歴史の世界

戦国時代 (中国)⑤ 中期 斉・秦の二強時代 斉編

魏の覇権が衰えると、次に目立ったのは斉と秦の2国だった。

秦のことは別の記事で書くこととし、ここでは斉について書く。

(中期と言っても、私が勝手に区分しているだけなので、参考程度に)

田斉:斉の下剋上

春秋時代に斉の桓公は覇者にまでなったが、その後は後継者争いが続いた公族は弱体化した。そして権力は臣下に移り、国氏・高氏・鮑氏・崔氏・慶氏・陳氏の六氏に分散された(この中に公族もいるらしいがどれか分からない)。この中の陳氏が田氏で*1、田氏が6氏による権力争いを制した。

前392年、宣公・康公の宰相だった田和(でんか)が康公を追放して斉公と称した。前386年に周・安王より諸侯に列せられた(田和の諡は太公)。これを春秋より続いた呂姓の斉と区別して田氏の斉すなわち「田斉」と呼ぶ。

第四代・威王

田斉の第四代・威王の治世、三晋(魏・趙・韓)の相互の争いが激化し、魏の覇権が傾き始めた頃、馬陵の戦い(前342年)で魏に大勝する。これにより魏の覇権は急速に衰え、(相対的に?)秦とともに二強の時代を迎える。

威王は王都・臨淄の稷門 (城の西門) 外に学堂を建て知識人を招いた。ここは稷下の学と呼ばれ諸子百家の一大拠点となった。

斉は海に面していて漁業と製塩業など商業が盛んで王都・臨淄は有数の大都市だった。

領地拡大

第六代湣王の時、斉は拡大政策を行なった。

  • 前298年、斉・韓・魏・趙・宋の連合軍で秦を函谷関で破る。
  • 前296年、趙と組んで中山国を滅ぼす。
  • 前286年、斉・魏・楚の連合軍で宋を滅ぼす。

前288年、秦の昭襄王より「東帝」の称号を送られて自称するようになった。そして昭襄王は西帝と称した。「帝」の称号は王の上位であることを意図する。

しかし湣王はこの称号をすぐに捨てて王号に戻したため昭襄王も王号に戻した。この一時的な事件は始皇帝が王の上位の称号を考えた時のヒントになったかもしれない。

話を湣王に戻すと、以上のように、斉は拡大政策を推し進めた。これを脅威を抱いた諸国は今度は「対斉」同盟を結ぶことになる。

突然の衰退:「対斉」戦争

史記』によれば、燕の昭王が父を殺された恨みにより、数十年間、富国強兵に励み楽毅を得てみごとに雪辱を果たした、という話になているが、呉越の臥薪嘗胆のエピソードと似ているため、どれほどが史実なのか疑ったほうがいいと思う。

とりあえず、燕の将軍楽毅が韓・魏・趙・秦の連合軍とともに斉を亡国寸前まで大敗させたことは史実と考えられているようだ(前286年)。

ところで、『史記』とは違うエピソードが書いてある帛書(絹布に書かれた書)が発見されている。

1973年、湖南省長沙市の馬王堆漢墓から、『戦国縦横家書』(日本語訳:工藤元男 朋友書店 ISBN 9784892810336)という司馬遷の時代より古い書物が発見された。これに基づいて蘇秦の事績は大幅に修正された。

蘇秦張儀よりも後の時代に活躍した人であった。その時代、斉は燕の領土を奪い、秦と並ぶ二大強国となっていた。そこで諸国はこの2国のどこと同盟するかという対応に迫られた。また燕は斉への復讐を企てていた。この時に燕に登用されたのが蘇秦であり、斉への使者となった。さらに斉でも外交官となって合従のために奔走するが、実は燕のために斉と趙の離間を図っていた。その結果、まず紀元前288年に燕・斉・趙・韓・魏の5国が合従して秦を攻めたが、5ヶ国連合軍は退却した。次に紀元前284年には今度は燕・趙・魏・韓・楚の5ヶ国が合従して斉を攻撃し、燕は復讐を果たすのである。

出典:蘇秦 - Wikipedia

合従連衡蘇秦張儀のエピソードも有名だ。だが本当に帛書のほうが史実なのか?疑ったらキリがない。

この後、斉は奪われた領土を回復するが、以前のような勢力までには回復できなかった。

これより、秦の一強の時代に突入する。



対斉戦争に関する『史記』の物語には魅力的な登場人物が現れる。対斉戦の将軍の楽毅に始まり、孟嘗君蘇秦、燕の昭王、「隗より始めよ」の郭隗、そして湣王。『史記』をそのまま史実とすることはできないが、読み物としては面白い。

楽毅(一) (新潮文庫)

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*1:陳の公族であった田完の子孫なので陳氏とも田氏とも呼ばれた