歴史の世界

中国文明:西周王朝③ 前半期Ⅰ

さて、前回の時代区分に沿って歴史を見ていこう。

前々回に武王が殷王朝を滅ぼしたところまで書いた。

今回はその後から成王の代までを書く。

「三監の乱」 ~殷の遺民の反乱

武王は殷王朝打倒のあと、数年で亡くなったようだ。そして武王の死に時を置かずに殷が反乱を起こした。

史記』などの伝世文献による通説は以下のようなものだ。

武王の死により、武王の少子(年少の子)の成王が位に就いた。成王は未だ幼少であったため、[武王の異母弟の周公]旦は燕の召公と共に摂政となって建国直後の周を安定させた。

その中で三監の乱が起きた。殷の帝辛の子の武庚(禄父)は旦の三兄の管叔鮮と五弟の蔡叔度、さらに八弟の霍叔処ら三監に監視されていた。だが、霍叔処を除く二人は旦が成王の摂政に就いたのは簒奪の目論見があるのではと思い、武庚を担ぎ上げて乱を起こしたのである。反乱を鎮圧した旦は武庚と同母兄の管叔鮮を誅殺し、同母弟の蔡叔度は流罪、霍叔処は庶人に落とし、蔡叔度の子の蔡仲に蔡の家督を継がせた。

出典:周公旦ーwikipedia

「旦が成王の摂政に就いたのは簒奪の目論見があるのではと思い、武庚を担ぎ上げて乱を起こした」というのは何とも腑に落ちないのだが、簡単に考えれば(異母?)兄弟どうしの内輪もめに殷の旧都を巻き込まれたという話だ。

同時代の資料である金文(青銅器に書いてある銘文)ではそこまでのストーリーは読めない。

殷都(殷墟)の反乱に関連する金文を佐藤信弥氏が3つ紹介している。

  • 《王が彔子聖を伐った。ああ、王が征伐の名を大保に降した。》「大保簋」
  • 《周公が到来して商を伐った》「卿盤」
  • 《王子聖》「王子聖觚」

大保は重職位でこの場合は召公奭(せき)を指す。召公奭は周公旦と共に、初期の周王朝に仕えた重要人物。

王はおそらく成王。通説では反乱の時期はまだ幼かったとなっているが、金文では出征しているので実際は成人になっていたようだ。

佐藤氏によれば、「彔子聖」と「王子聖」は同一人物で、殷王朝最後の王紂王の息子(通説では武庚)。

分かることはここまで。三監が本当に通説に書いてある彼らなのかは金文には書いていない。

通説がどこまで真実に迫っているのかは分からないままだが、この反乱に成王・周公旦・召公奭が出向いているということは、王朝の存亡に関わるほどの大事件だったようだ。

反乱鎮圧の後、殷の地は武王の弟・康叔封が封じられた。この地はこれより「衛」と呼ばれるようになる(都は朝歌。殷との南に位置する)。

これとは別に、『史記』周本紀によれば、殷の帝辛(紂王)の庶兄・微子啓が殷の系譜を受け継ぎ宋に封じられ宋公となった。しかし『史記』宋微子世家によれば、微子啓―微仲(啓の弟)―宋公と継承されたことになっている。

これに対して落合淳思氏は、かつて殷王朝の支配下にあった「微」という人物(微の領主)が、周の支配下に入った後に殷の後継者と詐称し、系譜を合成して微子啓を紂王の庶兄ということにし、その後に宋に封じられた、としている(落合淳思/殷/中公新書/2015/p44-48)。

封建は別の記事で。

東征

「三監の乱」の鎮圧の後、成王と周公は東征を行った。山東省曲阜市付近にあったという「奄国」を倒し、ここに周公の息子・伯禽を封じ、地名を魯とした。さらに東征し、魯の東に姜姓呂氏が封じられ、斉となった。(佐藤氏/p42)

成周の建設

成周を建設したのは成王だが、「何尊」という青銅器の金文には、(成王の語りとして)武王が「私はこの中国に居り、ここから民を治めよう」と言った、と書いてある。つまり、成王が父・武王が中国(ここでは洛陽一帯のこと)に遷都しようとしていたことを回想した、ということだ。ただし実際に建設された後は王都ではなく、「東方経路の拠点」となったという。成周には「成周八師」と呼ばれる軍隊が置かれた。この軍は殷の遺民で構成されたので「殷八師」とも呼ばれた。(佐藤氏/p44-46)

西周には岐周(周原)・鎬京・成周と重要な都があるのだが、どのような関係なのかはよく分からない。

周の祖地である周原に初期の王族や重臣の墓が最も多く集中している。鎬京は初期のある段階から最後まで政治の中心はだったようだ。



ここまで歴史が進んで、殷王朝の残滓も粗かた片付いた。江戸時代と比較すると大阪の陣の後に大阪城代を置いて、豊臣家の旧重臣たちを処分した時期の・ようなものか。