歴史の世界

アケメネス朝ペルシア帝国 その5 ダレイオス1世(帝都ペルセポリスその他/遠征)

前回からの続き。

ペルセポリスの建設とその他の首都

ヘロドトスは、スーシャー(ギリシア語名スーサ)が「ペルシア帝国」の首都だと記述しているものの、この「帝国」に固定的な首都があったとは考えられない。大王は、冬の7ヶ月はメソポタミア平原のバビロンに、春の3ヶ月は旧エラム王国(現在のフーゼスターン州)のスーシャーに、夏の2ヶ月はメディア州のハグマターナに居住した。行政関係の文書の大半はスーシャーかペルセポリスに収められ、税収として貢納された貴金属はペルセポリスの宝物庫(ガンザ)に収蔵された。また、新大王の就任式はパサルガダエで執行された。大王は、最低でもこの5ヶ所の都市を渡り歩くワンダーフォーゲル状態であり、移動中はテントに居住しながら、「臣下」と贈与物の交換を繰り返して相互の紐帯を確認した。

出典:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p61-62

上記のことからうかがえることは、ペルセポリスは「帝国」のためというよりも、「王家」のため、つまり私的な性格が強い都市だったようだ(宝物庫がその証拠)。帝国の運営としては重要な都市ではなかった。

引用の7・3・2ヶ月というのはギリシア人クセノフォン(前5-4世紀)の記述だが *1ペルセポリスの名は言及されていなかった。ヘロドトスも書いておらず、アレクサンドロス大王はこの都市のことを知らなかったと言われる。

ただし、春分の日の儀式「ノウルーズ」はペルセポリスで儀式が行われていた(青木氏/p63)。ちなみにノウルーズはペルシアの暦の元日であり、現在でもイランとその周辺でその文化は受け継がれている。

さて、上記の引用からペルセポリス以外の都市についてうかがわれることは以下の通り(間違っているかもしれないが書いておく)。

  • スーシャー(スーサ、スサ)は、エラム人が住んでおり、おそらく彼らが全般的な行政にあたっていたのだろう(ペルシア人は武力で彼らを支配していた)。
  • バビロンはダレイオスの時代になっても経済の中枢だった *2
  • ハグマターナ(ペルシア語。ギリシア語はエクバタナ)はメソポタミア中央アジアの交易路にある都市。冬は雪に覆われるが、夏の避暑地としていたのだろう。
  • パサルガダエはキュロス2世が建設した都市で、ダレイオス1世の前の王朝の首都と言われているが、おそらくはここも前の「王家」の私的な都市だったのだろう。即位の儀礼をここで行なうのは、先王朝から帝国を継承していることを示すためだ。

各都市の位置は以下の地図にある。


(クリックで拡大)

出典:Achaemenid Empire - Wikipedia

遠征

オリエント統一は先王カンビュセス2世がしてしまったので、ダレイオスの領土拡大はペルシア帝国にとってはそれほど大きな出来事ではなかった、と思う。

ただし、ペルシア戦争を始めたのがダレイオスなので、古代ギリシア史からみれば彼の遠征は大事件だ、となるだろう。

ちなみに、アレクサンドロス大王が征服した地はペルシア帝国の版図とだいたい同じのようだ。

北方遊牧民への遠征(サカ人=スキタイ人

北方への遠征の対象はサカ人とスキタイ人。サカ人についてはダレイオスの碑文に書いてある。

サカについてダレイオス1世(在位:前522年 - 前486年)の『ベヒストゥン碑文』では、サカ・ティグラハウダー(尖がり帽子のサカ)、サカ・ハウマヴァルガー(ハウマを飲む、あるいはハウマを作るサカ)、サカ・(ティヤイー・)パラドラヤ(海のかなたのサカ)の三種に分けていた。サカ・ティグラハウダーは中央アジアの西側、サカ・ハウマヴァルガーは中央アジアの東側に住んでおり、サカ・パラドラヤは「海のかなた」すなわちカスピ海もしくは黒海の北となり、ギリシア文献に出てくるスキタイを指すものと思われる。

出典:サカ - Wikipedia

サカ人とスキタイ人は呼び方が違うだけで同じ民族、すなわち同じ文化(生活形態)を持った人々だ。

形質人類学 *3 によれば、彼らはコーカソイドモンゴロイドが混じり合っている「雑多な」民族。少なくとも前5~6世紀にはそうなっていた *4。広大なユーラシア・ステップで暮らす遊牧民は、(農耕定住民が重要視する)血統よりも武力を重んじ、交流・戦闘・征服・服従・政略結婚を繰り返した。だから肌の色などなどは関係無い。

「サカ」というのは、ペルシア語で鹿(サカー)を意味する(日本語では短母音化した)。これは彼らが鹿をトーテム(民族結束のための象徴。崇拝対象)として多用していたことに起因する *5スキタイ人の起源であるスキタイ文化の象徴的遺物が鹿石(石柱に鹿などの彫刻が成されているもの)なので、考古学からみてもスキタイ人=サカ人と言える。
(《最初期の騎馬民族 その2 (スキタイ人の起源≒騎馬民族の起源)》も参照)

さて、遠征の話に戻る。

最初の遠征対象は「尖がり帽子のサカ」だが、彼らはマッサゲタイ人に比定されている。マッサゲタイ人と言えば、キュロス2世を戦士させた勢力だ。遠征の結果、マッサゲタイ人はペルシア帝国に服属することになり、ダレイオスはキュロスの仇を取ったことになる。

次に、ダレイオスはスキタイ人を討つために黒海北岸(スキティア)に遠征したが、スキタイ人は逃げ続けたために、全く戦果を得られないまま撤退した。
(これについては 《最初期の騎馬民族 その5 (スキタイ人、黒海北岸支配)》 で書いた)

ただし、この遠征でトラキアバルカン半島南東部)を征服し、マケドニアギリシア北部)を服属させた。

もう一つのサカ人については分からない。

インド遠征

ここでいう「インド」は大陸部ではなく、インダス川流域つまり現在のパキスタンあたりだ。詳細は分からない。

ギリシア遠征

ダレイオスのギリシア遠征は「ペルシア戦争」と呼ばれるものの初期のものだ。詳細は古代ギリシアの歴史の記事で書くつもり。

ペルシア戦争開戦の原因となる事件が前499年に勃発したイオニアの反乱だ。アナトリア西端のイオニア地方にはいくつものギリシア植民都市があったのだが、この地方はペルシア帝国の支配下にあった。この反乱自体は前494年にようやく鎮圧したのだが、ダレイオスは彼らに軍事支援をしたアテナイやエレトリアに対して懲罰的遠征を計画した。

第1回は前492年に行われたが暴風雨にあって失敗した。

第2回(前490年)は艦隊を組んで大遠征隊を組織してエーゲ海を渡った。エレトリアは7日間で攻め落とし、ペルシア軍はアテナイの領地のマラトン平原に上陸した。アテナイ軍はこれを重装歩兵による密集戦術により応戦し勝利した。ペルシア軍はこれ以上の戦闘をせずに撤退した。

ちなみに、陸上競技「マラソン」マラトンに由来する。マラトンにおける勝利をアテナイ市に無休で走り続けた伝令使が勝利を告げた後に力尽きて亡くなったというエピソードがあり(真偽不明)、第1回オリンピックで長距離走の種目として採用された。マラトンアテナイ市の距離が約40キロということだ。

ダレイオス治世の版図


ダレイオス1世時代のアケメネス朝の領域とサトラペイア(ダフユ)。赤字はダレイオス1世即位時に反乱が発生した、または反乱勢力の支配下に入った地区。[クリックで拡大]

出典:ダレイオス1世 - Wikipedia



*1:ペルセポリス - Wikipedia

*2:青木氏/p65

*3:自然人類学の一分野。皮膚や眼の色、毛髪の色や形状、血液型、身長や頭型など、人類の身体の形と質を比較研究して、人種分類や系統関係、遺伝、環境による変化などを分析する。精選版 日本国語大辞典/形質人類学とは - コトバンク 

*4:青木健/アーリア人講談社選書メチエ/2009/p35

*5:アーリア人』/p35

アケメネス朝ペルシア帝国 その4 ダレイオス1世(出自とキーワード)

前回からの続き。

ダレイオス1世の出自

ダレイオス1世が簒奪者だと考えられていることは前回、前々回で書いた。

ダレイオスが即位するまではどのような人物だったのだろうか?

彼の父親ウィーシュタースパは、クールシュ[=キュロス]2世が任命したヒルカニア総督であり、ダーラヤワウシュ[=ダレイオス]自身は、カンブージヤ[=カンビュセス]2世の「槍持ち(=近衛兵)」に過ぎなかった。

出典:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p52

ダレイオスの記述を疑ってこちらをまるまる信じるのはどうかとも思うが、疑いだしたらキリがない。クーデタするにしても支配者層に属していなければ無理だったわけで、ダレイオスがその一員であったというのは妥当なところだろう。

宮廷内の権力

婚姻関係

ダレイオスは即位以前に結婚していた。相手はクーデタ決行時の同志の一人の娘で、彼女とのあいだに3人の男子をもうけていた(青木氏/p71)。

しかし即位後、王位を固めるために、キュロス2世の2人娘であるアトッサ(ギリシア語名。ペルシア語ではウタウサ)とアルテュストネ(ペルシア語ではリタストゥーナ)と結婚する。この2人は兄であるカンビュセス2世と結婚していた。

さらにカンビュセス2世によって暗殺された(とダレイオスの碑文では語られている)スメルディス(バルディア)の娘パルミュス(パルミーダ)とも結婚した。

ヘロドトス『歴史』によれば、アトッサがダレイオスにベッドの上でギリシア人の侍女が欲しいとねだり、ギリシア遠征のきっかけを作ったという物語を書いている。これらの話はアトッサの宮廷での権勢を示すものとして解釈されている。ただし、ペルシア由来の文献にはアトッサの活躍は書かれていない。 *1

上の物語の真偽はともかく、ダレイオスの死後、アトッサが産んだクセルクセス1世が即位しているので、彼女が重んじられていたことは間違いないだろう。

ダレイオスとクーデタを起こした貴族たち

ダレイオスが遺したベヒストゥン碑文にはクーデタを起こしたときの6人の同志の名前が書かれている。彼らはダレイオス即位後に大貴族となって、王家の外戚となり重要な官職を占めた *2

クーデタ成功後に(反乱は続発したものの)短期間で内乱を鎮圧できたのは、彼らの功績のおかげだと碑文に書かれている。

それが成功できたということは、上述の「同志」たちは元々軍を保持するほどの貴族だったと考えられ、ダレイオスは彼らを従えることができるほどの大貴族だったという傍証になるだろう。

ダレイオス1世のキーワード

アケメネス朝の中で、私たち日本人が一番知っている王さまはダレイオス1世だろう。彼の名と王朝名と「ペルセポリス」「王の道」「王の耳」「サトラップ」など、高校世界史でセットで覚えさせられる。長きに亘るペルシア戦争を始めたのもこの王だ。

ヘロドトス『歴史』にはダレイオスが20の行政区を制定しサトラペイア(サトラップ=総督≒知事)を置いたことなど記されている。高く評価していたようだ。

高校世界史では要点しか書いていないので、あたかもダレイオスがサトラップなどの諸制度を創始したような印象を受けるが、サトラップ制も「王の道」もアッシリア帝国の時代にすでにあった。帝国運営システムの創始者は、私はアッシリア帝国創始者ティグラト・ピレセル3世だと考えている *3

そして、この運営システムとよく似たものが、西はローマ帝国、東は秦帝国で始められている。

サトラップ

サトラップは総督と訳される。現代日本で言えば知事に近いが、知事との違いは軍権と外交権を持っていることだ *4。知事というよりも王の代理と言ったほうがいいかもしれない。王とサトラップの違いは基本的に世襲ができないことだ。つまりはサトラップに移譲された地域はサトラップ自身の領地ではなく、単に管理権を移乗されただけということだ。期間限定の王と言えるかもしれない(期間は中央政府が決める)。

王の道

「王の道」のネタ元もヘロドトス『歴史』で、これによれば旧リュディア国王都サルディア(小アジア西部)から旧エラム王都スサまでの幹線道路を指す。

出典:Royal Road - Wikipedia

またヘロドトスは馬によるリレー方式のいわゆる駅伝制と呼ばれる通信システムを採用した。ちなみに、これについてもアッシリアに先例がある (新アッシリア帝国における国家通信#駅伝制 - Wikipedia )。

ただし、この道路は幹線道路の一部でしかない。ヘロドトスがこの道を紹介したのは帝都(の一つ)のスサからギリシア(の近くのサルディア)までの道のりと必要時間(3ヶ月)を示すためだと思われる。

クテシアス(前5世紀のギリシア人)によれば、東方のバクトリアやインドへにも幹線道路が伸びていることに言及されている。さらにペルセポリス出土の粘土板に旅行証明書などの記録があり、この帝都にも幹線道路が伸びていたことを証明した。 *5

王の目、王の耳

王の目・王の耳
アケメネス朝(古代ペルシア帝国)の王直属の行政監察官。各州を巡ってサトラップ(知事)を監視するのがおもな役目で,王の目が本官,王の耳が補佐官である。これによって国内の中央集権化がはかられた。

出典:旺文社世界史事典 三訂版/王の目・王の耳とは - コトバンク

ちなみに秦帝国では、サトラップに当たる役職を刺史と呼び、王の目・王の耳は監察御史と呼んだ。



*1:阿部拓児/アケメネス朝ペルシア――史上初の世界帝国/中公新書/p117-118

*2:青木氏/p54

*3:新アッシリア① 先帝期/帝国期の幕開け - 歴史の世界を綴る

*4:阿部氏/p96-97

*5:阿部氏/p98

アケメネス朝ペルシア帝国 その3 「チシュピシュ朝」

前回からの続き。

今回の参考文献は青木健『ペルシア帝国』(講談社現代新書/2020)

「チシュピシュ朝」

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/ペルシア帝国とは - コトバンク

上記の略系図ではアケメネスが始祖となっているが、この「アケメネス」はダレイオス(ダリウス)1世がでっち上げた架空の人物だった(ダレイオスは王位簒奪者なので、系譜を捏造する必要があった)。このことは前回書いた。

というわけで、本当の始祖はテイスペスとなる(古代ギリシア語。古代ペルシア語ではチシュピシュ)。青木健『ペルシア帝国』では、ダレイオスから始まるアケメネス(ハーカマニシュ)朝と区別してチシュピシュから始まる系譜をチシュピシュ朝としている(第1章)。

テイスペスは「アンシャンの王」という称号を名乗っていたものの、実態はエラムに従属する存在だった。

前647年、エラムアッシリア王アッシュルバニパルとの戦いで致命的な敗北を喫し、王都スサは廃墟となった。アッシュルバニパルはエラムを帝国に組み込むことをせずに放置した。その後エラムの地には複数の王がいたとされるが詳細は分からない *1。 いずれにしろアッシリアに抵抗していたかつてのような力を取り戻すことは出来なかった。

「アンシャンの王」は代替わりしてキュロス1世となり、彼はアッシュルバニパルに長男アルックを派遣して朝貢した。宗主国エラムからアッシリアに代えたわけだ。

しかしそのアッシリアも前609年に滅亡し、今度は大国メディア王国を宗主国として仰ぐことになった。3代目カンビュセス(カンビセス)1世はメディア王の娘のマンダネを王妃とした。

ペルシア「帝国」の建国者キュロス2世(大王)

4代目キュロス(キロス。ペルシア語ではクールシュ)2世はペルシアとメディアの血を引く人物だった。カンビュセスとマンダネの息子(メディア王アステュアゲスの娘)。

前550年(もしくは前553年)、キュロスはメディア王国に反旗を翻して瞬く間に王国を乗っ取った。首都もメディア王国の首都であったエクバタナとした。辺境の王でしかなかったキュロスがどのように乗っ取ったのかは不明だが、ともかくキュロスはメディア王国の強大な軍事力を手に入れた。

前547年、ペルシア軍はアナトリア西部のリュディア王国と開戦する。アナトリア中央のカッパドキア周辺で行われた戦争は、一度では決着がつかないうちに冬が到来し、お互いに兵を引いた。リュディア王クロイソスは来春に再戦することを想定して軍を解いたが、ペルシア軍はいったん引いた兵を軍を解かずにそのままリュディアの王都サルディスを急襲した。サルディスは耐えきれず陥落、リュディア王国はあっけなく滅亡・併呑された。ペルシア軍は猶も進軍しエーゲ海西岸のギリシア人の植民都市を支配下に組み込んだ。

前540年(あるいは前540年代)にエラムを併呑したとされる。エラム勢力については上述のアッシュルバニパルに敗北した後は詳細は分かっていないが、旧都スサ周辺では幾人かの王の存在が確認されていた。しかし分かっているのはその程度だ。キュロスが併呑したと考えられているがそれも詳細は分からない。その後も分かることはほとんど無い。

前539年、バビロニアに攻め込み、同年10月に王都バビロンを無血開城した。新バビロニア滅亡。バビロニア併呑の記録はキュロス自身が遺している。キュロス・シリンダーと呼ばれる碑文だ。

刻文の内容は、まずバビロニア王(ナボニドゥス)がマルドゥク神に罪を得たことを述べ、怒ったマルドゥク神がアンシャン王であったキュロスに世界の王としての地位を与えたと記す。キュロスはマルドゥク神の命令によって諸国を征服し、バビロンに無血入城した(1-19行)。

[中略]キュロスはバビロニアの民衆に安寧をもたらすものであること、マルドゥク神がキュロスとその軍隊を祝福していると述べる。各地の王が貢ぎ物を持ってキュロスを訪れてひざまずいた。キュロスは信仰を奪われた各国に対してその神々の像を返し、ナボニドゥスがバビロンに連れ去った各地の住民を元の国に返した。キュロスは諸国の人々がキュロスとカンビュセスのために祈るように命じた。

出典:キュロス・シリンダー - Wikipedia

キュロスはバビロニアと他の諸国の庶民の「開放者」だとして各地への侵攻を正当化したわけだ。

これが元で、旧約聖書ではキュロスはバビロン捕囚からユダヤ人を開放した人物ということになっている。

そしてこの碑文に自らを《アンシャン王、世界王、大王、偉大な王、バビロンの王、シュメールとアッカドの王、四方の王》と号した。歴代のメソポタミアの王が号したもので、キュロスはその継承者であることを宣言した。 *2

オリエント世界の4大帝国のうち3つを征服したキュロスだったが、残りのエジプトに攻め込まずに、中央アジアに遠征した。この遠征で現代の中国とインドが支配する領域に接する地域まで支配下に置いた。

しかし、カスピ海東部でイラン系遊牧民マッサゲタイに急襲されて戦死してしまう。遺体はキュロスが建設したパサルガダエ(アンシャン地方)に運ばれ安置された(前530年)。

カンビュセス2世/エジプト征服

キュロス2世が戦死した年にカンビュセス2世は「世界王」を継承した。

カンビュセスは中央アジアではなく、エジプトに侵攻した。前525年の春に侵攻したが、夏までにはエジプト全土を征服した。8月には《上下エジプトの王、ラー、ホルス、オシリスの末裔》と号し、自らがエジプト王の継承者であると宣言した。

カンビュセスは3年間エジプトに留まった。エジプトから南のヌビア、西のカルタゴに遠征軍を出したがこちらは全て敗北に終わった。(リビア北部にあったギリシア人植民都市のキュレネとバルカはカンビュセスがエジプトを征服した時に自主降伏した *3。)

エジプト滞在からバビロンまたはアンシャンへ帰還する途中、カンビュセスは亡くなる(前522年) *4

この死は「謎の死」と言われる。なぜなら彼の死後、「簒奪者」とされるダレイオス1世が「世界王」に即位したからだ。

ダレイオスが遺したベヒストゥン碑文によれば、ダレイオスは「自分自身の死を死んだ」と書かれており、これは青木氏は自殺を意味すると推測している(p43)。

カンビュセスの後継がダレイオスになるのだが、その過程が上記の碑文に書かれている。以下に要約するとこうなる。

カンビュセスはエジプト遠征の直前に同母弟のバルディア(ペルシア語。ギリシア語ではスメルディス)を暗殺した(簒奪を怖れたためか)。
このことは伏せられていたが、神官(祭司)のガウマータという人物がバルディアになりすまして王位に就く。
しかし、ダレイオスらがこれに気づき、仲間と共にガウマータを誅殺し、ダレイオスが仲間に推される形で王位に就いた。
その後、国内で内戦があったもののダレイオスはすべて鎮圧した。

ダレイオスが「チシュピシュ朝」から王位を簒奪したことが確実視されているので、上記の碑文も疑われている。そうでないにしても、上記のストーリーをそのまま信じられる人はほとんどいないだろう。しかし、これがペルシア帝国の公式記録であり、これを覆すほかの記録は無い。

ヘロドトスの『歴史』でも差異はあるものの、以上のストーリーをおおかた踏襲するものだ。ペルシア帝国の公式のストーリーは碑文以外の形で広められたのだろう。

ちなみに、私がいちばん腑に落ちる仮説は、同母弟バルディアは実際は暗殺されておらず、カンビュセスの死後に王位に就いたが、内乱が起こり、最終的にダレイオスが王位に就いた、というもの。ただ、これもダレイオスがチシュピシュ朝の人間でないことを踏まえてどのように王になったのかを説明する証拠はなにもない。

とにかく、これでチシュピシュ朝は断絶した。

ダレイオス1世からの歴史は次回の記事で書く。



*1:List of Elamite kings - Wikipedia

*2:青木氏/p37

*3:阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021/p105

*4:青木氏/p43

アケメネス朝ペルシア帝国 その2 「アケメネス」という名称

前回からの続き。

「アケメネス」という呼び方のいくつか

「アケメネス」という呼び方は(古代)ギリシア語に由来する呼び方。専門家によっては「アカイメネス」と呼ぶこともある。(古代)ペルシア語では「ハカーマニシュ」。

個のブログでは一般に一番通じている「アケメネス」を使用する。

ちなみに、英語では「アケメネス(人名。アケメネス朝の始祖とされる)」はAchaemenes(アキーメニース)、「アケメネス朝」はAchaemenid(アキーメニド)。

「アケメネス」という名称の由来

「アケメネス」とは何かというと、「アケメネス朝」の始祖とされる人物の名前。ただし、「アケメネス」の事績は全く遺っておらず、伝説上の人物だと疑われている(疑っていない研究者もいる)。

「アケメネス」の名前が現れたのは、ダレイオス1世(ダーラヤワウ1世。在位:前522-486年)が建てたベヒストゥン(バガスターナ)碑文で、ここにアケメネス朝の系譜が書かれている。

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/ペルシア帝国とは - コトバンク

この系譜でおかしいところ。

1つ目。前述の始祖とされるアケメネスの事績が全く見つからないこと。(テイスペスについては遺っている)

2つ目。各人物の名前の由来について。「テイスペス」はギリシア語で、ペルシア語では「チシュピシュ」。「チシュピシュ」はエラム語に由来する名前であり、ダリウス(ダレイオス)1世とは別の系譜のキロス(キュロス)1世からの系譜の名前もエラム語由来の名前だ。

しかし、「アケメネス(ハカーマニシュ)」はペルシア語由来で「追随者の霊魂に正確づけられた者」という意味になり、ダレイオスが連なる系譜もペルシア語由来だ。そして「ダレイオス(ダーラヤワウ)」もペルシア語由来で「確固たる善を保持する者」を意味する。

3つ目。本家と分家の立場。ベヒストゥン碑文の系譜に関する要約の引用。

アケメネス朝は、遠祖アケメネスから始まり、その子テイスペスの次の代で二系統に分かれる。長子アリアラムネスは、パールサの王位に就き、次子キュロス1世は、アンシャンなどの土地が与えられた。

出典:山田勝久・児島健次郎・森谷公俊/ユーラシア文明とシルクロード ペルシア帝国とアレクサンドロス大王雄山閣/2016/p33

これに対して、碑文の系譜を否定する側の青木健氏によれば、そもそもアンシャンとパールサ(ペルシア)はほぼ同一地域を指すので、これを別個の地域として書かれていることがおかしい。そしてそれよりも重要なことは、本家となるキュロス1世が辺境のアンシャンを受け継ぎ、分家の方が重要度の高い方を受け継いだという話もおかしい。(青木健『ペルシア帝国』p51 *1 )。

4つ目。キュロス円筒印章(キュロス・シリンダー)との比較。これはキュロス大王(キュロス2世)が遺した碑文で、系譜についての言及がある。

それによれば、キュロスはカンビュセス(1世)の息子にして、テイスペスの子孫だと書かれている。しかし、アケメネスやアリアラムネスの名は書かれていない *2 (キュロス・シリンダーについては キュロス・シリンダー - Wikipedia 参照) 。

以上をもって、「アケメネス」というのはダレイオス1世が創作した架空の人物だ、と言っていいだろう。

そしてダレイオス1世は王位簒奪者ということになるわけだが、ここらへんは別の記事で書く。



*1:講談社現代新書/2020

*2:阿部拓児/アケメネス朝ペルシア 史上初の世界帝国/p86

アケメネス朝ペルシア帝国 その1 「ペルシア」とは何か?

オリエント世界を統一したアッシリア帝国の滅亡後は4つの王国が分立していた。

これから話すペルシア帝国は、上記のうちのメディア王国の従属国だったが、これを滅ぼし、最終的にオリエント世界全土を併合した。

このブログでは、ペルシア人が歴史に登場した時期に遡って話を始める。

ペルシア人の登場

ペルシア人はインド=ヨーロッパ語族の言語を話すインド・アーリア系の民族。

文字情報のペルシア人の最古の記録は、新アッシリアのシャルマネセル3世の年代記が記されている『黒色オベリスク』。これは前825年に建てられたもの。

アッシリア王シャルマネセル3世(紀元前858年-紀元前824年)の碑文によれば、紀元前843年のディヤーラー川の源流域とザグロス山脈の中の地域への彼の軍事遠征によって、パルスアの国土と都市は破壊された。次に紀元前835年に、同じ地域にもう一度遠征していた際に、27人のパルスアの王達が、自発的にシャルマネセル3世に貢納してきた。[以下略]

出典:パルスア - Wikipedia

ペルシア人の語源は上記の「パルスア」(Parsua、初期の表記はParsuashまたはParsumash)が転化したもの。地名から民族の呼び名がついた。青木健『ペルシア帝国』 *1 によれば、彼らが住んでいたこの地は、古くはシュメール語で「名馬の産地」を意味する「パラフシェ」と呼ばれていた。これがアッシリア語では「パルスアシュ」と呼ばれた(「パルスア」が何語かは分からない)。これがギリシア語に転化して「ペルシア」になった。

ペルシア人(と、のちに呼ばれる人々)は中央アジアから移動して前9世紀にこのパルスアに移住したと考えられている。イラン高原の西北部にあたるこの地は何度もアッシリアからの攻撃を受けて、ペルシア人を含む諸勢力はアッシリアに従属させられた。

ただし、イラン高原西北部には彼ら以外のイラン・アーリア人が次々と移住してきたのでペルシア人は押し出されてしまった(上述の『ペルシア帝国』によれば、前9世紀中には追い出された)。ちなみにこの地を最終的に支配したイラン・アーリア人がメディア王国を建国したメディア人。

さて、追い出されたペルシア人が行き着いた場所はイラン高原西南部のアンシャン。この地は古くから高度の文化・文明を持つエラム人が支配している土地でエラムの首都だったこともある *2エラムの王たちは「アンシャンとスサの王」を称した(スサは後代の首都)。しかし、この地は文明圏や交易ルートから遠く離れた不毛の土地だった *3 。上述のメディア人は土着民を同化したが、ペルシア人エラム人に(同化はされなかったものの)従属した。文化・文明の差があったからだ。

地名の話:「アンシャン」から「パールサ」→「ファールス州」

ここからは「ペルシア」という地名の話。

上述の通りペルシア人はアンシャンに住み着いた。地名により「パルスア人=ペルシア人」と呼ばれていた理屈からすれば、彼らは「アンシャン人」と呼ばれてよいはずだが、彼らは「ペルシア人」と呼ばれ続けた。ただし彼らの王は「アンシャンの王」と呼ばれる。

時代は下って前6世紀後半になり(ダレイオス1世の治世)、かつてのアンシャンの地が「パールサ」と呼ばれるようになった。これが中世ペルシア語で「パールス」、アラビア語形で「ファールス」、そして現代では「ファールス州」という地名となっている。

地名の話:「イラン」と「ペルシア」

「ペルシア帝国」というのは、アケメネス朝や のちのサーサーン朝が自称したものではなく、(古代)ギリシア人がそのように呼んだ他称だった。

古代ギリシアより知識を受け継ぐ欧米人は現在のイランに当たる地域を「ペルシア」と呼び習わし、中国や日本などもそれに倣っていた。

時代は下って20世紀に入り1935年、パーレビ朝(パフラヴィー朝)の初代皇帝レザー・シャーが「ペルシア王国」の国名から「イラン(イーラーン)帝国」に変更した。そして諸国に対してこれまでの「ペルシア」の代わりに「イラン」を使用することを要請した。

そして、やっと彼の地はペルシアではなくイランとなった。ただし、イラン人の話す言語は「ペルシア語」だ。


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遊牧、騎馬民族、スキタイのまとめ(起源について)

今回は、前回まで書いてきた遊牧、騎馬民族、スキタイのまとめを書いていく。

遊牧の起源

遊牧の起源として、前5500年に西アジアの「肥沃な三日月地帯」が候補に挙げられるのだが、この対象となる人々の生活様式は、草原における遊牧民とは違うものだ。

確かに彼らは非定住(または半定住)で牧畜を行なってはいたが、都市間を結ぶ交易商の役割も持つ存在でもあった。そして彼らは都市を遠く離れて草原で生活を営む技術を持っていなかったので、非定住(半定住)牧畜民と呼んだほうがいいだろう。

上記を除いて遊牧の起源の有力な候補は、黒海北部・北カフカス辺りの草原にあったヤムナ文化だ(前3500年)。この先行文化であるスレドニ・ストグ文化(前4500-前3500年)の頃には遊牧の要素がいくつかみられるのだが、本格的に草原に展開し始めるのはやはりヤムナ文化からのようだ。

遊牧の要素はいくつかあるわけだが、一つ挙げるのならば車行だ。前3500年にメソポタミアで車行(車輪)が発明されたが、これが草原進出の原動力になった *1

インド=ヨーロッパ語族の起源

インド=ヨーロッパ語族の起源もヤムナ文化が有力な候補地だ。この候補地を主張するクルガン仮説は専門家の議論の中心になっているようだ。

この言語が東西に広く伝播した原因は、その話者が遊牧民だったためだろう。

アーリア人について

アーリア人と聞けば、ヒトラーナチスドイツを思い出す人が多いだろう。ヒトラーが思い描くアーリア人は「金髪・碧眼・長身・細面」という外見を持つ人のことだったが、これはほとんどヒトラーの妄想の産物だった。

現在、アーリア人という学術用語は、インド=ヨーロッパ語族を話す人々の中でインド・イラン語派の言語を話した人々を指す(インド・イラン人、Indo-Iranians と呼ぶ人のほうが多いかもしれない。ヨーロッパ人は含まれない)。

騎馬民族の起源

騎馬民族が最初に文字史料に現れたのはキンメリア人とその直後のスキタイ人だ。ただしキンメリア人は考古学的証拠をほとんど遺さなかったため、スキタイ人のほうがクローズアップされている。

スキタイ人の起源については、ユーラシア・ステップ(大草原)の東部が有力視されている。古代中央ユーラシア・中央アジア史が専門の林俊雄氏によれば、遊牧民中国文明接触により騎馬戦術が発明された(前9世紀)。これを発明した人々は中国文明に刺激を受けて王権と権力の階層化を採用した(文字情報は無いが遺跡から確認できる)。

騎馬戦術を発明した人々の文化をスキタイ文化またはスキタイ系文化と呼ぶ。すなわち騎馬民族を誕生させたのはスキタイ人ということになる。ただし、このスキタイ人は、西アジアギリシアに現れたスキタイ人とは完全に一致するものではない。

最初の騎馬民族としてのスキタイ人は全ての騎馬民族の発生源であり、西アジアギリシアに現れたスキタイ人はそこから派生した騎馬民族のひとつだ。つまり上位カテゴリのスキタイ人とサブカテゴリのスキタイ人の2つを区別して考える必要が有ることに注意。

西アジアに現れた騎馬民族

上記の通り騎馬民族はユーラシア・ステップ東部で誕生した。そして西部に進出あるいは伝播した。西アジアギリシアに現れた騎馬民族(キンメリア人とスキタイ人)はその騎馬民族の一部だ。

これら騎馬民族についてはヘロドトス『歴史』(前5世紀)の詳細な記述が有名だが、それ以前に西アジアに現れている。

メソポタミア(現在のイラク)で出土した新アッシリア帝国が記した碑文にキンメリア人(前8世紀末)とスキタイ人(前7世紀初頭)と比定される記録がある。

彼らは国家と呼べるほどの勢力を持ち、西アジアの各国と同盟を組むなどして西アジアの戦争に参加した。

キンメリア人の本拠地は黒海北岸(現在のウクライナ)にあったが、スキタイに追われて消滅した(諸説あり)。前6世紀になるとスキタイ人がここを支配した(前4世紀まで続く)。



*1:ただし、この時の車輪は木を輪切りにしたようなもので重く、馬でなく牛に牽かせたと考えられている。

最初期の騎馬民族 その6(絶頂と没落)

前回からの続き。

スキタイ王アテアス:絶頂期

ヘロドトス『歴史』で最後に言及したスキタイ王はオクタマサデスだった。前回書いたように『歴史』以降の歴史の詳細な情報は途絶える。

その後に現在で確認できる王はアテアスという名前。

アテアスは前430年頃に生まれたとされるが、オクタマサデスが連なった王族とどのような関係かは確認できていない。この王は前339年まで生きたというので、死ぬ時は90歳以上であった。

そして死ぬまで王であった。いつ王になったかは分からないが、前4世紀の長期に亘って王に君臨していたということになる。雪嶋『スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古』 *1 では前4世紀を「絶頂期」と書いている。

アテアスの死

アテアスの治世の晩年、ギリシア植民市の一つイストリア(ヒストリア)との戦争をし、苦戦した。そこでアテアスはマケドニア王フィリッポス2世に援軍を要請することにした。フィリッポス2世とはアレクサンドロス大王の父だ。

戦時中にイストリア王が亡くなったため援軍は不要となり、アテアスは約束を反故にしてマケドニア軍を追い返した。これがきっかけとなって今度はマケドニアと戦争になり、アテアスは戦死した *2

没落期

アテアス死後、スキタイは没落期に入る。

前4世紀末の王はアガロスというが、アテアスとの関係は分からない。

アガロスの名前が言及されるのは、スキタイ自体の歴史ではなく、ボスポラス王国というギリシア植民市から発展した国の歴史の登場人物の一人としてだ。

ボスポラス王国の話を少し続ける。

前4世紀末のこの国は黒海アゾフ海の間のケルチ海峡を支配し、ギリシア本土の交易により隆盛していた(スキたいとどのような関係にあったかは分からなかった)。

前4世紀後半はパリュサデスという王が統治していたが、彼の死後に権力闘争が始まった。詳細は省くが(スキタイ - Wikipedia 参照)、アロガスは敗北した側に加担していた。アロガスの言及はそれだけだ。

ちなみに、この戦いの勝者側にはサルマタイ勢力がいた。サルマタイはこの後黒海北岸を支配する勢力だ。上記の権力闘争に加担したサルマタイはクバン川流域(カフカス山脈からアゾフ海南部へ流れる川)を支配下に置いたという。

前3世紀以降ドン川の東からスキティアに侵入してきたサルマタイによって黒海北岸地方は征服されていった。また、同時代には西からケルト系ガラティア人が侵略するという事件も重なり、第二スキタイ国家は崩壊したと考えられている。

出典:雪嶋宏一/スキタイ 騎馬遊牧国家の歴史と考古/2008/雄山閣/p188

  • スキティア=黒海北岸と考えているのだが、違いがあるのかどうかは分からない。

  • ドン川はアゾフ海の北東を流れる川。サルマタイがこの地域を支配する前は(スキタイと親戚関係にある)サウロマタイという違う遊牧民がいた(ネタ元はヘロドトス『歴史』) *3 のでもともとスキタイの領地ではない。

  • 「第二スキタイ国家」というのは、黒海北岸を支配したスキ大勢力を指す。この用語がどの程度通用するのか私には分からない。
    ちなみに、「第一」は新アッシリアと同時代、「第三」については後述。

「第二スキタイ国家」の崩壊時の詳細は分からないが雪嶋氏は以下のように書いている。

黒海北岸地方がサルマタイの支配下に入っていたことを証明する史料はポリュビオスによって伝えられている。前179年にポントス(黒海周辺諸国講和条約を締結した。[中略]

ここではスキタイ王は言及されておらず、すでに黒海北岸地方における主要な勢力とはみなされていないことから、サルマタイは遅くとも前2世紀初めまでに国家北岸草原地帯の支配を確立していたことが確認できる。

出典:雪嶋氏/p191-192

軍事面についてのスキタイとサルマタイの優劣

青木建『アーリア人*4 によると、「軽装騎兵」戦術のスキタイ人が「重装騎兵」戦術のサルマタイに敗れたという趣旨のことを書いている。

2つの戦術の違いについてはp21に書いてある。

「軽装騎兵」のポイントは「騎馬による高速な機動性」「弓射によるアウトレンジ戦法」「どの方角からも射撃できる巧みな騎射技術」。これによってスキタイ人は覇権を維持していた。

「重装騎兵」のポイントは「人馬ともに重装甲」「機動性と騎射を犠牲にする代わりに刀槍での近接戦闘」。これをサルマタイ人が発明したようだ。

青木氏の説明でひとつ引っかかるのは《決定的だったのは、足で馬をコントロールする鐙の発明だったようである》というものだ。

鐙の発明についてはいろいろな議論があるようだが、私は今のところ林俊雄氏が説明している紀元後3世紀の中国が起源というものを信じている (騎馬遊牧民/世界史の窓。ネタ元は<林俊雄『スキタイと匈奴―遊牧の文明』興亡の世界史 2007初刊 講談社学術文庫 2017 p.341-343>)。

林氏の『鞍と鐙』(1996、 PDF ) という論説(?)で、あらゆる説を挙げて検討し、結論として上述の説を書いている。ただし、鐙が無くとも重装騎兵で闘うことは可能であるとも書いている。サルマタイ人の重装騎兵までは否定していないということだ。

スキタイの最期

「第二スキタイ国家」の崩壊後、スキタイ人クリミア半島に住むようになった。雪嶋氏によれば、クリミア半島西部とその西側の黒海西部沿岸地域(ドニエプル川河口からドナウ川河口辺りまで)の地域が「小スキティア地方」と呼ばれていた。つまりスキタイ人が住んでいた地域だ。そしてここで活動していたスキタイ国家を「第三スキタイ国家」と雪嶋氏は書いている(p196-197)。勢力は小さいが王はいた。

「第三スキタイ国家」の文字史料は少ないが、黒海周辺の覇権を唱えたポントス王国のミトリダテス6世(大王。在位:前132-前63年)の手を焼かせた程度の勢力ではあった(ポントス王国はボスポラス王国とは別の王国)。ただし最終的には支配下に組み込まれた。

そして紀元後は黒海周辺の小国のひとつでしかなくなった(雪嶋氏/p205)。

小スキティアに移住した後のスキタイ人は、青木氏は「定住化した」とかいているが(p33)、雪嶋氏は遊牧していたと書いている(p201)。青木氏の専門は宗教方面なので、雪嶋氏の説の方を信じよう。

クリミア半島の定住民としてのスキタイ人は紀元後3世紀まで確認できる、と青木氏は書いている(p33)。



*1:2008/雄山閣/p137

*2:雪嶋氏/p137。ネタ元はポンペイウス・トグロス『フィリッポス史』Historiarum Philippicarum、邦訳では『地中海世界史』

*3:雪嶋氏/p188

*4:講談社選書メチエ/2007/p33