歴史の世界

中国文明:西周王朝① 西周王朝の先史/建国

これより周王朝に関する記事を書いていく。

まずはじめに先史、それから建国について。

先周文化

以下の地図は殷王朝後期の勢力圏と先周文化の位置を表す。

f:id:rekisi2100:20190110091529p:plain

出典:宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p348

先周文化は殷王朝の勢力圏の外に位置づけられているが、殷王朝の支配下に入っていたことは殷代の甲骨文資料により確認されている。

記録には「周侯」とあり支配下にあることが示されている。また「周入(納)十」のように周が占卜に使用する亀を貢納した記録も遺っている。一方で、「周方」は敵国としての周勢力を意味する。「撲周」つまり周を征伐した記録もある。

殷王朝の支配力は弱かったので、おそらく先周文化の勢力は、殷王朝に従ったり離れたりしていたのだろう。

竹内康浩氏は「先周文化は、殷文化の強い影響を受けつつ、しだいにそれから脱却していくなかで成立し、周辺地域の文化の影響も受けつつさらに形成されていく、複合的なものである」としている*1

竹内は殷文化と違うものとして暦と官職を例として挙げている。暦は殷が旬(じゅん。十干、十日)を単位にしている一方で周は月を四分する方法を採っている。官職は周初に重要な位置を占める「太保」というものがある。これは殷の官職には無い。

周原~周族の発祥地

史記』周本紀などの周の神話と考古学の最古の接点は周原という地に求められる。周原は西安長安)の西、関中平原西部の地を指す。この北部の岐山南麓に周原遺跡(遺址)と呼ばれる遺跡が発見されている。ここが考古学で確認できる周族の最古の都邑である。この都邑は周あるいは岐周、岐邑と呼ばれる。

史記』周本紀などの伝世文献には周族は以下のように書かれている。

周王国建国者・武王の曾祖父にあたる古公亶父の代は「戎狄の業の民」すなわち移動性非農業民(狩猟採集民または牧畜民、遊牧民)であったが、古公亶父が周原に移った時に定住性農業民となった。

詩経』大雅の緜という詩には、周原は土地が肥えていて生えている苦菜も飴のように甘いと書いている。

また「姜女」(姜族の妻)と共にこの地にたどり着いたとも書いている。神話上の始祖・后稷の母・姜嫄はおそらく姜族(という設定)であったし、武王の軍師・太公望呂尚姜族出身である。周族と姜族は同盟関係または婚姻関係だったようだ。

ともかく、周族はここ周原を拠点として勢力を拡大していった。

殷末の状況

上で古公亶父の話を書いたが古公亶父が実在したという考古学的資料は見つかっていない。古公亶父の末子で時代の君(王)である季歴については周公廟遺址の甲骨文に王季(季歴)に対する祭祀を占ったものが有り、実在したかもしれない(佐藤信弥/周/中公新書/2016/p20)。

伝世文献によれば、季歴の次代・文王は周原から移って豊(豊京)に都を建て、次の代の武王は鎬京に移った。

「豊」は渭河の支流である澧河の西岸に、鎬京は東岸にある。西安の近郊。

2つの遺跡は合わせて豊鎬遺跡(遺址)と呼ばれている。

澧河の西側が豊京、澧河の東側が鎬京であると伝えられるが、実際には澧河の両岸は西周末にいたるまで一体的な都市を構成していたようである。現在までに城郭は発見されておらず、大型の建築基址群も何カ所かで発見されているが、都市としての構成についてはいまだにあいまいな部分が多い。前漢武帝の時代に鎬京の地に昆明池を掘ったという話が伝えられるように、後代の攪乱が多いことも調査の障害となっている。

出典:中国の考古学/同成社/1999/p201(西江清高氏の筆)

また周原の話に戻る。周原の範囲の陝西省岐山県鳳雛村で西周の宮殿遺址が発見され、その遺跡から文字が書かれているものを含む甲骨が大量に発見された。これを周原甲骨を呼ぶ*2。この中の文字資料には殷王朝の王の名が含まれている。例えば成唐(湯王)、武丁、文武丁、帝乙 *3

さらに、周の文王と思われる人物が、それら殷王に対して祭祀を行っている。また、周の君については「王」の称号ではなく、「周方伯」と刻まれている。このことから殷末の、少なくとも文王代のある時期までは周は殷の支配下にあり、敵対関係ではなかったことが うかがえる。*4

言うまでもなく、伝世文献にあるような紂王(帝辛)の悪逆非道な振る舞いはフィクションだ。

しかし、その一方で、文王の代に周の勢力が拡大された証拠もある。

史記』周本紀によれば、《西伯に任じられた文王のもとに諸侯間の争いごとの調停が持ち込まれるようになり、文王は「受命の君」(天命を受けた君主)として信望が高まった。この頃から周の君は王と称するようになったという》(佐藤氏/p27)。

さらに引用。

史記』によれば、文王は犬戎、密須、耆国、邗をつぎつぎと討ち、さらに崇侯虎を討ったあとには豊京を建設して岐下より移り住み、その勢力を伸ばし、地盤固めをしている。『史記』のこの記述は無根拠なものではなく、先に触れた周原甲骨には「密」の討伐を言うらしい記事が見えているし、またあたかもこうした状況を繁栄するかのように、サイズ・文様などのほぼ等しい同時期につくられたと思われる青銅器(簋(き)と呼ばれる器種)が、いわゆる先周文化の地域に分布していることが明らかになっている。上述の時についての状況も合わせると、殷の末期、関中平原に、周を中心とした勢力圏が形成されていたことを示すようである。こうしたことを考えると、殷の末期、周は確かに勢力拡大をめざし、一方では殷に対して独自の動きをしていたとみられる。

出典:竹内氏/p177

しかし、文王または時代の武王が積極的に殷を打倒しようとする動機は、今も分からないままだ。

「克殷」~周が殷を倒した/周建国

「克殷」とは周が殷に勝った(殷に克つ=克殷)ことを示す。

周は文王から武王へ代替わりをして、武王が「克殷」の主人公だ。

周と殷の戦いは「牧野の戦い」として有名だが、竹内氏によれば、「何尊」という青銅器の銘文(金文)に《武王、すでに大邑商に克つ》とあることから、武王が殷の王都・大邑商に直接攻撃を仕掛けて滅ぼしたとしている(竹内氏/p178)。金文は同時代の資料なので、伝世文献よりも価値があるとされている。

「克殷」の年代は前11世紀後半と考えられている。



*1:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p174(竹内康浩氏の筆)

*2:竹内氏/p171

*3:帝乙は殷王朝側の甲骨文字資料には現れないので、実在が疑われている(落合淳思氏など)。

*4:竹内氏/同ページ