歴史の世界

道家(23)荘子(斉物論篇 その3止)

前回からの続き。

さて、前回は『荘子』を代表するキーワードの万物斉同道家を代表する「道」について書いた。

今回は斉物論篇の締めくくりとして「人間が主体的に生きる」ことについて書く。

人間が主体的に生きるためには、池田知久氏の前回の引用にあるように、「道」を体得する必要がある。

ここでは、「道を体得するとどうなるか」と「道を体得するにはどうすべきか」を書く。最初に言っておくと「道を体得するにはどうすべきか」については結局具体的な方法は書いていない。それでも一応書いておく。

「道」を体得するとどうなるか

荘子』における「道」の体得者は「真人」と書かれているが、「聖人」と書かれる場合もある。

「真人」がどのような人かは記事 《道家(20)荘子(『荘子』と『老子』と「道」)#「道」の体得者についての比較》 に書いた。

簡単に言えば、真人は「道」と一体となって どのようなことがあっても動揺しない、となる。この様相は斉物論篇以外のところに書いてあるものだ。

ここでは斉物論篇にあるものを書いていこう。

自他の区別を失うことにより個別存在でなくなること、それが「道枢」*である。「道」を体得した者は、扉が枢(とぼそ)を中心として無限に回転するように、無窮に変化しつつ無窮の変化に対応してゆくことができるのだ。この「道枢」の境地においてこそ、是と非の対立は超克される。「明」によるとは、このことである。

*〈道枢〉「枢」は扉の軸。道枢とは、「道」の要諦の意。

出典:岸陽子/中国の思想 荘子/徳間文庫/2007(原著は1996年に刊行)/p90

原文は《彼是莫得其偶,謂之道樞。樞始得其環中,以應无窮。是亦一无窮,非亦一无窮也。故曰莫若以明。》

「自他の区別を失うことにより個別存在でなくなること」は万物斉同のこと。これを「道枢」と表現している。そして「道枢」は「道」の要諦。「道枢」の境地に立つことは「道」と一体となることを意味する。

「道」と一体となれば、あらゆる変化・混沌の中にあっても動揺しないでいることができる、ということ。

「明」とは 「明らかにする」の意味で、ここでは「日常で行われている価値判断(区別)に捕らわれずに、ありのままの真実を知ることができる」くらいの意味になるだろう。そして「道」と一体となれば「明」もできる。

この万物斉同の理を体得した者は、あれかこれかと選択する立場をとらず、事物を「庸──自然の姿」のままにまかせる。「庸」は「用」に通する。事物は自然のままであるとき、自在なはたらきを示す。「用」はさらに「通」に通ずる。自然なはたらきには、無理がない。「通」はまた「得」に通ずる*。無理なくはたらいてこそ、事物は存在としての意義を獲得できる。自得して、いっさいの存在をあるがままに肯定する境地に至ったとき、われわれの認識は万有の実相に近づいたといえるのである。そして、自然にまかせようという意識さえない状態が、「道」との一体化にほかならない。

*〈「庸」は「用」に……「通」はまた「得」に通ずる〉 庸、用、通、得四字の上古音は非常に近く、意味の上でも関連が深い。

出典:岸氏/p94

原文は《為是不用而寓諸庸。庸也者,用也;用也者,通也;通也者,得也;適得而幾矣。因是已,已而不知其然,謂之道。》

《この万物斉同の理を体得した者》は「道」を体得した者。彼は「庸」、「用」、「通」、「得」を獲得して、《われわれの認識は万有の実相に近づいたといえる》。これは「明」を獲得したと同じ意味だ。

つまり言っていることは一つ上の引用と変わらない。

さて、「庸」、「用」、「通」、「得」についての文章の後に、「明」に関連する文章が来る。これが有名な「朝三暮四」の故事だ。

むやみに物事のちがいをはっきりさせようとするあまり、全体がおなじことを知らないことは、いうなれば「朝三暮四」である。どういうことかというと、むかし、猿をたくさん飼っていた人がある日、倹約のために猿たちに言った。
「これからは、朝のどんぐりを三つ、夜は四つ、ということにする」
猿たちは不平の声をあげた。
「そうか。では朝のどんぐりを四つ、夜は三つということではどうかな」
すると、猿たちは納得して歓声をあげた。
全体としてまったく変わらないのに、最初は怒り、つぎに喜んだのはなぜか。朝という一つのことにこだわったからにほかならない。
したがって、聖人は、なにごとでも、一つのこと、一つの面だけにとらわれず、つねに全体をありのままに見ようとする。こういう姿勢を「両行」という。

出典:西野広祥/無為自然の哲学 新釈「荘子」/PHP研究所/1992/p61

原文は《勞神明為一而不知其同也,謂之朝三。何謂朝三?狙公賦芧,曰:「朝三而暮四,」衆狙皆怒。曰:「然則朝四而暮三,」衆狙皆悅。名實未虧而喜怒為用,亦因是也。是以聖人和之以是非而休乎天鈞,是之謂兩行。》

荘子」の万物斉同の考えでは「物事のちがいをはっきりさせようとする」ことは否定される。

たとえば私は『荘子』を知るために『老子』との違いをはっきりさせようと色々と調べたが、『荘子』の観点からすれば、そういうことをせずに、あるがままをあるがままの状態で受け入れて認識しなければ真の実態は掴めない、という。これが「明」という意味だ。

道を体得するにはどうすべきか

上古の人は、知がある究境に到達していた。その到達していた境地とは、物は存在しないと考える境地である。それは究境に達しており、あらん限りをつくいていて、最早(もはや)何も追加することのできない、最高ランクの知である。

次のランクは、物は存在するけれども、根源において、封(彼(あれ)と是(これ)の区別)は存在しないと考える知である。

さらに次のランクは、物は存在するけれども、根源において、是非(価値の区別)は存在しないと考える知である。

一層下って、是非の価値が姿を彰(あきら)かに現すと、それは道が虧(そこ)なわれる原因となった。これは最早知と認めることのできないものである。

最後に、この道が虧なわれる是非がそのまま原因となって、自己の小成や栄華への愛好などの感情が形成されたのである。そして、今まで進めてきた思索とは、最後の感情判断の批判から出発して、最高ランクの知に向かっていく、段階的な前進のプロセスであった。

出典:池田知久/荘子 全現代語訳 上/講談社学術文庫/2017(この本は『荘子 全訳注』(上)(2014)から読み下し・注釈を割愛し再構成したもの)/p79-80

原文は《古之人,其知有所至矣。……道之所以虧,愛之所以成。》

最後の文《そして、今まで進めてきた思索とは、最後の感情判断の批判から出発して、最高ランクの知に向かっていく、段階的な前進のプロセスであった。》は訳者の付け足し。

池田氏の解釈では、道を「体得するにはどうすべきか」という問いには上の引用を遡っていく、つまり事物の執着を捨て、是非の価値判断を否定・排除し、「万物斉同」または「無」の境地に達することだという。



「木を見て森を見ず」という言葉がある。

むかし読んだ本に駅員の指差し確認を批判するような論が載っていた。この行為は一点を見て全体を見ない「木を見て森を見ず」の状態だというのだ。

ではどうすればいいのかというと、その著者曰く、《全体をボーッと眺めるように見ていれば全体の中の小さな変化にも気づくことができる》とのことだった。私はこれを読んだ時はその通りだと思って実践したが、この境地に達することはできなかった。