歴史の世界

戦国時代 (中国)⑨ 後期 「秦一強」の時代到来

斉と秦の二強の時代が中期で、秦の一強時代が後期。そして最期は秦が他国を滅亡の縁から押し切って中華統一を果たす。

「強国・斉」の衰退と秦の侵略戦争

斉の衰退の原因については↓の記事で書いた。

戦国時代⑤ 中期 斉・秦の二強時代 斉編 # 突然の衰退:「対斉」戦争

戦国七雄の中の燕・趙・魏・韓・楚の5カ国が斉を攻めて滅亡の一歩手前までいったが、 連合軍の中心であった燕の昭王が死去し、次代の恵王が軍の中心人物であった楽毅を解任したことをきっかけに斉軍が息を吹き返して取られた領地を一気に取り返した。しかし斉はそれまでの強勢を取り戻すことはできなかった。

そして連合軍側も大した利益を得ることはできず、結局のところこの戦争で一番利益を上げたのは(相対的に)秦であった。戦争に参加しなかった秦が漁夫の利を得たわけだ。

対斉戦争が勃発する以前に、有名な秦の将軍・白起の名が現れる。

白起の業績を列記すると以下の通り(白起 - Wikipedia、『史記』白起・王翦列伝参照)。

  • 前293年、韓・魏を攻め、伊闕の戦いで24万を斬首。
  • 前292年、魏を攻め、大小61城を落とした。
  • 前278年、楚を攻め、鄢郢の戦いで楚の首都郢を落とした。このため、楚は陳に遷都した。
  • 前273年、魏の華陽を攻め、華陽の戦いで韓・魏・趙の将軍を捕え、13万を斬首した。
  • 前264年、韓の陘城を攻め、陘城の戦いで5城を落とし、5万を斬首した。
  • 前260年の長平の戦いで20万余りを生き埋めにした。

対斉戦争開始が前284年、斉の反撃が前279年。

また白起以外の侵略も行っていて次のようなデータ(?)がある。

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出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p128

毎年のように侵略を繰り返している。

その結果が↓

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出典:戦国時代 (中国) - Wikipedia (gifファイルから画像を抽出)

  • 韓は風前の灯状態。楚も上述の鄢郢の戦い(前278年)で首都・郢を奪われて遷都を余儀なくされた。
  • また秦は前316年に蜀(現在の成都付近)を併合して勢力を拡大している。
  • 趙は領土を拡大したように見える。これは藺相如と廉頗・趙奢といった名将たちの働きに依る。しかし趙奢が死去し、藺相如が病床に伏し、廉頗も老いた前260年、長平の戦いで趙は大敗を喫して、以後どんどんと領土を削られていく。

秦の強さについて

戦国後期の秦の強さを語る時にまず出てくる事項は、商鞅の国政改革(商鞅の変法)だ。これは中期の出来事だが、秦の歴代君主はこの改革を受け継いで強固な専制君主制を守り続けた。

これに比べて他国はどうであったか?

楚の呉起商鞅のような国政改革を行ったが、君主の代替わりの時に貴族に殺されて改革は潰された。また韓では法家として有名な申不害(?-前337年)が宰相を務めた時期は安定していたが、裏を返せばその他の時期は不安定ということになるだろう。

他国も多かれ少なかれ専制君主制を敷いていたが、孟嘗君を含む戦国四君の強盛を見ると、秦と比べて(君主以外の)王族の力が強かったようだ。

もう一つ秦の強さとして考えられるのは、その位置だ。

古代中国の中心地は黄河下流で中原と呼ばれていたが、秦はその西方の山がちな地方にあった。秦と中原に函谷関という地域(関所を含む交通要地)があり、ここを塞げば秦は(楚や騎馬民族以外の)他国に攻められる心配はしなくてよかった(逆に塞がれると出ることができないが)。

また王が中原との商売利権をコントロールできたとすれば、入手困難な中原の高級品を臣下へ下賜することによって王権を高めることができただろう。

このようなやりかたは先史から認められ、岡田英弘氏によれば秦帝国以降の歴代皇帝は「皇帝は総合商社の社長だった」としている *1。 当然、戦国秦の王もこの手法を使っていただろう。

まとめると、辺境にあったおかげで戦乱で国内が焦土化になる恐れがなく、商鞅の変法を国是として強固な専制国家体制の下で秩序が(比較して)安定していたことが、他国を圧倒できた理由として挙げられる。



*1:岡田英弘/この厄介な国、中国/ワック/2001/p48