殷後期で一番に取り上げるべきものは文字の出現だ。文字自体は殷後期より前にあったと考えられているが、まとまった文字資料として使用できるようになるのはこの頃からだ。
中国の文字はどこまで遡れるか?
後期の都であった殷墟(遺跡)から大量の甲骨文字が出土した。この甲骨文字は、中国史における文字資料として使用できる最古のものだ。
発見された甲骨文字は現代でも使われている漢字の遡ることができる最古の形である。そして漢字の形成の面でも現在のものと同じものになっている*1。さらに文も現代でも通じる。日本人なら高校で習った漢文の書き下し文の知識をそのまま使って読むことができる。
これはつまり、殷後期にはすでに文字使用が以上のような段階まで発展していたことになる。そして、後世に遺らなかった文字がこれより前にあったということになる。
殷後期より前の文字は、おそらく木簡や竹簡に書かれたのだろうが、それらは腐食してしまって現代まで遺らなかったのだろう。
土器(中国では陶器という)の欠片に文字のようなものが描かれているが、ほとんどの場合それらは文を構成しておらず、記号としか思われていない。
そんな中で文を構成していると思われる最古の文字が発見された。
出典:落合淳思/漢字の成り立ち/筑摩選書/2014/p19
これは文字でないかもしれないが、「二字ずつ並んでいるところを見ると、何らかの文章を表示していると考えるのが自然であろう。」*2
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所のウェブサイトの中の「古文字とは?<中国古文字の歴史」には、以下のように書いてある。
なお、興味深いことに、上に掲げた「丁公陶文」は、焼成の後に文字が刻まれているだけではなく、文字の位置などからして、陶器が壊れて後その破片に文字が刻まれたのではないかと推測されます。この推測が正しいとすれば、この陶文は、「モノ」に付随して記されたのではなく、「書写材料」として廃棄した陶片を再利用して書かれた可能性が出てきます。新石器時代晩期の人はすでに「書写」をしていたのでしょうか。
出典:古文字とは?<中国古文字の歴史/ 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
これ以外にも文字あるいは文字かもしれないものは発見されているが、ごく僅(わず)か だそうだ。殷前期(二里岡文化)においても同様だが、骨片に「土ヒツジ乙貞従受…」(下部が欠損)と書かれているものが発見されており、文字が使われていたことは間違いない*3
落合淳思氏は以下のように書いている。
現状の資料では、漢字の出現は紀元前2000年の前後、すなわち竜山文化の末期から二里頭文化の初期というおおよその時代範囲を推定できる程度なのである。
出典:落合淳思/漢字の成り立ち/筑摩書房/2014/p20
甲骨文字とはなにか?
中国では、新石器時代から亀の甲羅や家畜の肩甲骨を用いた占い、すなわち甲骨占卜が行われていた。占いの方法は、甲骨に熱を加え、生じたひび割れの形によって将来の吉凶を判断するものである。さらに、殷代後期には占いに使用した甲骨に占卜の内容を刻むという習慣が流行した。これが「甲骨文字」であり、「卜辞」とも呼ばれる。甲骨は木や竹に比べて硬い材料であるため、地中でも腐食しにくく、三千年の時を経て近代に発見された。[中略]
甲骨文字に記された占卜は、その多くが王の主宰によるものであり、王自身が吉凶判断をしたものも多く見られる。また占卜の内容には、王自身の安否や夫人の出産のような王の身辺だけではなく、祭祀や狩猟の挙行、あるいは収穫や降雨の有無、さらには戦争の可否まで含まれており、重要な政策であっても占卜でその実行を決定していたのである。
出典:落合氏/漢字の成り立ち/p21
ただし落合氏によれば、この占卜には仕掛けがあった。つまり占いの吉凶が王の都合のいいような結果になるようにしていた。この件については別の記事で書くが、新石器時代末期の占卜では上のような操作は仕掛けは加えられていないということだ*4。殷の政治を「神権政治」ということがあるが、この件でその一端を見ることができる。
ということで、甲骨に文字を残したのは占卜の内容を記録するためというよりも、政治のためであったということになる。