歴史の世界

春秋時代⑤ 楚と秦

前回は晋の文公、前々回は斉の桓公について書いた。この二人は春秋五覇に数えられている。

今回は、春秋五覇のうち、楚の荘王と秦の穆公(繆公)について書く。

ちなみに、春秋五覇に挙げられている宋の襄公については前々回に簡単に書いた。

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春秋時代の諸国

出典:春秋時代 - Wikipedia

前置き

覇者については「春秋時代② 覇者とはなにか/「五覇」とはなにか」で書いた。

落合淳思『古代中国の虚像と実像』*1によれば、覇者の「覇」は本来は「伯」であり、「諸侯の長」を意味していた。覇者の本来の意味は、中原(西周の領域≒華北)の「諸侯の長」であり、周王朝のお墨付きが必要であり、そして(形式上であれ)勤王・尊王の諸侯でなければならなかった。

本来の覇者に当てはまるのは五覇の内では斉桓公と晋文公の二人で、文公の後、覇者の地位は晋の君主に世襲された(上の記事参照)。

ただし後世の識者が五覇を「春秋時代に軍事的に強かったベスト5」くらいの意味で考えていたらしく、この意味での五覇に複数の識者が名を挙げたのは8人だった。この8人の中には斉桓公と晋文公が含まれ、本来の覇者になろうとしてなれなかった宋の襄公も、何故か含まれている。

以下に楚と秦について書いていく

楚と荘王

楚については周原甲骨に言及されている。周原甲骨とは西周王朝誕生前後の周原(関中、渭河流域)で銘記された甲骨文字のことだ。つまり、楚は周王朝には初期の頃から認知されていた。そして西周第4代・昭王の南征の標的のひとつに楚が挙げられている。

西周後半では楚の君主が作成させたとされる青銅器が出土している。青銅器には「楚公」と銘記されているが、周王朝が認めたのか自称したのかは分からない。

春秋時代に入って、『史記』楚世家によれば、楚の君主の熊徹(在位:前741-前690年)が周王朝に楚公として認めるように頼んだが拒否されたため王を称するようになったという(武王 (楚) - Wikipedia )。

武王の頃には既に中原(黄河流域)への北侵をしていた(その前は分からない)。

武王から3代後が成王(斉の桓公、宋の襄公、晋の文公と同時代人だった)。

成王の2代後が荘王となる。

荘王について簡単にまとめられた文章を引用する。

荘王は、陳の内乱に乗じて一時併合し、鄭を攻めて陳とともに属国化した。前597年、鄭の支援に晋が大軍を送ると、荘王は邲の戦いで晋を大破した。これ以降、晋は、秦・斉との抗争もあって、その影響力を失っていく。勢いに乗った楚は、中原諸侯への影響力を確実に拡大し、楚と晋の間で揺れ動く鄭だけでなく、一貫して楚に対抗してきた宋・魯・衛・陳など中原の主要国をその影響下に収めていった。

出典:渡邉義浩/春秋戦国/歴史新書/2018/p52

陳の内乱とは夏徴舒の乱のこと。「夏徴舒 - Wikipedia」参照。

「楚と晋の間で揺れ動く鄭」について。鄭は北の晋と南の楚に挟まれて戦場になりやすかった。一方につけば他方に攻められるのだが、晋と楚のそれぞれの国で御家騒動やら後継者争いがあり、また君主の力量も代わるので両者の優劣が何度となく逆転する中、鄭は一方を裏切って他方につくことを繰り返さなければならなかった。*2

さて、前597年の邲の戦いで晋を大破したことで、覇権は晋から楚に移った。この状態は荘王が死ぬまでは続いたが、次の代で楚の覇権は終わる。

前591年、荘王が薨去する。子の共王は、楚の盟下にある許が鄭に攻められるので、鄭を討ち、これを降した。これに対して、前575年、晋の厲公は衛・斉・魯・を従えて鄭を攻撃、鄭が楚に助けを求めて、楚と晋による鄢陵の戦いが行われた。楚は晋に破れたが、晋の厲公も増長して殺される。それでも、厲公ののち即位した晋の悼公は賢者を任用し、中原の秩序を維持した。しかし、その死後、晋も楚と同様に混乱が続き、そうしたなか、呉・越が台頭するのである。

出典:渡邉氏/p52

秦と穆公(繆公)

西周後半期の金文(出土した青銅器に刻銘された文)で、虎臣(こしん)すなわち周王の近衛兵にあたる集団のひとつとして「秦夷」「戍(じゅ)秦人」という名称がみられ、これより秦が近衛兵を供給する役割を負わされていたことが分かる。(佐藤信弥/周/中公新書/2016/p189-181)

秦の故地は関中の西の甘粛省あたりで、おそらく遊牧か牧畜を中心とした生活をしていた集団だった。周王朝に服属していたが、中原の文化の外にあったのだろう。

それが周の東遷(西周の滅亡)により、秦は空白化した関中平原に入り、諸侯として自立し、中原の文化を受容した*3。ただし何時 周王朝に認められたのかは分からない。

金文で秦と周王朝の交渉が認められる最古のものは「秦公及(および)王姫鐘」の銘文で、春秋時代前半の憲公(前715-704)の時期のもので、憲公の子の出子とその母「王姫」(周王朝から嫁いだ姫姓の女性)が制作したものとされる。*4

さて、穆公の話に移る(穆公は繆公とも書かれる)。

穆公は在位前659-621年の時代の人で、晋の文公を君主の座に就かせた人物だ。

穆公は晋文公が亡くなった直後(前627年)に中原に侵攻したが、文公の後継の襄公に大敗した(殽の戦い)。前624年に再び晋と戦って戦勝したものの(王官の戦い)、それ以上中原に執着することはしなかった(後代の話になるが、秦では早世する君主が続き、そのことも秦がなかなか興隆できず中原の覇権をかけた戦いに参与できなったという事情もあるようだ*5 )。

穆公の代の宰相は百里奚(ひゃくり けい)で、穆公と同等に重要人物だ。

両者の下、秦は周辺の小国を次々と服属させ、西の果てに位置する未開の小国に過ぎなかった秦を大国晋にも匹敵する一大強国へと育て上げた((康公 (秦) - Wikipedia)。

渡邉義浩氏は穆公(繆公)を「西戎の覇者」と評している(渡邉義浩/春秋戦国/歴史新書/2018/p54、57)



*1:講談社現代新書/2009/p74

*2:穆公 (鄭) - Wikipedia 参照

*3:佐藤氏/p181

*4:国史 上/昭和堂/2016/p45(吉本道雅氏の筆)

*5:康公 (秦) - Wikipedia