歴史の世界

戦国時代 (中国)⑭ 後期 秦王・政(始皇帝)による中華統一

秦王・政(始皇帝)による中華統一を書く。

年表で見る中華統一

相国・呂不韋を罷免して、秦王・政は実権を手にした。この時、前237年。最後に残った斉を滅ぼし全国統一を果たしたのが前221年。わずか16年で成し遂げてしまった。

史記』秦始皇本紀によれば、前237年、魏都・大梁から来た尉繚(素性は分からない)が政に謁見して以下のように説いた。(以下意訳)

「秦の兄弟差と比べれば、他の諸侯など軍県のようなものであります。しかし、彼らが合従して不意を突いて攻めてくれば厄介なことになります。……大王、財物を惜しんではなりません。それを諸侯の権臣たちに賄賂を贈って諸侯らの合従を防ぎましょう。30万金の賄賂で全国が手に入るのならば安いものでしょう」

政はただちにこの進言を受け入れたという。

さて、各諸侯国の滅亡を見ていこう。(ソースは 《始皇帝 - Wikipedia》)

  • 前230年、韓王安が捕縛される。韓の滅亡
  • 前228年、趙幽繆王、捕虜となる。趙の滅亡。秦の侵攻を将軍の李牧・司馬尚が食い止めていたが、既に賄賂を贈っていた趙臣・郭開に工作を依頼し両将軍を更迭させた。これにより趙は滅亡した。(李牧伝については『史記』廉頗藺相如列伝にある)
  • 226年、燕都・薊の陥落。事実上の燕の滅亡。燕王喜ら、遼東に逃亡。燕は有名な荊軻の暗殺未遂の為に政の怒りを買って猛攻を食らうことになる。遼東に遷った燕王喜は首謀者の太子・丹の首級を秦に差し出したが、一時的な休戦にしかならなかった。
  • 前225年、魏王假が降伏。魏は滅亡。この頃には信陵君は既にいなかった。
  • 前224年、楚王負芻、俘虜となる。楚の滅亡。その後、楚の公子・昌平君(秦の丞相にまでなった男)を楚王として反抗する勢力があったが、これも翌・前223年に戦死した。
  • 前222年、燕王喜が捕らえられる。燕の完全滅亡
  • 前221年、斉王建、秦が進軍してくると戦わずして降伏した。斉の滅亡

f:id:rekisi2100:20200311131203g:plain

出典:秦#全国統一 - Wikipedia

秦以外の諸侯国の国王や為政者の恐怖はどれほどだっただろうか?

中華統一事業は李斯の影響?

秦王・政が どうしてこうも 中華統一を急いだのか真実は分からないが、答えの一つとして李斯の進言がある(ただし合っているかどうかは分からない)。

史記』李斯列伝によれば、李斯が郎(王の侍従官)になった時、李斯は政に以下のように進言した。

「相手の隙に乗ぜずに待つだけでは、その好機は去ってしまいます。大功を成し遂げる者は、相手の隙に乗じて遠慮せずにやっつけてしまいます。[中略]

秦の孝公以後、周王室は微弱で、諸侯はそれぞれ奪い合って、関東(函谷関の東)の地は六国になりました。秦が勝ちに乗じて諸侯を使いまくることは、六世(孝公・恵文王・武王・昭王・孝文王・荘襄王)に及んでいます。今や諸侯が秦に服従する様は、わが郡県のようなものです。そもそも秦の強大と大王の賢さとをもってすれば、炊事婦が竈(かまど)の上のごみを除くように、簡単に諸侯を滅ぼし、帝業を成し遂げ、天下一統を為すことができます。今こそ、万世に一度の好機です。今怠って急いで事を成就させないと、諸侯はまた強くなりお互いに集まって合従の約束を結ぶでしょう。そうすれば、黄帝の賢を備えていても、天下を併合することはできません。」

出典:Es Discovery/『史記 李斯列伝 第二十七』の現代語訳:1

とにかく、政には力・意思・時が揃っていた。そして実行し完遂した。

ここに前771年から始まった春秋戦国時代、前453年(または前403年)から始まった戦国時代が終わる。