前回からの続き。戦国時代突入。
今回も多くの部分は以下の本を参考にしている。
- 作者:山田 勝芳
- メディア: 単行本
経済の発達
戦国時代における経済の発達については以下の記事で書いた。
人口増加・物流増加によって、ついに貨幣の流通が始まった。
貨幣の発行元
三晋(魏・韓・趙。黄河中流域。中原)では都市が発達し、自立性が高かったため、各都市が貨幣を発行していた(都市名が銘打たれている)。
なんらかの形での県などの地方行政機構が関わった可能性もあるが、むしろ各都市の商人たちの経済力が貨幣発行を促した可能性が高いのである。
出典:山田勝芳/貨幣の中国古代史/朝日選書/2000/p36
東の斉は、三晋と同様に経済が発達した地域であるが、「王室の直接支配の強い王都や拠点都市での発行に限られ、国家的関与がかなり強い」とのこと。(同ページ)
燕・楚も斉に同じ(同ページ)。人口も少ないし、経済の発達も三晋・斉ほどではない(秦については後述)。
貨幣の流通の状況
戦国初期の貨幣分布 [『中国歴代貨幣』の図を基にして作図]
出典:山田氏/p31
銅貨は、春秋時代の伝統を継承した布銭・刀銭・銅貝のほかに、円銭が登場する。布銭・刀銭・銅貝については前回の記事参照。
布銭・刀銭・銅貝は小型軽量化が進む。
本来は計量貨幣(秤量貨幣。重さ・純度を計って用いる貨幣)であるが、計数貨幣(貨幣・コインの表面に銘記された金額の価値がそのまま通用する貨幣)も流通していた。
おそらく、円銭は貨幣の小型計量化の流れの中で、実用的な形が採用されたのであろう(山田氏の本では円銭の起源についていろいろ書いてあるがここでは書かない)。円銭は黄河沿いの周・秦・趙・魏などで使用され始めた(山田氏/p30)。
楚の重要性
春秋時代から戦国・秦・前漢まで金属の生産量が最も多かった地域が楚であった。
特に重要なのは、金の生産量の多さだ。現在の地質調査の結果によれば、古代の技術で採取・採掘できることを前提とすると、金含有地は楚が最も多かった(p42)(他国と比べて領土が大きいので当然だとは思うが)。
楚が発行した金貨は計量貨幣で、その流通は楚の領域を超えて黄河以南全域でみられ、少なくとも斉・秦での金は楚の金貨が使用されていた。また三晋地域では楚の金貨は出土されていないが、影響がなかったはずはない。(p43-44)
このような楚の金貨を中心とする金流通量の増加は、中国の貨幣経済において、金と銅銭との二重の貨幣流通を実現することになった。いわば、金も銅銭もともに本位貨幣なのであり、その意味では金・銅銭並行本位とでもいうべき貨幣経済を出現させたのである。(p44)
ちなみに、楚では銀の貨幣も発行されていたが、銀の発行数は少なかったということだ。
秦帝国に繋がる戦国秦の貨幣制度
秦は他国に比べて後進国であったが、宰相・商鞅(前390-338年)が変法改革を行ってから強国へと変貌していった。このことについては以下の記事に書いた。
山田氏の主張によれば、商鞅が宰相だった孝公の次代の恵文王(前338-311年)の治世で新しい通貨制度が作られた。
それより前は、隣国の魏・楚の通貨の基準に合わせた円孔円銭(円形の穴がある円銭)を発行していた(p66)。現在で言うところのペッグ制だろうか。
恵文王は即位後2年の前336年に「半両銭」を発行した。
この段階では、もはや他国の銭との交換比率を銘文に記すのではなく、自国で採用していた両銖制を基準として、すっきりと割れる重量である「半両」銘で、しかも方孔の円銭を発行した。(p66)
これ以降、秦では国発行の銭を「行銭」とし、民間鋳造の銭を「盗鋳」銭として禁止し、他国の銅銭の流通も厳重に禁止した。(同ページ)
ただし、金貨については上述の通り、流通していた。
この半両銭が秦帝国でも使用され、前漢も武帝の治世で五銖銭をはっこうするまで使用された。
- 半両銭のデザインは戦国秦から前漢までほぼ同じのため出土してもどの時代に鋳造されたのかを調べるのは困難だということだ。
また、戦国秦では麻布(あさぬの)が貨幣として通用していた。長さ8尺(185cm弱)、幅2尺5寸(58cm弱)の官製の麻布だ。1布=11銭(p68-69)。他地域で通用していた絹帛ではなく麻布だということが目を惹く。
この布の貨幣は秦による中華統一以降は姿を消した。(p74)