歴史の世界

オーストリア(19世紀後半)① フランツ=ヨーゼフ1世の独裁

19世紀後半からオーストリアをドイツ史から分離することにする。

オーストリアに限れば前回の記事は
ドイツ(19世紀前半)① オーストリアとドイツ連邦

メッテルニヒからフランツ=ヨーゼフ1世へ

1848年革命と総称されるヨーロッパの一連の革命騒ぎの中でウィーン三月革命というのもあった。これにより宰相メッテルニヒは亡命を余儀なくされ、ウィーン体制も崩壊した。

しかし、オーストリアはウィーンやプラハの騒動を鎮圧に成功して革命運動・民族独立運動は抑制され、逆に絶対主義的な体制が確立された。

ただし、多民族国家であるオーストリアは革命運動と民族独立運動の両面を対処しなければならないので、その点がプロイセンに追いつき追い越される大きな要因となった。

新絶対主義
 北イタリア、ハンガリー、ボヘミアの「諸国民の春」と言われた民族蜂起を弾圧して乗りきったオーストリア、ハプスブルク帝国は、その1848年10月、新しい皇帝としてわずか18歳のフランツ=ヨーゼフ1世が即位した。そのもとで立憲制や議会制は棚上げして、多民族国家オーストリア帝国としての一体性を維持した「新絶対主義」とも呼ばれる抑圧体制をとった。しかし、かつてのような強権的支配は不可能であったので、各民族の経済活動には一定の自由を認める方針を打ち出した。特にベーメン(ボヘミア=チェコ西部)はすでに帝国内で最も進んだ工業力を有していたので、繊維工業や鉄工業、機械工業がさらに盛んになった。

多民族国家としての弱点
 オーストリア帝国のハプスブルク家支配の最大の問題は、この国が巨大ではあるが多民族国家であるという点であった。オーストリアはドイツ人(ゲルマン民族)であるが、ハンガリーはマジャール人であり、またその領内にチェコ人、クロアチア人など多数のスラヴ系民族を含み、また北イタリアはイタリア系住民の地域であった。

出典:オーストリア/オーストリア=ハンガリー帝国<世界史の窓

ドイツ国民国家からの離脱

フランクフルト国民会議と「大ドイツと小ドイツ」については以前に書いた。
ドイツ(19世紀後半)① 三月革命

フランクフルト国民会議の大ドイツ主義は「オーストリアがドイツ人以外の民族領域を切り離すことを前提」にしていたため、彼らの提案を呑むことは出来なかった。いやそれ以前に、自由主義のフランクフルト国民会議の提案を絶対主義のオーストリアが受け入れる余地が無かったのだが。

上に紹介した前回書いた記事にあるように、フランクフルト国民会議が夢見た自由主義的な国民国家建設はオーストリア、プロイセン両国から拒否されて彼らは霧散した。

(この節の全体についてはオーストリア/オーストリア=ハンガリー帝国<世界史の窓 参照)

クリミア戦争に中立

……ここでオーストリアは最悪の選択をします。中立です。日本人は中立を「両方の味方」と勘違いしていることが多いので繰り返しますが、逆です。中立とは、「交戦当事国双方の敵」です。そしてクリミア戦争で、オーストリアは文字どおり「両方の敵」として振る舞います。味方してくれると思ったロシアは恨みに思いますし、英仏がバルカン半島方面に進出した際は兵を出して牽制しています。……[オーストリア、フランツ=ヨーゼフ1世は]その場その場でそれなりの合理的理由はあるのですが、目の前のことしか見えていないのです。[中略]
かつてのメッテルニヒは、えげつない交渉をしながらも、世界をどうするかという明確な経綸がありました。政治家らしい政治家です。だから世界の外交史で今でも称賛されるのです。対照的にフランツ・ヨーゼフ一世は、徹頭徹尾、行政官でした。

出典:倉山 満. 嘘だらけの日独近現代史 (SPA!BOOKS新書) (p.105). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.

この本では、フランツ・ヨーゼフ一世はメッテルニヒ、というよりもビスマルクと対象的に説明されている。

イタリア・フランスとの戦争に敗北

ここでは、1859年の戦争に関して書く。イタリア統一に関する戦いの全体像については別途書こうと思っている。

イタリア北西部のサルデーニャ王国は1848年にも諸国民の革命の一環としてオーストラリアからの独立を目的として戦争を仕掛けたが、鎮圧されてしまった。

1859年の戦争では、サルデーニャはフランスと結んでオーストリアに再び挑んだ。

フランス軍はナポレオン3世みずからが率いる12万8千、サルデーニャ軍7万、それにガリバルディの義勇部隊「アルプス猟歩兵旅団」3200人が加わった。迎え撃つオーストリア軍は22万。皇帝フランツ=ヨーゼフ1世が陣頭指揮を執った。

出典:イタリア統一戦争<世界史の窓

当初の戦争はギュライ・フェレンツ伯爵が指揮を採ったがマジェンタの戦いで敗北して解任された。その後は皇帝自らが指揮を採ったがうまくいかずに敗北してしまった。それでも敵方の主力であるフランス側の戦闘もあまり褒められたものでなかったため、オーストリアは深手を追わずに済んだ。

1859年7月になって突如ナポレオン3世は、サルデーニャ側にはからずにオーストリアとヴィラフランカの和約を結んで単独講和し、戦場から撤退した。ナポレオン3世は戦争の長期化を恐れたことと、サルデーニャ王国が全イタリア統一に進みローマ教皇領まで併合するに至ればフランスのカトリック信者の反発を招くであろうと読んで、適当なところで手を引くと判断したためらしい。[以下略]

出典:イタリア統一戦争<世界史の窓

フランス国内でも「国益のない戦争」と厭戦ムードが膨らんでいた。イタリアは怒ったが渋々停戦した。