これから戦国時代へ入る。
春秋時代と戦国時代の性質の違い
春秋時代の過半は晋国が中原*2の覇権を握っていた。春秋時代の晋は戦国時代の「戦国七雄」に比べるとはるかに保守的で戦いを好まなかった。晋は同盟諸国の争い事にまで干渉して下剋上を許さなかった。この晋の性格が春秋時代の秩序を統制していた。
晋は近隣の諸侯国を併呑する能力はあったが、おそらくそれらを恒久的に統治する能力がないことを自覚していたのだろう。晋が覇権を握って同盟国(従属国)から貢納(みかじめ料)を受け取るシステムを作ったことはおそらく賢明であった。
しかし戦国時代に入ると大国は小国を併呑するようになった。食うか食われるかの弱肉強食の時代となった。
春秋末期の晋は もはや覇権国家の影すら無いほどに落ちぶれていたが、これが魏・韓・趙の3国に分裂して率先して近隣の小国を併呑していった。春秋時代の秩序に戻ることは無いことは明らかになった。これが戦国時代の幕開けだ。
楚・秦・斉は晋の体制の外にあった大国だが、楚・秦は元々好戦的だったし、斉は君主が姜姓から嬀姓田氏に変わる下剋上が起こった。これに北東の燕が加わり「戦国七雄」の時代に入る。
その他の戦国時代の特徴
上述したとおり、戦国時代は弱肉強食の時代となった。戦争が常態化する中で各国は徴兵制を採用した。
その他の戦国時代の特徴は...以下引用。
春秋時代と戦国時代では、各諸侯の国内の政治でも大きな変化があった。春秋時代は貴族制であり、特に大貴族である卿の力が大きく、行政・軍事・外交などの権力を握っていた。しかし、戦国時代になると、大貴族が消滅し、代わって君主が大きな権力をもつ「専制君主制」へ移行した。
戦国時代の専制君主制は、君主権が強化されると同時に、成文法(文章化された法律)・官僚制・徴兵制などが制定されたことが特徴である。また、この時期には、思想の発達や都市部での貨幣経済の浸透、鉄製の農具の普及などもあり、文明としても大きく変化した時代であった。
出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p84
時代区分
戦国時代の区分の仕方は一様でないと思うが、ここでは大きく3つに分けてみる。
前期(前5世紀中葉~前4世紀中葉):最大の勢力は魏
戦国時代の始まりの年代は、「wikipedia戦国時代)」によれば、7つもの説があるそうだが、有力なのは晋が魏・韓・趙に分裂した前453年と周王が正式に3勢力を諸侯として認めた前403年の2つの説だ。半世紀も違う。どちらでもよいのだが、ここでは便宜的により古い前453年を採用する。
魏の文侯(在位:前445-396年)が他国に先んじて有能な人物を高官に採用して国内を充実させ、国外の戦争でも攻勢を続かせた。諸侯国らの中で最大の勢力を誇ることとなる。
前341年、馬陵の戦いで斉軍に破れ、翌年に秦に攻め込まれると魏の勢力は失墜する。
中期(前4世紀中葉~前3世紀前期):斉・秦の2強の時代
斉は元々大国として知られていたが、威王(在位:前356-320年)の代からさらに勢力を増した。各地から多くの学者を集めた(稷下の学士)のは威王が始めたことだった。
秦は元々大国であったが、この頃に国政改革が行われ(商鞅<前390-338年>の変法が有名)、国力が更に増大し中原に侵攻を繰り返した。しかし、斉を含む他の諸侯国に抑え込まれる形になっていた。ただし、前316年に巴蜀(成都・重慶)を併合して穀倉地帯を得て、さらに国力を増した。
斉の湣王(在位:前300年-284年)の頃は斉の全盛期であったが、燕の楽毅が率いる5ヶ国の連合軍に斉のほぼ全土の都市を落とされ、湣王は斉の将軍の淖歯に殺害される(前284年、済西の戦い)。斉はその後、湣王の子・襄王を戴いて将軍・田単が失地を回復したが、元の勢力を取り戻すことまではできなかった。
後期(前3世紀前期~前3世紀後期):秦の一強時代
斉の勢力の失墜により、秦の一強の時代となる。他の諸国は合従策や戦国四君の活躍、趙の必死の防衛などで秦の東進にブレーキをかけたが流れを変えることはできなかった。
紀元前221年、秦が斉を滅ぼして中華統一を果たして戦国時代は幕を閉じる。