歴史の世界

アケメネス朝ペルシア帝国 その3 「チシュピシュ朝」

前回からの続き。

今回の参考文献は青木健『ペルシア帝国』(講談社現代新書/2020)

「チシュピシュ朝」

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)/ペルシア帝国とは - コトバンク

上記の略系図ではアケメネスが始祖となっているが、この「アケメネス」はダレイオス(ダリウス)1世がでっち上げた架空の人物だった(ダレイオスは王位簒奪者なので、系譜を捏造する必要があった)。このことは前回書いた。

というわけで、本当の始祖はテイスペスとなる(古代ギリシア語。古代ペルシア語ではチシュピシュ)。青木健『ペルシア帝国』では、ダレイオスから始まるアケメネス(ハーカマニシュ)朝と区別してチシュピシュから始まる系譜をチシュピシュ朝としている(第1章)。

テイスペスは「アンシャンの王」という称号を名乗っていたものの、実態はエラムに従属する存在だった。

前647年、エラムアッシリア王アッシュルバニパルとの戦いで致命的な敗北を喫し、王都スサは廃墟となった。アッシュルバニパルはエラムを帝国に組み込むことをせずに放置した。その後エラムの地には複数の王がいたとされるが詳細は分からない *1。 いずれにしろアッシリアに抵抗していたかつてのような力を取り戻すことは出来なかった。

「アンシャンの王」は代替わりしてキュロス1世となり、彼はアッシュルバニパルに長男アルックを派遣して朝貢した。宗主国エラムからアッシリアに代えたわけだ。

しかしそのアッシリアも前609年に滅亡し、今度は大国メディア王国を宗主国として仰ぐことになった。3代目カンビュセス(カンビセス)1世はメディア王の娘のマンダネを王妃とした。

ペルシア「帝国」の建国者キュロス2世(大王)

4代目キュロス(キロス。ペルシア語ではクールシュ)2世はペルシアとメディアの血を引く人物だった。カンビュセスとマンダネの息子(メディア王アステュアゲスの娘)。

前550年(もしくは前553年)、キュロスはメディア王国に反旗を翻して瞬く間に王国を乗っ取った。首都もメディア王国の首都であったエクバタナとした。辺境の王でしかなかったキュロスがどのように乗っ取ったのかは不明だが、ともかくキュロスはメディア王国の強大な軍事力を手に入れた。

前547年、ペルシア軍はアナトリア西部のリュディア王国と開戦する。アナトリア中央のカッパドキア周辺で行われた戦争は、一度では決着がつかないうちに冬が到来し、お互いに兵を引いた。リュディア王クロイソスは来春に再戦することを想定して軍を解いたが、ペルシア軍はいったん引いた兵を軍を解かずにそのままリュディアの王都サルディスを急襲した。サルディスは耐えきれず陥落、リュディア王国はあっけなく滅亡・併呑された。ペルシア軍は猶も進軍しエーゲ海西岸のギリシア人の植民都市を支配下に組み込んだ。

前540年(あるいは前540年代)にエラムを併呑したとされる。エラム勢力については上述のアッシュルバニパルに敗北した後は詳細は分かっていないが、旧都スサ周辺では幾人かの王の存在が確認されていた。しかし分かっているのはその程度だ。キュロスが併呑したと考えられているがそれも詳細は分からない。その後も分かることはほとんど無い。

前539年、バビロニアに攻め込み、同年10月に王都バビロンを無血開城した。新バビロニア滅亡。バビロニア併呑の記録はキュロス自身が遺している。キュロス・シリンダーと呼ばれる碑文だ。

刻文の内容は、まずバビロニア王(ナボニドゥス)がマルドゥク神に罪を得たことを述べ、怒ったマルドゥク神がアンシャン王であったキュロスに世界の王としての地位を与えたと記す。キュロスはマルドゥク神の命令によって諸国を征服し、バビロンに無血入城した(1-19行)。

[中略]キュロスはバビロニアの民衆に安寧をもたらすものであること、マルドゥク神がキュロスとその軍隊を祝福していると述べる。各地の王が貢ぎ物を持ってキュロスを訪れてひざまずいた。キュロスは信仰を奪われた各国に対してその神々の像を返し、ナボニドゥスがバビロンに連れ去った各地の住民を元の国に返した。キュロスは諸国の人々がキュロスとカンビュセスのために祈るように命じた。

出典:キュロス・シリンダー - Wikipedia

キュロスはバビロニアと他の諸国の庶民の「開放者」だとして各地への侵攻を正当化したわけだ。

これが元で、旧約聖書ではキュロスはバビロン捕囚からユダヤ人を開放した人物ということになっている。

そしてこの碑文に自らを《アンシャン王、世界王、大王、偉大な王、バビロンの王、シュメールとアッカドの王、四方の王》と号した。歴代のメソポタミアの王が号したもので、キュロスはその継承者であることを宣言した。 *2

オリエント世界の4大帝国のうち3つを征服したキュロスだったが、残りのエジプトに攻め込まずに、中央アジアに遠征した。この遠征で現代の中国とインドが支配する領域に接する地域まで支配下に置いた。

しかし、カスピ海東部でイラン系遊牧民マッサゲタイに急襲されて戦死してしまう。遺体はキュロスが建設したパサルガダエ(アンシャン地方)に運ばれ安置された(前530年)。

カンビュセス2世/エジプト征服

キュロス2世が戦死した年にカンビュセス2世は「世界王」を継承した。

カンビュセスは中央アジアではなく、エジプトに侵攻した。前525年の春に侵攻したが、夏までにはエジプト全土を征服した。8月には《上下エジプトの王、ラー、ホルス、オシリスの末裔》と号し、自らがエジプト王の継承者であると宣言した。

カンビュセスは3年間エジプトに留まった。エジプトから南のヌビア、西のカルタゴに遠征軍を出したがこちらは全て敗北に終わった。(リビア北部にあったギリシア人植民都市のキュレネとバルカはカンビュセスがエジプトを征服した時に自主降伏した *3。)

エジプト滞在からバビロンまたはアンシャンへ帰還する途中、カンビュセスは亡くなる(前522年) *4

この死は「謎の死」と言われる。なぜなら彼の死後、「簒奪者」とされるダレイオス1世が「世界王」に即位したからだ。

ダレイオスが遺したベヒストゥン碑文によれば、ダレイオスは「自分自身の死を死んだ」と書かれており、これは青木氏は自殺を意味すると推測している(p43)。

カンビュセスの後継がダレイオスになるのだが、その過程が上記の碑文に書かれている。以下に要約するとこうなる。

カンビュセスはエジプト遠征の直前に同母弟のバルディア(ペルシア語。ギリシア語ではスメルディス)を暗殺した(簒奪を怖れたためか)。
このことは伏せられていたが、神官(祭司)のガウマータという人物がバルディアになりすまして王位に就く。
しかし、ダレイオスらがこれに気づき、仲間と共にガウマータを誅殺し、ダレイオスが仲間に推される形で王位に就いた。
その後、国内で内戦があったもののダレイオスはすべて鎮圧した。

ダレイオスが「チシュピシュ朝」から王位を簒奪したことが確実視されているので、上記の碑文も疑われている。そうでないにしても、上記のストーリーをそのまま信じられる人はほとんどいないだろう。しかし、これがペルシア帝国の公式記録であり、これを覆すほかの記録は無い。

ヘロドトスの『歴史』でも差異はあるものの、以上のストーリーをおおかた踏襲するものだ。ペルシア帝国の公式のストーリーは碑文以外の形で広められたのだろう。

ちなみに、私がいちばん腑に落ちる仮説は、同母弟バルディアは実際は暗殺されておらず、カンビュセスの死後に王位に就いたが、内乱が起こり、最終的にダレイオスが王位に就いた、というもの。ただ、これもダレイオスがチシュピシュ朝の人間でないことを踏まえてどのように王になったのかを説明する証拠はなにもない。

とにかく、これでチシュピシュ朝は断絶した。

ダレイオス1世からの歴史は次回の記事で書く。



*1:List of Elamite kings - Wikipedia

*2:青木氏/p37

*3:阿部拓児/アケメネス朝ペルシア/中公新書/2021/p105

*4:青木氏/p43