歴史の世界

戦国時代 (中国)③ 前期 最大の勢力は魏

さて、それでは戦国時代の中身の話に入っていこう。ちなみに前期(前5世紀中葉~前4世紀中葉)といっても私が勝手に時代区分したものなので、参考程度に。(記事「時代区分」 参照)

以下の歴史は、『中国史 上』(昭和堂/2016)の吉本道雅氏の執筆部分による。年代も基本的に吉本氏が書いたものを優先して使用した。

概説中国史〈上〉古代‐中世

概説中国史〈上〉古代‐中世

  • 発売日: 2016/02/01
  • メディア: 単行本

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三晋地図

出典:晋 (春秋) - Wikipedia

最大の勢力は魏

晋が分裂した後、どうなったか?三晋(魏・趙・韓)は晋の公室を取り潰すことをせず、形式だけだが臣従を示した。それでは晋公室を手中に収めていたのはどの勢力か?答えは魏。つまり魏が残りの2つの勢力に命令を出せる立場に立った。

前425年に趙襄子が卒すると、趙献侯(前423~前409)・韓武子(前424~前402)は中牟・宜陽に首邑を遷して衛・鄭の征服を開始し、斉・楚との対立を激化した。晋の正卿となった魏文侯(前455~前396)は、西方で秦を破り、晋烈公(前415~前389)を擁立し、前404年、周威烈王(前425~前402)の命を奉じ、三晋連合をひきいて斉を破った。[中略] 前403年、三晋は、威烈王より諸侯に公認された。三晋はなお晋侯に臣従したが、『資治通鑑』はこの年を戦国時代の開始とする(『繋年』には前422~前420)の晋楚戦争、前404年の晋斉戦争―三晋が越王翳(前411~前376)と結んで斉を攻め、斉・魯がまず越と講和し、ついで斉が魏文侯の率いる三晋軍に大敗した。晋烈公は斉・魯・宋・衛・鄭を率いて周王に朝した―、前400~前397年さらにその後数年に及ぶ晋楚戦争を記す)。

魏武侯(前397~前370年)は、楚を撃退し、周王朝・晋侯を奉じて、秦・楚・斉から中原を防衛する晋の覇権を再現した。

出典:中国史 上/昭和堂/2016/p49-50(吉本道雅氏の筆)

  • 正卿は行政の長。現代で言えば総理大臣か大統領。最高権力者の位置。

上の引用は、魏文侯とその次代武侯の時代に、趙・韓を晋侯の名のもとに従え、戦国七雄のその他の秦・楚・斉を戦争して制した魏が当代最強の国で、覇権を謳歌したことを示している。

魏の文侯

文侯(?―前396/386)
中国、戦国魏(ぎ)の君主(在位前445/424~前396)。字(あざな)は斯(し)、都。知伯を滅ぼした晋(しん)の魏桓子(ぎかんし)の孫。紀元前403年、周の威烈王(いれつおう)の時代、韓(かん)、趙(ちょう)とともに晋から独立して諸侯に列せられた。儒家の子夏を師とし、賢者の段干木(だんかんぼく)を客とし、有能の士を登用して賢君の誉れが高かった。西門豹(せいもんひょう)による灌漑(かんがい)事業、李(りかい)による法典編纂(へんさん)、農業生産力の増強、穀物価格の安定などで国内の中央集権化を推進し、外には呉起や楽羊を用いて中山、斉(せい)、秦(しん)、楚(そ)を討った。文侯の富国強兵策により、魏は戦国初期における強国の一つとなった。[田中柚美子]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)<コトバンク

有能な人材を適所に登用して富国強兵・中央集権を実現させた。文侯は最初の(もしくは最初期の)専制君主だ。後世の戦国君主は彼を手本としたことだろう。斉の威王や燕の昭王は文侯と同じことをしている(あまりに同じなので作り話かもしれない)。

最初の引用にあるように、魏侯は晋の正卿として晋を装い、さらに周王朝への勤王を装って覇者となった。

しかし魏のこの勢力は春秋時代の晋と比較すると、他国の争い・侵略を抑制する力は弱かった。

楚恵王(前488~前429年)が蔡(安徽省寿県)(前447年)・杞(山東省安邱県)(前455)・莒(山東省莒県)(前431)を併合し、越王朱句(前448~412)は、滕(山東省滕州市)(前415)・郯(山東省郯城県)を併合している*1。さらにまた最初の引用にあるように、趙・韓が衛・鄭の征服を開始し、斉・楚との対立を激化している。

さらには、春秋時代の「覇者体制」*2では、晋に貢納する中小国が多くあったが、魏に貢納するような中小国は大国に併合されて日に日に減少していった。

二代目、武侯

文侯の次代、武侯も覇者としてふるまったが、この時代になると近隣の小国は大国に併呑され、「西は秦、北は趙、東は斉、南は楚・韓などと国境を接するようになり、領土的な発展の余地がなくなった」*3

そして武侯の治世に次のような事態になる。

中原諸侯の存続を前提とする晋(事実上は魏)の覇者は、衛・鄭征服を図る趙・韓の志向と相容れず、前386年以後、三晋間の抗争が延々と続くことになる。魏は、韓を懐柔するため、前375年に鄭の併合を認め、翌年、晋侯にこれを認証させている。さらに魏・趙・韓はそれぞれ斉・楚・秦との提携に走り、これらから中原を防衛する覇権のありかたは自壊した。

出典:吉本氏/p50

三代目魏君、恵王

武侯を継いだのが三代目魏君、恵王(前369-319)だ。「侯」でなくて「王」なのは後述する。

武侯が亡くなると公位争いが起こる。武侯の嫡子で太子であった罃(おう)(のちの恵王)に叔父の公中緩が挑んできた。この内紛に趙・韓が介入して混乱を極めると、趙・韓両国は晋侯を屯留(韓の領地)に遷す(前369年)。さらに、趙・韓両国は周を攻めて周を分裂させた(分裂させた意図が分からない)*4

太子罃が公中緩の殺害に成功したため、魏は元の状態に戻ることができた。

前349年、三晋が晋を攻め滅ぼす。もはや利用価値が無くなったのだろう。最後の君主・静公は庶民になり、領土は三晋で分けられたという*5

前349年、晋が断絶すると、魏恵王は覇者認証を周王朝に迫ったが、魏の覇権を嫌った韓は、前343年、周と謀って秦孝公を覇者に認証させた。そこで恵王は、中原では周王朝だけが保持していた王号を称し、周王朝覆滅を図ったが、斉威王(前357~前320)に馬陵の戦で大敗した。

出典:吉本氏/p53

馬陵の戦いが前341年で、翌・前 340年には秦にも大敗を喫する。これにより魏の時代は終わった。



*1:国史 上/昭和堂/2016/p48(吉本道雅氏の筆)

*2:晋による覇者体制

*3:武侯 (魏) - Wikipedia 

*4:孝王(前440-426)の頃に弟の掲(桓公)を周公の職位とともに王城(洛陽)の領地を与えた。この地に趙・韓が攻め込んだ挙げ句に分裂させ、東周公と西周公ができた。これで元々小さな領土しかない周王国は3分されることとなった。

*5:晋 (春秋) - Wikipedia