歴史の世界

中国文明:西周王朝④ 前半期Ⅱ その1 封建と官制

封建とは?

周王朝は、殷代には見られなかった画期的な制度も創始しており、それが「封建」である。周は殷を滅ぼした後、その支配地域の大部分を継承したが、各地に王の子弟や臣下を派遣し、諸侯(地方領主)としたのである。

[中略] 殷代後期の甲骨文字には確実な封建の例が見られないので、武丁は王朝を再統一したものの、旧来の勢力を排除することまでは難しかったと思われる。そのため、地方統治においては土着の領主をそのまま追認する形になっており、結果として殷王朝は弱い支配体制になった。

一方、周王朝は、殷という伝統的権威が消滅した隙を利用したとはいえ、短期間で殷王朝よりも強力な支配体制を構築することに成功した。周王朝封建制度においても諸侯は自立的な存在であり、周王が諸侯に対して内政干渉をした例は多くないが、血縁関係や君臣関係を地方統治に及ぼすことにより、支配体制が安定化し、殷代のように配下の領主が反乱することはほとんど起こらなくなった。

出典:落合淳思/殷/中公新書/2015/p235

封建を簡単に説明するのならば、上のように「各地に王の子弟や臣下を派遣し、諸侯(地方領主)」とすることである。上の「君臣」も周族の中の重臣たちだ。例えば太公望呂尚一族は斉に封建された。

西周の封建の実相

史記』周本紀では、克殷[周が殷を滅ぼしたことを指す--引用者]の直後によって主要な諸侯の封建が行われたという記述が見えるが、実際には前章で見たように、成王の時代に衛・宋・魯・斉といった諸侯の任命が行われていた。諸侯の封建は武王の時代に一気に行われたのではなく、各時期に応じてその都度行われたのである。

出典:佐藤信弥/周/中公新書/2016/p50

これらの諸侯は王族か重臣の一族から選ばれて封建された。

王族が周王を王都にあって王位を継承して子弟を地方(外服)に封建するのと同様に、重臣たちも王畿内(王朝の直接の支配領域)に本家(嫡流)を置いて彼らの子弟を封建の地に向かわせた。

ただ、諸侯とその手下だけでは封建の地を支配できるか心もとないので、王畿から別の格下の諸侯数名も赴任させた。これらの諸侯たちも傍流(または次男以下)の者が地方へ向かったのだろう。

だから前漢劉邦が韓進ら功臣たちを封建したのとは違って、功を立てた者が褒美として与えられたのとは全く違う。もっとも、前漢の場合の功臣たちはもともと地元に領地など持っていなかったが。

封建の地を支配する諸侯とその下に就く王畿からの諸侯とは別に、地元の豪族(土豪)たち、そして庶民を加えて、一国が構成される。

(佐藤氏/p50-59)

封建の目的

諸侯が封建される地は軍事上・交通上の拠点。安全保障上・経済流通上の交通経路の確保が主な目的だった。諸侯はこの他に各種の義務が課されていた。

例えば、戦時の軍役参加、王朝への貢納、朝見(臣下が朝廷に参内(さんだい)して天子に拝謁すること*1

(佐藤氏/p59-60)

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周初の二度にわたる分封で、全体の封建計画はほぼ達成された。のちに少数の新たな封国が現れたが、その数は周初のそれとは比べものにはならない。周人の分封は、ほとんどが中原、すなわち殷王朝の故地、および東方と北方の開拓された領土に分布しており、南は江漢一帯を越えない。

出典:図説 中国文明史2 殷周 文明の原点/著:尹盛平 編:劉煒/2007(原著は2001年出版)/p131

  • 上の引用文は伝世文献に依拠している。

官制

王朝の官制は大きな2つの寮と呼ばれる組織を中心として成り立っている。ひとつは卿事寮であり、もうひとつは太史寮である。

出典:世界歴史大系 中国史1/山川出版社/p199(竹内康浩氏の筆)

竹内氏によれば、卿事寮は王畿内の政治を司り、太史寮は儀礼、祭祀や王室が持つ図籍の管理を行っていた。

卿事寮の長官は初期は大保・太師と呼ばれ、中期以降は太師のみになった。

[卿事寮]に属する官で金文中にもよく見えるものに司馬・司土(徒)・司工の三職がある。これらはまとめて參有司とも称され、実務の中心となっている。司馬はおもに軍事を、司土は土地の把握を担当しているが、司工については金文ではとくにめいかくではない。この司馬・司土・司工は、金文においては、個別の職務よりも、王朝における官職任命の儀式に際して重要な役割を果たしていることのほうが目につく。

出典:竹内氏/同ページ

青銅器は儀式の場で朝廷から記銘者へ与えられるのだから引用の最後にあるようなことになることは当然だろう。

ただし、これらの官を含み卿事寮、太史寮の官にあるものは元の役目以外の任務も行っている。このことは西周代を通して見られる現象で、とくに後期になるほど特定の人物が多くの任務を兼ねる例が出てくる。

畿内を「内服」、その外の王朝の領域を「外服」と呼ぶが、外服の政務は諸侯たちに委任された。諸侯の下の官制は王畿の卿事寮と太史寮を除いた官制と同じだ。

原則として王朝は口出ししないが、戦時は諸侯の司馬が王朝の司馬の指揮下に入ることもあったようだ。