歴史の世界

アケメネス朝ペルシア帝国 その4 ダレイオス1世(出自とキーワード)

前回からの続き。

ダレイオス1世の出自

ダレイオス1世が簒奪者だと考えられていることは前回、前々回で書いた。

ダレイオスが即位するまではどのような人物だったのだろうか?

彼の父親ウィーシュタースパは、クールシュ[=キュロス]2世が任命したヒルカニア総督であり、ダーラヤワウシュ[=ダレイオス]自身は、カンブージヤ[=カンビュセス]2世の「槍持ち(=近衛兵)」に過ぎなかった。

出典:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p52

ダレイオスの記述を疑ってこちらをまるまる信じるのはどうかとも思うが、疑いだしたらキリがない。クーデタするにしても支配者層に属していなければ無理だったわけで、ダレイオスがその一員であったというのは妥当なところだろう。

宮廷内の権力

婚姻関係

ダレイオスは即位以前に結婚していた。相手はクーデタ決行時の同志の一人の娘で、彼女とのあいだに3人の男子をもうけていた(青木氏/p71)。

しかし即位後、王位を固めるために、キュロス2世の2人娘であるアトッサ(ギリシア語名。ペルシア語ではウタウサ)とアルテュストネ(ペルシア語ではリタストゥーナ)と結婚する。この2人は兄であるカンビュセス2世と結婚していた。

さらにカンビュセス2世によって暗殺された(とダレイオスの碑文では語られている)スメルディス(バルディア)の娘パルミュス(パルミーダ)とも結婚した。

ヘロドトス『歴史』によれば、アトッサがダレイオスにベッドの上でギリシア人の侍女が欲しいとねだり、ギリシア遠征のきっかけを作ったという物語を書いている。これらの話はアトッサの宮廷での権勢を示すものとして解釈されている。ただし、ペルシア由来の文献にはアトッサの活躍は書かれていない。 *1

上の物語の真偽はともかく、ダレイオスの死後、アトッサが産んだクセルクセス1世が即位しているので、彼女が重んじられていたことは間違いないだろう。

ダレイオスとクーデタを起こした貴族たち

ダレイオスが遺したベヒストゥン碑文にはクーデタを起こしたときの6人の同志の名前が書かれている。彼らはダレイオス即位後に大貴族となって、王家の外戚となり重要な官職を占めた *2

クーデタ成功後に(反乱は続発したものの)短期間で内乱を鎮圧できたのは、彼らの功績のおかげだと碑文に書かれている。

それが成功できたということは、上述の「同志」たちは元々軍を保持するほどの貴族だったと考えられ、ダレイオスは彼らを従えることができるほどの大貴族だったという傍証になるだろう。

ダレイオス1世のキーワード

アケメネス朝の中で、私たち日本人が一番知っている王さまはダレイオス1世だろう。彼の名と王朝名と「ペルセポリス」「王の道」「王の耳」「サトラップ」など、高校世界史でセットで覚えさせられる。長きに亘るペルシア戦争を始めたのもこの王だ。

ヘロドトス『歴史』にはダレイオスが20の行政区を制定しサトラペイア(サトラップ=総督≒知事)を置いたことなど記されている。高く評価していたようだ。

高校世界史では要点しか書いていないので、あたかもダレイオスがサトラップなどの諸制度を創始したような印象を受けるが、サトラップ制も「王の道」もアッシリア帝国の時代にすでにあった。帝国運営システムの創始者は、私はアッシリア帝国創始者ティグラト・ピレセル3世だと考えている *3

そして、この運営システムとよく似たものが、西はローマ帝国、東は秦帝国で始められている。

サトラップ

サトラップは総督と訳される。現代日本で言えば知事に近いが、知事との違いは軍権と外交権を持っていることだ *4。知事というよりも王の代理と言ったほうがいいかもしれない。王とサトラップの違いは基本的に世襲ができないことだ。つまりはサトラップに移譲された地域はサトラップ自身の領地ではなく、単に管理権を移乗されただけということだ。期間限定の王と言えるかもしれない(期間は中央政府が決める)。

王の道

「王の道」のネタ元もヘロドトス『歴史』で、これによれば旧リュディア国王都サルディア(小アジア西部)から旧エラム王都スサまでの幹線道路を指す。

出典:Royal Road - Wikipedia

またヘロドトスは馬によるリレー方式のいわゆる駅伝制と呼ばれる通信システムを採用した。ちなみに、これについてもアッシリアに先例がある (新アッシリア帝国における国家通信#駅伝制 - Wikipedia )。

ただし、この道路は幹線道路の一部でしかない。ヘロドトスがこの道を紹介したのは帝都(の一つ)のスサからギリシア(の近くのサルディア)までの道のりと必要時間(3ヶ月)を示すためだと思われる。

クテシアス(前5世紀のギリシア人)によれば、東方のバクトリアやインドへにも幹線道路が伸びていることに言及されている。さらにペルセポリス出土の粘土板に旅行証明書などの記録があり、この帝都にも幹線道路が伸びていたことを証明した。 *5

王の目、王の耳

王の目・王の耳
アケメネス朝(古代ペルシア帝国)の王直属の行政監察官。各州を巡ってサトラップ(知事)を監視するのがおもな役目で,王の目が本官,王の耳が補佐官である。これによって国内の中央集権化がはかられた。

出典:旺文社世界史事典 三訂版/王の目・王の耳とは - コトバンク

ちなみに秦帝国では、サトラップに当たる役職を刺史と呼び、王の目・王の耳は監察御史と呼んだ。



*1:阿部拓児/アケメネス朝ペルシア――史上初の世界帝国/中公新書/p117-118

*2:青木氏/p54

*3:新アッシリア① 先帝期/帝国期の幕開け - 歴史の世界を綴る

*4:阿部氏/p96-97

*5:阿部氏/p98