前回からの続き。前回はロシア史の15世紀まで書いたが、その続き。
「雷帝」イヴァン4世
イヴァン4世は暴君揃いのロシアでもドン引きされるほどの暴君なので「雷帝」と呼ばれる。雷帝なんてかっこいいと思ったが英語だと「Ivan the Terrible」だ。
1547年にツァーリを称した。これは祖父のイヴァン3世が一時称したことがあるが、ツァーリとして戴冠式を行って正式な皇帝号としたのはイヴァン4世からである。
国内では大貴族の力を抑え、中央集権的な政治体制を作り上げ、農民の移動を厳しく取り締まる農奴制の強化などを徹底し、ツァーリズム政策を推し進めた。
イヴァン4世はツァーリの絶対的権力を行使する手段としてオプリーチニナという親衛隊を組織、貴族の子弟を隊員として特権を与え、反対する貴族をテロルによって弾圧した。また1570年にはノヴゴロド市が敵に通じていると疑い、オプリーチニキに襲撃させ、市民3万人以上を殺害するということまでやっている。
モンゴル勢力の退潮により中央アジアはカスピ海を超えた広大な地域を支配下に置いた。だが、南西(黒海)はオスマン帝国、北西(バルト海)はスウェーデンとポーランドに接触して行く手を阻まれた。
イヴァン4世の頃のモスクワ大公国はまだ、ヨーロッパから「アジアの田舎者」扱いされていた *1。
動乱時代
イヴァン4世が亡くなると三男のフョードル1世が継いだ。彼にはツァーリの素質はなかった。
結局、後継者たる男子のないまま、フョードル1世は1598年の年明けに崩御した。彼の死をもってリューリクの直系子孫は途絶え、リューリク朝は断絶した。また後継者の指名もしていなかったため、全国会議が摂政ボリスをツァーリに選出した。
その後、ボリスをはじめとする短命な統治者が次々と現れては消えてゆく、いわゆる動乱時代に突入し、1610年以降はツァーリが不在という事態にも陥った。1613年にフョードル1世の従甥であり、母アナスタシア・ロマノヴナの家系であるロマノフ家出身のミハイル・ロマノフがツァーリとなり、動乱時代は終結した。
ロマノフ王朝の始まり
上のミハイル・ロマノフがロマノフ朝の初代。だが最初のうちは教科書に出てくるような有名なツァーリはピョートル1世 (在位:1682-1725)まで出てこなかった。
ただしこの間にも、版図拡大は続いていた。西方はスウェーデンとポーランドが東欧の大国どうしで戦っているところをモスクワ(大公国)は都合のいい方につくという対応に徹した *2。
また、第二次ウィーン包囲(1683)において、モスクワも参戦して、やっとヨーロッパの仲間として認められた。この戦いでオスマン帝国が敗走するとこの大国の退潮が明らかとなり、断続的に続いていた(そしてこれ以降も続いていく)トルコに対するモスクワの戦いが優位に逆転した(南下政策の始まり)。