歴史の世界

戦国時代 (中国)⑩ 後期 周王室の滅亡(東周の歴史)前編

周王朝が滅亡するのは前256年である。秦によってあっけなく滅ぼされてしまった。

春秋戦国時代において最弱レベルの勢力が戦国末期まで生き延びることができたのは興味深いのでここに書き留めておく。

ここでは春秋時代までさかのぼって東周の歴史について書いていく。

テキストは↓

周―理想化された古代王朝 (中公新書)

周―理想化された古代王朝 (中公新書)

どうして生き延びることができたのか

戦国時代になって、中小国が大国に併呑される中で、武力が無きに等しい状態の周(東周)王朝が滅びたのが前256年。ちなみに西周が滅んで東周ができたのが前770年、秦が中華統一を果たしたのが前221年。

なぜ弱小勢力である東周が滅ぼされなかったのか? 確証はないが推測はできる。

仮に周辺国の魏が周王朝を滅ぼしたとしよう。そうしたら他の勢力は魏を攻撃する絶好の大義名分を手にすることになる。他勢力が嬉々として「対魏戦争」を起こすべく外交を活発化させただろうことは火を見るより明らかだ。

周王朝は秦によって滅ぼされたが、周滅亡の頃の秦は他勢力が束になって攻めてきても逆に攻め込む事ができるほどの力を持っていた。

周王室は形式上の地上のオーナー

東周すなわち春秋戦国時代における周王室の歴史を手短に書いていく。

周王室は東周の時代になってからも断続的に家督争いを行っていなのだが、それをするにしても武力は皆無に近く、他勢力を巻き込む形でしかできなかった。

武力皆無の周王室にとって生き残るためのエネルギー源は天子としての権威だけだった。(真偽は別として)周の文王は天命を受けた「受命の君」であり、その子孫である歴代王が天に対する祭祀をする権限を持ち、これすなわち、地上(中華)のオーナーであると考えられた。

本来なら周王室が武力を持っていない時点で、他の勢力は上のような物語につき合う必要はないように思うところだが、それでも使いようによっては自陣の勢力を増大させることにができると思えば周王室を使ったのだ。

さて、以下に簡単に周王室の歴史を書いていくが、春秋戦国時代の大きな歴史の流れはこの記事以外を参照のこと。

前651年、斉の桓公に「文武の胙」を下賜する

斉の桓公とは春秋時代の最初の覇者。桓公は前651年に諸侯を集めて会盟を開催した(葵丘の盟)。周の襄王はその場に使者を派遣して桓公に「文武の胙」を下賜した。

「文武の胙」の意味とは? 以下引用。

豊田久の研究によれば、周王は即位時にまず文王の事績を示す「天命の庸受」者としての天子の地位を継承し、ついで武王の事績を示す「四方の葡有(ほゆう)」者としての王の地位を継承するとのことであった。

豊田氏は更にこの自論を基礎として、桓公への「文武の胙」の賜与は、周王の持つこの二つの役割、特に後者の、周の領域内に封地を持つ四方の諸侯を統括する「四方の葡有」者としての役割を桓公に代行させ、彼を周王朝の保護者として位置づけたのであるとする。これによって桓公は諸侯のみならず周王朝からも覇者として権威が認められたということになるが、その際に引き合いに出されたのは文王・武王以来の周の伝統なのであった。

出典:佐藤信弥/周/中公新書/2016/p158

日本史における後鳥羽天皇源頼朝征夷大将軍に任命したようなものだと思うのだがどうだろうか。

周王室は「天命の庸受」者としての天子の地位は周王室にあり、「四方の葡有」者としての役割だけを桓公に代行させようとしたのではないかと、個人的には思う。

前632年、晋の文公を覇者に任命する

時代が代わって覇者が晋の文公になる。

前632年、楚との戦い(城濮の戦い)に大勝した文公は、鄭の地である践土(せんど)に味方の諸侯を集めて会盟を開催した。ここに周の襄王を迎えて戦果を献上した。

襄王はこれに応えて、西周後期の儀礼(冊命儀礼)に則って文公を侯伯すなわち覇者に任命した。(佐藤氏/p161-164)

(冊命儀礼については記事《貴族制社会の出現/冊命儀礼》の「冊命儀礼」の節 を参照)

これから晋の君主が覇者の地位も受け継ぎ、晋の覇権の時代(覇者体制と呼ばれる)が前500年あたりまで続いた。この間、晋は周王室を尊重したのでは王室は安泰だった。

覇者体制の崩壊と孔子の登場

前500年頃に覇者体制が崩壊する。これは周王室にとって大事件だった。

事実上の中華の支配者であった晋が尊王攘夷(周王を尊んで、夷狄(楚)を倒す)の意を示していることで、周は形だけでもヒエラルキーの一番上に置かれていた。そして覇者体制が無くなった時にその秩序が崩れてしまった。

秩序を失ったのは周だけではなく中華全体だ。諸侯たちは新しい秩序を求めたのだが、この時期に登場したのが孔子だった。

孔子と]孔子の後学となる儒家たちは、その春秋後半期から戦国・秦・漢期にかけて、自分たちが西周の礼制と信じるものを体系化し、『周礼』『儀礼』や『礼記』に収録されている諸篇といった礼に関する書をまとめ、礼制を成文化した。

西周の礼制を理想とし、下級の貴族が墓葬の青銅器として「通常の器群」を用いるのに対し、自分たちは「特別な器群」を用いるといったように、身分や階層などに応じて体系化された礼制を求める君主や上級の貴族が、儒家の主張する礼制を受け入れるようになった。というより、儒家の方がそのような「社会的要請」に応えていったというのが実情であるかもしれない。[中略]

要するに儒家の提示した礼制とは、当時の東周の礼制に、彼らが西周のものと信じる要素(その中には本当に西周に由来するものも多少は含まれていただろうが)を加えて復古的なものに仕立て上げ、体系化したものだったのである。

出典:佐藤氏/p185-187(下線は引用者)

以上のように新しい礼制は作り上げられていった。この時代の礼制は儒家のみならず諸子百家の要素も含みながら各地に伝播していった。そしてこの大きな動きに対して周王朝は関わっていない。

  *   *   *

以上が春秋時代まで。次回は戦国時代の周王室の歴史を書く。