これまで、春秋戦国時代/東周ついて書いてきた。今回からそのまとめを書く。
詳しいことは各記事参照のこと。
春秋戦国時代と東周について
春秋戦国時代は、中国史において、紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。この時代の周が東周と称されることから、東周時代と称されることもある。
というわけで約550年間つづく。
東周は前256年に滅亡するが、春秋戦国時代の東周の存在はあまり重要ではないので、春秋戦国時代≒東周時代としても問題ないだろう。
春秋時代と戦国時代
両者の境界については2つの説がある。
晋の家臣であった韓・魏・趙の三国が正式に諸侯として認められた紀元前403年とする説、紀元前453年に韓・魏・趙が智氏を滅ぼして独立諸侯としての実質を得た時点を採る『資治通鑑』説の2つが主流である。
というわけで、それぞれの期間は、
- 春秋時代が約320年ないし約370年。
- 戦国時代が約180年ないし約230年。
春秋時代
西周代の後半から周王室の権力が縮小し続けていたのだが、末期に周王室で相続争いの時に外部(犬戎)からの侵略されて王都を蹂躙されてしまう。周王室は東の洛邑で再興したが(これが東周の始まり)、元々の権勢を取り戻すことはできず、諸侯は否応なく独立状態になった。これが春秋時代の始まりだ。
春秋時代の諸国
春秋時代に入ると、今度は南から楚が侵攻をし始める(楚は西周の諸侯ではなかったので南蛮つまり夷狄扱い)。
これに対抗するために諸侯は会盟(国際会議のようなもの)を開いて同盟を行った。この同盟のトップが「覇者」と呼ばれる。
ただし覇者として歴史に残る人物は限られている。落合淳思氏によれば *1、 8人いる。8人とは、斉桓公、晋文公、宋襄公、秦穆公、楚荘王、越闔閭、呉夫差、越句践。
彼らをまとめて「春秋五覇」と呼ばれる。古典によって5人の選び方が違うがその候補者は8人いる。なぜ8ではなく5でなければいけないのか、という問いはあまり意味がない。5という数字が好きなだけだ。
何人かピックアップする。
斉桓公は最初の覇者となった人物。宰相に管仲を迎えて中華最強国になった。しかし管仲の死後は斉国内で権力争いが起こって斉の国力も衰えてしまった。斉桓公自身に能力は無かったようだ。
次、晋文公について。もともと大国であった晋が斉に代わって覇者の地位に就いた。さらに文公の後も、晋の君主が覇者の地位を受け継いだ。他の諸侯はこれを了承し(または服従し)楚を共通の敵としてまとまった。これを覇者体制という。まあ征夷大将軍をトップとする〇〇幕府のようなものだ。
この体制は百年前後続くのだが、晋と楚が和議を行って楚が中華の一員となったことで覇者体制の意義が無くなって崩壊した。
この後、春秋末期、「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」で有名な覇者、すなわち呉闔閭、呉夫差、越句践の時代になるのだが、彼らは覇者になった後に新しい時代を築くまでには至らなかった。
春秋末期は再び秩序が崩壊し、下剋上が横行した。そして新しい秩序が求められた。このような時期に登場したのが孔子だった。
孔子は礼学の先生として登場した。ただし歴史を変えていったのは孔子というよりも彼の弟子たちと言ったほうがいいだろう。そして弟子たち(孫弟子以後の代も含む)は戦国時代の秩序を作っていった集団(の一部)であった。(後述)
戦国時代
上述の通り、大国の晋の家臣であった韓・魏・趙の三国に分裂したことで戦国時代が始まった。春秋時代の秩序の中心であった晋が崩壊したことで、春秋時代も崩壊した。まあ、晋の覇者体制はとっくの昔に崩壊しているのだが、便宜的に晋の滅亡をもって春秋時代の終わりとすることになっている。
戦国時代の特徴
以下の特徴は戦国時代になってすぐに現れたのではなく、長期的な時間がかかって現れたことに注意。一応書いておく。それでは特徴を書いていく。
戦国七雄
春秋時代は大中小の国々が数多く有った。戦国時代は大国が中小国を侵略・併呑してさらに強大になっていく時代。この中で大国になったのが戦国七雄すなわち韓・魏・趙・斉・秦・楚・燕の七国。
春秋時代も大国が小国を併呑することは少なからずあったが、そのペースは遅かった。専制君主制・官僚制・富国強兵
春秋時代は、公族(君主の家族・親戚)と大家族が政権を担っていたが、戦国時代は彼らの権力は君主に集中し、君主が外部から優秀な人材を招致して政権を担当させた。これを専制君主制という。
公族・大家族が政権を担っていた時期は、それぞれがバラバラに政務を執行していたが専制君主制では、それぞれの行政を宰相が管理統括するようになった。(官僚制)
バラバラであった政務が一つに統括できるようになって、はじめて富国強兵の道が拓ける。成文法
官僚制が出来上がると、今度は官僚をどうやって動かすかという問題が生じる。いちいち君主や宰相が口出しすることは不可能なので、成文法(明記した法)を作ることにより、効率かつ公平に行政が行われるようにした。徴兵制
春秋時代は主要な貴族が手下を率いて戦争をしていたが、戦国時代は戦争が大規模化して従来のやり方では立ち行かなくなった。
そこで、公式に民を徴兵して戦地に赴かせることになった。新しい秩序
春秋時代では いちおう周王室を中華のトップと認めて諸侯は侯・公の称号を使っていた。これが戦国時代の中期あたりから王と号するようになる。周王室の権威をあからさまに無視するようになる。
ここで登場するのが上述の孔子の弟子たち即ち儒家だ。孔子や弟子たちは西周の礼制を復活させようとしたのだが、実際は彼らはその礼制を知らなかったので、それっぽい礼制を創作した。諸侯たちはこれを採用して新しい秩序とした。
戦国時代の流れ
戦国時代を3つに分けると以下のようになる。
- 前期、魏文侯の覇権
- 中期、斉と秦の覇権
- 後期、秦の一強時代
前期。戦国時代で最初に覇権を握ったのが魏の文侯だ。公族(諸侯の一族)と大貴族が政権を担っていたが、文侯は外部から有能な人材を集め登用して政権を担当させた。このことは春秋末の呉・越にもみられるので *2 画期的とは言えないが、とにかくこのような人材登用によって専制政治体制が可能になった。
文侯は覇者となり、後代も魏の強盛を継承したが、三代目の恵王は王号を使用するようになる。周王室に代わって名実ともに王となろうとしたのだ、と歴史家から考えられている。ただし、恵王は斉との戦争で大敗した後に衰えてしまった。
次に中期。覇権を握ったのが、斉と秦だ。
斉は魏に大勝してから覇権国となる。斉威王はその財力を使って王都・臨淄の稷門 (城の西門) 外に学堂を建て知識人を招いた。ここは稷下の学と呼ばれ諸子百家の一大拠点となった。
秦は後進国であったが、孝公の治世における宰相・商鞅の変法(国政改革)により、強国へと変貌した。「変法」とは簡単に言えば、旧来の政治体制から「戦国時代の特徴」にあるものに変えるための改革。
孝公の次代の恵文王は商鞅を追放して死に至らしめた人物だが、変法とその精神は継承し続けた。恵文王以降も秦は継承し続け、中華統一を成し遂げることになる。
中期は燕・魏・趙・韓・楚による対斉戦争により、斉が大敗することによって終わる。
後期は対斉戦争で戦争に参加しなかった秦の一強時代。対斉戦争の前後から、秦は立て続けに他国を攻め続けて領土を拡大し続けた。結局この流れが変わらないまま秦が中華統一を果たす。