為。現代日本の歳暮や中元はほとんどが食べ物だが、先史時代の中国における互酬では玉や珠(じゅ、パール)のような希少品だった。共同体(集団)の長(おさ)どうしの互酬は同盟関係を表す証(あか)しになった。また互酬で得た希少品はステータスシンボルであった。

(2)再分配redistributionの目的は支配者が成員(手下、臣下)をコントロールするために必要な行為。互酬で得た希少品を成員に再分配していたことが考古学の成果で分かっている。

(3)交換exchangeは、物やサービス(労働)を交換し合う行為。これが一般的に認識される市場経済の一部だが、貨幣の誕生を語る場合、(3)交換だけではなく、上の2つも重要な役割を果たす。

先史時代

貨幣的なものが現れるのは殷代に入ってからだが、それより前に互酬や再分配は始まっていた。それを示す代表的なものが玉器だ。

玉器についてはこのブログでも書いている。たとえば

支配者間の玉器の互酬や集団内部での玉器の再分配の構造は下で紹介する貝の流動システムと同じだ。

殷代:貝と亀甲

子安貝は熱帯・亜熱帯の海域に分布する貝で、殷の中心部である黄河中流域においては子安貝は希少品であった。東シナ海子安貝が贈与品として殷に運ばれたとされているが、ルートを含む詳しいことは分かっていないらしい。

とにかく、子安貝や珠のようにステータスシンボルとしての役割を持ち、再分配された。

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出典:貝貨 - Wikipedia

子安貝は穴を開けて紐に通しされた状態が普通であった。殷代の甲骨文や西周代の金文などには「貝五朋」のように「朋」が単位となっているが、これは紐を通した複数の貝の象形である。

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出典:「朋」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習

まず殷代の支配者間で子安貝の「交易」「互酬」が開始されたであろうが、支配者間の互酬、神聖視が一段と進み、「朋」字に示されるような一定の単位での互酬が定着し、それが次第に価値表示の役割を果たした。こうして、古代中国では、実用性のあるものではなく、高い次元の神聖性を付与されていた子安貝こそが中国最初の物品貨幣(価値尺度となる品で貨幣的機能を有するもの)となった。このようにいえるであろう。

出典:山田勝芳/貨幣の中国古代史/朝日選書/2000/p17-18

山田氏は貝の他に亀甲も貨幣であったと主張する。ただし、貝のような確実な証拠はないようで、幾つかの状況証拠に基づいた推測だ。

西周

時代は下っていくと、貝貨は銅・骨・玉などでつくられた倣製貝(貝の形をしたもの)が支配者間で繰り返し交換(互酬・贈与)されて、やがてこれらが主要な貨幣的機能を有する「一般的等価物」となった。(山田氏/p20)

「一般的等価物」とは、ある物の価値を示す物差しとなる物のこと。例えば「A氏が持っている壺は金○グラムの価値がある」と言った時、金が「一般的等価物」の役割を果たしている。

山田氏は本の中で一つの例を挙げている。時代は西周後期の前11世紀、場所は西周の王都宗周鎬京を中心とする関中(陝西省渭水流域)。この時期のこの地帯は富が集中していて政治だけではなく経済も発展していた。

……そのため土地争いや紛争の解決を記録した長文の金文が存在する。その代表的なものが衛器と命名された青銅器4件であり、その金文には、諸侯が玉璋(玉でできた儀礼用品)と田土「十田」を交換するなどの内容がみられる。さらに、その田土が「財八十朋」に相当するともある。この衛器やその他の金文から推測される交換比率は次のようになる。

1玉璋=80朋=10田 20朋=3田 4匹良馬=30田
5人奴隷=1匹馬+1束絲(絹糸)≒100寽(りつ、銅地金の単位)

土地が「田」という一定の単位で把握され、それを実質的に売買している状況が明らかである。馬・奴隷もこのような売買を媒介するものとなりうるが、この中で最も抽象的・非実用的なのは朋の単位で表される貝であり、しかも「朋」はこの場合、価値表示のみであって、実際の貝を意味していない。なお、銅地金も重量単位「寽」で扱われて、かなり抽象的な価値表示機能を持ってきている様子もうかがわれる。(p21)