戦国時代のはじまり、それは晋の分裂から始まった。
晋の分裂の重大性
春秋時代と戦国時代の画期は晋の分裂とされる。なぜ晋の分裂がそれほど重要なのかは、前回も触れたが、晋国が中原*1の覇権を握っていたからだ(春秋時代④ 晋の文公/晋による覇者体制 参照)。
春秋時代の大国であった晋は他国を併呑することに抑制的であったが(自国がやるにも他国がやるにも)、晋より分裂した韓・魏・趙は積極的に他国へ侵攻した。
これにより弱肉強食の戦国時代に突入することになる。
分裂までのあらすじ
韓・魏・趙は元々は晋の卿(大臣)クラスの家格だった。3氏(三家)のほかに別の3氏を加えて「六卿」という大臣になれる6つの家系があった。
春秋晋では文公が三軍を創設してより、各軍の指揮官である将と佐が卿として国政をも運営し、この将佐を指して“六卿”と通称しました。 将中軍が宰相である正卿を兼ね、以下、佐中軍、将上軍と続き、末席が佐下軍となりますが、初めは必ずしも将佐=卿ではなかったようです。 又た後には、軍と卿が増設された時期もありました。
六卿は本来は“時の六卿”を指していましたが、公室の衰えが決定的となり、伝統的な卿族が六家に絞られたB6世紀半ば以降は、范氏・中行氏・智氏・趙氏・韓氏・魏氏の総称でもありました。尤も、その期間は半世紀ほどに過ぎません。
出典:中国史:春秋補注/晋六卿
六卿のうち、韓氏以外は晋の公室とは別の一族だった。これは文公が長期にわたる公室一族どうしの争いを食い止めるために別の公族の勢力を削ぐ策だった。しかし時を経ると、六卿が権力争いをすることになる。*2
上のリンク先に春秋時代の晋国内部の権力争いの歴史が書かれている。これをみると、覇者として他国の権力争いを抑制する立場にあった晋でさえ頻繁に権力争いをしていたようだ。
三晋地図
晋が近隣の小国を滅ぼすとそこに県を設置し長官を置いたのだが、そこに六卿のうちの誰かが任命され、世襲し、権力を拡大していった。諸氏の管理領有する県や都城は当初は分散錯綜していたという*3。上図のように魏の領地が韓のそれを覆うようになっているのはそのためのようだ。
さて、六卿が晋の君主そっちのけで権力争いをしている中で、厲公は(前580-573年)は君主の権力を回復しようと努めたが、六卿の欒書・中行偃に殺された*4。欒書・中行偃が擁立した悼公は賢明だったと言われるが、六卿を圧倒する権力を回復することはできなかった。その後は公室の没落と六卿の権力争いは加速するばかりだった。
春秋後期の時系列。
前490年 六卿のうち、知氏、趙氏、魏氏、韓氏が中行氏、范氏を滅ぼした。
前454年 智瑶と趙・韓・魏が范氏と中行氏の領地を分割して自分たちの領地にした。
前453年 趙・魏・韓が智瑶を滅ぼし、智氏の領地を分割した。これは晋が三分割されたことを意味位する。
前403年 趙・魏・韓が周王朝より正式に諸侯に列せられる。
戦国時代のはじまりの年は複数の説があり定まっていないが、上の趙・魏・韓が事実上晋を三分割した年の前453年と、諸侯に列せられた前403年の2つが有力だ。
范氏と中行氏の滅亡は「両氏の反乱」とされ、知氏も最後の智瑶が強欲だったなどと史書に書かれているが、権力争いを勝ち残った趙・韓・魏の3氏も当然同様なことをやっている。3氏がむしろ勝ち残ったから反乱ではないのであり、智瑶より強欲だったから勝ち残ったとも言える。そして歴史は勝者が書くものだ。
三晋(趙・韓・魏)が晋を分割し独立した後も晋公室は細々と生き残った。前376年になって韓と魏の連合軍により滅ぼされたという*5。