歴史の世界

楚漢戦争④ 各地の動き

前回は項梁の快進撃を書いたが、ここで一旦、張楚国滅亡後の各地の情勢を整理する。

各地の情勢(1月以降)

話を簡単にするために戦国時代末期の七国の地図を基(もと)に話を進める。

陳勝呉広の乱の勃発から項梁の台頭までの期間のことについては記事《楚漢戦争① 陳勝・呉広の乱》参照)

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出典:戦国七雄 - Wikipedia

秦の暦は10月を年始とすることに注意。このブログでは西暦もこれに連動させている。

張楚国が滅亡したのは二世2年(紀元前208年)12月で、項梁が懐王を戴いて楚国を建国したのが同年6月。

  1. 楚:北西部は、張楚国の滅亡後は秦軍の勢力圏に入っている。東部は1月以降、項梁の勢力に入る。6月に項梁が懐王を戴き楚国を建国する。南西部に関しては情報が無い。

  2. 燕:陳王の配下だった韓広が燕王となっている。二世3年10月に鉅鹿の戦いに将軍・臧荼を派遣するまで情報が無い。

  3. 韓:陳勝呉広の乱以降に「韓王」は存在しない。張楚国建国直後は張楚国の勢力圏に入っていたが、その後反撃されて秦軍の勢力圏に入る。

  4. 秦:一度は攻め込まれたものの押し返して函谷関を出て攻勢に回っている。張楚国滅亡後、韓の地域と楚の北西部を攻略し勢力圏に入れてさらに東に攻勢をかける。

  5. 斉:旧斉王田氏の後裔 田儋(でんたん)が王となっている。田儋が動くのは4月に入ってから。後述。

  6. 魏:旧魏王室の公子 魏咎(ぎきゅう)が王。1月から張楚国を滅ぼした秦軍の将軍・章邯に攻められる。その後については後述。

  7. 趙:張楚国建国後に陳王の配下の将軍だった武臣が王となったが、その後の内紛により武臣は殺され、1月に張耳・陳余(彼らも陳王の配下の将軍だった)が趙の公子であった趙歇を王として擁立した。その後 数カ月間に亘って国内での戦闘が続いてこれを平定した直後に秦軍が攻めてくる。

以上を踏まえ上で、その後の歴史を見ていこう。

魏での戦い

張楚国を制圧した秦軍は1月、北上して魏を攻める。魏王咎は臨済(旧魏の都・大梁の東南)で戦うが包囲される。

4月、臨済がいよいよ陥落に近づくと、魏王咎は宰相周市(しゅうし、しゅうふつ) *1 を派遣し、斉王儋(田儋)と楚の項梁に援軍を要請する。この時、斉から田巴(でんぱ)、楚から項它(こうた)が派遣され、一時的だが、秦軍の包囲を解いた。

6月に入ると、再び秦軍が臨済をほうすると、斉王儋が自ら臨済に進軍するが、秦軍の攻撃により魏・斉軍は撃破され、斉王儋と魏宰相・周市が戦死した。

これにより魏王咎は民の安全を条件にして降伏し、この約束が守られたことを確認した後、焼身自殺した。魏は秦軍により鎮圧された。

斉の政変

斉王儋の死後、弟の田栄は敗残兵を集めて斉の西部の東阿に逃げた。

しかし田栄のいない斉で田仮(戦国斉の最後の王である田建の弟)を王とするクーデタが起きた。斉王儋が戦死(または行方知れず)してしまったのでそうするしか無かったのかも知れないが、田栄としては承知できるはずがなかった。

田栄は東阿で楚の司馬龍且(りょうしょ)の援軍と合流して秦軍を退けて、楚軍と別れて斉の都に戻った。

田栄は、項梁が行った章邯への追撃には参加せず、斉で田仮が擁立されたことを怒り、すぐに兵を率いて帰還して、田仮を攻撃して追放した。田仮は楚に亡命し、田角・田閒兄弟は趙に行ったまま帰ってこなかった。

同年8月、田栄は田儋の子の田巿(でんし、でんふつ) *2 を擁立して王として、自身は田巿の相国となる。弟の田横は将軍となり、斉の地を平定した。

同年9月、章邯を追撃した項梁から、ますます兵力が増大していた章邯討伐を行うための援軍要請を受ける。田栄は、「楚が田仮を殺し、趙が田角・田閒を殺せば、援軍を出そう」と条件を出す。楚では懐王・項梁[6]ともに断り、斉と同様、項梁からの援軍要請を受けていた趙もまた、田角・田閒を殺して斉と交易をしようとはしなかった。

出典:田栄 - Wikipedia

この後、項梁は秦軍との戦いの中で戦死してしまう。項羽は田栄が援軍を出さなかったことを恨み続ける。

まとめ

項梁(楚)の勢力は6月までに快進撃を続けてきたが、一方で秦軍も攻勢を強めて反秦勢力に猛反撃している。

魏は秦軍の手に落ち、趙は別の秦軍が攻略中。斉は中立で燕は情報無し。

建国前に秦軍と楚軍は干戈を交えているが、項梁と秦将軍・章邯が激突するのは9月になってからだ。




以上の情報源はwikipediaの各人物の記事による。


*1:「し」と読む場合は「市場」の「市」で、「ふつ」と読む場合は「巾」に「一」で構成する「巿」という漢字。「市(いち)」とは別の漢字。つまり2説ある。

*2:この名前も上述の周市と同じく「市」「巿」の2説ある。 ── 引用者