前回からの続き。今回は春秋時代。
今回も多くの部分は以下の本を参考にしている。
- 作者:山田 勝芳
- メディア: 単行本
春秋時代の変化
西周時代、経済的発展が顕著であった関中地域に比べて、関東地域(函谷関以東)の諸国では経済発展は遅れたが、長い時間をかけて周辺地域を開拓して行く中で着実に力をつけ、紀元前8世紀以降の春秋時代になると発展をみせる。そこでは、貝の伝統とはことなる価値表示機能のあるものを生み出す。これが春秋時代からみられる布や刀の銅貨である。
現在知られている春秋時代の貨幣としては、中原地域の周・晋・衛・鄭・宋・などの諸国で春秋前期に始まる布銭と、海岸地域の斉を中心として前7世紀から前6世紀に発行されたという刀銭とが早い。[中略] 南方の楚では、北方の中原の布銭や海岸地域の刀銭などの発行と同時に、……子安貝の形態を濃厚に残存させた銅貝貨を流通させたのである。(p22)
「中原」という用語は中国史の中で範囲が変わっていくので要注意。ここでは函谷関以東の黄河中流を表している。海岸地域は黄河下流。
楚(江南)の銅貝貨
黄河中下流で新しい貨幣通貨が発達し、この地域では銅貝貨の伝統は継承されなかったが、楚において継承された。山田氏によれば楚は子安貝の流入ルートであり、かつ、貝貨使用が活発であったため、貝貨の伝統が残存したとみられる(p24)。ただし、楚の銅貝貨は西周のような(実物のような)まるみを帯びたものではなく、平板なものであった(p21)。時代が下って、より我々現代人の貨幣のイメージに近づいた感がある。
中原(黄河中流域)の布銭
布銭は鏟(すき)などの農耕具を模した銅貨だが、なぜ「布」の字を使うのかは分かっていないらしい。
中国の青銅器時代は殷以前から始まり、春秋時代、遅くとも中期からは鉄器使用が始まる。この間、支配階層の間では銅製農耕具も使用されたようであり、このような銅器が贈与・互酬の対象となり、さらには貨幣へと転化を遂げて布銭となった。[中略]
あるいは青銅そのものが貴重視されていたため、鋳造によって大量生産された鉄器の使用とともに、青銅農耕具……は実用的意味よりは抽象的・象徴的価値表示機能を有するようになったのであろうか。いずれにしても、西周時代に貨幣化を開始した貝と亀甲のような神聖性・霊力の強いものではなく、より実用的・世俗的なものが物品貨幣となり、ついで金属貨幣へと転化したことになる。
この布銭……が本来的に実用器であったことは、布銭の最も古い形態が空首布であり、その空首部分がちょうど木製の柄を差し込むことができるようになっていることに明らかである。しかし、同時にもはや農耕具としての実用性がなくなっていることも確かである。銅の地金自体の価値を基礎として、独自の形態によって一定の価値表示機能をもっていたというのが、妥当なところであるし、やはり貨幣段階に至っていたといえる。
出典:山田勝芳/貨幣の中国古代史/朝日選書/2000/p25
- 落合淳思『古代中国の虚像と実像』(2007)*1は、鉄製の農具は考古学的成果から「春秋時代から戦国時代初期までは、……ごくわずかしか使われていなかったことが明らかになった。……鉄製農具の普及は、今のところ戦国時代中期以降と考えられている」と主張している。これが事実だとすると鉄製農具の普及と関係なく銅製品の貨幣化が進んだことになる。
青銅器は青緑のような色を特徴とした遺物だが、本来の青銅は光沢のある金属だ。十円玉が青銅でできているのでそれを思い起こせばいい。青緑になるのは参加して錆びた状態だ。
空首布は広い部分は平板だが、細い部分(首の部分)は立体的になっていて中空になっている(だから空首と呼ぶ)。そこに木製の柄を差し込んで農具となる。
斉(黄河下流域)の刀銭
次、刀銭の話。
刀銭も実用器だった。古代中国では文字を書くため媒体として木簡や竹簡を使用したが、書き誤りを削るために小刀を使用した。刀銭はこの小刀を起源として誕生した(p27)。これも贈与・互酬の対象からすたーとして布銭同様の変化をたどる。
春秋時代における貨幣の広がり
ただし、春秋時代において一般的な交易では物々交換や米穀・塩などの実物が価値表示機能を果たすことが多かったために、貨幣の広範な流通はまだ見られるのは戦国時代に入ってからとなる。(p26)