歴史の世界

春秋時代③ 斉の桓公/宋の襄公/楚の成王

さて、歴史の流れを書いていこう。

今回から覇者の時代について書いていく。トップバッターは斉の桓公だ。

前回書いたように、本来の「覇者」の意味は「諸侯の長」であり、同盟国諸国のリーダーの意味だった。しかし後に「覇者」は単に軍事的に強い者を意味するようになったので「五覇」と呼ばれる諸侯は春秋時代における「軍事的に強い者ベスト5」くらいの意味でしかない。

本来の「覇者」は斉の桓公、晋の文公を意味する。

最後に年表を付けた。

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春秋時代の諸国

出典:春秋時代 - Wikipedia

斉の桓公

斉国は古く、太公望呂尚が封建されたことから始まるとされる。姜姓呂氏。

『左伝』(春秋左氏伝)によれば、前701年に悪曹(おそう)の盟がおこなわれ、この地で斉・衛・鄭・宋が同盟を結んだ。この頃の斉の君主は僖公で、「小伯(小覇)」と呼ばれた鄭・荘公と同時代の人物だ。

また、『国語』鄭語では「斉の荘公と僖公はそこで小伯となった」とある。斉・荘公は僖公の先代のこと。つまり、この2人は鄭の荘公と同じ時期に小伯と呼ばれていたようだ。(以上、佐藤信弥/周/中公新書/2016/p152-153)

斉は桓公代の宰相・管仲の富国強兵政策により大国になったというイメージがあるが、その前から有力諸侯の一つだったようだ。

ちなみに、僖公は第13代で桓公は第16代。そして僖公は桓公の父だ。桓公の先代・先々代に御家騒動があった(桓公 (斉) - Wikipedia 参照)。

桓公が覇者となったのは、前679年の鄄の会でのことだった。斉・宋・陳・衛・鄭が鄄で会を行ったのは、南の楚からの北侵に苦しめられた諸侯たちが集まって同盟を結ぶためだった。ここで桓公は同盟の長(伯=覇)となった。同盟が結ばれた後も楚の北侵は行われたが、同盟は機能したようで、桓公の覇者の地位は保たれた。

桓公の覇者としての絶頂期は、前651年の葵丘の盟の時であった。

『左伝』僖公9年によれば、《(周)王は宰孔を派遣して斉侯に胙(ひもろぎ)を下賜させた。〔宰孔が〕言うには、「天使は文王・武王への祭祀を執り行われ、私(わたくし)孔に、伯舅〔斉侯〕へと胙を下賜させたのである」》。

「胙」とは祭祀に使われた供物(肉)のことで、これを与えることで、周王は周の領域内の諸侯を統括する役割を桓公に代行させた、とされている。*1

桓公はこの胙を受け取った。周王を尊重して、夷狄を討つという姿が「尊王攘夷」の語源らしい。

ただし、「尊王攘夷」について吉本道雅氏は次のように説明する。

桓公は後世から「尊王攘夷」の理想的覇者とされるが、王朝と頻繁な交渉をもつようになったのは、ようやく前655年以降のことであり、それも王太子鄭(周襄王。前651~前619)の請援を景気とするものであった。斉の覇権は洛陽以東に限定されており、王朝に対してはむしろ不干渉を基調とし、もっぱら淮水流域への進出を図った。

出典:中国史 上/昭和堂/p43(吉本道雅氏の筆)

淮水流域は楚と取り合っていた地域のこと。

桓公の死後(前643年)、斉国内で後継争いが起こり、覇者は桓公の一代限りで終わった。

「宋襄の仁」:宋の襄公と楚の成王

桓公の死後、覇者になろうとした人物が、「宋襄の仁」で有名な宋の襄公だ。

紀元前639年、宋国内の盂という場所で会を開いた。そこには宋の同盟国以外に楚とその同盟国も招待した。会合を襄公が主催することを快く思わなかった成王は襄公を拉致して宋を荒らし回った。これに対して宋や同盟国は成王をなだめることしかできず、襄公はその後釈放されたものの、襄公の面子を潰されたと同時に宋と楚の力量がはっきりと示された。

しかし、それでも襄公は諦めずに、汚名返上しようと楚に攻撃を仕掛ける。これを泓水の戦いという(前638年)。この戦いは中量級と重量級の戦いのようなもので、宋は楚に ものの見事に蹴散らされたようだ。

「宋襄の仁」とはこの時のエピソードだ。「左伝」によると、宰相が「まともに戦えば勝ち目はありません。楚軍が川を渡りきって陣を完成する前に攻撃しましょう」と進言した時、襄公が「君子は人が困っているときに更に困らせるようなことはしないものだ」と言ってこれを退けたという*2。ただし、落合淳思氏によれば、宋と楚の軍事力の差を指摘した後、「軍議の内容が公表されるはずもない。楚は黄河流域の諸国から野蛮視されていたが、その楚が勝ったため、後にこじつけた話が作られたのであろう」*3

吉本氏によれば、「前632年、楚は斉・宋以外の中原諸国を制圧していた」*4とある。中原諸国は以前に斉・桓公と同盟していた諸国のことだと思われる。

当時の楚の成王はこれほどの勢力を誇っていたが、覇者とみなされないのは、落合氏が書いているように「黄河流域の諸国から野蛮視されていた」からであろう。ちなみに宋の襄公は「五覇」の一人に挙げられている。

年表

前771年 周・幽王死去(西周滅亡)。
前771年 幽王の死後、平王が立つ(東周の始まり)。
前770年 携王立つ(二王並立)。
前750年 携王、晋文侯に殺害される(二王並立終わる)。
前739年 晋で昭侯(文侯の次代)が殺害され、晋の周王室における影響力を失う。鄭荘公が権力を独占する。
前707年 繻葛の戦い。鄭荘公が平王らを撃退する。後世の歴史家が荘公を「小覇」と呼んだ。
前701年 悪曹(おそう)の盟。斉・衛・鄭・宋が同盟を結ぶ。『国語』鄭語では この頃の斉の君主 僖公は小覇と呼ばれ、さらにその先代の荘公も小覇と呼ばれていた。
前701年 鄭荘公死去。次代より鄭は衰退する。
前679年 鄄の会。斉・宋・陳・衛・鄭が鄄で会する。斉桓公が初めて覇者と呼ばれるようになる。
前643年 桓公死去。斉で後継争いが始まり、斉の覇者は一代限りで終わる。
前639年 盂の会。宋の襄公が国内の盂で会合を開く。会を快く思っていなかった成王が襄公を拉致して、国内を荒らし回るという鼓動に出た。
前638年 泓水の戦い。宋襄公を盟主とする連合軍が楚成王に敗れる。襄公は敗戦後、翌年死去。



*1:佐藤氏/p158

*2:泓水の戦い - Wikipedia

*3:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p71

*4:p43