歴史の世界

中国文明:西周王朝② 系譜/時代区分/金文とは?

系譜

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出典:周 - Wikipedia

⑫代の幽王までが西周

時代区分

以下は佐藤信弥『周』(中公新書/2016/p10-11)

西周前半期Ⅰ 文王・武王・成王の時代。周王朝の創建期。文王・武王の2代による殷王朝打倒の後、成王と、彼を支える周公旦や召公奭によって周王朝の基礎が築かれていく。[中略]

西周前半期Ⅱ 康王・昭王・穆(ぼく)王の時代。諸侯の封建や南方先生が活発に行われた周王朝の支配領域拡大期。周王の主催による「会同型儀礼」がさかんにおこなわれたのもこの時期のことである。[中略]

西周後半期Ⅰ 共王・懿王・孝王・夷王の時代。周王朝の支配が頭打ちとなり、緩やかな衰退が始まる一方で、「西周後期礼制改革」が進行し、特に冊命儀礼によって周王朝の政治的秩序が完成された周王朝の安定期。[中略]

西周後半期Ⅱ 厲王・宣王・幽王の時代。厲王のような暴君の出現や、厲王による専横への反発から「共和の政」が成立するといった混迷期。一方で犬戎のような外部勢力の侵攻も相次ぎ、最終的に幽王の死と東遷へと至る。

出典:佐藤信弥/周/中公新書/2016/p10-11

伝世文献と同時代の文献/金文

西周代は まだ歴史を残す習慣はなかったので、西周の史料となるものは、後代に語り継がれた文献(伝世文献)と、遺跡から発掘された甲骨や青銅器に刻まれた文字に限られる(これが同時代の文献)。

伝世文献は殷代に比べると事実が書かれている率が上がっている。ただし、同時代の文献によって事実ではないことが明らかになる場合もある。

同時代の文献は甲骨に刻まれた文(甲骨文)は甲骨占卜の習慣が衰えていくので数が少ない。それに比べて青銅器に刻まれた文(金文)は多い。よって同時代の文献は金文がメインとなる。

もう一つ、佐藤氏が『周』で活用している文献として、清華大学蔵戦国竹簡の中の『繋年』という史書がある。これは戦国後半に書かれたものと推定されているが、後代に語り継がれた文献(伝世文献)ではなく遺跡から出土した文献(出土文献)だ。

金文とは?

青銅器は殷代にも盛んに作られ、そのクオリティーは現代人すら魅せられるほどだった。殷代を通しては文字を刻す習慣はなく、図象記号(族徽)を残す程度だった。これが殷末の頃より長い文を残す習慣が見られるようになる。この習慣が西周で盛んになり、現代における貴重な史料となった。

それでは西周における金文の内容とはどのようなものだったのか?

その内容は青銅器を作らせた当人が主君から褒賞を受けたことを記すものが多い。さらにそれに付随して褒賞を受けるに至った事情、たとえば戦争に従軍して勲功を挙げたとか、王の主催する祭祀儀礼に参加して王から直々に言葉をかけられたとか、何らかの任命を受けたといったことが記されることがあり、その部分が西周史の史料となる。これらの銘文は宗廟などでの祖先祭祀の際に祝詞のような形で読み上げられたのだろう。

それ以外にも貴族同士の裁判の経過や結果を記したものもあり、それらはおそらく契約文書のような役割を果たした。

出典:佐藤信弥/周/中公新書/2016/p6

銘文(金文のこと)を刻したい当人が青銅器に刻み込むのではなく、工房に依頼して刻してもらっていたようだ。

銘文のある青銅器は通常、《作器者+青銅器の機種名》のように呼称される。例えば「康鼎」だったら康という人が作らせた鼎となる。また、同一人物が同一器種を複数個作らせた場合は、通常大小に応じて区別される。例えば「大盂鼎」「小盂鼎」。金文を史料とする場合、上のようにソースを記述する。(佐藤氏/p6-7)