前回からの続き。
「アケメネス」という呼び方のいくつか
「アケメネス」という呼び方は(古代)ギリシア語に由来する呼び方。専門家によっては「アカイメネス」と呼ぶこともある。(古代)ペルシア語では「ハカーマニシュ」。
個のブログでは一般に一番通じている「アケメネス」を使用する。
ちなみに、英語では「アケメネス(人名。アケメネス朝の始祖とされる)」はAchaemenes(アキーメニース)、「アケメネス朝」はAchaemenid(アキーメニド)。
「アケメネス」という名称の由来
「アケメネス」とは何かというと、「アケメネス朝」の始祖とされる人物の名前。ただし、「アケメネス」の事績は全く遺っておらず、伝説上の人物だと疑われている(疑っていない研究者もいる)。
「アケメネス」の名前が現れたのは、ダレイオス1世(ダーラヤワウ1世。在位:前522-486年)が建てたベヒストゥン(バガスターナ)碑文で、ここにアケメネス朝の系譜が書かれている。
この系譜でおかしいところ。
1つ目。前述の始祖とされるアケメネスの事績が全く見つからないこと。(テイスペスについては遺っている)
2つ目。各人物の名前の由来について。「テイスペス」はギリシア語で、ペルシア語では「チシュピシュ」。「チシュピシュ」はエラム語に由来する名前であり、ダリウス(ダレイオス)1世とは別の系譜のキロス(キュロス)1世からの系譜の名前もエラム語由来の名前だ。
しかし、「アケメネス(ハカーマニシュ)」はペルシア語由来で「追随者の霊魂に正確づけられた者」という意味になり、ダレイオスが連なる系譜もペルシア語由来だ。そして「ダレイオス(ダーラヤワウ)」もペルシア語由来で「確固たる善を保持する者」を意味する。
3つ目。本家と分家の立場。ベヒストゥン碑文の系譜に関する要約の引用。
アケメネス朝は、遠祖アケメネスから始まり、その子テイスペスの次の代で二系統に分かれる。長子アリアラムネスは、パールサの王位に就き、次子キュロス1世は、アンシャンなどの土地が与えられた。
出典:山田勝久・児島健次郎・森谷公俊/ユーラシア文明とシルクロード ペルシア帝国とアレクサンドロス大王/雄山閣/2016/p33
これに対して、碑文の系譜を否定する側の青木健氏によれば、そもそもアンシャンとパールサ(ペルシア)はほぼ同一地域を指すので、これを別個の地域として書かれていることがおかしい。そしてそれよりも重要なことは、本家となるキュロス1世が辺境のアンシャンを受け継ぎ、分家の方が重要度の高い方を受け継いだという話もおかしい。(青木健『ペルシア帝国』p51 *1 )。
4つ目。キュロス円筒印章(キュロス・シリンダー)との比較。これはキュロス大王(キュロス2世)が遺した碑文で、系譜についての言及がある。
それによれば、キュロスはカンビュセス(1世)の息子にして、テイスペスの子孫だと書かれている。しかし、アケメネスやアリアラムネスの名は書かれていない *2 (キュロス・シリンダーについては キュロス・シリンダー - Wikipedia 参照) 。
以上をもって、「アケメネス」というのはダレイオス1世が創作した架空の人物だ、と言っていいだろう。
そしてダレイオス1世は王位簒奪者ということになるわけだが、ここらへんは別の記事で書く。