歴史の世界

戦国時代 (中国)⑪ 後期 周王室の滅亡(東周の歴史)後編

前回からの続き。

春秋時代の終わり頃になると、「覇者体制」が崩壊する。これにより周王室は(形式上の)中華のオーナーという立場を失い、それのみならずその存在感までも失ってしまった。

各諸侯国は新しい秩序を求めはじめ、周王室は戦国時代に出来上がりつつあった秩序から取り残されてしまった。

引き続きテキストは↓

周―理想化された古代王朝 (中公新書)

周―理想化された古代王朝 (中公新書)

前4世紀後半、魏・恵王、夏王と称する

戦国初期に覇者となったのは魏・文侯だった。魏は文侯・武侯・恵王の三代に亘って周王朝を奉じて覇者体制の復興を図ったが、恵王の治世で敵対勢力のためにその方針を断念し、別の方針を採ることにした。すなわち王号を称して自らが中華のオーナーになろうとした。

恵王は「夏王」と称した。『戦国策』秦策四の「或為六国説秦王」章に、「魏伐邯鄲、因退為逢沢之遇、乗夏車、称夏王、朝為天子、天下皆従」(魏が邯鄲〔に都を置く趙〕を伐ち、これによって引き揚げて逢沢〔今の河南省開封市の南〕で会を行うと、〔魏王は、夏車に乗り、夏王と称し、〔諸侯と〕朝見して天子となり、天下の者はみな従った)とある。楊寛や吉本道雅は、これが魏の君主が王号を称するようになった始まりであるとする。周や殷以前の王朝とされる夏の王、そして天子と称することで、周王朝に取って代わる意志を示したのである。

出典:佐藤伸弥/周/中公新書/2016/p205-206

周王室より古い夏王室のマネをして周王室の権威の上位に立とうとしたわけだ。もちろん夏王室の立ち居振る舞いなど遺っているわけがなく、振る舞いも物も恵王らの創作だ。

ただし、恵王は斉との戦い(前342年の馬陵の戦い)で大敗し、魏は覇権国のちいから引きずり降ろされた。

(詳細は記事《 称王/遷都/社会の発達 》の称王の節 で書いた。)

前4世紀後半、各諸侯が王号を称する

上記の記事に書いたことだが、実は魏・恵王が王号を称する前に、周王室は秦の孝公を覇者に任命している(文武の胙を下賜した)。これがきっかけとなって魏王は方針変更をしたわけだ。

周王室は引っ込みがつかずに秦の次代の恵文君にも文武の胙を贈って覇者体制の復興に望みを繋げようとした。

だがしかし恵文君も王号を称してしまった。それのみならず韓・趙・燕さらには小国の宋・中山国までも王号を称するようになってしまった(佐藤氏/p207)。周王室の威厳など無いも同然のところまで落ちぶれてしまった。

斉と秦の二強時代の中期、斉・湣王と秦・昭襄王(恵文王の子)はそれぞれ東帝・西帝と称した。それほど王号の価値は失墜してしまったのだ(ただし帝号はその後すぐに破棄された)。

分裂

周王室の支配下にある領域は王畿と呼ばれていたが、その範囲は現在の洛陽周辺に限られていた。この小さな範囲の中でさらに分裂が起こる。

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出典:佐藤氏/p205

考王(前440年 - 前426年)が弟を王城すなわち漢代の河南県城に相当する区域を封じて周公の官職を継がせた。周公は西周の周公旦の官職だ。この弟は西周桓公と称するがこの西周西周王朝とは関係ない。紛らわしい。

桓公の次代の威公が亡くなると威公に寵愛されていた末子が太子に反乱を起こして独立する。つまり周公の領地が分裂したわけだ。太子は「西周の恵公」または西周君と呼ばれ、末子は「東周の恵公」または東周君と呼ばれる。これも紛らわしい。西周君の拠点が王城、東周君の拠点は鞏。その後も両者は時に戦争をしていたようだ。

周王室の最期の王である赧王(前314年 - 前256年)が西周君を頼って王城に移った)。よって都も成周から王城になった。赧王が王城に逃げて(?)きた理由は不明だが、東周君が成周を拠点としたとあるので、東周君が赧王を攻めたのかもしれない。

これにより、周王室は東西に分裂した。

(ソースは佐藤氏/p 208-209)

前256年、滅亡

赧王の在位は59年に及んだが紀元前256年、西周は諸侯と通じて韓と交戦中の秦軍を妨害したため秦の将軍楊摎の攻撃を受けた。西周の文公(武公の子)は秦へおもむき謝罪しその領土を秦に献上した。このため赧王は秦の保護下に入ったがまもなく崩御し、程なくして西周の文公も死去した。西周の文公が死去すると、その民は堰を切ったように東周へ逃亡し、秦は九鼎と周王室の宝物を接収し、文公の子を移した。こうして、秦が王畿を占拠したことで、西周と周王室本家は滅亡することとなった。

出典:周#滅亡 - Wikipedia (この引用文のソースは佐藤氏/p209-210)

以上が周王室の滅亡の顛末だ。

こんな紛らわしくてめんどくさい滅亡の仕方をしなければ、もうクローズアップされるのではないかと邪推したくなる。

前回、周王室を滅ぼした勢力は他の全勢力の敵になると書いたが、当時の秦は周王室を滅ぼす前に他の全勢力の敵になっていた。



私は周王室の滅亡はそれなりに大きなイベントだと思っていたが、あまりにもしょうもないのでがっかりしている。