歴史の世界

幕末の金(ゴールド)の海外大量流出事件について

幕末の通貨問題(ばくまつのつうかもんだい)とは、日米和親条約締結後に決められた日本貨幣と海外貨幣の交換比率に関する問題。日本と諸外国の金銀交換比率が異なったため、日本から大量の金が流出した。

出典:幕末の通貨問題 - Wikipedia

この話を知ったのは佐藤雅美大君の通貨―幕末「円ドル」戦争 』という本で、かなり驚いたのだが、結構有名な話のようで、ベネッセのwebサイトでは高校生向けの説明が紹介されていた(ベネッセのリンク先)。

以下では、wikipediaのページを基に、自分なりに書いておく。

問題の前提

江戸幕府の台所事情と通貨事情

江戸幕府が開かれると、幕府は各地の金・銀・銅などの鉱山を直轄地とした。開府当初は各藩に大盤振る舞いするなど「気前良く」散財していた。はたして、五代将軍・綱吉の時代には「このままでは金・銀の量が底をつく」という問題が発生した。

上記の問題に加えて、飛躍的な経済成長により大量の貨幣の需要が必要となった。貨幣を発行する金が手元にわずかしかなくなる事態となった(鉱山の発掘が間に合わなくなったと言うべきか)。

この2つの問題を一挙に解決した人物が綱吉の治世の勘定奉行・荻原重秀だ(江戸時代の通貨制度は現代より複雑なため、ここでは詳しく触れない。詳しいことが知りたい人はweb検索で「東の金遣い 西の銀遣い」で検索してほしい)。

簡単に説明すると小判の改鋳をやった。慶長小判よりも金の含有量が低い元禄小判を作って等価交換させた。これにより500万両以上の利益(シニョリッジ、出目)を得ることが出来た。

このような改鋳は世界の古今東西で行われていたが、やりすぎると貨幣の価値の減少によるインフレが起こり、その結果、致命的な混乱を起こしかねないというリスクがある。

しかし、上記の通り、当時の日本は持続的な経済成長をしていて貨幣の需要が高かったので、多少の混乱はあったかも知れないが、結果としては「2つの問題」を一挙に解決して、江戸幕府は潤い、世の中は元禄文化の栄華を味わった。

ただし、話はこれで終わらない。荻原重秀のようなやり方を良しとしない人物が現れた。これが新井白石だ。彼は「あぶく銭」で儲けることを嫌った。

白石は将軍の代替わりをきっかけに権力をもって、荻原重秀を失脚させた。そして何をやったかといえば重秀と逆の改鋳を行った。この結果は「2つの問題」がまた復活した。幕府の財政は破綻と背中合わせとなり、世の中はデフレ不況を経験する......

以後、江戸幕府後期は、荻原重秀のような「インフレ改鋳派」と新井白石のような「デフレ改鋳派」が交互に現れる。ただし、彼らが「インフレ」とか「デフレ」とかどの程度理解していたのかは分からない。現在のようには理解できていないのは当然だろうが。

金銀比価

もう一つ、問題の前提の話。

金銀比価
銀の価格を1としたとき、それに対してそれと同一重量の金の価格が示す倍率。

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

幕末の時代の世界の金銀比価は1:15だった。メキシコの銀鉱山が大量の銀を産出したため、銀の価値が下がった。加えて日本の石見銀山も銀の下落に多少は寄与したらしい。

鎖国していた幕末の日本は世界標準よりは多少 銀の価値が高かったが、開国の交渉で決められた日米修好通商条約ができた時は、おそらく世界標準のレートが想定されただろう。

本題:流出事件の真相

流出した理由(簡単に言うと)

【質問内容】
なぜ金と銀の交換比率が日本が1:5で外国が1:15だと,金貨が大量に流出するのかが分かりません「外国人は外国銀貨を日本に持ち込んで日本の金貨を安く手に入れた」という部分の仕組みを教えて下さい。よろしくお願いします。

【質問への回答】
[中略]簡単に言うと外国では金1gと銀を交換するためには銀15gが必要でしたが,日本では,同じ金1gを5gの銀と交換することができ,外国で交換するよりも銀の量が少なくて済みました。
つまり,日本に銀をもっていくと他の国の3倍の金が手に入る計算になったのです。

出典:幕末|金銀比価の違いによる大量の金貨流出|高校日本史|定期テスト対策サイト/ベネッセ

つまり、日本の金銀比価が1:5だったというのだ。これはおかしい。幕閣も承知していないところだ。なぜそうなったのか?

同種同量の交換

開国の交渉で有名なタウンゼント・ハリスと幕閣は通貨取引の交渉を行った。

結局、実質価値に満たない名目貨幣としての銀貨は国際的には通用しないとハリスに押し切られ、同種同量交換の1ドル=3分の交換比率を承諾することになる。

出典:幕末の通貨問題 - Wikipedia

「1ドル」とは当時世界を流通していたメキシコドル。洋銀と呼ばれることもある。メキシコドルは実質価値に満たす実物貨幣。

「3分」の「分」とは一分銀のこと。小判1両=4分。

前述の通り、江戸幕府は改鋳差益が貴重な財源であったため、小判も一分銀も「実質実質価値に満たない名目貨幣」だった。ハリスはこれを否定し、幕閣はこれを飲んでしまった。

アメリカの軍事力を背景としたハリスの脅しのほかに、幕閣が貨幣問題に疎かったということもある。

面倒くさい算数の話 その1

出典:幕末の通貨問題 - Wikipedia

さて、上記のようなことがなぜ起こったのか(メキシコドルが3倍になったのか?)を説明する。

・まず、メキシコドルに含まれる銀の含有量が23.2g。天保一分銀は8.62g。これが「同種同量交換の1ドル=3分の交換比率」の根拠。これにより4ドルは12分と交換される。

・次に、1両=4分のため、12分が3両に交換される。

・その次。小判3枚がなぜ12ドルに化けるのかというと...次の小見出しに続く。

面倒くさい算数の話 その2

当時流通していたのが天保小判。金と銀の含有量はそれぞれ6.38g、4.84g。金銀比価1:15として銀換算すると

4.84+(6.38×15)=100.54(g)

小判3枚は銀換算で301.62g相当。これを海外に持ち出してドルと同種同量交換すると、

301.62÷23.2(メキシコドル1枚)=13.0

上の計算では小判3枚でメキシコドル13枚と交換できることになるが、実際は12枚との交換だった。

これにより、日本の銀と金の比率は世界標準の3分の1、つまり1:5と表記されることとなった。

流出の具体的な量と影響

上記で「大量」とのみ表記されている日本からの金貨の流出量について、具体的な量は概算レベルでも一致した見解が提示されていない。武田晴人が2009年にまとめた資料によれば、開港からの半年で流出した額は10万両とも50万両ともいわれ幅が広い[10]。ただし、この流出に関連した国内経済へのインパクトは1861年には沈静化したと見られることから、「金貨流出の影響は一時的なものにとどまった」とした[10]。

武田資料を参照した鎮目雅人は2016年発表のワーキングペーパー上において、過去の研究では大量流出という捉え方が主流であったことを前提としつつも「最近の研究では流出規模はそれほど大きくなかったとの見方が有力」とした[11]。

出典:幕末の通貨問題 - Wikipedia

高校日本史で教える事項のひとつになっているようだが、難しい問題の割に影響が少なかったのなら、教えないほうが良いと思う。

本当は、「経済に疎い政治家に経済政策を任せると庶民の生活にひどい悪影響を及ぼす」ということの典型として教えてもらいたいのだが、ちゃんと理解してもらうには時間がかかりすぎる。