歴史の世界

「幕末の金(ゴールド)の海外大量流出事件」のその後について

前回、「幕末の金(ゴールド)の海外大量流出事件について」という記事を書いたが、今回は、その後の話を書く。

金(というか小判)の海外流出は数十年前までに想定されていたよりも少ない、というのが最近では有力になっている、ということは前回の記事で紹介した。

貨幣改鋳

金流出の自体に気づいた幕閣は、天保小判に代えて安政小判を作った。加えて安政二朱銀という貿易用の特殊な通貨も発行した。しかし、総領事(駐日大使)のハリス(米)やオールコック(英)の抗議に遭い、一ヶ月弱で通用停止となった。

幕閣はハリスらとの協議の末、金・銀国債標準の相場に対応した万延小判と安政一分銀を発行した。これにより流出騒ぎは収まった。

急激なインフレ

ただし、上記の対応のせいで、別の現象が起こる。それがインフレだ。

万延小判の金の含有量を天保小判のそれの3分の1にしたことで小判の価値が下落したこと、改鋳した金を使って小判を大量発行したことで、急激なインフレが起こった。

また、金の大量流出の対価として流入してきた大量の銀によって、国内の銀の価値が暴落した。そして幕府は銀貨の価値が9分の1に落ちるほど大量発行した。当然インフレに拍車がかかった。

そして、市場が混乱して、幕府の信用が落ちた。

藩札の信用の維持(長州藩の場合)

上念司『経済で読み解く日本史 江戸時代』では、長州藩の藩札に注目している。

これによれば、長州藩が金流出事件より前にそれまでの3倍となる藩札を大量発行していた。当然、藩札の価値が下落するわけだが、幕府が上記の「9分の1」というさらなる大量発行をしたために、むしろ長州藩の藩札のほうが信用が相対的に高くなってしまった。そのため藩札の価値の下落は大量発行前と比べて1割弱程度に収まった。

長州藩は万年藩財政難の克服のための藩政改革を成功させたと言われているが、上記のことは改革に有為に働いた。

成長産業の勃興

急激なインフレは庶民にとって害だが、当時の庶民はただ悲嘆に暮れているほど弱くはなかった。

前回の記事では書いた通り、江戸時代の庶民は経済成長する活力を持っていた。幕末の急激なインフレはさすがに全ては吸収できなかったが、それでも経済成長の踏み台として大いに活用した。さらに言えば、海外の買い手を獲得したことも大きい。さらに、奇跡のような幸運をつかむ。

幕末のころ、ヨーロッパでは微粒子病という蚕の病気が蔓延し、蚕は繭を作る前に死んでしまい生糸が払底していました。頼りにしていた清国(今の中国)はアヘン戦争などで十分に養蚕ができずにいました。そこで、日本の生糸に注目したのです。各国の貿易商は日本からまず生糸を買い付けました。生糸輸出の始まった万延元(1890)年の総輸出品目における生糸の割合は65.6パーセント。それ以降毎年70パーセント前後で推移しています。生糸は輸出の花形、稼ぎ頭だったのです。

出典:日本の絹の歴史 - 着物ブログ

当時の日本は欧州列強からは後進国 *1 とみなされていたが、経済においては劣らない部分も少なからずあった。その一面が生糸の品質だ。日本の生糸は列強国の品質の需要を満たすクオリティーを以前からすでに持っていた。

国内のインフレの効果もあり、海外市場価格の半額以下で輸出することが出来た。このチャンスに庶民はこぞって生糸産業に参戦した(生糸以外にもお茶産業も同じような道をたどる)。

経済成長の活力・インフレと上記の幸運が相まって、生糸(製糸)産業は飛躍的に発展した。これが明治維新を経て、大日本帝国初期を支える基幹産業となった。

まとめ

前回の記事では「最近の研究では流出規模はそれほど大きくなかったとの見方が有力」という話を紹介したのだが、この事件がもたらす影響はインフレと形を変えて波及していったわけだ。

*1:未開な国ではないが、列強国と同等とは言えない半独立国