今回は始皇帝の全国巡幸について。
「巡幸」:言葉の意味
巡幸
(「幸」は天子が出る意) 天子の巡回。天皇が各地をまわること。
日本では「天皇が~」だが、中国では皇帝あるいは先秦の王たちが各地をまわること、という意味になる。巡幸は巡行とも巡狩(じゅんしゅ)とも書く。同じ意味。
殷周の巡幸
巡幸は殷周代でも行われていた。殷代の甲骨文(亀甲や骨に書かれた文)や周代の金文(青銅器に書かれた文)で確認されている。
馬彪氏によれば *1 、殷王の巡幸の目的の一例として、征服地の神を支配することが挙げられる。周王の巡幸の目的の一例として自然神祭祀がある。『史記』封禅書に「天子は天下の名山大川を祭る」とある。周王は諸侯を引き連れて泰山で自然神祭祀を行った。(泰山については後述)
さらに馬彪氏によれば*2、古代君主は天上に存在する祖先の霊や自然万物の霊を祭る義務があると信じ、これと同時に地上の民の君主であり、「天」と「人(民)」の間にある特別な存在だと自らを位置づけていた。このため、天(霊)を祭ることは大事な政事であった。
始皇帝の全国巡幸
始皇帝の巡幸の目的を一言でいうと、万民に天下の支配を認めさせるための行動、となる。
庶民に対しては、大勢の行列と威勢を見せつけて畏敬の念を抱かせる目的。インテリ層(貴族たち)に向けては、上のような殷周の伝統を継承する意を示すことによって服従させようとした。
中国を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西(甘粛省東南・旧隴西郡)と北地(甘粛省慶陽市寧県・旧北地郡)は[95]いずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる[96]。
しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には松の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された。
- 順路については引用先に書いてある。
第一回は秦の本拠地の周辺を巡っただけなので、祖霊を祀る巡幸。第二回以降は周王室の慣例に倣って自然神への祭祀を行った。
自然神祭祀のうちで一番大事な泰山封禅と、有名な始皇七刻石については次回の記事で書く。
ちなみに6国の王たちが祀っていた社稷(「社」は土地神、「稷」は穀物神)は破壊した。中国の国の滅亡は王室の断絶ではなく、社稷を亡きものにすることによって滅亡とする *3。
また、山東半島または渤海湾に何度も訪れたのは、馬彪氏によれば、始皇帝が「蓬莱神話」に執心していたからだという。「蓬莱神話」とはどういうものか?
蓬莱山
中国古代の戦国時代(前5~前3世紀)、燕(えん)、斉(せい)の国の方士(ほうし)(神仙術を行う人)によって説かれた神仙境の一つ。普通、渤海(ぼっかい)湾中にあるといわれる蓬莱山、方丈(ほうじょう)山、瀛洲(えいしゅう)山の三山(島)を三神山と総称し、ここに仙人が住み、不老不死の神薬があると信じられた。この薬を手に入れようとして、燕、斉の諸王は海上にこの神山を探させ、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)が方士の徐福(じょふく)を遣わしたことは有名。三神山中で蓬莱山だけが名高いのはかなり古くから[以下略]出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/蓬莱山(ほうらいさん)とは - コトバンク
蓬莱山
中国,古代における想像上の神山。三神山 (蓬莱,方丈,瀛〈えい〉洲) の一つ。山東地方の東海中にあり,仙人が住み,不死の薬をつくっており,宮殿は金玉,白色の鳥獣がおり,玉の木が生えているとされた。しかし,遠く望めば雲のようであり,近づけばどこへか去って,常人にはいたりえないところという。前4世紀頃から盛んにいわれるようになり,神仙思想の原型となった。[以下略]
山東省北部にある蓬莱市では島の蜃気楼が見えるという。実際の島の上に逆転した島が乗るような形で見えるという *4。 この現象が下地となって「蓬莱神話」または神仙にまつわる文化が生まれたとされている。
始皇帝は不老不死の薬を求めて山東半島または渤海湾へ訪れ、現地の方士たちに会っていろいろと話を聞いた *5。
「蓬莱神話」を追い求める始皇帝と方士たちの揉め事が焚書坑儒の坑儒に関係するのだが、その話は以下の記事に書いた。
あらためて巡幸の重要性について
既に巡幸の重要性について書いたが、最後に引用を書き留めておく。
古代における君主が祭祀を行うのは自らの権威を示すための重要な手段であり、天子は天神と人民のバランスをとる中軸である役割を持つのである。皇帝の巡幸というのは、必ずしも君主の個人的な趣味ではなく、それは国家の政治行為という意味を持つ。
出典:馬彪氏
始皇帝やその臣下の思いつきで行われたのではなく、殷周の伝統やそれ以前の堯舜の神話(戦国時代に創作されたもの)に基づいて、国家を継承する意を表す重要な政治行為だった。
自然神祭祀のうちで一番大事な泰山封禅と、有名な始皇七刻石については次回の記事で書く。