歴史の世界

兵家(2)孫子(春秋時代前期の戦争)

この記事では孫武が生きた時代が戦争の活気であったことを示すために春秋戦国時代の戦争の移り変わりを書いていこうと思う。

戦闘について

今から2500年以上前、中国春秋時代の戦争は、互いをはるかに見通すことのできる大平原に、両軍の戦車が日時を決めて布陣し、開戦の合図によって戦いを始めた。貴族戦士によって構成される軍隊は、兵力数数百から数千。最大でも数万という規模。戦闘も数時間から長くて数日、勝敗が決まると、互いに軍隊を撤収し、講和が結ばれた。

出典:湯浅邦弘/諸子百家中公新書/2009/p213


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出典:詳説 世界史図録/山川出版社/2014/p36


春秋戦国時代の初期から孫子の生きた時代(彼は紀元前512年に呉の国に仕え始めた)までは、戦争のあらゆる面で大きな変化が起こっていた。斉の桓公の統治時代に管仲の改革下にあった斉の軍隊も、規模としてはたった三万人だけであったと考えられており、戦争もたった一度の戦闘で決まり、しかもそれは一日以上続くことはなかったのである。たとえば斉の桓公の統治時代の初期に行われた「長勺(ちょうしゃく)の戦い」(紀元前684年)という大規模な戦いでは、斉の軍は敵軍〔魯軍〕の前線を三度の突撃によっても突破することができず、反撃を許してしまったために敗北している。この戦いの勝敗は、太鼓の連打(攻撃/突撃の合図)が文字通り三度打たれた後に決せられた。右の例は、春秋時代の初期にはその戦争の規模の大きさにかかわらず、全般的に言ってこのような急襲による戦闘がまだそれほど一般的なものではなかったことを教えている。桓公の狙いは「覇」(諸侯のトップ)になって覇権を追求することであり、敵国を破壊することではなかったからだ。したがって支配者たちの目標を達成する手段としては、戦闘よりも抑止と外交のほうが好まれたのである。

新しい戦い方は、春秋時代後半に次第に広まってきた。[以下略]

出典:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2018(原著は2014出版)/p76

春秋時代の戦争は戦国時代の戦争と大きく異なっていた。

戦国時代の戦争は、簡単に言えば、専制君主・富国強兵・国民皆兵を基本として数万・数十万の歩兵を動員して長期の戦争も辞さず、攻城戦も行い、諸侯国の併呑にも積極的だった。

「戦闘よりも抑止と外交のほうが好まれた」時代の戦争の意味はどういうものなのか?戦争自体で実利を得るのではなく、強さを示して外交交渉を有利にするための手段として戦争を活用したということだろう。また諸侯たちに承認されなければ戦争で得た実利(領土など)は我が物にならなかったのかもしれない。

春秋時代の戦争では、諸侯国の併呑が無かったわけではないが、戦国時代と比べれば少ないと言っていいと思う。

春秋時代の戦争は西周代の様式の残滓が かなり残っていると言われるが、戦国時代までの間に次第に変わっていった(春秋時代後半の戦争については別の記事で書く)。

ルールについて

以下も基本的には前期の話で後半になって次第に崩れていったそうだ。

司馬法』仁本篇から引用。

昔は、敗走する敵を百歩以上は追撃しなかった。敵対する敵も三舎(30数キロ)までしか追わなかった。こうして「礼」を守っていることを示したのである。

また、戦闘不能になった的には止めを刺さず、傷ついた敵兵には情けをかけた。こうして「仁」のあることを示したのである。

さらに、敵が陣列を整えてから進撃の太鼓を打ち鳴らしたが、こうして「信」のあることを示したのである。

また、大義だけを争い、利益は争わなかった。こうして「義」に則(のっと)っていることをしめしたのである。

降伏してきた敵は快く許した。これは「勇」があることを示したのである。

開戦しても終わらせる潮時をわきまえていた。これは「智」のあることを示している。

教練のときに、あわせてこの六つの徳を教え込み、人民の守るべき規範としたのが、古来の軍政であった。

出典:守屋洋守屋淳 訳・解説/[新装版]全訳「武芸七書」2 司馬法尉繚子(うつりょうし)・李衛公問対/プレジデント社/2014/p36

ここでの「礼」は戦闘のルールと言い換えることができる。

ちなみに『司馬法』の成立については、3つの説がある。*1

  1. 春秋時代の斉景公(在位:前547-490年)に仕えた司馬穰苴(しば じょうしょ)が自撰したもの。*2
  2. 戦国時代の斉威王(在位:前356-320年)が重臣たちに命じて、古くから伝わる斉の兵法を研究させ、それに司馬穰苴が作った兵法を付け加えて「司馬穰苴の兵法」としてまとめたもの。*3
  3. 偽作

守屋氏らの本では「威王が作らせた」説を採用している。一方で上述のデレク・ユアン氏は「司馬穰苴本人の作」説を採用している。個人的には『司馬法』が儒家くさいので、戦国時代に成立した法を採りたい。

いずれにしろ、上にある「昔」とは、おそらく夏殷周三代を指しているのだろうが、当時は夏殷のことは神話なので実際のところは春秋時代前期と西周時代の記録が遡れる時点までといったところだろう。

春秋時代前期に限れば、ユアン氏によれば、戦争は敵国を落とすことではなく覇権を追求することなので、『司馬法』のルール(礼)で良かったのかもしれない。

「宋襄の仁」

戦争のルールに関することで、有名な「宋襄の仁」について。

まずおさらい。春秋時代の宋の襄公(在位:前651-637年)が楚軍との戦争(泓水-おうすい-の戦い)のエピソード。事前の話を飛ばして戦闘場面。

楚軍は宋軍に比べて圧倒的大軍であった。そこで目夷は敵が渡河している間に攻撃するべきだと言ったが、襄公はこれを許さなかった。楚軍は渡河し終わったが、いまだ陣形が整っていなかった。目夷は再びここで攻撃するべきだと言ったが、襄公はこれも許さなかった。ついに楚軍は陣形を整え、両軍は激突したが、当然大軍の楚の圧勝に終わり、襄公は太股に怪我を負った。

帰国後、なぜあの時に攻撃しなかったのかと問われ、襄公は「君子は人が困窮している時に付け込んだりはしないものだ」と答え、目夷はこれを聞いて呆れ、「戦時の道理は平時のそれとは違う」と言った。

出典:襄公 (宋) - Wikipedia


このことから、敵に対する無用の情け、分不相応な情けのことを宋襄の仁(そうじょうのじん)と呼ぶようになった。

ただし、宋襄の仁を批判しているのは『春秋左氏伝』であって、『春秋公羊伝』では襄公が詐術を使わずに堂々と戦ったことを賞賛している。

出典:泓水の戦い - Wikipedia

ユアン氏はこのエピソードを以下のように説明する(p74-75)。

(要約)宋襄公が『司馬法』の言うところの「戦争における規範」(つまりルール)に従って行動したのに対して、楚軍は従わなかった。襄公の最大の計算違いは楚軍が同じルールに従って行動すると思っていたことだ。たとえ、楚軍が従わないとおもっていても覇者であろうとする襄公はルールに従うことを選択した。

これに対して上述の守屋氏は「古代の作法どおりの戦い方は、この時代になると、すでに嘲笑の対照になっていたのである」と書いている(p13)。

襄公はこの戦いに勝って覇者としての仕事を全うしようとしたが、逆に大敗して諸侯らから相手にされなくなったという。

さて、ここまで書いておいて言うのもなんだが、おそらくこのエピソードは作り話だろう。ソースは落合淳思氏。

宋と楚の軍事力にはもともと大きな差があり、「宋襄の仁」などなくても襄公の大敗は自明のことであった。また、軍議の内容が公表されるはずもない。楚は黄河流域の諸国から野蛮視されていたが、その楚が勝ったため、後にこじつけた話が作られたのであろう。

出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p71

このエピソードの出典の『春秋左氏伝』は『春秋』の注釈書だが、作り話が多く混入されているという*4

『春秋左氏伝』の成立時期は戦国前期なので、編纂者は「春秋時代の人々はおかしな戦争のしかたをしていたようだ(笑)」と思ってこのエピソードを採用したのかもしれない。



*1:(PDF)湯浅邦弘/『司馬法』に於ける支配原理の峻別

*2:『隋書』以降の芸文・経籍志類の採る立場

*3:史記』司馬穰苴伝などに記されている

*4:落合氏/p60-62