王朝の王統
殷王朝は実の父子相続を基本とする本来の意味での「王朝」ではなかった。つまり世襲する場合もあるがしない場合もあった。
しかしその相続のしくみについては通説が無い(松丸道雄氏は殷王朝は王位継承権を持つ十支族より選ばれたと説明しているが*1、落合淳思氏はこの説を否定している*2 )。
本来の意味での「王朝」ではないということの証拠は、甲骨文字の相違にある。
甲骨文字の研究によって、個々の資料で字体のほか用語や祭祀方法などに相違あるいは共通点が認められ、幾つかに分類できる。そして落合氏によれば、「王朝」は最終的に2系統に分けることができる。ただし2系統に分けられるからといって王統が2つの家系によって作られたとも限らないようだ*3。
佐藤信弥氏によれば*4、上の相違・共通点の研究も途上にあるとのことなので、将来には王統の件で新しい発見があるかもしれない。
殷墟遺跡に見る体制
殷王朝はメソポタミヤや古代エジプトと同様に、軍事と祭祀で支えられた初期国家であった。
殷墟遺跡をみると、王宮・宗廟を中心としているが、墓地に関しては王陵区を中心とした空間に王朝を支える集団の氏族・宗族単位の墓地がある。
その配置は王陵区の遠近が王族との家系的な遠近の関係または階層の高低の関係と一致している、と宮本一夫氏は考えている*5。
これらの氏族や宗族は、おそらくは殷王朝の領域内で邑を経営しており、その邑からの貢納が王や王都に集まっていったのであろう。殷の都である殷墟とは、王権を支えているこのような宗族や氏族が集住して、祖先祭祀を繰り返し、集団の統合を誓い合う祭祀都市であったのである。
王朝を支える集団/王朝の直轄地と支配領域
文字資料が甲骨文に限られているため、官僚機構についてもよく分かっていない。吉本道雅氏によれば《「臣」「亜」「尹」「史」などの臣僚が見え、職能集団をひきいて王朝に奉仕したとされる》*6。
王朝の直轄地は畿内または内服と呼ばれ、その外側にある支配領域は畿外または外服と呼ばれる。畿外は王朝を支える集団、つまり王朝に服属する氏族たちの領地だ。これらの領地は中心地となる都邑(族長の本拠地)を持ち、この都邑の周りに複数の「属邑(鄙)」が付属する。
出典:宮本氏/p348
落合氏によれば、殷代後期の文字資料(甲骨文字や金文)には、殷王朝が新たに領主を封建*7したという証拠はない、また、殷王都地方領主の血縁関係を記した例が見られない。(p73-74)
王との血縁関係を背景として地方領主に封建されたのであれば、諸侯としての正当性はそこに求められるため、殷代であっても血縁関係を明示しないはずがない。この点からも、殷代後期の地方領主は、王によって奉献されたものではないと考えられる。
出典:落合氏/p74
落合氏は、文字資料の無い前期・中期については分からないと一応断っている。
「邑制国家」という用語
「邑」という言葉は、「都市」という意味から「村」までを含む言葉。そして大邑(王都・商=殷墟)→都邑(地方都市)→属邑というように3つ(または4つ)の階層に分けることができる。
都邑の地方都市は土着の(または土着化した)氏族が支配しており、周囲の属邑も支配下にある。
上で書いたように、地方の氏族らは殷王朝とは血縁関係がなく、独立性が高い。これらの地方都市は「邑制国家」と呼ばれ、殷王朝はいわば邑制国家の連合体であった。
ただし世界史的に見れば、「邑制国家」は都市国家であり、古代メソポタミアや古代エジプトと同様に殷代は都市国家連合だと言える*8 *9。
軍事
上記の地図にあるように、殷王朝の支配領域の外に独立した文化が存在している。周(先周文化)は王朝に服属していたようだが、王朝の外には服属していない集団も幾つか存在していた。甲骨文には、𢀛方(縦にエロ)や土方など、「○方」という敵対勢力が現れる。
これらは殷王朝の青銅器文化などを吸収して勢力を増大したのかもしれない。
殷王朝が敵対勢力と戦う場合、地方領主を動員して戦う。敵対勢力が支配領域のある場所を攻撃してきた場合、王朝の軍隊とその地域を直接支配している地方領主の軍隊で応戦する。*10
落合氏によれば、殷王朝は対外戦争にあたって当該地域の領主にしか動員できない弱い支配力しか持ち得なかったとしている*11。
こうした弱い支配力を補ったのが祭祀または宗教だった。
祭祀・宗教については次回の記事で書く。