インド植民地支配のことを書いていくが、今回はインド側の勢力紹介。
はじめに
イギリスに侵略された当時のインド(インド亜大陸のこと。以下同様)といえばムガル帝国...だと思っていたが、この国は18世紀半ばには衰退を始めていた。
だいたいムガル帝国自体が異民族の侵略で出来た国で、インド大陸の各地方で抵抗や反乱が繰り返されて安定しているなんてことがなかった。ムガル帝国がインド大陸のほとんどを支配していた時期も短期間だけの話だ。
以下にインドの勢力について書くが、個人名は少なめにした。小さい勢力については省略。
ムガル帝国の盛衰
ムガル帝国は17世紀の間は勢力拡大傾向にあった。ただしインドの全版図をコンプリートしたことは無い。
現代インドで"偉大なる王"として人気のアクバル大帝(在位:1556-1605)の版図は北インドまで、アウラングゼーブ(1658-1707)の治世が最大版図でインドのほぼ全域を支配下に置いたが、その時代に既に衰退が始まっていた(支配と言っても形式的に支配下に入った程度の国もある)。
アウラングゼーブの死後は、各地の反乱に加えて中央の継承・権力争いが激化して衰退が加速した。アウラングゼーブの孫の世代にあたる権力争いにより体制崩壊して、1720年頃には各地方が独立した。ムガルの帝室は名ばかりの状態で存続し、地方政権として残った。
ちなみに、この頃は既にヨーロッパ勢力が各地に植民地を持ってはいたが、それらは交易の拠点とするための沿岸部のみで、インドの権力争いへの影響は無視していいレベルだった。「ヨーロッパのアジア侵略」という歴史観から見れば「侵略の始まり」なんだろうけど、微妙だ。
北インドの勢力:マラーター同盟
マラーターとはヒンドゥー教のカースト集団の一つということだが詳細は省く。ムガル帝国に抵抗し続けた勢力で、「1674年にマラーター王国をデカン高原西部に建国した」こともあった (マラーター王国<世界史の窓 )。
上の王国は皇帝アウラングゼーブとの戦いで滅亡しかかったが、皇帝の死後、王国の宰相と諸侯が盛り返すこととなる。その後のことは以下の通り。
マラーター同盟は次第にシヴァージーの子孫の王家に代わり、宰相(ペーシュワー)を中心に有力な諸侯が国内に配置され、それら有力なマラーター諸侯の連合体としてまとまっていった。マラーター同盟軍はデカン高原だけでなく、ベンガル、カルナータカ、ラージャスターンなどにも遠征軍を送り、1752年にはムガル帝国の都デリーに入城し、ムガル皇帝の保護者となった。これによってマラーター同盟は実質的にムガル帝国の後継国家となり、その権勢を極めることとなった。
[中略]しかし、マラーター同盟の最盛期は1750年代で終わり、1761年にアフガニスタンからインドに侵入したドゥッラーニー朝のアフマド=シャーとのパーニーパットの戦い(1526年の戦いとは別)で大敗したことで、宰相の権威が弱まって有力氏族が独立傾向を強め、同盟の求心力が失われ衰退が始まった。マラーター同盟が分裂しつつあった時期にイギリス東インド会社によるインド支配がベンガル地方から始まり、それがデカン高原に及ぶようになった。
詳細についてはリンク先で。イギリスとの戦いについては後述。
南インドの勢力:マイスール(マイソール)
こちらもヒンドゥーの国。ただし、この国はムガル帝国に形式的な臣従関係にあった(アウラングゼーブの最盛期は帝国の一部になったようだ)。そしてマラーターとは敵対関係にあり、ムガル帝国と組んで南北から挟み撃ちにしたこともあった。
ムガル帝国が崩壊するとマラーターに従属することになる。また、1760年代にムスリムの有力者が事実上の王となって次第にイスラム化していった。そしてイギリスと戦争することになる。
インド北西部:シク王国
シク王国は現在のインドとパキスタンの国境を跨いだ地域にあった国。シク教(シーク教)の国。
シク教は15末~16世紀初に起こった宗教でヒンドゥとイスラム教の要素がミックスされたような宗教。
シク教徒はムガル帝国の支配下で活動していたが、アウラングゼーブが宗教宥和からイスラム強制に政策転換したため武装化、皇帝が死ぬと各地に小国を乱立させた。
1799年、小国をまとめたシク王国が誕生。しかし、初代王の死後に内紛が起こり、これにつけ込む形でイギリスが攻め込むことになる。