歴史の世界

中国文明:先史⑩ 新石器時代 その8 後期新石器時代 その3 良渚文化

前回は玉器について書いた。

今回書く良渚文化はこの玉器が階層化の道具となる。

良渚文化は長江下流域に興った文化で時代は前3300-2200年(諸説あり)。後期新石器時代の手前から中国最古の王朝誕生の手前まで。

時代区分

  • 前期:3300-3100BC
  • 中期:3100-2900BC
  • 後期前半:2900-2600BC
  • 後期後半:2600-2300(2200)BC*1

良渚文化の生産力

良渚文化は長江下流域の太湖周辺に興るのだが、それ以前は崧沢文化があった。良渚文化が興るまでに農業も階層化もある程度 発達していたが、良渚文化でその両方がさらに発達した。

最温暖期のピークが過ぎて冷涼化が始まり、海水準が低下に向かった崧沢文化以降、太湖周辺の湖沼面積は減少し、平原には以前より安定した可耕地が広がった。この時期に、鋤耕から犂耕へという技術的転換を伴いながら、長江下流域の稲作農耕はさらに発展した。崧沢文化期から良渚文化期へと遺跡数は急増し、人口の膨張と社会の複雑化が示唆されている。

出典:世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p49(西江清高氏の筆)

宮本一夫*2によれば、鋤耕から犂耕に変わったのは崧沢文化の時代だ。つまりそれまで石鏟(せきさん、スコップのようなもの)から石犂(せきり)で耕耘(こううん)する時代に変わった。良渚文化に入るとさらに多種の農具が登場・普及して農作物増産に寄与した。さらに肉類においてシカなどの野生動物からブタなどの家畜へと割合が激変する。

中村慎一氏*3はこの頃に、草鞋山で行われていたような天水田に近いものではなく、本格的な灌漑水田の集約農業*4がはじまったのではないかと考えている。

階層化を表す墓地

階層を表す墓地は、前期に墳丘墓(大きなマウンド)として現れた。(宮本氏/p150)

中期になると、方形の周溝によって区画された神聖な空間で祭祀が行われた祭壇と合体した墳丘墓が現れる(同/p278)。この墳丘墓は従来型のものに比べて副葬品が多いことから、首長クラスのものと考えられている。(p151)

良渚文化の中心地

良渚文化前期・中期の中心地は良渚文化遺跡群にあると考えられている。この地の中心部に約30万平方メートル、厚さ約10メートルの土台(基壇)がある(現在は莫角山と呼ばれている)。この土台にさらに3つの高まりがある。(西江氏/p50)

これら3つの土台の間には大型の版築建物基壇や最大が直径60センチメートルに及ぶ柱穴からなる建物遺構が確認されている。建物遺構が具体的にどのように構築されていたかは不明であるが、祭祀空間あるいは人々が集会して組織的な団結を誓い合うような場であった可能性が高い。こうした祭祀的建造物を中心に、その周りに独立した墳丘墓が取り囲んでいる。

出典:宮本氏/p153

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良渚古城模型,陈列于良渚博物院。

出典:良渚遗址 - wikipedia(中文) *5

四角い囲いは「囲壁」で2007年にようやく全部の囲壁が確認できた*6

中国では「城」は(日本の城の意味とは違い)、万里の長城のような壁(城壁)のことを指すので、「良渚古城」とは囲壁に囲まれたふるい集落を意味する。

中心の土台を築くだけでも相当な労働力が必要なはずで、このような点からもこの地域の人口密度と階層化がうかがえる。

ただし、良渚遺跡群一帯の首長が良渚文化圏の全体を支配していたわけではなかったらしい。

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出典:宮本氏/p155

上の図のように幾つかのグループが存在している。今井晃樹氏は中期は良渚遺跡群が優勢であったが、後期は寺墩の勢力に覇権が移ったとしている。しかし中村慎一氏は全時期を通じて良渚勢が盟主的な存在であると主張している。

いずれにしろ、全域を支配するほどの権力は存在しなかった。

玉器

玉器とは何かについては前記事で書いた。

良渚文化の玉器としては、鉞、琮、璧の三種がもっとも顕著であった。鉞は武威の象徴であり、儀仗用の玉器とされる。また良渚文化で出現した琮は、方柱形の器身の中央に円孔を貫通させ、上下端を円筒状に加工して方柱の四隅に浮彫りや細線で神面を描いたもので、祭祀の場で中心的役割をになった道具と思われる。璧は、円孔をうがった円盤状の玉器で、日月の象徴に関わる祭器ともいわれ、時期が降って春秋時代や漢代においても装飾性をましてさかんに用いられた。これら三種のほかに、櫛飾りの冠状飾、三叉器、各種の動物形といった特徴ある装飾品を加えた多様な玉器が、首長層の墓と思われる各地の墳丘墓に集中的に服装された。良渚文化の社会には玉器の制作を掌握した権力者が存在しており、その中心的存在から各地の首長層へと玉器が分配されたことが推測されている。玉器が祭祀の中核をになう道具として確率されるとともに、政治的秩序を維持する道具として極めて重要な役割をはたしていた。

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9 琮(江蘇 寺墩) 10 冠状飾(浙江 反山) 11 琮(浙江 反山) 12 鉞(江蘇 寺墩) 13 璧(江蘇 草鞋山)
〔出典〕『中国玉器全集』1 原始社会、中国美術分類全集、華北美術出版社、1992年より。

出典:西江氏/p54*7

  • 儀仗とは儀礼のために用いられる武器・武具のこと。*8

玉琮は角のとれた直方体をしていて中心部分が円柱状に刳(く)り抜かれいる。この中空部分を通して、天の神と地の神を繋ぎ、神が入る「依り代」の役割が考えられている。神の「依り代」として玉琮には、神人獣面像が精巧に刻まれているのである。神人は月神、獣面像は太陽神と考えられ、それらの横に配置されている鳥はもともとイヌワシであり、神の使いと考えられている。

また玉璧は、神が統治する世界観や右中間を示すものであると考えられる。首長はこのような玉器を持つことにより神との交信が可能になり、神の威を借りて集団を支配し、自らの地位を維持することができる。

出典:宮本氏/p277

  • 琮の直方体より中心部分を円柱状にくり抜くような作りは、「天は円く、地は方形であるという古代中国の宇宙観」、つまり「天円地方」を表している。*9

神との交信(交渉)権を独占して統治するというシステムは洋の東西を問わない。メソポタミア文明でもエジプト文明でも似たようなことが起こっている。

もちろん神の力だけに頼るのではなく、軍事力も持っていたのだろう。軍事力の象徴が鉞となる。

宮本氏によれば、地域で覇権を有する首長が直方体の完全な琮を下位の首長に分割して与えて同盟関係を築き、下位の首長はさらに支配地域の内部の者に分有したと考えている。(p156)

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出典:宮本氏/p156

このやり方はエジプト文明にもある。エジプトの場合は琮の役目を果たすのは「波状把手土器」というものだが*10

良渚文化の崩壊について

前3000年紀の後半から前2000年紀の前後にかけて、かつて隆盛を誇った長江下流域の良渚文化、中流域の石家河文化、四川成都平原の宝墩文化、華北東部の山東龍山文化、漢中平原の客省荘第二期文化などがあいついで衰退し、数千年にわたって継承発展してきた地域的文化の伝統と、地域的社会の基礎は大きく動揺した。良渚文化が崩壊した太湖周辺では、前2000年紀に入ると馬橋文化が登場するが、良渚文化と馬橋文化は文化的に連続したものではなく、また良渚文化期に成立していた大きな地域統合は再生されていない。馬橋文化では、狩猟・漁撈の比重がふたたび高まり、良渚文化に比べて稲作農耕が後退したとされるが、そうした状況は、良渚文化の週末に太湖周辺で大きな環境の変動があったことを暗示している。

出典:西江氏/p56

他の地域も後続する文化も前の文化を継承しなかったか、ほんの一部だけ継承した程度だった。

西江氏は、このような大規模な変化を考慮して「地球規模における環境変化が、東アジア中緯度地帯のこの地域に強い影響を与えていたと推測せざるをえないであろう」としている(p57)。

「地球規模における環境変化」とは、おそらく「4.2 kiloyear event*11」のことを指しているのだろう。これは4200年前(前2200年)前後の寒冷化のことだ。エジプト古王国、アッカド王国などがこの時期に崩壊している。

揚子江デルタを襲った4200年前の急激な気候寒冷化と世界最古の稲作文明の関係(2018)』という研究発表の概要のようなものがネット上にあったが、この研究結果によれば、おそらく中国本土でもこの時期に寒冷化は起こったであろうことが示唆されている。

宮本氏は上の寒冷化と合わせて、大規模な洪水があったのではないか としている。良渚文化の包含層の上には厚い沖積層が覆う調査事例が幾つかみられるそうだ(宮本氏/p157)。「洪水」説は有力な説だそうだ。

中村慎一氏は上の「洪水」説に反対している*12。良渚文化層と洪水層の間に別の文化層*13があるという。中村氏の文化崩壊の原因は「権の源泉としての玉器を製作するための玉材が枯渇したことが大きな要因であった」、終焉時期は前2500年頃としている。

殷周への影響

長江下流域に起源する太陽神が、山東龍山文化や石家河文化へと精神文化的に共有されていく背景には、この段階の良渚文化を中心とする精神基盤の拡散を認めないわけにはいかない。すでに述べたように良渚文化の玉琮や玉璧は、首長による神政権力を示すものであった。新石器時代終末期の龍山文化後期に、玉琮や玉璧が黄河中流域や光が上流域へ広がり、それぞれの地域で自家生産されていくのは、単なる玉器の模倣というよりは、玉器に秘められた神政権力といったイデオロギー装置をそれらの地域で必要としたということではあるまいか。

殷周青銅器の基本的な文様である饕餮文(とうてつもん)の原形が、林巳奈夫氏によって良渚文化の獣面文であることが指摘されてひさしいが、意匠とともに玉琮など玉器文化の黄河中流域・上流域への拡散は、玉琮や玉璧に秘められた神政権力という精神基盤を新石器時代終末期に黄河中流域が新たに吸収し、二里頭文化遺構に開花するという現象として理解したい。

出典:宮本氏/p279ー280



*1:中村慎一/良渚遺跡群研究の新展開/平成27年3月(pdf)ただし、中村氏自身の良渚文化終焉の時期は2500BCとしている。後述

*2:中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p147-149

*3:前掲書/p149で紹介されている

*4:原始的な農業形態では、天水農業や根栽農耕、略奪的な焼畑農業など粗放的な農業が中心であるが、やがて経済が発展すると生産性を高めるために灌漑施設、農業機械、生産・出荷施設、化学肥料(金肥)、農薬の使用、農業従事者の雇用(過去においては奴隷も含まれる)などが資本を注入して行われるようになる。こうして労働力や資本力を集中的に投下する農業形態を集約農業という。集約農業 - Wikipedia

*5:猫猫的日记本 - 自己的作品

*6:中村慎一/良渚遺跡群研究の新展開/平成27年3月(pdf

*7:図は元の一部

*8:儀仗 - Wikipedia

*9:天円地方 - Wikipedia

*10:エジプト文明:先王朝時代③ ナカダ文化Ⅱ期後半(前3650-3300年)前編>地域統合の始まり

*11:4.2 kiloyear event - Wikipedia英語版 

*12:前述した論文

*13:銭山漾 /広富林文化層