歴史の世界

道家(28)荘子(徳/徳充符篇/明鏡止水)

今回は「徳」について。

私たち一般的な日本人が思い浮かべる「徳」とは異なる。

徳充符篇とは?

「徳」については、徳充符篇で語られている。「徳」の意味については後述、「充」は充実、「符」はしるしという意味を表す。

この篇では、他の篇と同様、『荘子』の思想とその思想に関する寓話によって構成されている。

この篇の題名が「徳が内面に充ちあふれた符」というように、重要なのは人間の中身であり、外見などは問題ではないと説く。そのために身体の不自由な人たちを登場させ、内的に充実している彼らがいかに魅力的で尊敬に値するかを示す。孔子道家的に優れている彼らに脱帽し、教えを請いたいとしている点が、荘子らしいフィクションである。

出典:西野広祥/無為自然の哲学 新釈「荘子」/PHP研究所/1992/p136

登場人物を「身体の不自由な人たち」とだけ書いているが、過去に罪を犯して足を斬られた者などが複数登場する。前科者でも徳の充ちたる者は孔子をも脱帽させるというのが、この篇の主張の一部。

荘子』の「徳」について

荘子』と道家の「徳」は基本的に同じのようだが、差異については分からない。

とりあえず、差異は無い(または考えない)ということにして「徳」の話を進める。

池田知久氏が、以下の引用の中で説明しているので、順を追っていく。

「徳」という言葉は、一般的に言って、道家や『荘子』が用いる場合、儒家が倫理的な意味で用いてきた「徳」と同じではない。そうした人間中心主義的な用語法やそれに基づく儒家の思想が、視野狭窄(きょうさく)に陥っていると批判して登場したのが、道家の用語法やそれに基づく道家の思想だからである。まして、今日我々が普通に用いる「道徳」(モラルズ、エシクス)とは全然異なると考えて差し支えない。

出典:池田知久/荘子 全現代語訳 上/講談社学術文庫/2017(この本は『荘子 全訳注』(上)(2014)から読み下し・注釈を割愛し再構成したもの)/p136

道家の「徳」と比べる時、儒家のいう「徳」は現代の我々が使う倫理的な「道徳」とほぼ同じだと考えていい。

上の説明で「儒家の思想が、視野狭窄に陥っている」とあることに注意すると、道家の「徳」は儒家のそれを含む より広い概念であることが分かる。

以下は上の引用の続き。

道家や『荘子』の「徳」とは、大体のところ、客観的には、世界の根源者である「道」の作用・働きを指している。例えば、『老子』第51章に「道 之(これ)を生じ、徳 之を畜(育、やしな)う。」とあるように、「道」が「物」の存在に関わるのに対して、「徳」はその成長に関わっているのを参照されたい。(p136)

老子』第51章の該当箇所は《「道」は万物を生成し、「徳」がこれらを育てる》と訳せる。つまり「徳」は(食料を含む)恵みを与えたり、教えを施したりして育てる作用・働きのことである。個人的には「エネルギー」と訳したい。

引用の続き。

また主観的には、人間が自己の身に「得」ているもの、「道」や「天」によって与えられた何かを指す。その「もの」「何か」とは、自己の身体と精神、「形」と「心」のことなのであるが、この学派が精神よりも身体を重んずるので、主に身体(及びその働き)を意味する場合が少なくない。(p136-137)

ここで(物ではなく)人間における「徳」とは《身体と精神、「形」と「心」のこと》と言っている。つまり作用・働きそのものではなく、作用・働きによって生成されたもの(人間の側から見ると獲物)も「徳」であるということになる。生成されたものとは人間の容姿や性格などのことだ。

これを拡大解釈すれば、人間に限らず「物」(万物)にも当てはまるだろう。物の特徴・特性・性質は「徳」の意味の中に含まれる。

続き。

なお、道家が人間を存在者つまり「物」というレベルでのみ把えている間は、古くからの(主に儒家の)思想上のテーマである「性」という言葉は不用であるが、彼らが人間を人間として問題にするようになると、「徳」は「性」と関連づけられたり「性」と同じ意味になったりして、それが『荘子』や道家の文献の中にも現れるようになる。(p137)

ここで出てきた「性」は「性善説」「性悪説」の「性」だ。この「性」は「人間の本性」と解釈されている。つまり精神・心を表している。

道家による人間に対する「徳」の意味は、一つ上の引用になるように身体・「形」を表すことのほうが多いが、どうやら戦国末期の儒家荀子の影響を受けて、道家でも「性」の概念を取り扱うことになったらしい(「性」については『荘子』では駢拇篇で取り扱っている。池田氏/p208)。

徳の充ちたる者とは?

荘子』における徳が内面に充ちあふれた人とは、簡単に言ってしまえば「道」を体得した人、つまり『荘子』の中で言うところの至人・聖人・真人と呼ばれている人のことだ。

では、至人・聖人・真人とはどういう人なのか?それは「我々が存在するこの世界は万物斉同である」と信じて疑わない人のことを言う。そしてそのような人は人々から慕われて離れがたくなるという(ここまで来ると もう思想ではなく宗教と言ったほうがいいのではいいのではないかと思えてくる)。

さて、徳充符篇から一つ引用をしよう。以下は闉跂支離無脤(いんきしりむしん)と甕㼜大癭(おうおうたいえい)という架空の人物の紹介から始まる。二人とも五体満足ではない人物だが、徳の充ちたる者であり、為政者たちは彼らの教えを受けて感動して心惹かれてしまうほどだった。

これに続けて徳の充ちたる者とはどのような人物化を説明する。

これらの例によっても明らかなように、徳が長ずるにしたがってかえって、人は形を忘れてゆく。逆に、形を忘れない者は徳を忘れる。これこそ真(まこと)の忘失というものだ。

従って、全(まった)き徳を抱く聖人は何ものにもとらわれぬ。かれは知をひこばえ[樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと *1 --引用者] のようなものと見る。規範を膠(にかわ)のようなものと見る。世俗の道徳を補足と見る。作為を商取引と見る。聖人にとって、これらは無用の長物だ。

何ひとつ意図しない人間は必要としない。いっさいを分別しない人間は規範を必要としない。本性を損なわない人間は補足を必要としない。自己を売り物にしない人間は取引を必要としない。この「意図しない、分別しない、本性を損なわない、自己を売りものにしない」の四つを「天鬻(てんいく)」という。つまり、天に養われることである。天に養われるからには、あらためて人為によって養う必要がどこにあろう。

聖人とは、人間の形を持ちながら人間の情を持たぬ存在だ。かれは人間の形を持つがゆえに、人間社会に生きる。しかし、人間の情を持たぬから是非にとらわれない。聖人といえども、一個の人間としては微々たる存在にすぎない。だがかれのみが自然と一体化して、その限りない偉大さをわがものとなし得るのである。

出典:岸陽子/中国の思想 荘子/徳間文庫/2007(原著は1996年に刊行)/p217-218

途中から聖人(「道」の体得者)の話になっているが、要するに徳の充ちたる者=聖人ということだ。

そして、『荘子』のいうところの聖人は、儒家の聖人である孔子ですら感服して教えを請いたいと思わせる魅力を持っている、ということになっている。

明鏡止水

明鏡止水は徳充符篇から出た言葉だ。

まずは、現代における意味を確認しよう。

《「荘子」徳充符から》曇りのない鏡と静かな水。なんのわだかまりもなく、澄みきって静かな心の状態をいう。

出典:小学館デジタル大辞泉/明鏡止水(メイキョウシスイ)とは - コトバンク

次は該当箇所を見ていこう。該当箇所は「明鏡」と「止水」に分かれる。

そしてここで言ってしまうと、「明鏡」も「止水」も共に聖人(徳の充ちたる者)に対する比喩なのだ。

まず「明鏡」から。

『鏡に曇りなく澄んでいれば、塵垢は付かず、塵垢がつけば鏡は曇る。』と言いますが、長らく賢人と一緒にいて、鏡の曇りを拭い去ってもらうと、塵垢のような過ちもなくなるもの。

出典:池田知久/荘子 全現代語訳 上/講談社学術文庫/2017(この本は『荘子 全訳注』(上)(2014)から読み下し・注釈を割愛し再構成したもの)/p141

  • 原文は《『鑑明則塵垢不止,止則不明也。久與賢人處則無過。』》。

曇りなき鏡のように澄んでいる賢人(=聖人)は彼と接している人々の塵垢(過ち)も無くすことができる。

それほど聖人は偉大で、不思議な力を保持している。

次に「止水」。

人は誰しも、流れ動く水に顔を映して見ようとはせず、静止した水に顔を映そうとする。このように、ただ静かな心だけが、静けさを求める多くの人々に静けさを与えて、彼らを引きつけることができるのだ。

出典:池田氏/p139

  • 原文は《人莫鑑於流水而鑑於止水,唯止能止衆止》

聖人は、止まっている水のような静かな心を持つのだが、そういった心を持つ者は静けさを求める多くの人々を惹き付ける。

以上が「明鏡」「止水」の該当箇所だ。

大辞泉が言う、明鏡止水の意味《なんのわだかまりもなく、澄みきって静かな心の状態をいう》は「道」を体得した者の心理状態と言ったところだろうか。



*1:孫生え、蘖。蘖 - Wikipedia