『韓非子』の人間不信については《人主の患は、人を信ずるにあり。人を信ずれば則ち人に制せらる》(備内篇)の言葉を引用して説明を済ませることもできるが、この記事ではもう少しだけ深堀りして見ようと思う。
『韓非子』はどうして「人間不信」に至ったのか?
この件についてのテキストは冨谷至『韓非子 ── 不信と打算の現実主義』(中公新書/2003)。
副題に「不信」とあるように、人間不信のワードはこの本のテーマの一つだ。
《信なくば立たず》 ── 儒家の主張
《人を信ずれば則ち人に制せらる》の正反対の言葉が、《信なくば立たず》。これは『論語』の言葉。
孔子に始まり孟子さらには荀子へと継承されていく儒家の思想は、人間の善意への信頼、人間同士の信義……が人間存在の条件であるとしてきた。
子貢「食料、軍備、信義、この三者のうち何が不可欠でしょうか?」
孔子「それは、信義だ。人間は死から逃れられない以上、飢餓と安全もある意味では犠牲にせねばならないこともあろう。しかし、信頼・信義は違う。これがなければ人間はそもそも存在しないのだ」(『論語』顔淵) 「信なくば立たず」、今日でも政治家のキャッチフレーズとして使われる言葉だが、韓非はそういった楽天主義を、ものの本質がまったく理解できていない愚かで浅薄、それゆえ間違いと不幸を招来する考えとして切り捨てるのである。(p101)
宋牼(そうけい)という墨家の非戦論者と孟子の会話が告子下篇に見える。
「わたしは戦争がいかに不利益であるかを力説することで戦争をやめさせたい」
孟子「あなたは、利ということをもって説得し、説得されたほうも利益に従って撤兵し、兵隊たちも闘いを喜んでやめ、利益を第一と考えるでしょう。臣下は利のうえから君主に仕え、子たるもの打算のうえから親に仕え、弟たるもの打算のうえから兄に仕えるということになります。これでは、君臣兄弟すべて仁義をうちやり利益・計算だけを考えて人間関係をもつ。そのような状態が長く続いた国はありません。利益を捨てて仁義のみによって人間の関係を保つべきです」(『孟子』告子下)(p92)
この文《君臣父子兄弟、利を去り仁義を懷(おも)いて、以て相接するなり》も『韓非子』の考えと正反対だ。『韓非子』は、「人は利で動く」とし、仁義を否定する。
徳・仁・義をその根本倫理に置く儒家思想、その出発点は血の繋がりにもとづく人間関係、親と子、家族である。家族の結びつきに認められるアプリオリな[先天的な--引用者]意識・感情、つまりそれは親が子に対する愛情、子が親に懐(いだ)く敬意(孝)、兄弟間の融和と尊敬(悌)であり、これらは生まれながらにして備わる人間の善意と考えるのである。[中略]
[さらに]家族の情を根本に、それを君臣関係に拡大擬制することで、国家権力の承認に転化させること、これが儒家の唱えた統治イデオロギーであった。(p94)
この主張に対して、韓非は唾棄するがごとく否定する。
韓非にとって、あまりに理想主義的、楽天的で、実現にほど遠く、しかしながら、したり顔で倫理道徳の実現を説く思想、まったくもって現実離れしているがゆえ、どうにも我慢できない一派、それは儒家であり、とりわけ孟子の思想であった。(p94)
《人を信ずれば則ち人に制せらる》 ── 『韓非子』の主張
《人主の患は、人を信ずるにあり。人を信ずれば則ち人に制せらる》は『韓非子』備内篇の冒頭にある。
君主にとって、人を信ずることは有害である。人を信ずれば、自分がおさえられる。
臣下は、君主と血縁関係があるわけではない。君主の力におさえられて、やむをえず服従しているだけだ。[中略]
君主がわが子を盲信すると、腹ぐろい臣下は君主の子を利用して私欲をとげようとする。[中略]
君主が妻を信ずれば、腹ぐろい臣下は君主の妻を利用して私欲をとげようとする。
さらに備内篇が続けて言う。
君主の妻は、血縁関係になく、老いて容色を失えば寵愛を失って自分が生んだ子も愛されなくなる。しかし子供が君主になれば国母としてやりたいことは何でもできる。だから妻は夫の死を願うのだ。(p41)
これは中国の庶民においても似たようなもの。夫の家に嫁いだ妻は血縁関係になく、現代中国の宗族社会では妻は夫と姓が別だ。極論を言えば中国における妻は跡継ぎを生む道具に過ぎない、と岡田英弘氏主張した*1。
「人は利で動く」
儒家は人間同士の信義をもって人間存在の条件、言い換えれば信義が無ければ「人でなし」、と考えていた。
ところが、『韓非子』はそれを否定し人間存在の条件とか性善説・性悪説などという議論をことごとく否定して、人間はただただ利益を求めて行動するという性質にだけ言及している。
人は己の利益を求めて行動する。利益とは、金銭的、物質的な実利はもちろんのこと、名誉、自己満足も含み、いってみればすべて己にとってプラスになるもの、ひとはそれを無意識のうちに計算し、それを得ようと行動する、人間のもって生まれた性とは所詮そんなものだと、韓非は明快に言い放つ。[中略] これが韓非の主唱するところなのである。(冨谷氏/p90)
以下は『韓非子』からの引用。
人を雇って農事をしてもらうのに、主人が美味しい食事を作って雇い人に食べさせたり銭布を調達して支払ったりするのは、雇い人を愛するからではなく、彼に良い仕事をしてもらおうとするからだ。雇われた者も一生懸命に働くのは、主人を愛するからではなく、そうすれば美味しいものが食べられ、金がもらえるとふんでいるからだ。自分のプラスのみを考える、だから人が事業をおこなったり、物を与えたりするとき、互いに得をすると思えば仲よくなり、損をすると思えば、親子の間にも恨みの気持ちが生ずる。(外儲説左上)(p89-90)
上の『韓非子』からの引用は我々にとってあたり前のことのように思えるが、当時(戦国末)の儒家の愛だの信義・仁義だのという主張に反駁しているわけだ。
ただ、『韓非子』は信義・仁義だけではなく、感情や情緒的なもの一切を些末なものと考えているような気さえする。
まとめ
そして人間の感情的なものを思考の外に置いた『韓非子』は「人は利で動く」という一点だけを前提にして論を組み立てる。
家族関係は、(儒家の主張する)愛や孝などで結ばれているのではなく打算・利益によって結ばれている。家族関係からしてそうなのだから、君臣関係ならなおさらそうだ。
君主たるもの君臣が信義で結ばれているなどと信じれば、寝首をかかれる。それだけではなく、妻には(比喩ではなく)寝首をかかれないように十分に注意すべきだ。
これが人間不信に至る考え方だ。
そして
「人は信用できない。信義など期待しない」、人間に対する不信、これが韓非の思想の基礎であり、出発点だったのである。(p101)
おまけ
現代中国では庶民に至るまで、『韓非子』の考え方が浸透している。このことは岡田英弘氏、宮脇淳子氏、石平氏らの書籍を読めば理解できるだろう。
さすがに、『韓非子』ほどドライではないが、日本人の情緒で中国人に接すれば、《信ずれば則ち人に制せらる》どころか、資産を吸い取られた後にお払い箱にされる。中国大陸に進出した日本の企業を思い起こせばすぐに理解できるだろう。