歴史の世界

アケメネス朝ペルシア帝国 その5 ダレイオス1世(帝都ペルセポリスその他/遠征)

前回からの続き。

ペルセポリスの建設とその他の首都

ヘロドトスは、スーシャー(ギリシア語名スーサ)が「ペルシア帝国」の首都だと記述しているものの、この「帝国」に固定的な首都があったとは考えられない。大王は、冬の7ヶ月はメソポタミア平原のバビロンに、春の3ヶ月は旧エラム王国(現在のフーゼスターン州)のスーシャーに、夏の2ヶ月はメディア州のハグマターナに居住した。行政関係の文書の大半はスーシャーかペルセポリスに収められ、税収として貢納された貴金属はペルセポリスの宝物庫(ガンザ)に収蔵された。また、新大王の就任式はパサルガダエで執行された。大王は、最低でもこの5ヶ所の都市を渡り歩くワンダーフォーゲル状態であり、移動中はテントに居住しながら、「臣下」と贈与物の交換を繰り返して相互の紐帯を確認した。

出典:青木健/ペルシア帝国/講談社現代新書/2020/p61-62

上記のことからうかがえることは、ペルセポリスは「帝国」のためというよりも、「王家」のため、つまり私的な性格が強い都市だったようだ(宝物庫がその証拠)。帝国の運営としては重要な都市ではなかった。

引用の7・3・2ヶ月というのはギリシア人クセノフォン(前5-4世紀)の記述だが *1ペルセポリスの名は言及されていなかった。ヘロドトスも書いておらず、アレクサンドロス大王はこの都市のことを知らなかったと言われる。

ただし、春分の日の儀式「ノウルーズ」はペルセポリスで儀式が行われていた(青木氏/p63)。ちなみにノウルーズはペルシアの暦の元日であり、現在でもイランとその周辺でその文化は受け継がれている。

さて、上記の引用からペルセポリス以外の都市についてうかがわれることは以下の通り(間違っているかもしれないが書いておく)。

  • スーシャー(スーサ、スサ)は、エラム人が住んでおり、おそらく彼らが全般的な行政にあたっていたのだろう(ペルシア人は武力で彼らを支配していた)。
  • バビロンはダレイオスの時代になっても経済の中枢だった *2
  • ハグマターナ(ペルシア語。ギリシア語はエクバタナ)はメソポタミア中央アジアの交易路にある都市。冬は雪に覆われるが、夏の避暑地としていたのだろう。
  • パサルガダエはキュロス2世が建設した都市で、ダレイオス1世の前の王朝の首都と言われているが、おそらくはここも前の「王家」の私的な都市だったのだろう。即位の儀礼をここで行なうのは、先王朝から帝国を継承していることを示すためだ。

各都市の位置は以下の地図にある。


(クリックで拡大)

出典:Achaemenid Empire - Wikipedia

遠征

オリエント統一は先王カンビュセス2世がしてしまったので、ダレイオスの領土拡大はペルシア帝国にとってはそれほど大きな出来事ではなかった、と思う。

ただし、ペルシア戦争を始めたのがダレイオスなので、古代ギリシア史からみれば彼の遠征は大事件だ、となるだろう。

ちなみに、アレクサンドロス大王が征服した地はペルシア帝国の版図とだいたい同じのようだ。

北方遊牧民への遠征(サカ人=スキタイ人

北方への遠征の対象はサカ人とスキタイ人。サカ人についてはダレイオスの碑文に書いてある。

サカについてダレイオス1世(在位:前522年 - 前486年)の『ベヒストゥン碑文』では、サカ・ティグラハウダー(尖がり帽子のサカ)、サカ・ハウマヴァルガー(ハウマを飲む、あるいはハウマを作るサカ)、サカ・(ティヤイー・)パラドラヤ(海のかなたのサカ)の三種に分けていた。サカ・ティグラハウダーは中央アジアの西側、サカ・ハウマヴァルガーは中央アジアの東側に住んでおり、サカ・パラドラヤは「海のかなた」すなわちカスピ海もしくは黒海の北となり、ギリシア文献に出てくるスキタイを指すものと思われる。

出典:サカ - Wikipedia

サカ人とスキタイ人は呼び方が違うだけで同じ民族、すなわち同じ文化(生活形態)を持った人々だ。

形質人類学 *3 によれば、彼らはコーカソイドモンゴロイドが混じり合っている「雑多な」民族。少なくとも前5~6世紀にはそうなっていた *4。広大なユーラシア・ステップで暮らす遊牧民は、(農耕定住民が重要視する)血統よりも武力を重んじ、交流・戦闘・征服・服従・政略結婚を繰り返した。だから肌の色などなどは関係無い。

「サカ」というのは、ペルシア語で鹿(サカー)を意味する(日本語では短母音化した)。これは彼らが鹿をトーテム(民族結束のための象徴。崇拝対象)として多用していたことに起因する *5スキタイ人の起源であるスキタイ文化の象徴的遺物が鹿石(石柱に鹿などの彫刻が成されているもの)なので、考古学からみてもスキタイ人=サカ人と言える。
(《最初期の騎馬民族 その2 (スキタイ人の起源≒騎馬民族の起源)》も参照)

さて、遠征の話に戻る。

最初の遠征対象は「尖がり帽子のサカ」だが、彼らはマッサゲタイ人に比定されている。マッサゲタイ人と言えば、キュロス2世を戦士させた勢力だ。遠征の結果、マッサゲタイ人はペルシア帝国に服属することになり、ダレイオスはキュロスの仇を取ったことになる。

次に、ダレイオスはスキタイ人を討つために黒海北岸(スキティア)に遠征したが、スキタイ人は逃げ続けたために、全く戦果を得られないまま撤退した。
(これについては 《最初期の騎馬民族 その5 (スキタイ人、黒海北岸支配)》 で書いた)

ただし、この遠征でトラキアバルカン半島南東部)を征服し、マケドニアギリシア北部)を服属させた。

もう一つのサカ人については分からない。

インド遠征

ここでいう「インド」は大陸部ではなく、インダス川流域つまり現在のパキスタンあたりだ。詳細は分からない。

ギリシア遠征

ダレイオスのギリシア遠征は「ペルシア戦争」と呼ばれるものの初期のものだ。詳細は古代ギリシアの歴史の記事で書くつもり。

ペルシア戦争開戦の原因となる事件が前499年に勃発したイオニアの反乱だ。アナトリア西端のイオニア地方にはいくつものギリシア植民都市があったのだが、この地方はペルシア帝国の支配下にあった。この反乱自体は前494年にようやく鎮圧したのだが、ダレイオスは彼らに軍事支援をしたアテナイやエレトリアに対して懲罰的遠征を計画した。

第1回は前492年に行われたが暴風雨にあって失敗した。

第2回(前490年)は艦隊を組んで大遠征隊を組織してエーゲ海を渡った。エレトリアは7日間で攻め落とし、ペルシア軍はアテナイの領地のマラトン平原に上陸した。アテナイ軍はこれを重装歩兵による密集戦術により応戦し勝利した。ペルシア軍はこれ以上の戦闘をせずに撤退した。

ちなみに、陸上競技「マラソン」マラトンに由来する。マラトンにおける勝利をアテナイ市に無休で走り続けた伝令使が勝利を告げた後に力尽きて亡くなったというエピソードがあり(真偽不明)、第1回オリンピックで長距離走の種目として採用された。マラトンアテナイ市の距離が約40キロということだ。

ダレイオス治世の版図


ダレイオス1世時代のアケメネス朝の領域とサトラペイア(ダフユ)。赤字はダレイオス1世即位時に反乱が発生した、または反乱勢力の支配下に入った地区。[クリックで拡大]

出典:ダレイオス1世 - Wikipedia



*1:ペルセポリス - Wikipedia

*2:青木氏/p65

*3:自然人類学の一分野。皮膚や眼の色、毛髪の色や形状、血液型、身長や頭型など、人類の身体の形と質を比較研究して、人種分類や系統関係、遺伝、環境による変化などを分析する。精選版 日本国語大辞典/形質人類学とは - コトバンク 

*4:青木健/アーリア人講談社選書メチエ/2009/p35

*5:アーリア人』/p35