歴史の世界

春秋時代④ 晋の文公/晋による覇者体制

前回、楚の成王が宋の襄公を破ったことまで書いた。

今回は晋の文公の話を書こう。

文公は、前回書いた楚の成王を打ち負かして覇者になった。

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春秋時代の諸国

出典:春秋時代 - Wikipedia

晋の文公

晋の起源は、西周第2代成王の弟・唐叔虞が成王に封建されたことに始まる。

晋と周王朝西周後期の頃には すでに親密であった。西周の厲王が畿内の大貴族に攻められて逃げた先が晋で、幽王の死後、平王を戴いて携王を討ち倒したのは晋・文侯だった(文「公」とは別人)。西周代後期と春秋時代初期の周王朝と晋の動きを見ると、晋が大国であると認められていたことが分かる。

文公が即位するまでに晋ではお家騒動があり、太子だった文公(重耳)は亡命しなくてはならなかった。重耳の苦難の逃亡生活から即位までの物語は『史記』晋世家に詳しく書かれている。この物語は小説『重耳』(宮城谷昌光著)が有名だ。

重耳(上) (講談社文庫)

重耳(上) (講談社文庫)

宋の襄公が楚の成王に敗北した翌年に死去したことは前回書いたが、襄公を継いだ成公は楚成王と和睦した(前636年)。しかし、前634年、宋が楚との講和を破棄したため、前633年、楚・陳・蔡・鄭・許が宋を包囲した。前632年、晋の文公が曹・衛を攻撃すると、宋の包囲は解けた。

晋の文公を覇者として認められた契機となったことで有名な城濮の戦い(前632年)はこの後に起こるのだが、「城濮の戦い - Wikipedia」を読むと、この戦い以前の晋の外交により楚の劣勢が決していたようだ。

戦後、鄭の領域内にある践土という場所で王宮を作り、ここに周の襄王を招いて、諸侯と会盟した。襄王は文公に侯伯すなわち覇者を任命した。この任命は西周後期の冊命儀礼に準じる儀礼をもって行われた。これは周王朝の権威と晋の勤王を表すパフォーマンスだった。(佐藤信弥/周/中公新書/2016/p163)

晋による覇者体制

文公は覇者体制を確立し、その任務と権益は世襲され、前506年まで続いた。

以下のように、佐藤氏は吉本道雄氏の「覇者体制」の見解を紹介している。

晋による覇者体制について、吉本氏は主に『左伝』の記述にもとづいて以下のように解説する。

会盟は晋と同盟諸侯国との協議の場であった。その開催の目的は、同盟の維持・更新、同盟離反国への共同制裁、同盟国同士の交戦の禁止、や他国からの亡命者受け入れの禁止など同盟内の平和維持、同盟外からの攻撃に対する共同防衛、同盟国における内紛の調停、同盟国の災害の援助などを協議決定することにあり、基本的に同盟及び同盟国の保全を目的として行われるものであった。

斉の桓公の覇権が洛邑より東に偏っていたのに対し、晋の覇権は晋国自体が西方に位置していることから、洛邑を中心とする中原全体に及んでいる。ただし当方の斉は早々に晋の覇権から離脱し、晋よりさらに西方の秦にも覇権が及んでいない。城濮の戦いで矛を交えた楚は無論覇権の範囲外である。

そして同盟国には、会盟の参加、軍役など会盟での決定事項の履行、勤王、そして晋への朝聘(ちょうへい)・貢納といった義務が課された。

出典:佐藤信弥/周/中公新書/2016/p164-165

朝聘とは要するにご機嫌伺いに晋へ赴けということ。晋への貢納が重いことは「春秋戦国:春秋時代② 覇者とはなにか/「五覇」とはなにか#覇者体制:覇者と同盟の実態」で触れた。

斉や秦など自立できるほどの大国は晋の影響下に入ることを拒否したが、中小諸侯国は体制に入会しなければ「覇者体制連合軍」に攻め滅ぼされるので、選択肢は無い。

しかし中小諸侯国は体制に入っていれば攻め滅ぼされる恐れは無くなるというわけでもなかった。晋の国内で御家騒動が起これば、すかさず楚が中小諸国に襲いかかってきたし、楚で荘王のような傑物が現れるとまた攻め込んできた。晋の覇者体制が続いていた時期も、中小国は楚の支配下に入らなければならなかったことも複数回あったようだ。さらには、ひらせたかお氏によれば、晋自体が近隣の小国を滅ぼして領土を拡大していた*1

吉本氏によれば、前597年に楚の荘王が邲の戦いにおいて晋を大敗させたが、前589年に鞌で斉を、前575年に鄢陵の戦いで楚を破った。(中国史 上/昭和堂/2016/p46)

渡邉義浩氏は邲の戦いによって覇権は晋から楚へ移ったとしているように、晋による覇者体制が前506年まで「なにごともなく続いた」わけではない。

前546年に弭兵の会が催された。晋・楚の間で和議がなった。これにより仮想敵国が無くなり同盟の存在意義が喪失した。これを起因として国家間秩序の弛緩と共に、各国国内の秩序も不安定化した。

前506年に、蔡が楚の侵攻を受け、救援を要請すると、晋を盟主とする召陵の会・皐鼬の盟が為された。しかし軍事行動は起こさなかった(同年、楚は呉と戦って大敗した--柏挙の戦い)。これ以降 会盟は開かれず、同盟から諸侯たちが次々と離脱し、「覇者体制」は崩壊した。

年表

前632年 城濮の戦い。晋文公の連合軍が楚成王の連合軍を破る。戦勝後、践土(現在の河南省新郷市原陽県)で会盟を行い、この場で周襄王より侯伯すなわち覇者に任じられた。文公以後、覇者の地位は晋の君主に世襲されることになる。
前597年 楚の荘王が邲の戦いにおいて晋を大敗させる。
前575年 晋が鄢陵の戦いで楚を破る。
前546年 弭兵の会。
前506年 蔡が楚の侵攻を受け、救援を要請すると、晋を盟主とする召陵の会・皐鼬の盟が為された。しかし軍事行動は起こさなかった。これより先、覇者体制は崩壊していく。
同年 柏挙の戦い。楚は呉と戦って大敗した。

*1:世界歴史大系 中国史1/山川出版社/p237(ひらせたかお氏の筆)