歴史の世界

中国文明:殷王朝⑥ 後期 その3 神権政治

自然神と祖先神

自然神/自然への恐れ

人類はその「人類誕生」より自然の中で生きてきた。自然は人類に対して恩恵と厄災の両面を与え続けて今に至る。

科学知識がほとんど無い古代において、人々はあらゆる自然現象を神格化して、それらを祭ってご機嫌を取って、豊穣と平穏を願った。

甲骨文に現れる殷の自然神は数多く有り、何を表しているのか分からない文字(自然神)も多いらしい。しかしこれらの神の多くは川の神と山の神に大別できるという。その他には土や土地、動物、方角などを神格化している。龍などの想像上の動物も自然神の一部らしい。

このような自然神がじつは、王朝以外の諸族によって祭られていた神であり、征服の過程で、殷の祭祀にとり入れられたものである[中略] 。殷王朝は異族の神を祭祀することによって、異族との間に連帯意識を表明し、その支配を有効にしようとしたものと思われる。

出典:伊藤道治/古代殷王朝の謎/講談社学術文庫/2002*1

このようなしくみは古代メソポタミア古代エジプトと同じだ。

祖先神/祟り神

祖先神とは、文字通り祖先を神格化したものであり、甲骨文字では先王への祭祀が多く見られる。特に直系の先王が重視されており、祭祀の例数が多く、また配妣(先王の配偶女性)が祀られているという特徴がある。一方、甲骨文字の末期を除いて傍系の先王は祭祀上で軽視される傾向がある。

殷代において先王の祭祀が多くおこなわれた背景には、王の正当性を保証する目的があったと考えられる。一般的に言えば、王朝の支配権は王が代わるたびに新しくなるのではなく、始祖や建国者が得たものを代々のおうが継承したと認識される。おそらく殷代も同様であり、殷王は代々の先王を祀ることで自己の正当性を主張したのであろう。

出典:落合淳思/殷/中公新書/2015/p84

次に祟り神について。

祖先神というのは、いったいどのような力をもつと当時の人々に考えられていたのであろうか。[中略]

大きな傾向としてみるならば、祖先神の最も明らかな特色は、王をはじめ生人に対するたたりということであろう。[中略]

さらに興味があることは、祖先神のうちでも比較的世代の近い人々に、その力が強く認められていたことである。[中略] 父や母[つまり直系の先王や配妣--引用者]の称をもってよばれる祖先のたたりが多いのである。このことは死者の霊にたいする畏怖感から、考えられるようになったものであろう。

出典:伊藤氏/67-68

伊藤氏は祖先崇拝の根源は死者崇拝(死霊崇拝)にあり、死霊は祟られる人の父母など 近い関係にある人(死者)ほど祟る力が強いと信じられていた、と主張している。(p72)

ただし伊藤氏は、祖先祭祀が固定化することにより、祖先神は「祟り神」ではなく、祭祀を行えば受益を与えてくれる「守護神」と考えられるようになった、としている。(p80)

「帝」への信仰

殷王朝では自然神と祖先神が信仰されていたが、武丁代には、これに加えて「帝」という神が崇拝された。甲骨文字の記述では、帝は神々の中でも権能が強いものとされ、しかも他の神よりも上位に置かれていた。[中略]

帝は人間が祀ることすらできない至高の存在とされていたようであり、甲骨文字には帝に対する直接的な祭祀儀礼が見られない[間接的に「帝雲」や「帝臣」に対して祭祀を行っていた]。[中略]

神話上で神々の頂点に立つ存在は、現代の用語で「主神」と呼ばれる。一般的に言えば、多神教古代文明では、支配者が主神を祀ったり、主神との血縁関係を主張したりすることで、自己の権威を高めることが多い。神話上の神々の関係を現実社会に投影することで、支配を容易にするのである。

殷王朝においても同様に、武丁は「帝」を神話上で主神として設定し、その信仰を司ることで、自身の宗教的権威を高めようとしたのであろう。

出典:落合氏/p132-135

ただし、武丁の死後、「帝」への信仰は一旦とぎれたようだ(甲骨文字でその言及がほとんど見られなくなる)。これが周代に復活する。武丁の代に周へ流入したのだろう。(p135)

犠牲

殷代では、祭祀の時に家畜を犠牲として神への供物とした。これは新石器時代などでも、また世界各地でも認められる。

王が主催する祭祀は臣下も参加し、犠牲として殺された家畜は祭祀の後に彼らに振る舞われたようだ。殷代でも家畜は貴重なものであり、これらを(祭祀に使用した)酒と共に臣下に振る舞うことで、「①王の宗教的権威を構築」「②臣下に王の経済力を示す」「③供物の分配を媒介として君臣関係を確認する(強める)」という意義があった(落合氏/p98)。このようなことも世界史の古代では一般的なことだと思われる。

興味深いこととして、殷代では犠牲の処し方(殺し方)も儀礼の一部になっている。

例えば「燎」という漢字は「組んだ薪に火をつけた」様子を表しているが、これは犠牲を焼き殺す儀礼である。ほかにも儀礼として幾つかの「処し方」がある。

  • 「改」→「蛇を叩き殺す」様子→犠牲を叩き殺す。
  • 「卯」→「肉を引き裂く」様子
  • 「伐」→「武器の戈で首を切る」
  • 「発」→「弓を射る」

犠牲の処し方に幾つもの種類がある理由はよく分からないが、これらの「儀礼」は後代の中国史では死刑のやり方に出てくる(『史記』に登場する)。これを考えると、「儀礼」の効果は「見せしめ」または「見世物(ショー)」である可能性がある。

「人牲」(奴隷の犠牲)/殷代は「奴隷制社会」ではなかった

家畜だけではなく、人も犠牲として大量に「使用」されていた。犠牲となる人々は主に戦争捕虜だったが、犠牲の目的で「人狩り」をすることもあったようだ。犠牲にされた人々で最も多いのが「羌」の人々だ。殷からみて北西の人々。落合氏によれば、殷代には「人食」の習慣はなかったので、「人牲」の目的は軍事力の誇示ではなかったかと推測している。(p104)

さて、祭祀から話が逸れるが、ここで殷代における奴隷について。

奴隷の中では、祭祀の犠牲にされなかった人々もいた。彼らは王や貴族の家内奴隷になって、主人が死んだ時は強制的に殉死させられて主人の墓に埋葬されるか人牲になった。奴隷の一部は逃亡防止のために足首を切断されていたり(刖)、目を潰されていた(民)。(p104-106)

さて、殷代と西周代は「奴隷制社会」であったという学説があった。

マルクスらの唯物史観の発展段階説の一つの段階に「奴隷制社会」というものがあり、郭沫若らがこの段階を殷王朝に当てはめた。

その論拠となる代表的なものが「衆」だ。甲骨文字の中に「衆」が農作業に動員されていることに着目し「衆」を奴隷とみなした(p100)。しかし、当時の甲骨文字で奴隷は「宰」の字で表されており、農業に従事していた記録もない。その他の論拠もすべて論駁されてしまった。

信仰の政治利用

甲骨占卜の操作と改竄

甲骨占卜のことは以前に少し触れた。

中国では、新石器時代から亀の甲羅や家畜の肩甲骨を用いた占い、すなわち甲骨占卜が行われていた。占いの方法は、甲骨に熱を加え、生じたひび割れの形によって将来の吉凶を判断するものである。[中略]

占卜の内容には、王自身の安否や夫人の出産のような王の身辺だけではなく、祭祀や狩猟の挙行、あるいは収穫や降雨の有無、さらには戦争の可否まで含まれており、重要な政策であっても占卜でその実行を決定していたのである。

出典:落合淳思/漢字の成り立ち/筑摩書房/2014/p21

新石器時代ではおそらく純粋に占っていたのだろうが、殷王朝はこれを不正に利用した。

不正利用は大きく分けて2つある。

一つは、甲骨自体への細工。王が祭祀や狩猟を行おうとすることへの可否を問う占卜に対して、結果を「吉」(自分の思い通りの結果)になるように甲骨自体に細工を施した。この手の占卜の結果はほとんどが「吉」あるいは「大吉」だったから占卜というよりもむしろ儀礼的なものだったのだろう。

もう一つは、占いの「改竄」。天候や収穫など人為的には決められない事項について占った結果、その占いが的中したという文字資料が遺っている。これらは天候・収穫などの結果が出た後で、「占卜」(とその結果の添え書き)が作られたと考えられる。なぜこんなことをしたのかと言えば、王の呪術的能力あるいはカリスマを演出するためだろう。

ただし、後者の「改竄」は武丁代のみに限られるようだ。

(文献:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/第3章 政治手段としての甲骨占卜)

神権政治」とはなにか?

殷代の王は盛んに祭祀儀礼を挙行したが、それは純粋な信仰心からではなく、神への信仰を通して自身の宗教的権威を確立することが目的であった。また、祭祀で用いられた青銅器や犠牲についても、王の経済力や軍事力を誇示する働きがあった。

殷王朝の政治は「神権政治」と呼ばれるが、それは決して「紙に頼った政治」ではなく、「支配者が神への信仰を利用した政治」だったのである。

出典:落合淳思/殷/中公新書/2015/p108-109

祭祀に加えて、上にあるような甲骨占卜の不正も神権政治に一部だ。

落合氏によれば、武丁代におこなっていた「改竄」も次の代では行われなくなって、西周では呪術的行為自体の数が少なくなっていった*2

新石器時代から考えれば、殷代の「神権政治」は人々への呪術的行為の効力が減退していく過程・過渡期だったのかもしれない。



*1:『古代殷王朝のなぞ』(角川書店/1967)の文庫版)/p50

*2:落合淳思/古代中国の虚像と実像/p37