歴史の世界

中国文明:殷王朝⑦ 後期 その4 後期の歴史の流れ

この記事では落合淳思『殷』(中公新書/2015)に頼って書く。詳細はこの本参照。

武丁期(殷王朝後期の初期。前13世紀後半)

現代中国における通説では、殷王朝後期の最初の王(つまり中期の混乱を治め、王朝を再統一した王)は盤庚ということになっているが、落合氏は武丁としている。

ちなみに昔は大邑商(後期の王都。殷=殷墟)を建設したのは盤庚だと考えられていたが*1、考古学の発見・研究により武丁が建設したという説のほうが有力だ*2

武丁期で、いちばん重要なのは文字の出現だ。文字はおそらく新石器時代後期または末期には存在していたと推測されてはいるが、それを証明できる資料はかなり限られている。そして大量に文字資料が出現するのは武丁期だ。(殷王朝④ 後期 その1 甲骨文字の出現 参照)

軍事面では、対外戦争が活発だった。王都を攻め込まれるほどの危機もあったようだが、概ね対外戦争は殷王朝の優位に進み、収束の方向へ向かったようだ。

甲骨占卜の資料によると、武丁は占いの「改竄」を行った。つまり占いの対象となる事項を結果が出た後にでっち上げて武丁が占いを的中させたと演出したのだ。これは武丁自らの呪術的能力・カリスマをアピールするためであった。

また「帝」という神を一神教絶対神に近い神として崇めることも行ったが、これもアピールの一部だろう。

対外戦争が続く不安定な時期にそのような演出も必要だったのかもしれない。または武丁より前にも同様なことが行われていたのかもしれない(武丁より前の王については文字資料が無い)。

祖己~祖甲(前12世紀)

祖己は伝世文献(対象の同時代ではなく後代に書かれた文献)には載っていない王だが、甲骨文字の資料から確認されている。

祖己は武丁期の政治方針を大転換している

軍事面では、対外戦争の頻度が激減した。文字資料からは、どのようなことが起こって激減したのかは読み取れないが、祖己の代から長期の平和が続いたと考えられる(甲骨占卜の資料において戦争の記述が激減した)。

祖己は畿内の各地で狩猟を行った。狩猟は軍事鍛錬や各地の視察・軍事力の誇示が主目的だったようだ。武丁期には他勢力に狩猟の許可を出していたが、祖己の代ではこれを制限している。

信仰・祭祀の面でも大きな転換があった。

武丁期には自然神・祖先神ともに行われていたが、祖己期においては自然神の祭祀が減り自然神の種類も減っていった。さらに自然神を殷王の系譜に取り組もうとする試みも見られた(p167)。これは言うまでもなく祖先神を重視した結果だ。祖己の後になると自然神を殷王の系譜に取り組む試みもなくなった。

さらに、武丁が崇拝した「帝」もほとんど甲骨資料に現れなくなった。祖先神崇拝にとって邪魔だと思われたのかもしれない。

甲骨占卜においては、甲骨への細工を施すことはこの時期にも続けられたが、「改竄」はやらなかった。

庚丁~帝辛(紂王)

庚丁の代から再び対外戦争が行われるようになった。

庚丁・武乙の時期の最大の敵は羌人だった。武丁の代では奴隷や犠牲とされていた人々が組織化して敵として現れた。これに続く勢力として「牲(牲)」「さ」「けい」(表記できない漢字)の3つが登場し、羌を含めて「四邦方」と呼ばれるようになる(「方」は敵国または支配下にない国の意味)。このうち「さ」「けい」は地方領主として殷王朝の支配下にあったが離反して敵国になった。さらに、これに加えて武丁期のかつての敵国「危方」「人方」も認められる。

この状況は武乙の時代の文武丁まで続いたが、文武丁はほとんどの敵対勢力を撃退することに成功した(詳細は分からない)。

文武丁は狩猟(つまり軍事鍛錬と畿内の支配強化)を盛んに行い、また(王の権威を高めるため)祭祀の回数も増やし、中央集権化を図った。これは敵対勢力からの防衛強化のためであった。

また中央集権化の一部として(自己の権力の象徴として)子安貝の賜与をおこなった。南方の海浜で採れる子安貝は内陸の人々にとっては貴重品であった。

しかし中央集権化政策は文武丁の次代の帝辛 *3 になると破綻した(帝辛は紂王とも呼ばれる最後の王)。殷王朝の支配下にあった「盂」が反乱を起こして、この鎮圧には成功したのだが、その後まもなく滅亡した。落合氏は「盂』の反乱の原因は中央集権化政策が地方領主の不利益を呼んだのではないかとしている。

盂の鎮圧成功の報告のあとの文字資料がほとんど無いため滅亡の時期は分かっていないがおそらく前11世紀後半と考えられている。

殷代の次は周(西周)だが、周は殷王朝の支配下あったが、おそらく殷王朝に不満を抱く地方領主をまとめ上げて殷王朝に取って代わったのだと思われる。

徳川家康が、豊臣家の天下を奪取したことを彷彿させる話だ。

  *   *   *

以上、『史記』の殷本紀に書いてある話とかなり違う流れになっているが、甲骨文字の資料のみから事実を求めると以上のようになるようだ。現代中国は『史記』のような伝世文献の権威が強く、甲骨文字の資料の方を軽視する風潮があるようで、落合氏が書いたような歴史の流れは、中国研究家にとっては異端なのかもしれない。



*1:伝世文献(対象の同時代ではなく後代に書かれた文献)から そのように推測されていた

*2:殷墟に隣接する洹北商城が盤庚以降の王都だと推定され、この都市が火事が原因で廃棄されたと考えられている

*3:伝世文献における殷の系譜によれば、文武丁の次代は「帝乙」だが、帝辛(紂王)の代の甲骨文占卜で先王を文武丁とし父祖の中に帝乙を記していないので、落合氏は帝乙は実在しないとしている。しかし周の資料である周原甲骨には帝乙の字が確認できる。勝手に推測すれば、文武丁直系の帝辛と傍系の帝乙で分裂・分立したのではないか。